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9 何とまあ。

「はい、新作のサラダ」


 とん、とテーブルに置くと、おお、とP子さんは細い目をそれでも大きく開けた。ブロッコリやにんじん、かぼちゃと言った温野菜を一度加熱した上で、それをまた冷やしたらしい。盛ったガラスのボウルが汗をかいていた。

 テーブルの上には、今年既に何度か食卓に上がっているそうめんもある。ざるに移され、氷を散らされたそれは、目にも涼しい。


「サウザンドレッシングっぽいけど、少し違うからね」

「けどいちいち冷やすなんて手間でしょう? 普通のサラダでもいいでしょうに」

「温野菜のほうが一杯食べられるし、栄養価も違うんだよ? 消化だっていいし」

「ふうん。詳しいですねえ」

「うん、そういうのは、割と好きなんだ…」

「料理も上手いし。いっそアナタ、調理師とかもいいんじゃないですかね?」

「うんそれも考えたことはあったけど…」

「うんうん」


 言いながら、P子さんはかぼちゃの一片を口にし、ん、と声を出す。かぼちゃの甘味と、ドレッシングの酸味がちょうどいい具合に口の中で混ざり合った。


「…いいですね、これ」

「でしょ!? 店でいいな、と思ったんだ。P子さん最近、ホント、ずいぶんと好み変わったんじゃない?」

「好み… 変わりましたかね?」


 P子さんは首をひねる。本人にはその自覚は無かった。ただ、確かに最近暑くなってきて、そのせいで疲れやすくなっているな、とは感じていたが。


「疲れがたまってるから、きっと食欲が落ちてるんですよ。だからさっぱりしたものが欲しいんじゃないですかね」

「ってあなたこの間も言ってたけど、もうそろそろツアーの疲れも取れてもいい頃じゃない。だってあなたのバンドのひと達は、毎日元気でしょ」

「それは個人差というものが」

「それはそうだけど」

「どちらにせよ、ワタシの身体のことだし、…ああ、そんな顔しないで」


 黙り込んでしまった彼の肩に、P子さんは手を伸ばした。


「そうですね、まああんまり疲れが取れないようだったら、ちゃんと医者に行きますから、そう心配しないでくださいな。ワタシのために誰かが心配するってのは、どうも慣れないから」


 慣れない。

 そう、確かに慣れないものだったのだ。母親とか妹と言った家族はともかく、他人から、こういう感情を向けられるということは、P子さんの今までの生活の中ではそうそうあるものではなかった。


「心配されたことは、ない?」

「うちの家族は、…別ですけどね。うん。でも、小さい頃から喘息持ちだったから、ワタシがうちに引っ込んでいて、学校に行かない、とか調子悪いってのは、割と日常茶飯事だったから、そんなにはさすがに心配しなくなりましたね。慣れてしまうって言うか」

「慣れるもの、かなあ」

「慣れるものなんですよ。どんなものでも。ワタシもそういうのは、格別に心配されるよりは、慣れてしまった方がいい、と思うし…」

「そうかもしれない。けどP子さんの場合は、…人に心配させてくれないでしょ」

「え?」


 P子さんはそうめんに伸ばした箸を止めた。


「あなたいつも、そうやってひょうひょうとかわしてしまうから、こっちが心配することができなくなるんだもの」

「DB…」


 箸を置き、目を伏せた。


「そういう訳じゃあないんですよ」

「違う?」

「違わないかもしれないけれど…ワタシはただ、ひとに心配するのもされるのも、できるだけ避けていたいと思ってるのかもしれませんね。卑怯なのかもしれないけれど。できるだけ、そういうのから、遠くで生きていたい、ってのはあるんですよ。それはもう、…性分のようなものですかね」

「でも、…僕は、P子さんのことは、心配する時にはしたいよ。それはいけないの?」

「いけないんじゃなくて… ただ、慣れないだけなんですってば。ワタシのために、誰かが辛い思いするってのも、やっぱり嫌だし」

「心配はするけど、別にそれは嫌じゃないもの」

「うん、だから、DBがしてくれるのは…」


 彼女は首を軽く傾げた。


「たぶん、くすぐったいんですよ。だから、どうしていいのか、ワタシには良くわからないんですよ。アナタが嫌じゃないなら、心配してくれるのは、たぶん、それは… 嬉しいのかもしれない。…うーん… よく判らなくなってきた」

「…うん」


 何と答えていいのか判らなくなって、DBはただうなづく。


「じゃあ別に僕があなたを心配するのは構わないんでしょ」

「嫌じゃあないのなら」

「嫌じゃない。だから今は、ちゃんとごはんにしようよ」


 そうですね、とP子さんは答えた。

しかし実際、確かに体調が変だ、とP子さん自身も感じていたのである。



 ふう。

 何度目かのため息が漏れる。

 まだ録りが終わっていない曲のリハーサルのために、彼女もスタジオへは毎日通っていた。

 それを一時間ばかりで終えてしまうこともあれば、意外にもはまって、延々続けていることも時にはある。

 ただ、時々そんな風に時間を忘れてしまっている時に、くらり、と眩暈がすることがある。確かに昔から喘息持ちで、決して身体は強い方ではない。ただ不調な時も、そんな出方はしたことは無い。


 どうしたんだろう。


 さすがに物事をあまり気にしないP子さんでも、そんな状態が続くと、おかしいという気になってくるものである。

 小休止。ギターを置いて、スタジオを出る。がらんとした廊下には、何種類かのヤシ科の観葉植物が西日を浴びていた。その横を通り過ぎ、自販機の前に立つ。

 どれもそう好きというものではない。甘いものが多すぎる。いっそ茶類を充実させておいてくれればいいのに、と思う。だがまあ、置かれているということは、ある程度需要があるのだろう、と思い直す。彼女は自分の好みが必ずしも一般的ではないことをいつも心に留めていた。そしてそれは仕方がないことだ、とも。

 仕方なく、小振りな缶のコーヒーのボタンを押す。これとて甘くない訳ではないが、まだましな方だった。

 がたん、と落ちてくる缶を取りながら、マリコさんが居たらなあ、とふと彼女は思う。

 ヒサカやマヴォと少し前まで同居していた「マリコさん」は、確か医者の資格を持っていたはずだった。

 詳しいことは知らないが、少し前、急に、何やら新しい勤め先が遠いから、と二人の住処を離れてしまったらしい。まあ確かに優秀な医者だったら、探せば何かと勤め先はあるのだろう。それまで職らしい職についていなかったことが不思議なのだ。

 だが彼女だったらきっと、今の自分に、ある程度有効な答えを出してくれるだろう。

 何せ何かと身体の使いすぎでオーバーヒートしてしまうヒサカのことも、生理が重くてへたばっているファヴも、どうしてそんなところに、という所に何かと打撲やねんざをしてくるテアも、時々アタマが切れてしまうマヴォも皆同じ様に診てくれた彼女だ。P子さん自身も、久しぶりに喘息の発作が来た時に、世話になったことがある。


 …まあその前に自分が医者に行けばいいのかな。


 さすがにそう考える様になっただけでも、進歩と言えば進歩なのだが。

 ぷち、と開けた缶コーヒーの匂いが鼻につくようじゃ、どうしようもないのだ。

 よし、とP子さんは開けたばかりの缶コーヒーを手にしたまま立ち上がり、別のスタジオに入っているヒサカの元へと向かった。


「居ますか?」

「ん?」


 ひょい、とのぞき込むと、きらきらとリーダーの髪は輝いていた。

 スタジオにはやはり西日が入り込んでいた。その真ん中で、グランドピアノを前に、ヒサカは何枚かの譜面を書き散らしている。いつものことだ。


「コーヒー、呑みません?」


 言いながら、とん、とP子さんは缶コーヒーをピアノの上に置いた。


「コーヒー?」

「いや、買ったんですが、開けたらどうにも呑めなくて」

「呑めない?」


 くるり、とヒサカは椅子を回した。


「何っか鼻について。で、やっぱり調子悪いから、医者に行って来ようと思うんですが、今、いいですかね」

「いいも悪いも、調子悪いなら、行ってらっしゃいよ。うん、確かに顔色あまり良く無いわね。いつも私が行ってるとこに電話しておくわ」

「アナタかかりつけなんてあったんですね」

「そりゃあまあ、ある程度は… じゃなくて、そう言えばP子さん、割と最近ずっと調子悪そうだったものね」


 んー、とP子さんは首を傾げた。


「別にこれと言って思い当たるフシは無いんですがねえ」

「疲れが出た、って言っても、今回は皆もうその波は過ぎているようなのにね。まあ暑くなってきたし、そのせいもあるのかしら。うん、ともかく連絡しておくわ。えーと」


 ヒサカは白紙の譜面の一枚を取り出すと、裏返しにしてさらさらと何やら書き込む。


「そう遠くはないわ」


 受け取ったそこには、住所と地図が書かれていた。よくまあさらさらと、とP子さんは感心する。


「確かに遠くないですね。でもいいんですか? 個人医院だったら混んでたりは」

「今日は基本的に休診のはずよ」


 くす、とリーダーは笑った。


「休診のとこを叩き起こすんですかね」

「いいのよ」


 P子さんは黙って肩をすくめた。

 だがその数時間後、言葉を無くしたのは、ヒサカの方だった。



 ノックの音が、スタジオの中に響いた。はっと顔を上げると、時計の短針がいつの間にか何十度も動いていたりして、ヒサカを驚かせた。西日は既に全くなく、窓から見えるのは、遠くの灯りや車のライトばかりだった。ああもうこんな時間、とつぶやくが、誰に聞かせるということでもない。

 扉の方を見ると、P子さんがぼんやりと立っていた。ヒサカは再びくるりと椅子を回す。


「何だP子さん。ノックだなんて珍しい」

「いやワタシ、何度かアナタ呼んだんですよ? でも気付かないから」

「あ、ごめんなさい。ちょっと集中してたから」

「まあそうでしょうねえ」


 それはごくごくありふれたことだった。このリーダーは、相棒のアタマの切れ方や飛び方を時々口にするが、当の本人にしたところで、決してそれを言える立場ではないのである。ただマヴォに比べたら、飛ぶ時のTPOをわきまえているだけのことだった。


「で、医者の方、どうだったの?」

「それがですねえ」


 P子さんは腕を組む。


「何って言っていいんですかねえ」

「…って何か、あなた悪い病気でも」

「…いや、病気ではないんですが」

「病気じゃあないのね。ああ良かった」

「いや、でも」

「…何なのよ一体」


 P子さんにしてみれば、その態度は珍しいことだった。迷っている時には迷っている、と平たい言葉で表現するひとなのだ。それがあまりにも平たすぎて、本当にそうなのか、と問われることもあるのだが。


「ええと。言ってしまえば単純なんですが」

「単純なら早く言ってしまったほうがいいと思うけど。何にしろ対処が早くできるでしょう?」

「アナタのそういうとこ、好きですよ、ヒサカ。何か、妊娠してるらしいんですが、ワタシ」


 は?


 途端、ヒサカの頭の中で「ラ・マルセイユーズ」が流れた。あ、逃避している、とこの賢いリーダーは瞬時にして気付く。


「えーと、もう一度、繰り返してくれないかしら? 何か私の頭が、勝手に逃避したみたいで」

「そんなことだろうと思いましたよ… だからワタシ、子供が出来たらしいんですが」

「えーと」

「今度はちゃんと聞こえましたか?」

「聞こえた…」


 しかしリーダーは、右を向き左を向き上を向いてなおかつ下まで向いて、それから聞いた言葉を噛みしめるようにして意味を確認しているようだった。これは完全に混乱しているな、と当のP子さんはそんなリーダーを見ながら、妙に冷静に考えていた。

 いや無論彼女とて混乱しなかった訳ではない。

 「そういえば」最近ナプキンを買った記憶が無い。忙しかったから忘れていた、と言ってしまえばおしまいなのだが、確かにそうなのだ。無ければ無いで、まあ気楽でいいわ、という程度にしか彼女は考えていないから、つい忘れたら忘れっぱなしになっているのである。

 しかし確かにそれはまずかった、と彼女も思わなくもない。そして更によく考えてみれば、そういうことを考えてDBと寝ていた訳ではないのである。回数が多い訳ではないが、その気になった時にだらだら、だから、当然用意もしていない。不注意とののしられても当然ではあるのだが。


 のだが。


 まあそれもありだよなあ、と考えている自分に、実はP子さん自身、静かに、実に静かに驚いているのだ。

 それはおそらく、そんな身体の事実そのものより、彼女を驚かせるものだったに違いない。


「…え~」


 約三分間、何とも言えない表情であっちを向いたりこっちを向いていたリーダーが、ようやく言葉を発した。


「事実は判ったわ。で、P子さんはどうしたいの?」

「と言いますと?」

「何をどうするにしても、ツアーが終わった後で良かったけど…つまり」

「ああ、生かすか殺すか、ってことですか?」

「またずいぶんずばっと」

「だって要はそういうことでしょう?」


 それはそうだけど、とヒサカは頭を抱える。すみませんねえ、とP子さんは少しばかり目を細めた。


「殺したくはないですよ」

「OK」


 即答だった。ヒサカは大きくため息をつく。


「その線で、考えればいいのね。判った考えましょう。少し時間ちょうだい」

「すみませんね」

「謝って欲しい訳じゃあないのよ。…そうよね、あなただけはその可能性があったんだ… ああ、もちろんこないだから言ってるそのひとよね?」


 相手は、とヒサカは暗に含める。


「ワタシは自主的にそうしたのは、DBが最初ですよ。こんな歳で何ですが」

「え」


 ぴょん、と伏せ気味になっていたヒサカの顔が上がった。


「自主的?」

「最初は自主的ではなかったし、それはもう遠い昔のことだし」

「ちょっと待ってよ、それって」

「あ、言わなかったですか?」

「言ってないわよ」

「あ、そーか…」


 そうだったよなあ、とP子さんはピアノにもたれながら、赤い髪をかき回した。


「まだ中学に入ってない頃でしたかねえ。通りすがりのひとに、自主的ではなくされたことがありまして」

「…それ普通、レイプされたって言うんじゃないの?」

「ですかねえ」

「ですかねえ、じゃないわよ!」

「でもワタシの感じとしては、そういう感じでしかないんですよね。何か、現実の記憶って感じではないから、他人事で。でもその時、ちょっと痛めつけられてしまった部分があったようで」

「ちょっとじゃないでしょ!」

「だから他人事なんですってば」


 だから男の男みたいな所がそう好きではないのだろう、と考えるのはたやすい。何せ自分をそうしたのは、特定の個人としての男ではなく、「そういうもの」でしかないのだ。


「たまたま、普段通らない土手近くの道を夕方歩いてただけのワタシを、こっちもこっちで見たこともない男が、でしたからねえ。何か後で聞いたら、たまたまうちの町に来ていただけ、らしいんですよね。逢魔が時、って言うんですか? 魔がさしたとか何とからしかったんですけど」

「…」


 ヒサカの表情がこわばっている。P子さんはそれをまた淡々と見ている自分が居るのに気付いていた。


「向こうにとってはワタシはたまたま通りかかった『女の子』でしかなかったし、ワタシにしてみても、向こうはただの『男みたいなもの』でしかなかったし。だからその時も変だ変だって言われたんですがね、ワタシ格別恐怖とかそういうのもなくて。警察が色々聞くんですがね、何かワタシが妙に状況を淡々と説明するので、ウチの母上なんかは、この子が誘ったんじゃないかとか何か嫌なこと言われたらしいんですが」


 その時説明した婦警は、何やらひどく妙な表情をしていた。どちらかというと、怖がっていたように見えた。

 それからしばらく、何の医者なのか判らないけれど、通うように言われた。

 通った時の医者は、別に何をするという訳ではなく、自分と話をしたり、お菓子を食べたりしただけだった。それでいて、何が変わったという訳でもない。医者の方も、奇妙だ、という顔はしつつも、様子を見る、ということにしたらしい。数回通っただけで、お解き放ちとなった。

 今から考えてみれば、あれは事件によるトラウマという奴をできるだけ軽くさせようということだったらしい。ニュースで時々聞く、PTSDを危惧したのだろう、とP子さんも思う。


「まあだからと言う訳ではないんですが、別に男と付き合おうという気は無かった訳でして。だからまあ」

「今の彼、は大丈夫な訳ね?」

「DBは、大丈夫ですよ。好きですよ。…ああ、好きなんだ。そう。好き、なんですね。あれはたぶん」

「たぶん、じゃないわよ、あなた。自分のことでしょ」

「自分のことでも、『たぶん』はありますよヒサカ。ワタシは自分が何本当に考えているか、なんて、結構判っていないんですから」


 実際そうだった。

 自分が落ち着いているとか淡々としている、とか言われることは多い。

 だがそれは、基本的に自分の周囲の出来事が、他人事に感じるせいなのだ。遠くで起こっていることのように感じられるからだ。だから強烈な喜びにもならないし、強い苦しみや哀しみや憤りにもならない。

 たとえば何処かでつまずいて膝をすりむく。その時に痛い、と感じるが、だからと言って辛いとか苦しいと思うことは滅多にない。痛みは痛みで、痛みでしかない。

 その感覚を説明しようとしても、元々口がそう上手い訳でない彼女である。首を傾げられるだけだった。不用意に説明しようとすると、家族は余計に心配するだろう。いつか口にすることはなくなっていた。

 そう言えばこんなこと説明するのは久しぶりだなあ、とやはり他人事のようにP子さんは思う。


「でもまあ、だからと言って、そう日常に支障がある訳ではないですからね。それにいくら何でも、ワタシはギター弾いてるのは自分だって判るし」

「それが判らなかったら、困るわよ」

「そうですよね」


 P子さんはうなづく。ああそうだ。だからギターなんだ、と。

 あの音だけは、自分を自分自身とつなげてくれる。自分の居る世界を自分とつなげてくれる。

 自分にとって、無くては生きていけない、ということは、そういうことなのかもしれない。


「ああそうですね、そう、あの子も」

「あの子?」

「ああ、DBですが」


 あの子ねえ、と再びヒサカは頭を抱える。


「あれも結構、現実ですねえ。あの子と抱き合ってる時は、わりあい、それは他人事じゃない、って言うか」

「それはねえ」


 何故だろう、とあらためてP子さんは思う。

 まあ考えてみれば、自分のテリトリーにあれだけ近く他人を入れたのは初めてだった。自分自身に他人を迎え入れたのも初めてだった。何でそうしようかと思ったのも判らないが、そこに抵抗が無かったのも確かだ。


「だからそれが『好き』ってことでしょうに」

「あ、そーですねえ」


 ぽん、とP子さんは手を叩いた。

 ヒサカはとうとうピアノの上に突っ伏してしまった



「何いったい、突然集合って」


 ぱたぱたと手で顔をあおぎながら、ファヴは席についた。


「明日とかじゃ困る用事なのかい?」

「えー……… 楽しく呑んでいた二人には悪いけれど」

「別にこいつとだけ呑んでた訳じゃないからいいけどさ。わざわざ今日の、今集合ってのは、何かただごとじゃあないな、と思ってさ、リーダー」


 しかもこんな風に、事務所の一室に、自分達に加えて、スタッフのメインのメンツであるカザイ君、マナミ、エナと言った三人まで居る。その上に当たる連中は居ないあたりが、急と言えば急だし、そこまで突然持っていくべき話題ではないのだな、とファヴには予想させる。

 マヴォは黙って頭をひっかく。ひらひらふりふりではなく、Tシャツにジーンズ、というシンプルな格好をしている。P子さんはそれを見ながら、やっぱりその方が似合うな、と妙に冷静に考えていた。


「えー… この先の予定が少し変わりそうです」


 実に言いにくそうに言いながら、ヒサカは髪をかきあげた。


「今後の予定? って言うと」


 ファヴは身を乗り出した。身体に残っていたアルコールが一気に冷める。


「今レコーディングしているものが一応完成するのが、予定では今月中よね。発売がその三ヶ月後。その間にプロモーションをして… ってのは基本的には変わらないんだけど」

「その後にツアーをする、というのは決まってるんじゃなかったのかい?」

「そこからが問題なのよ」


 くっきりとした眉をテアはぴくりと動かす。


「何か、あったのかい」

「ありました」


 短くヒサカは答えた。どうする? とばかりにヒサカはP子さんの方を向く。問われた方は、軽く肩をすくめた。


「申し訳ないですが、そのツアーの時期あたりに、ワタシ、激しい運動ができなくなりまして」

「激しい運動が? 何?」


 ファヴは露骨に眉を寄せた。このひとの前ではあまり言いたくはないな、とP子さんは思う。先日言われたことが、じんわりと思い出されてきたのだ。

 しかしだからと言って、隠す訳にもいかないし、だいたいそこで申し訳なさそうに言ったところで、このプライドの高いひとにとっては逆効果なのだ。

 だからP子さんはできるだけいつもと同じ口調を続けた。


「子供ができましたので。今八週目とかで」


 案の定、三人とも、言われたことの意味がすぐには判らないようだった。

 はっ、とその意味を理解したのはマヴォが最初だった。


「…あ、そーかあ… 八週目… ってことは」


 指を折って数える。


「確かにそうだあ。そのくらいにちょうど、ツアーよね。確かにそれじゃあ駄目よ。幾ら動かないっていうP子さんだって、あれは辛いわあ」


 意外にも現実的な意見をマヴォが言ったのに驚きながら、ようやく後の二人はその意味を理解したようだった。


「…はあ、なるほど。まあP子さんがそれでいいなら… いいけどさ。唐突だねえ」

「すみませんね」

「まあそういうこともあるだろうさ。じゃあリーダー、あたし達は一体そこで何を考えたらいいのかね?」


 テアは一度受けたショックが過ぎれば立ち直りは早い。次にどうすればいいか、に頭を即座に切り替えていた。


「そう、そこなのよ。単純に二つの方法があるんだけど。一つは、ツアーそのものを延期する、ということ。もう一つは、ツアーにはサポート・ギタリストを入れる、って方向」

「でもヒサカ、もうある程度会場って押さえてあるって言わなかった?」


 マヴォが口をはさむ。ヒサカが考えたことは確かにこの相方に一番先に情報が入ることが多い。


「ええ押さえてあるわよ。今がまあ夏でしょ… 秋から冬ってのは、やっぱり気候も良くなるしね。お祭り関係多くなるし。だから何かと早め早めに中堅どころの会場押さえておきたいじゃない。主要三都市はそうよね。もう押さえてあるし、地方でも、今回は沢山回ろう、ってことがあったから」

「となると、今それをキャンセルするってのは、結構なリスクになる?」


 テアはスタッフのカザイ君の方を見る。彼は二十代半ばだが、高卒の営業畑出身の叩き上げだった。


「そうですねえ。まだ今のうちだったら。まだツアーのお知らせも出してはいない訳だから。でも会場に対しての黒星にはなるし、それに次のツアーにちゃんと会場を押さえられるかどうかも判らないでしょうね」

「ちっ」


 ファヴは舌打ちをする。


「あたしは、別にどちらになろうと、構わないよ。そのあたりは、リーダー、あんた等の判断で決めて。あたしはそれに従うから」


 そう言うと、ファヴは立ち上がった。その拍子で量の多い髪が顔を覆う。


「ファヴさん」

「気分良くない。帰らせてもらうよ」


 実際、顔色が悪い、とP子さんも思ったのだ。自分の方をうかがうヒサカに、彼女はうなづいた。


「判った。できるだけいい方向に持っていくようにするわ。テアはどう?」

「どうもこうも… そりゃあライヴできたらそれに越したことはないけどねえ。うん、あたしはライヴする方に一票。ちょっとこのひと送って行きたいから、いいかな」

「OK」

「いいわよ一人で帰れるったら」

「テアさん送ってやってよ。リーダーの命令!」


 OK、とテアは苦笑しながら立ち上がった。命令も何もないだろう、とマヴォは立った二人に見えない様に呆れた顔をする。

 しばらく、閉じた扉の向こうの気配を皆でうかがう。エレベーターの扉が閉じた音を聞いて、ようやく皆でふう、と息をついた。


「P子さんは、どっちがいいの?」

「どっちもこっちも、ですねえ。弾きたいのはやまやまですが、そうもいかないんでしょう?」

「普段酸素不足で参ってるのは私だけじゃないでしょう?」

「まあそうですが、ワタシなんかはアナタよりずっと動かないと言えば動かないんだし」

「それでも会場そのものが今度からは広くなるわ。座ってるプレーヤーじゃあないんだからね。それに結局ライヴになると、私達時間が不規則になるでしょう?」

「って言うかー、あたしあまりマタニティのP子さんがステージ出てるのやだ」


 途端に周囲の空気が凍り付いた。単刀直入にも程がある、と一斉に視線が頬杖をついたマヴォの方を向く。


「何よお。でもたぶん、客はそうだと思うよ。やっぱ、うちのバンドって、そーいう感じじゃないじゃん。そりゃあほら、あのひとのように、女全開ばりばりーっ、って感じのシンガーさんが、そうするんならともかく、ウチのバンドって、あんまり、そうゆうとこ、見せないようにしてるじゃん。だめだよそれは」

「それはそうですねえ」


 ふむふむ、とP子さんはうなづく。


「そりゃあ確かに、ワタシも見たくはないですわ」

「でしょう?」


 でしょうじゃないわよ、とヒサカは頭を抱えた。


「と言う訳で、ヒサカあたしはP子さん抜きでライヴするのに賛成。いーじゃんまた戻ってきたら、復活御礼ライヴツアーとか言って、も一度回ればいいんだし。言っちゃ何だけど、P子さんよりちょっとインパクト弱いギタリストさん使おうよ。そーすればP子さんが戻ってきて万々歳じゃない」

「あなたねえ」

「違う?」

「マヴォちゃんも言いますねえ」

「だってあたしが言わなかったら誰が言うのよ」


 確かにそうである。

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