6 彼から見た彼女とのはじまり
目覚めてすぐに視界に入ったのは、自分が着ていたはずの白い服だった。ただしそれは何処か薄汚れて、なおかつ足跡などもついていたのだけど。
その足跡が、ぼんやりとした昨晩の出来事を思い出させた。
そして次に視界に入ったのは、真っ赤な髪だった。一言二言、問われるままに答えていた言葉の内容は、彼は覚えていない。
ただこれだけは、決して忘れない、と思った。
「朝メシでも食いますか。えーと。アナタ、何って言いますか?」
彼女はそれがごく当たり前のことの様に問いかけた。実際朝だったのだ。それが既に十一時くらいだったとしても、昼過ぎでなかったら朝なのだ。
朝だったなら、朝ご飯を考えるのも当然なのかもしれない。そして名前を問いかけることも。DBは少し考えた。どう言ったものか、と首を傾げた。
「DB」
「でぃーびー?」
「そう呼ばれてるの」
嘘ではない。本名からその名前は来ている。下手な源氏名など似合わない、と何となく外国の女の子めいたその通称を夢路ママは使うように彼に言った。
だけど、あまりにもそれは普通の名前じゃない。だったら本名を口にすれば良いというのに。
その時の彼には、それを口にするのはためらわれた。
それは本当に僕の名なのか?
かと言って、DBという呼び名がそのまま自分なのか、と問われたらまた、その時の彼には答えられなかっただろうが。
笑うだろうか、と彼は思った。笑うかもしれない。何気取った名前つけてるの、と。だが。
ふうん、とP子さんはうなづいた。そして言った。
「じゃあDB、アナタコーヒーとお茶とどっちがいいですか?」
反射的に彼はコーヒー、と答えていた。答えてから、あれ? とあらためて思った。このひとは、笑わない。
はいはいコーヒーね、とあの低くも高くも無い声であまり抑揚もつけずに言うと、棚からインスタントのコーヒーと湯飲みを取り出し、コンロに火をつけた。
「…あ、あの」
何って言えばいいんだろう。その時彼は、何か、言いたかった。だが何と言えばいいのか、判らなかった。何ですか、と彼に背を向けながら真っ赤な髪の彼女は問いかけた。そうだ何だろう。自分は何をこのひとに問いたいのだろう。
「…あなたの名前…」
「ああ、ワタシですか」
彼女は振り向いた。後ろでざっと留めただけの長い髪が揺れた。
「本城亜沙子って名もあるんですがねえ… あーんまり使っていなくて」
「じゃあ何って呼べばいいの?」
「あー… 皆はP子さんって呼んでくれてますがね」
「P…子さん?」
「それも『さん』まででフルネームらしいですよ。何ででしょうね」
ははは、と微かに彼女は笑った――― ように彼には思えた。
「妹がユウコちゃんでU子ちゃんだから、オバQに出てくる女の子二人、…いや、女のオバケ二人だ、って面白がったことがあるんだけどね。でも何でそうなったんだ? そう言えば」
うーむ、とあらためて「P子さん」は考え込んだ。そこで改めて考えるようなことではない、と彼は思うのだが。
「うんまあどうでもいいですねそんなこと。…まあそう呼ばれるのが、いちばんしっくり来る。それは確かですね」
「P子さん」
何ですか、と彼女は問い返す。何でもない、と彼は答えた。
インスタントのはずなのに、牛乳を半分入れたコーヒーは美味しかった。
*
服を洗濯してしまうから、と一日。
乾くまで、と一日。
持っていくのを忘れたから、ともう一日。
店には通いつつも、また次の朝には戻ってくる。そんな日々が続いて。
―――いつの間にか、それが不自然でなくなってしまった。
P子さんというひとは、彼から見ても、少し変わったひとだった。少なくとも彼が今まで知っている女性達とは確実に違っていた。
朝起きるのは昼近くだったから、彼が戻ってきた時にはまだ夢の中のことが多い。当初は何の仕事をして暮らしているのか、さっぱり判らなかった。だが見渡すと、メシの種はどん、と決して広くない部屋の結構なスペースを陣取っていることが判る。ギターだ。
そういえば、とその時ようやくP子さんの髪が赤い理由に気付いた。脱色、とか茶髪、とかという次元ではない。赤。真っ赤だったのだ。さすがにそんな髪をしているのは、ある種のアート系か、そうでなければミュージシャンくらいだ。
「ギタリストさんだったんだ」
「まあそう言えますね」
至極当然のことのように彼女は言った。
すごいなあ、と彼は目を丸くした。自分は楽器などやったこともない。それどころか、そんな「一芸に秀でた」ものなど一つもなかった。
「別にすごい、っていうもんじゃないですよ。たまたまこれしかワタシにはなかっただけで」
「でも、すごい。僕にはできないもの」
「そりゃあ、皆が皆できたら、ワタシが廃業しちゃいますよ。皆そうそうやらないから、ワタシでも食えてる。それだけですよ」
そう言って、こういう音だ、と彼にヘッドフォーンを渡した。彼女達のバンドは「PH7」と言うらしい。
「ワタシがつけた訳じゃあないんですがね。でも結構気に入ってる名前ですよ」
「PH7、って中性、だっけ」
「―――ってウチのリーダーは言ってましたがね。酸でもアルカリでもない中性。でもって、男でも女もない中性」
「…そういう意味があるの?」
「そっちの意味は、リーダーが込めたかったみたいでしてね。ワタシにはそのあたりは」
P子さんは手を広げた。
だが確かに、いかにも女、というタイプではない、とDBは思った。彼女も、彼女のバンドも。
「女」ではなく、ただ「音楽をやってるひと」という。
「仕事」と称して外に出るのは、だいたい昼過ぎだった。私鉄で数駅行ったところに彼女のバンドが属する事務所があるのだという。
「別にそこでは何するって訳じゃあないんですがね。そのまた近くにスタジオがあるんですよ。だからそこで今はレコーディングしたり、練習したり…」
時にはライヴもするのだ、と付け加えた。
ライヴ、とDBはその慣れない言葉を繰り返した。郷里では全くそんなことには縁が無かった。無論彼の郷里でも、その類のことが無かった訳ではない。だが、彼自身には無縁の世界だった。
もっとも、今現在彼が勤めている場所なぞ、郷里では噂にも聞いたことは無かったのだが。
「ライヴは好き?」
だからそんな風にしか話題がつなげない。好きですよ、とP子さんは答えた。
「…そう、雑誌のインタビウとか、ラジオに出てどうの、とか言うのより、ずっと好きですね。それがワタシの本業だし」
それしか無いのだ、とその言葉の裏にはうかがえた。
確かにそれ以外無いのだろう、と彼も思った。少なくとも、世の女性が気を配る部分に関心は無いようだった。
着ているものと言えば、部屋の中ではTシャツだのスウェットだのジャージだの、だし、風呂上がりで暑いと、足など丸出しのことも往々にしてある。
DBは少しばかり目のやり場に困ったが、慣れているのか何なのか、P子さんはそんな彼の視線に動じることもない。
ドレッサーもわざわざある訳ではない。二つ折りの鏡があるくらいなもので、姿見もその部屋には無かった。化粧品も無い。どうせステージに出る時には、そっちに詳しいひとがやってくれるから、と。
「普段のメイクがどーしていちいち必要なのか、ワタシにはよく判らないんですよね」
彼女はそう言って苦笑した。
クローゼット代わりの押し入れには、服が多少なりとつるしてあるが、そこにスカートというものは存在しない。あるものと言えば、ジーンズか皮パンだった。
ジーンズの中には、ひざやら裾やらがほつれているものも多かった。あんまり裾のすり切れが大きくなったら、ざくざくとはさみで切ってしまうのだ、と彼女は言った。そんなことする女性、彼は今まで見たことが無かった。
Tシャツにしたところで、XLサイズのものを無造作に買ってきて、適当に着ているだけ、のようである。
もし髪が赤でなく、皮パンや皮ジャンが存在しなかったら、実に地味で地味で地味な女性、にしか見えないだろう。古典的ギタリストの部分が、それでも彼女を派手な部類に見せていた。
そしてプロ野球が好きだった。特にあの某TV局と同系列にある球団が。出会った頃はちょうど前半のシーズン真っ盛りだった。
*
その日はちょうど、二人とも特に用事は無かった。
かと言って格別に話すことがある訳でもない。中にはその日あったことを息せき切って話さずにはいられない人もいるだろうが、この二人はそうではなかった。
食事をしたらお茶を飲み、点けっぱなしにしてあるTVの野球に目をやる。それが終わったら、新聞やら、適当に転がっている雑誌に目をやるとか、そんなことで時間がだらだらと過ぎていくだけだった。
ただ、その時不意に。
つん、とつつかれた。
「…何?」
彼女は興味があるとも無いとも、驚いたともそうでもないような、曖昧な表情で自分を見ていた。
どうしたんだろう? と彼は大きく目を開いた。
「や、綺麗だなあ、と思って」
そう言われるとは、思わなかった。彼はにっこりと笑って返す。
「ありがと」
「本当ですよ?」
嘘を言ってる訳ではない、と彼も思った。このひとはそういうひとではない。嘘をわざわざ言う手間をかけるくらいだったら黙っているほうだ。
だけど少し、面白くなっていた。
「だって男の肌だよ? いくら何でも違うじゃない」
そう言って、今度は彼のほうから彼女の頬に触れた。普段から化粧をばりばりにしている女性達と違って、荒れていない。
「ほらずっとすべすべ」
「…くすぐったいですよ」
くすくす、と彼女は笑った。細い目が無くなってしまいそうな、笑顔。
あ。
彼女は手を外そうとする。彼は思わずその手を取っていた。
「DB?」
「黙って」
左の手の指は、ひどく堅かった。ギタリストの指だ、と改めて彼は思った。
その手に、軽くくちづける。
「仕事してる、手なんだよね」
「そりゃあそうですね」
すると今度は彼女の方が、近寄ってくる。頬に触れる。
「アナタは今はこれがお仕事しているもの、でしょう?」
「うん」
すると彼女はその頬に唇を寄せた。ひどく軽く。ふわり、と羽根が乗ったくらいの軽さだった。
「くすぐったい」
「じゃどのくらいなら、いいですか?」
そうだね、と彼は正面から向き合う。
「このくらい」
…そう言えばこのひと女の人だったんだよな、と彼は翌朝、今更のように考えた。
真っ赤な髪を広げて眠っている姿を見ると、確かにそうだ。決して広くないベッドの中で触れてしまう身体の感触もそうだ。毛布の中にこもっている匂いとか、それは明らかに女性のものなのだ。
だけど何か、女性と寝た様な感じがしなかった。何故だろう、と彼は天井の染みを見ながら考える。何度も、何度も視線が染みと天井の端を横断する。
ああそうか。
はたと彼の頭は、一つのことに思い当たる。
僕が一方的に何かしらするという訳じゃなかったからだ。
郷里に居た高校時代、彼を誘った上級生や、可愛いわね、と声をかけてきた女子大生、家庭教師の女性、皆彼に、何をしろこれをしろ、と要求してきた。言葉にしていた場合もあるし、無言で要求していた場合もある。
別段自分で進んでそうしたかった訳ではない。なのに終わった後で、こんなものなの、という顔をされた時には、自分が何をしているのか訳が分からなくなることがあった。
だけどこのひとの場合は。
手慣れてはいない、と思う。
どちらかというと、好奇心のほうが勝ってた様に思われる。
ただその好奇心の矛先が、相手であるDBだけでなく、P子さん自身にも向かっていたよゆうに、彼には思えた。
不思議な反応だ、と彼は思った。
無論全ての女性を同一視している訳ではない。だがあまりにも、彼女は客観的だった。何となく、彼はそう思った。自分が触れた時の、彼女自身の反応も、彼女がDBに触れた時の反応も、彼女にとっては等価値のように、彼には感じられたのだ。
ああそうなんですね、と彼女は何度か口の中でつぶやいた。なるほど。そういうもんなんですね。
およそ、そんな時に聞く言葉ではない、と彼は思っていた。確かに自分たちの間に、そんな恋愛めいた感情が存在するとは思ってはいなかったが、それでも、していることがことなのだ。何かしら、それらしい言葉が出るのではないか、と思っていたのだ。
だがしかし。
彼女は一つ自分が仕掛けると、同じことをDB自身にもやり返す。じゃあこれは、と次には彼女のほうが仕掛ける。曖昧な笑い。だけどそこには打算の一つも無くて。
不思議で、曖昧で、とろとろと、溶けるような感じで。
自分が彼女を抱いているのか、彼女に自分が抱かれているのか、DBは最初から判らなかったし、最後まで判らなかった。たまたま持っている器官が一つ違うだけだった、のかもしれない。
「…あれ、起きてたんですか?」
目が合う。起きてた、と彼は短く答えた。そしておはよう、と。
「朝、ですね」
「うん。朝だね。いい天気」
「いい天気ですね」
そしてんー、と言いながら彼女はゆっくりと身体を起こす。何度か首を回し、肩をもむ。
「何か、身体が痛いですよ」
「僕も」
変ですねえ、と言いながら、彼女は何度かまた首を回し、床に落ちていたTシャツを拾った。そう言えば昨夜風呂に入ってなかったことを思い出したのか、のそのそとそのまま彼女は風呂場に入っていった。
彼は少し考えたが、Tシャツとスウェットをつけると、一気にシーツを取り外した。少しばかり考えるべきことがあったような気がするのだが、その時の彼には思いつかなかった。
それから、時々そんなことがある。
*
「…ホントに、しょうが無い子」
ふう、と閉店後、片づけをしながら夢路ママはため息をついた。
「だけどあんな風に、言いたいことずはずばと言える子ってのは、いいですね」
髪につけていたリボンを取りながら、DBは言う。実際そう思ってもいた。
「何、好み?」
テーブルを軽く拭きながら、たまきさんが笑顔で問いかける。
「違うよ。うらやましいなあ、って思って」
「でもねえDB、お客なんてのはそういう子は好かないのよお」
彦野さんは厚みのある手をぽん、と彼の肩に乗せた。
「や、それは人によると思うね」
くす、とお葉さんはグラスを両手に持ちながら話に加わる。
「中にはああいう女の子に振り回されたい、って奴も居るよ」
「まああなたのお客はそうでしょうね」
「ふふん」
にやり、とお葉さんは笑う。少しばかりDBはひやり、としたが、これはこれで、「彼女」達は仲がいいのだ。お互いの相手にするタイプが違う、というのは重要だ、とDBは肝に銘ずる。
「だけどDBちゃんの好きなタイプって、どういうひとなの?」
たまきさんは男とも女とも限定せずに問いかけた。
「どういうひとって」
「ふふん。聞いたわよ。今いいひとのとこから通ってるって言うじゃない」
「それは」
彼は言葉に詰まる。
「あんたが好きであんたを好きなんだから、よほどなひとな気がするけどねえ」
うーん、とDBは苦笑する。どう答えたらいいのだろう。嘘でごまかすのは苦手だった。P子さんだったらあの曖昧な笑顔でさらりと逃げるのではなかろうか、と思うのだが。
「…うーんと」
うんうん、と「彼女」達三人は耳を傾ける。
「何かね、僕が男だか女だか、忘れてしまうようなひとなの」
それだけ、と曖昧な笑顔でごまかす彼に、三人とも顔を見合わせて首をひねった。