5 彼の勤め先「港屋」の人々と彼女と出会った時のこと
「あーあ、つまんないー」
大きな声がしたので、DBは思わずカウンターの方を向いた。
「どうしたの? トキちゃん」
「んー」
いつもながらの派手な格好だ、とDBは思う。トキと呼ばれた少女は、この店のカウンターの常連だ。だが客という訳ではない。
放っておきなさいよ、とカウンターの中の彼女の兄は言う。着物をきりっと着こなし、長く伸ばした髪にゆらゆらとしたウエーヴを当て、綺麗に化粧をした「兄」は。
「だって兄貴、とうとう終わっちゃったのよー。今回のPH7のツアー」
「そりゃあそうでしょ。始まりがあれば終わりがあるんだわ。あんたもねえ、いい加減追っかけは止したらどう? せっかくのバイト代を、そんなことにばかり使っちゃって」
「せっかくのバイト代だから、そういうことに使うんじゃないの」
ぐい、とトキは兄に向かって迫る。くく、と周囲の常連客達は、また始まった、とこのきょうだいのやりとりを聞いていた。
「いいバンドなのよ! メジャーに出たばかりで、何か今一番勢いづいてる時なんだから、今を見ておかなくっちゃ、って感じなんだったら!」
さすがに「兄」はもうその言葉には背を向けていた。何せここは、彼の仕事場なのだ。
五年程前に、ここの「ママ」、通称「夢路」さんは、トップ・セールスマンの座をいきなり蹴り飛ばしてこの世界に入ったのだという。一年、みっちり他店で働いた後、セールスマン時代の貯金を元手に小さな店を出した。
それがここ、ゲイバー「港屋」だった。
180センチはある堂々とした身体は、学生時代は体育会系だったという。筋肉をしっとりとした和服に包み、節くれ立った指は器用にグラスを取る。ほほほ、と笑い声を立てる時には、口元に手。とてもそれが訓練して身に付いたものとは思えないくらいに、板についた仕草。DBは日々感心してやまない。
その夢路ママは、DBが最初にこの店に入った時に、こう言った。
「あんたはそう気の利いたことはできそうにないから、とにかく綺麗な格好して大人しくしていれば大丈夫」
下手に女言葉とか使わなくてもいい、と彼は言った。
本当にそれで大丈夫なのか、と当初DBも思ったが、とにかく言われたことを心がけていたら、それなりに可愛らしい彼をお目当てに来る客も来るようになった。喜んでいいのかどうなのか、やや複雑だったが、食べて行く手段は今のところ思いつかなかったので、一生懸命するしかなかったのだ。
そして今日も彼は、ブランドもどきの服を、兎にも角にも合わせ方にだけは気を付け、薄化粧をして店に出ている。
「この間はごめんよお」
と四十過ぎの男が、彼に手を合わせて謝る。
別に気にしてませんよお、とDBはにっこりと笑う。
「だけど僕あまり強くないんですからあまりそんなことしないで下さいね」
ふわふわとした笑顔でそんなことを言われてしまっては、相手もそれ以上無理強いもできない。無粋というものだ。
そう、この店では無粋なことは嫌われる。そもそもこの店の「港屋」という名前も、ママの通称も、その昔の有名な画家の周辺から取ったものだった。薄暗い内装、濃い色をしたむき出しの梁が白い壁に浮き上がっている。窓は幾何学模様に象られ、所々に色ガラスがはめ込まれている。
それはまるで、かつての「カフェー」を思わせるような、そんな空間だった。
「ずっとね、こんな場所を作りたかったのよ」
と夢路ママはとある開店前の時間にDBに言ったことがある。
「あたしはね、綺麗なもんが好きなのよ。小さい頃からそうだったわ。なのにこの身体だし、スポーツなんかもできちゃうから、そんなの自分には似合わないって思っていたのよねえ」
確かに似合わないかもしれない、と以前トキが面白がって持ってきた、「兄」のかつての写真を見た時のことを思い出す。
そこに妹と並んで居たのは、絵に描いたようなスポーツマンだった。
陸上の大会だったのだろうか。タンクトップにゼッケンをつけて、頭は五分刈り。青空の下で、緊張した面もちで立っている。
「でもどうしようもないのよねえ。好きなものは好き。そうそう人間、長くもない人生なんだから、好きなことに生きなくて、楽しまなくてどうするんだ、って言うのよ」
確かに、とDBは思った。
実際この店は、夢路ママの好みがそのまま反映している。店の内装だけではない。カウンターのランプは植物のような曲線を描く、アンティークなものだし、ふんだんに使われた花は毎日きちんと取り替えられている。
その花を生ける腕前もなかなかなものだ。昼間の時間が空いている時には、時々習いに行くのだという。熱心なのは、スポーツマンだった時の習性だろうか。
そのママの態度は、店で働く「おねーさん」達にも伝わるようで、皆何かと自分を磨くことには熱心だった。
長い髪が綺麗な、くっきりした顔立ちの「たまき」さんは、エステではなく、スポーツジムに通っている。ただしそこでは男の格好で行くらしい。
「たまき」さんは、男の自分が美しくなる、ということを追求しているから、身体を人工的に改造させるよりは、筋肉を美しく保つことの方が大切らしい。実際、「彼女」の動きは、大型の猫科の動物のようにしなやかだった。腕なぞ、決して細くは無いのだが、鍛えられた筋肉ゆえ、それが暑苦しいものには見えない。
対照的に、ふっくらとした大柄な「彦野」さんは、外見はちょっとどうしようか、と一瞬目をそらして迷う類だったが、その気配りに、やってきた客の大半が気を許してしまう。「彦野」さんは、自分が「綺麗」ではないことを知っているので、そんな自分でも客の男性を楽しませることができるなら、ともう入ってきた瞬間に、そのひとが何を欲しているのか、観察をするのだという。
これはこれでプロだなあ、とDBは思わずにはいられない。その気配りが自分の化粧や服装に至らないのが不思議なのだが、それはそれで一つの味として取られているらしい。
この店の「女の子」の最後は「お葉」さんと呼ばれている。「彼女」は「彼女」でまた、見事だった。もっとも「彼女」はいかにも女性らしい格好をしているということは無かった。むしろ、ウエイターの格好を好んでしている。だがそんな男の格好をしている男だというのに、「彼女」はその化粧のせいなのか、ちょっとした動きのせいなのか、「男装の麗人」のように見えてしまうのである。意図して作っているとしたら、立派なものだ、とDBは思わずにはいられない。
そんな三人の中に居ると、自分なぞ所詮「男の子」が女装しているだけだよなあ、とDBは思う。だが実際、自分自身それ以上の努力をどうしていいものか判らないし、その努力を自分がしたいのか、ということもまた謎だったのだ。
そう焦らなくてもいい、というママの言葉に甘えてるだけだ、と感じてはいる。だがそれでは次にどう踏み出せばいいのか、まだそれも見えてこないのだ。
情けない、とは思う。
「それでもあんたはまだましよ。自分で食って行こうって思えるんだからね」
夢路ママはよくそう言って、落ち込みがちになる彼の頭を撫でる。
「トキなんてまあ。うちに居てのほほんと学生しているだけのくせに、バイトした金で遊び回っているだけなんだからね。それに比べれば、家出たからってちゃんと稼ごうとするだけあんたの方がずっとましよ」
でもねママ。
彼はそんな風に優しくされるたびに、くすぐったい気持ちを覚える。
僕はそんな偉くはないよ。
家を出たのは、そうしなくてはいられなかったからで、何かしらの目的があった訳ではないのだ。
もしかしたら、自分は家族や周囲の期待を全て裏切っただけの卑怯者なのかもしれないのだから。
だから彼はそんな時には、黙って頭を撫でられるままにされる。ただこうやってくれるひとの手というものは、何て気持ちがいいものか。
「何もしない」優しさというものが、どれほど心地よいのか、判らない人には判らない。
「でもさあ、ホント、PH7のライヴ、これからは簡単に取れなくなると思うんだもん。だから今回はあたし、結構チケ取りにも必死だったんだからさあ」
「そんなにいいの?」
何食わぬ顔で、DBはトキに問いかける。いいのよぉ! と彼女は拳を握りしめる。ほら始まった、とお葉さんがカウンターにひじをついてくっくっ、と笑う。
「だったら今度、MDに落としてくるわよ。兄貴なんかさあ、こうゆうのの良さ、絶対判ってくれないんだものね。音だけじゃないんだから。あたし女のひとで、あんな格好いい人たち、初めて見たもん」
「格好いい女のひと、ねえ」
ふうん、とたまきさんは首を傾げる。
「女に惚れさせるような女なら、それは結構本物かもねえ」
「そうなのよ! たまきさんもそう思うでしょ?」
ふふん、とたまきさんは口の端を微妙に上げて笑う。あしらわれてるなあ、とDBはその様子を見ながら思う。そして自分がついている客が野球の話をし始めたので、そちらに付き合いだした。
無論彼は、自分が現在その話題のPH7のギタリストと同居している、などと口が裂けても言う気は無かった。そんなことを耳にしたら、彼女はきっと、「ライヴ友達」を連れてこの店にやってくるに決まっている。それは彼のプライヴェイトだった。そっとしておきたかった。
だいたいDBはP子さんのバンドの音など、つい最近まで知らなかったのだ。あくまで彼が出会ったのは、真っ赤な髪をした、音楽をやっている「らしい」一人の野球好きな物好きな女、だった。そして何よりも、居心地のいいひとだった。
*
最初に出会った夜の記憶ははっきり言って、無い。
不覚だった、と彼は思う。
いくら客にすすめられた、とは言え、決して自分はアルコールに関しては強すぎる訳ではないのだ。いいところ人並みだ。しかもすすめた客は、普段から自分に対して、何かと理由をつけては触れて来ようとする男だった。
そんなこともあるのは判っている。ある程度は大丈夫だ、と彼も思っている。そういう店に足を踏み入れた以上、ある程度の覚悟はあった。致し方なかったら、誰かと寝る羽目になっても仕方がない、と思っていた。身元がはっきりしない自分を働かせてくれる場所を、そうそう失いたくはなかった。
だからと言って、無闇に自分を安売りするのも違う、と思っていた。夢路ママもそう言っている。綺麗な服を着て、可愛らしくお化粧するんだからね。それに釣り合った自分の値というものを考えなさい、と。
だからできるだけ自分の身は守ろう、と思ってきたつもりだった。やんわりとはね除ける術も、少しは身につけてきたつもりだった。
ただその日は、たまたまその馴染みの客が、会社でつまらないことがあったのか、ずいぶんと長く居座り、彼をそばから離さなかった。ちゃんとオーダーはするし、むげにあしらうこともできない雰囲気はあった。
それがまずかったのだ。
落ち込んだ相手に付き合う酒はつい量が多くなる。用心していても、時間が長引けば仕方なく増えてしまうものだ。とうとう相手は、閉店まで店に居座った。
「港屋」は週末以外は閉店の時間がそう遅くはない。夕方開店の、二時頃には閉店となることが多い。さすがに金・土は夜が明けるまで、ということもあるが、それ以外の日は、客も翌朝の仕事があるだろう、ということで、長居はさせないのがママのポリシーだった。
ふらふらになった客が、いまいち足取りも怪しいので、駅まで送っていく、とDBは言った。気を付けるのよ、とママは言った。幾つかの意味が含まれているような気がしたが、とりあえず全部を肝に銘じた。
しかし、と彼はしばらく歩き出してから、自分のしたことを後悔し始めた。店で座ってぼやん、と相手をしているうちはいい。血中アルコールも、まだその力を充分出し切ってはいなかったのだ。
だが動き出すと、いきなりそれは彼の身体をかけ回り始めた。これはまずい。急に熱くなりだした身体、芯が回りだした頭に彼は舌打ちをした。
客もまた、足取りがおぼつかない。…ように、見える。だからそれでも一応、駅までは何としても連れて行こう、と彼は思った。ただしそこからは自分の知ったことではない。
駅が見えてくる。人々の喧噪が耳に飛び込む。助かった、とDBは思った。これでこの客とも今宵はおさらば、だ。それにこの人混みの中、さすがにこの服でうろつきたくはない。自分がぱっと見には女の子に見えることは自覚しているが、じっくり見れば、男であることなどすぐに判るだろう。それで周囲の目を引くのは、やはりDBは嫌だった。
「…ほら駅ですよ、埴科さん」
客の名を呼んで軽く揺さぶる。ああ、と力無い声が耳に入ってくる。さあ、と軽く押し出す。
だが動けない。しまった、と彼は思った。手を強く握られている。
「ねえ君、頼むよ、今夜はずっと一緒に居てくれないか?」
さすがにDBはその言葉にはさあっ、と血が引いた。この客は、三十代も後半で、いつも金払いは良い。ただあまり好きなタイプではないのは確かだ。…何が嫌かと言って、…実に自分の良く知っている人間に似ているのだ。真面目そうな、きっちり分けた髪、銀縁の眼鏡、高い背、嫌みにならない程度のコロンをきかせて、服の趣味も決して悪くはない。
…だから、嫌なのだ。
彼はそんな人物を一人、良く知っていた。その一人は、故郷の自分の家に居る。そして今は、その家を我が物にしている、ただ一人の。
別に顔が似ているという訳ではない。だが雰囲気が同じなのだ。おそらく会社でも有能な方なのだろう。頭も良さそうだし、品も悪くない。
なのに何を好きこのんで、わざわざ自分など好むのだろう。しかも女装した自分を、だ。
そのあたりの心理も、考えたら考えられるかもしれないが、あまり考えたくはなかった。
「…酔ってますね。明日も早いのでしょう? お帰りになって、ぐっすりお休み下さい」
「ぐっすり休みたいよ。だから君、一緒に居て欲しいんだ…」
そう言って、そんな駅近くだと言うのに、男は彼を抱きすくめようとした。やめてくれ、と彼はもがいた。酔っぱらいのはずなのに、何って力だ。しかし気付いていなかったのは彼のほうだった。
頭がぐらり、とする。
「君も、うまく立っていられないんじゃないのかい?」
その途端、頭に血が上った。DBは思い切り男の身体を突き飛ばしていた。もつれる足で、走り出していた。それはまずい、と頭では理解しているのに、そうせずにはいられなかったのだ。
酔いが身体に回っている時に走り出したりしたら。足にスカートがもつれる。心臓がこれでもかとばかりに早打ちする。やばい。やばいんだってば。
それでもすぐに止まらなかったのは、まだ理性が残っていたということか。彼はゆっくり、ゆっくりスピードを落とし始めた。
大きく息を吸って、吐いて。
ガード下のコンクリートの壁にもたれる。白い服が汚れてしまう、という意識は無かった。頭の後ろでがんがん、と低い音の太鼓が鳴っているみたいだった。ああきっと明日は二日酔い決定だ。そのまま彼はずるずる、とその場にしゃがみ込んだ。青白い街灯の光が、目にうるさい。
…どの位経っただろうか。ひどく喉が乾いていた。だが立ち上がる気力も無い。…と言うより、自分がどんな体勢なのかも彼は気付いていなかった。
壁にもたれたまましゃがみ込んでいたはずなのに、いつのまにか道に寝そべっていたらしい。石畳が頬に冷たくて、気持ちいい。でもついていない方の耳をかすめる夜風の冷たさは、少し寒気すら覚えさせる。
どうしよう、と彼は思った。このまま眠ってしまったら。
思いのほか、自分に今染み込んでいるアルコールは強かったようだ。身体を動かそうという気力が湧かない。このまま眠ってしまったら、風邪を引くだろうか。それとも。
それとも、二度と目を覚まさなくてもいいのだろうか。
ふっとそんな考えが頭をかすめる。それも、いいかもしれない。
ただちょっと、その原因があの男と言うんじゃあんまりかもしれないけれど。
甘い睡魔が彼を再び襲おうとしていた。
…のだが。
ぎゅ、と。
ぐっ、と胸に来る圧迫感に彼は目を覚ました。だが身体はすぐには動かない。
圧迫感はすぐに消えたが、かわりに微妙な刺激が背中を襲った。まだ熱を持っている皮膚は、ちょっとしたことでも敏感だ。
「もしもし?」
女の人の、声だ。彼は沈み込みそうになる意識の中で、そう認識した。その声は続けた。
「…こんなとこで寝てると、風邪ひきますよ」
判ってる。それは判ってるんだけど。
「んー…」
身体が持ち上げられる。女の人だとしたら、結構強い力だ。彼は精一杯の力を振り絞って、声を出してみる。がくん、と首が後ろに倒れた。
「男!?」
ああびっくりしているな。彼は思った。でもいいや。それより。
「…水…」
唇が、そう動いていた。
「水… ちょうだい…」
ああ、と自分を支えている女の人の姿がようやく視界に入る。青白い照明の下でも、よく判る、真っ赤な髪。口元だけが、きゅっと上がった。
「…立てますか?」
彼女はそう訊ねた。そして彼に肩を貸した。自分よりも背が高い、とぼんやりとした意識の中で彼は感じていた。上げている腕が少し疲れるくらいなのだから。
そして再び襲ってきた睡魔の中で、彼は何となく心地よいメロディが耳に入ってくるのを感じた。
翌朝は自分が何処に居るのか、さっぱり判らなかった。