3 何となく一緒に暮らしだし、何となくそうなって。
「彼」が目覚めてすぐに目にしたのは、自分が前の夜に着ていたはずの白いふわふわの服だった。ただし、背中のあたりにべったりと足跡がついている…
「おや、起きました?」
P子さんは「彼」に声を掛けた。ばさばさ、と彼女は手にしていたスポーツ新聞を床に下ろす。
「ひどく酔っぱらって、アナタ転がってたから、連れてきたんですよ。おはよう」
何か言葉の順番がばらばらではないか、とP子さんも一瞬思ったが、まあいいか、と口の中でつぶやく。
「…連れてきたって」
「んー、引きずってきたのに近いのかなあ。ああそう、それと、あれ。ごめんです。ちゃんと洗って返さないといけないかな、と思ったから」
「…だ、大丈夫。僕洗濯は慣れてるから…」
「慣れてます? なら良かった。ワタシはどーもああゆう繊細な服ってのは苦手で」
確かにその様である。
この時のP子さんの格好ときたら、「繊細」とは無縁だった。
真っ赤なたっぶりとした髪は後ろでバンダナでくくり、割と豊かな胸はノーブラのまま、大きめの長袖Tシャツ一枚。そして下は下で、スウェットの裾を切ったものであぐらなど組んでる状態なのだから。
「でもまあ、呑みすぎってのは良くないですよ」
自分はさておき、P子さんは「彼」に言う。
「…ごめんなさい。昨日はつい、お客さんに絡まれて」
「お客?」
ああなるほど、と彼女は納得する。そういう商売なのか。
「酒の相手くらいまでだったらいいけど、…さすがにそれ以上はちょっと、だったから。向こうは酔いつぶそう、って感じだったけど、逃げてきちゃったら、酔いが回っちゃって」
「それは危険ですよ」
「うん、判ってるんだけど」
「彼」は口の端をほんの少し上げた、ように見えた。
「でも、ね」
「まあそういうもんですかね」
P子さんは再びスポーツ新聞を取り上げた。見事に彼女のご贔屓球団満載のスポーツ紙である。しばらく彼女はその記事に集中していた。そしてふと、顔を上げると、「彼」に向かって問いかけた。
「…お腹、空きませんか?」
「え?」
「朝メシでも食いますか。えーと。アナタ、何って言いますか?」
「え?」
「名前」
「…あ」
「彼」は少し考え込むように首を傾げた。
「DB」
「でぃーびー?」
「そう呼ばれてるの」
ふうん、とP子さんはうなづいた。
「じゃあDB、アナタコーヒーとお茶とどっちがいいですか?」
*
それからずっと、「彼」はこの部屋に居着いていた。
「今日は店はいいんですか?」
「何言ってるの、今日は休み。水曜日じゃない」
ああそう言えばそうだ、とP子さんは新聞の日付を改めて見る。
「水曜日はうちの店みーんなお休み。あとはローテーションでもう一日。前に僕言ったよ?」
「ああごめんなさいな。ワタシも最近忘れっぽくて。…それよりごはん早く食べましょ」
もう、とDBは肩をすくめながら、それでも炊飯器を寄せると、P子さんの茶碗にこんもりとご飯をよそう。
店。最初に会った日に着ていた服は、営業用のものなのだ、とあの後彼はP子さんに説明した。
「二丁目じゃあないけれど、そういう店」
そして「そういう店」に普段はひらひらした服も、自分の寝泊まりする場所もあるのだ、という。
だが別段、仕事でそんな格好をしている時以外、化粧をする訳でもなく、言葉も女言葉にはなっていないのだという。
そのことを疑問に思って問いかけたら、彼はこう答えた。
「だって僕は別に男のひとが格別好きって訳じゃあないもの。普段は自分の楽な格好をしたいじゃない」
そうこんなの、と彼は言いながら、P子さんから借りたTシャツとジーンズを指さす。ジーンズの裾は少し折っている。胸がある訳ではないので、Tシャツはぶかぶかだ。
「そう言えば逃げてきた、って言ってましたね」
最初の朝のことを彼女は思い出す。
「うん。別に男のひとだってできなくはないとは思うけど、僕にだって、好みはあるし… 店のママは無理強いはしないし」
そういうものですかねえ、とP子さんはとりあえずうなづいておいた。だがその態度がいまいち納得のいかないものに見えたのか、ややむきになって彼は続けた。
「だって、そういうものじゃない? 押し倒されてしまえば同じ、って言うひともいたけど、いくら何だって、目の前の奴が、どうしても何か見てられない程の顔とか、体臭がひどいとか、そんなのだったら、いくら男の体がそうできてるとか何とか言ったって、無理だと思うよ」
「まあ… それならね。判らなくはないですがね」
確かに、とP子さんは思う。趣味でもない顔だの、どうしてもがまんできない汗臭い奴とかは嫌だな、と。そしてそう考えてから、ああそうか、とあらためて思う。
「それじゃDB、とりあえずワタシはその類じゃあなかった訳ですか」
「そうなんじゃない?」
なるほど、と彼女は大まじめにうなづいたものだ。
それが出会って一週間ほどの頃。
*
何となくだらだらと、そこから店に出向いて、服を洗ったり乾かしたりしているうちに、また泊まって、と繰り返し、ごはんを食べたりお茶を呑んだり、ブロ野球ニュースを見ていたら、…何となく、そういうことになってしまった。
正直、P子さん自身も驚いていた。
ああそーいえばワタシでもそういうことできたのか。
別段全くの「初めて」ではないのだが、「初めて」は別に記憶に残しておきたいものでもない。自主的には「初めて」と言えよう。
格別何か喋る訳でもなく、プロ野球ニュースを二人してぼんやりと見ていた。ご贔屓が勝ったせいもあるかもしれない。しばらく負け続きで、くさくさしていたのだ。なのにこの日は、お目当ての選手が見事にホームランをかましてくだすった。
気分は上り調子。そんな時に不意にP子さんはDBの方を見てしまった。あらら。格別野球好きだ、とかは聞いていないのに、結構熱心に見ている。
その横顔が、肌の調子とか、綺麗だなあ、とつい思った。
思ってしまったので。
つん。
指が伸びた。
「…何?」
大きな目が開く。どうしたの? と目が問いかける。
「や、綺麗だなあ、と思って」
「ありがと」
にっこり、と笑う。営業スマイル。
「本当ですよ?」
「だって男の肌だよ? いくら何でも違うじゃない」
そう言って、今度は彼のほうがP子さんの頬に触れた。
「ほらずっとすべすべ」
「…くすぐったいですよ」
くすくす、とP子さんは笑った。
だが彼の目からは笑いが消えていた。P子さんは手を外そうとした。
その手が取られる。
「DB?」
「黙って」
…結局その日の野球の結果を見損ねてしまった。
*
かと言って、いつもいつもという訳ではない。たまたまその日にそういう気分になっただけかもしれない。不思議と、そんなことがあったにも関わらず、日々はのんびりと変わらずに過ぎて行った。
そして三ヶ月。
「で、今日楽日だったんでしょ? じゃあしばらくはゆっくりできるんだ?」
「や、そうしたら今度は、レコーディング本番、とうちのリーダーはのたもうた」
「本番?」
「あのひとは、非常に音楽に関しては厳しいんですよ。だからこの前までのは仮のレコーディング。今度が本番。でも仮の方が良かったら仮のほうを使う、とか言ってましたがね」
「ふうん。でも、だったらようやく、僕の好きなあの曲も、ちゃんと音源になるんだ」
「…何でしたかねえ」
「ああまた忘れてる。『ハレルヤ』だってば」
そうでしたっけ、とP子さんはボトルからお茶をコップに注いだ。
*
―――こよい、声をからして、呼べよさけべよ、ハレルヤ!
薄暗いブースの中のマヴォの声が強く伸びる。響く。
歌入れは最後の作業だった。そして最も時間がかかるところだった。
「本」レコーディングは、「仮」レコーディングでとりあえず作った音源に、足したり引いたりする形で行われる。まあこれはやりだせばきりが無い。
「特にウチのリーダーはねえ」
弦楽器隊の三人は嘆息する。人によっては、ヒサカのOKには時間がかかる。
「それでもまだP子さんはいい方だぁね」
「そうですかね?」
「そーよー。…ってまあ、あんたの早弾きはそうそう回数ができるって訳じゃないしねえ」
そう言ってファヴはテアの方を見る。そうだな、とソファに体を投げ出したテアもうなづく。
「ま、それでも我々はまだ、あのおじょーさんよりは、楽な方なんじゃないかい?」
ブースの中を指さす。もっともだ、と金と赤の頭が同時に前後に揺れた。
そんな背後のメンバーの会話に気付いているのかいないのか、ヘッドフォーンをつけたリーダーは、真剣な目でブースの中のヴォーカリストを見据えている。
途中で歌が途切れる。それはヒサカが首を振った場合もあるし、歌っているマヴォ自身が切る時もある。
いずれにせよ、この二人がレコーディングに関わっている時は、正直、他の三人は怖い程だった。
自分達も決して真剣でない訳ではない。だが、この二人には確実に負ける。
「…普段はあんだけ二人してべたべたしているくせになあ…」
テアは首をかしげる。壁に背をもたれさせ、ファヴは大きな目を伏せて、何も言わない。P子さんも言葉を飲み込む。
そういうアナタがたこそ、結構「べたべた」してるでしょうに。
当人達がどう思っているかはともかく、この同僚ギタリストとベーシストも、相当に「べたべた」している、とP子さんは思っている。
それが傍目には、ベーシストが一方的にくっつきたがって、ギタリストがそれをうるさそうにしていようが。だいたい一緒に住んでいる時点で、どういう仲か、なんて知れようではないか。
歌が終わる。こよい叫べ、ハレルヤ。
マヴォはヘッドフォーンをつけたまま、ヒサカを強く見据える。それはほとんどにらみつけているに等しい。
「…OK」
リーダーが低くつぶやく。ふう、と息をついて、マヴォはヘッドフォーンを取る。ひらり、と笑みがこぼれる。足取りも軽く、重い扉を開けた。
「…お水、ちょうだい」
扉を開けたヴォーカリストの一声。はいよ、とP子さんはペットボトルを手渡した。
はあ、と息をついて、マヴォは一気に飲み干した。口の端についた分をむき出しにした腕でぐい、とぬぐう。
少し厚めの唇が、紅も付けないのに赤く染まっている。体温の上昇。頬も軽く染まっている。メイクはしていないが、ライヴの時の彼女に通じる部分がある。
なのに「プライヴェイト」には、あの格好だ。そのギャップが面白いと言えば面白いのだが、落差の激しさに、時々P子さんは不安すら感じる。
もっとも、その不安が、彼女の声に一つの色合いを増すことは確かなのだが。
「…しかしこのテンポだとまた色々押しますねえ」
「別に押したっていいのよ」
リーダーは平然と言う。
「どうせメジャーで出すんだから、使える機材は使うし、使える時間も費用も使うわよ」
「おお、さすが」
くるりと椅子を回したヒサカに、ぱちぱちとテアは拍手する。
「さすがインディレーベル作るのにぽんと資本金出したひとだ」
「茶化すんじゃないの」
へらへら、とテアは笑った。…がその笑いは相棒をちら、と見た時に止まった。それまで一緒に軽口を叩いていたというのに、いきなり押し黙っている。
それだけではない。自分の隣に座ったと思うと、ころん、といきなり横になった。
「…あたしの番終わってて正解…」
あ、とP子さんも声を上げる。またかい。額と下腹を同時に押さえるのは、頭痛と腹痛が一気に来るかららしい。
「確かに正解だわ」
きっぱりとヒサカは言う。
「ま、今日の予定の分は済んでいるから、テアはファヴさん連れて帰ってちょうだい。明日動けるようなら来て。あ、あなたはちゃんと来るのよ。明日『あらざん』のベースの見直しがあるんだから」
ちぇ、と苦笑しながらテアは舌打ちをした。「あらざん」は新曲の仮タイトルである。何やら曲がきらきらしているから、とマヴォがお菓子の材料のまがいもの銀のつぶにたとえた。
「P子さんもいいわよ」
「ワタシは」
「どうせ詰める時には思いっきり詰めるわ。帰れる時には帰ってちょうだいな」
それではお言葉に甘えて、とP子さんもまた、スタジオの扉を開けた。
「手ぇ貸しましょうか?」
ふらつく相棒に肩を貸しながら歩くテアに、P子さんは問いかけた。
「や、いーよ。あたし一人で充分」
「っていくらファヴさんだって、―――㎏くらいはあるでしょう?」
女性としては高い身長では確実に痩せすぎだが。
「意識のある人間ってのは、そうそう重くはならないんだよ。だから意識のあるうちにさっさと運ばなくちゃならねーんだけどね」
「…人を荷物の様に言うんじゃないよ…」
「ほらこーやって起きてるうちは大丈夫大丈夫」
なるほどね、とP子さんは感心したようにうなづく。
そう言えば自分がDBを運んだ時もそうだった。彼に意識があるうちは大したことがなかったが、アパート近くなって、彼が本格的に眠ってしまった時には、がくん、と一瞬肩が抜けるかと思ったものだ。
DBはファヴよりは背が低いが、体重はそう変わらないだろう。途中でファヴが眠ってしまわないことを彼女は祈った。