13 DBを決断させたもの
「そりゃーそーでしょー」
何言ってんの、と相手は目を丸くした。
*
とりあえず一度話してみて、と言うリーダーにはい、とは答えつつ、やはり首を傾げながら歩いていた。すると同じビルの階下のカフェから聞き覚えのある声がした。マヴォだった。
待機中らしいのだが、その状態に飽きたらしく、ラフな格好のまま、ミックスジュースを飲んでいたらしい。
「ここは結構ジュース類も美味しいんだよ」
そう言って、勝手にP子さんにも同じものを注文してしまった。面食らったが、まあマヴォなので仕方ない、とP子さんも思う。
「アナタまでそういうこと言いますかね、マヴォちゃん」
「だってあたし、そーゆう商売のひとって尊敬するもん」
そう言ってずるずる、と手放しでストローからジュースを吸い込む。
「そうだったんですか?」
「あたしはたまたまこの類い希なる声があったからいいけど」
自分で言うか。
「ぜーったいあたしが客商売なんかやったら、一日で切れてぽん、よ。怖いからって何処もやとってくれなくなるのがせいぜいだもん」
「そんなことないでしょう?」
「そんなことあるよお」
「それもそうですね」
「あ、否定しない~」
「アナタが言ったんでしょうが」
「それでも人に言われるのは嫌だもん。まあP子さんだから腹は立たないけど、あたし導火線滅茶苦茶短いから、って」
まあ確かにそうだ、とP子さんも思う。
「あたしなんかだいたい高校中退だしー、そもそも中退した証拠もないしー。ヒサカがいなかったら食う寝るとこに住むとこもなかったしー。でもこの声だからヒサカはあたしのこと好きなんだしー」
文脈がつながっていないぞ、とP子さんは思うが黙っている。
「だからさあ、あたしもP子さんも何だかんだ言って、一芸に秀でちゃってるじゃないの。だからいーのよ。それがとびきりなんだから、別にい。客商売できなくてもしょーがないもん。そうゆうのは、一芸には秀でなくてもそうゆうことには秀でてるひとがやってくれるんだもん。あたしやP子さんがやるよりずっといーじゃない。世界は人間は持ちつ持たれつなんだしー」
まあ言っていることはそう間違っていない、とP子さんは思う。
「でさあ、でもその一芸に秀でまくってしまったあたしのこの声がなかったらさー、あたしなんか思いっきり社会の敗残者じゃないのお。まあだからそうならないように一芸を思いっきり磨いてるんだけどさー。ヒサカ絶対サドだよ。ってあたしはマゾか。マヴォって名前がいけないんだよなあ。何考えてるんだろーなあヒサカって」
「マヴォちゃん話がずれてますよ」
「わかってるよぉ。とにかく、客商売で頭切らさずにいられる皆様ってのがあたしはすごいと思うんだけどなあ。だからP子さんのダンナもやっぱりすごいのよ」
「だ、ダンナ?」
「違うの?」
うー、とP子さんはうめく。なるほど立場的にはそうなるのか。あれだけその言葉が似合わない男はいないというのに。
「それにウチの事務所ったってー、事務とかそーゆう帳面系ってエナちゃんとかその下のアルバイトちゃんがやってくれてるじゃない。ちゃんとヒサカがスタッフとして欲しいのは、ウチのメンツと気心知れてて、ちゃんと人付き合いできるひとだと思うよお。だったらそういうとこ出のひと、ってのは結構強いと思うよ。あたしが言っちゃ説得力ないとは思うけどさあ」
一気に言うマヴォの言葉をひとまずP子さんは頭の中で整頓してみた。
「…そうですねえ。それも、悪くないかもしれない」
「それにP子さんとそーやって暮らせてるんだから、ダンナの今の店、だんだん居づらくなるよ。男好きって訳じゃあないんでしょ?」
「まあそういうことは言ってましたがね」
「だったらとっととその話OKするのが正解!」
ぴ、とマヴォは人差し指を立ててP子さんの前に突きつけた。
「…卑怯ですねえ、アナタのその声でそういうことをしますか?」
「これがあたしの武器だもん」
無敵の声が、彼女に選択を突き付ける。
*
「見たよ、DBちゃん」
こそっと囁かされる。
「…ああ、久しぶりだね、トキちゃん」
音もさせずに忍び寄るんじゃない、とDBは軽く眉を寄せる。カウンターに、オーダーを取りに行った時だった。
「それで。一体何を見たって言うの?」
「ふふーん。こないだあたし、水道橋まで行ったんだ」
どき、と心臓が跳ねる。
「何、野球でも観に行ったの?」
それでもつとめてさりげなく、DBは対応する。そのあたりは慣れだ。
「ううんあたしは行かないよ。でもDBちゃん、行ったでしょ」
「うんまあね」
別にそれは否定すべきことではない。
「一人で行ったの?」
彼は黙ってちら、とトキを見た。
「ううん」
「ふうん。やっぱりじゃあ、あれ、DBちゃんなんだ」
「それだけ?」
仕事中なんだから、困るよ、というニュアンスを込めて彼は短く問いかける。
「ううんそれだけじゃあない」
はい、とカウンターの中からママが料理と酒を手渡す。
「トキいい加減にしなさいよ」
「いいわよ、これだけ聞いたら、あたし帰るから。まだ人通り多いから」
嫌な予感が、する。
「野球一緒に行ったの、真っ赤な髪の女の人でしょ」
「そうだけど。それがどうしたの?」
「ああじれったい」
苛々と、彼女は首を横に振る。
「あれって、PH7のP子さんじゃあないの?」
さて。
言われる言われるとは思っていたが、いきなりそう来たか、と彼は思う。誤魔化してしまうことはできる。そう難しいことではないだろう。
だが彼女達「ファン」の行動は、結構厄介なのだと彼はP子さんから聞いたことがあった。自分に関してはそう大したことはないけれど、人気のあるメンバーの場合、自宅を押さえられることはもちろん、交友関係も結構厳しくチェックされてしまうのだと。
それじゃあまるでストーカーの類じゃないか、と彼は思うのだが、ある程度の有名税なので仕方がない、ということらしい。
「だとしても、それはそれ、でしょ」
あえてさらり、と彼は受け流して、トレイを取ると、テーブルへと戻って行った。
「ほら怒ったじゃないか。お前が口出すことじゃないだろう?」
ママはカウンターから身体を乗り出して、妹に話しかける。
「…そりゃあそうだけどさ」
唇を尖らせる。
「だいたいそんな、街で見かけたなら、当人に話しかければいいでしょうに?」
「…それができたら苦労はしないのよ!」
案外シャイな妹に、夢路ママはふう、と息をつく。
「お前の好きなのは、もう一方のギタリストじゃあなかったのかい?」
「それはそうだって言ってるでしょ、兄貴」
ぐい、と「兄貴」は妹の頬を軽くつねる。営業時間中には、それは禁句なのだ。
「だから、せめて他のメンバーとお知り合いになれれば、そこから、って思えるじゃない」
ママは黙って首を横に振る。
「無駄だろうね」
「何が無駄だって言うのよ」
「そんな風にして、近づいたファンって奴をほいほい相手にするようなひとなのかい? お前の大好きなギタリストさんは」
「…」
トキは詰まる。そう言われてしまっては、元も子もない。
「でも」
「でも何だい?」
黙ってトキは立ち上がる。
「帰る」
「そうかい。気を付けてお帰りよ」
それには妹は答えなかった。ただ、少しばかり強く扉を閉める音が響いた。
「…僕、少し冷たすぎたかなあ」
DBは顔を上げる。聞いていない振りをしつつも、このきょうだいの会話は彼の耳に入っていた。
「いいや、あの子にはあのくらいでいいのよ」
「ふうん、DBちゃんのいいひとは、バンドのギタリストだったのかあ」
へえ、とたまきさんの客の一人が興味深そうに眺める。
「さぞ格好いいだろうね。可愛らしい男の子を侍らせる格好いいギタリスト。うーん絵になるじゃないか」
「結構音楽業界ってさ、男だ女だどっちでもいいこと、ない?」
「まあ常識以上のことを求める世界だからねえ。だから常識でくくれない連中が出てくるのさ」
客はははは、と笑った。
DBはそんな彼らの会話には何も言わず、首を傾け、微かに笑った。
確かに、そろそろ潮時なのかもしれない。彼は思った。
そもそもは、家からの捜索をくらますために、この職にはついたのだ。さほどに身元を詳しく問われる訳でもない。大切なのは、日々の仕事と、それに従事する自分の態度だけだ。
離れてみると、自分があの家で、何が苦しかったのか、よく見えてくる。
*
あの日、「父親」が亡くなってからというもの、彼の周りには急に人が増えた。それまでは家の敷地の片隅で一人で気楽に過ごしてきたというのに。
そんな「妾宅」のなれの果ての場所に住まわされている子供など、見向きもしなかった大人達が、いきなり彼を構いだした。その豹変ぶりに、彼はまず戸惑った。
そして「兄」の態度も。
それまでは、たまに彼の離れにやってくるだけだったのに、急に彼を連れ出すようになった。例えば傘下の会社、例えば様々な催し。
これからこんな機会がどんどん増えるから、慣れるように、と「兄」は言った。冷静に、ひどく当たり前のことのように。彼はその言いつけには従った。そこで言われるようにできなかったら、それはそれで、困ることになるだろう、そんな予感がしていたのだ。
だが。
「一朗さんは何故、あれに最近目をかけるようになりました?」
そんな声が、聞こえた。
広い庭である。たまたま、「父親」の仏壇に飾る花を探しにきた時だった。「父親」の姉の声だ。
誰と話しているのだろう、と彼は立ち止まり、気配を消して耳を澄ます。すっかり、そんなことが得意になってしまっていた。
「当然でしょう。世の中にたった一人の血を分けた兄弟だ。私がそうしなくて誰がそうしますか」
「それにしても最近のあなたのご様子ときたら」
責める様な口調で、だがそこまでで彼女は言葉を濁す。
「伯母様」
「兄」は、そんな彼女に短く、しかし厳しい口調で切り返す。
「現在のこの家の当主は私です。たとえ伯母様といえども、私の決めたことには従っていただきたい」
彼女は黙った。薄い口元はぴくりとも動かない。まっすぐに「兄」を見据えるその視線も微動だにしない。
「ようございます」
そして唐突に、その言葉は飛び出した。一体いつ。彼は息を呑む。
「ご当主のお好きな様になさいませ。確かに私ごときが口を出す所存ではございません。しかし」
「しかし。何でございましょう、伯母様」
「同じ畑に植え替えられたとは言え、元は違う苗。種類が同じとて、上手く根付くとは限りません」
「それは、あれが決して私にとって訳に立つ存在になるとは思えない、ということですか」
「私はただ、そういうことはある、と申し上げているだけです」
ちら、とその視線が動く。彼はびく、と身体を震わせた。気付いているのだろうか。気付いているのかもしれない。心臓の鼓動が激しくなり、耳にうるさく感じられる。
「そうですか」
「兄」はそう言って、その場から立ち去った。だが彼は、なかなか足が動かない自分を感じていた。下手に今動いたら、持っていた花を落としてしまう程、震えが全身に広がるような気がしていた。今は。今だけは。
しかしその緊張は、意外な方向から破られることになった。
「大介」
は、と彼は身体を固くした。彼女だ。彼女はそのまま、音も立てずに、縁側から降りてきた。
彼は当初、彼女の口から出たその言葉が、自分の名前であるということをなかなか認識できなかった。彼女がその言葉を口にするのは、初めてだった。
少なくとも、自分に向かって発せられたことはなかった。
「居るのでしょう? 出ていらっしゃい」
静かな声だった。だがそれは、彼に逆らうことを許さないものだった。彼はゆっくりと立ち上がった。
「綺麗な花」
「…あの、お供えしようと思って…」
語尾が震えるのが、判る。ただ立っているだけなのに、ひどく、怖い。
「そう、それは良かった」
一体何を。そう思いながらも彼はその場から動くことができなかった。その一方、彼女は一歩一歩と近づいてくる。
「今のお話を聞いていたのでしょう?」
「…は、はい」
「あなたは、どう思いまして?」
「どう…」
「ご自分が、この家に合った人間であるのか、ということですよ」
静かな口調のまま、それでもきっぱりと彼女は言った。問いかけの形を取っているが、そうではない。
彼女はこう言っているのだ。
お前はこの家にはふさわしい者ではない。
彼は微かに目を細めた。ああやはりこのひとは、気付いている。
そして、それが自分の希望であることも。
「…いいえ」
「そうですね」
そうですか、ではなく、そうですね、と彼女は口にした。お前もそう思っているのですね、と。
「なら、自分のすべきことをなさい」
はっ、と彼は顔を上げた。静かな顔が、やはりそこにはあった。
「一朗さんは、あなたに夢を見すぎている。度を過ぎた期待はお互いのためになりません」
「…僕も、そう思います」
「では、そうしなさい」
抑揚の乏しい声は、そう彼に命じた。そして声の主は、すう、と吸い込まれる様に家の中へと消えていった。
そうしなさい、と彼女は言った。
そうしなさい。この家にふさわしいものではない自分は、ここに居るべきではないのだ。それが自分には似合っているのだ。
そうだ、と彼は思った。もう既に、中学を卒業し、高校ももうじき終わる。
あの時。母親とその母親に捨てられた時の様な、子供ではないのだ。
「父親」の姉の言葉は、もしかしたら、単に妾腹の彼を嫌いだから発されただけなのかもしれない。その可能性は高い。
彼女と彼は、この家でそれまで、一度たりとも直接言葉を交わしたことはなかったのだ。顔を合わせることもなかった。避けていた、と言ってもいい。
なのに。
出ていかなくてはならないのか、という気持ちが起こると同時に、出て行ってもいいのか、という気持ちが沸き上がる。彼女の行動は簡単で、そしてひどく正しい、と彼は思った。
血がつながっているからと言って、強いられる必要はないのだ。育てられたからと言って、義務のように従う必要はないのだ。
ただ、その後の始末は自分でつけろ、と。
さあっ、と自分の中に風が吹き込んでくるような気がした。
それからもやはり、彼女と顔を合わせることは無かった。「兄」は自分を連れ回し、これでもかとばかりに自分の住むべき世界を見せつける。
広い車内の、斜め前に掛けた「兄」は、行く先々の資料を彼に見せて、その移動時の短い時間に頭に入れておくように、と言う。彼は必死で覚える。必死だ。必死なのだ。だが「兄」はそれを当然のことのようにふるまう。実際、「兄」は彼と同じ歳の時、「父親」に連れられて、同じことをしていたらしい。それももっと、易々と。
息切れがする。
夜中に目が覚める。すると「父親」の記憶が奇妙に闇の中に浮かび上がる。
お前は母親に良く似ているな。
そう言って、「父親」はやはりよく、彼の髪をかき回したものだった。
懐かしそうに、そんな仕草をした。
そんな記憶が浮かび上がるごとに、彼はふと、こう思うようになっていた。
もしかしたら。
もしかしたら、「父親」は、わざと愛人を――― 彼の母親を、この「妾宅」な離れに呼び寄せなかったのではないか、と。
既にこの家の正妻は居なかったはずである。あの「父親」の姉は、おそらくこの当主の言葉には逆らわないだろう。細い眉をほんの1㎜寄せることがあったとしても、あのひとは、当主の決めたことそのものには逆らうことはないのだ。
だとしたら。「父親」は、この家に彼の母親が住むことは、決して彼女のためにならない、と思っていたのではなかろうか。
物心ついてから捨てられるまでのわずかな時間、それでも彼は、母親とその母親の記憶に関しては、暖かなものを感じていた。捨てられたことを知っているのに、それでも二人に対して恨みごとの一つも言えない自分を知っている。それでも確実に、あの二人は自分を守ってくれていた。それは彼にとって確信だった。
そんなある日のことだった。
学校からの帰り道は、その頃の彼の僅かな自由の時間だった。決して学校は家から遠すぎはしない。バスで停留所数ヶ所、というところである。
送り迎えをする、という「兄」の申し出を、それは彼はもさりげなく断っていた。「兄」もそれに関しては強く自分の考えを押し進めはしなかった。まあ実際「兄」も、たかが公立の学校に送り迎えなど、恥ずかしい真似だ、と思ったのだろう。彼の自由時間はそうやって確保された。
その帰り道、家の少し前で、彼は呼び止められた。
「…大介君かな?」
突然名前を呼ばれ、ええ、と答えたかはい、と答えたか、彼には記憶がない。ただその時、彼の頭はめまぐるしい程のスピードで、その相手の素性を記憶の中から取り出そうとしていた。
このひとは確か。
「父親」の葬儀の時に見かけた。
「覚えているかな。私はこの家の顧問弁護士の鳥留というんだが」
とりとめさん、と彼は繰り返した。何となく座りの悪い名だ、と思う。
「今学校の帰りかい?」
「ええ」
今度はそう答えながらうなづいていた。
「そう、それは良かった」
鳥留氏はそう言いながら、にこやかに笑った。整えられた髪は、良い具合に黒と白が入り交じって、ロマンスグレイというものだろうか。口元の笑みが、古い洋画の主演男優を思わせる。
何が「良い」のか判らなかったが、ともかく中に用事があるようだったので、彼はそのまま弁護士を中に招き入れた。
それから、というもの、彼は時々家の敷地内でこの弁護士を見かけるようになっていた。いつもこんな風に来る人だったろうか、と疑問には思うのだが、顧問弁護士なのだから、良く来たとしてもまあおかしくはない。
もしかしたら、単に彼の視界に入っていなかっただけかもしれない。彼は「父親」の死まで、自分のテリトリーである離れの周囲以外、そう出ることがなかった。確かにそちらにはこの弁護士氏は関係がなかったろう。
ただ、その氏が、やがて彼の離れにまで近づいて来た時には、妙な感じがした。
鳥留氏はずいぶんと彼に対して愛想が良かった。
土曜日の午後などに唐突にやってきては、縁側に腰掛け、庭の風情がいい、などとのんびりと感想を述べる。
まるで彼の居る時を狙っているかのように。
「父親」よりは若い―――だが、自分の父親と言ってもいいような年齢のこの男に、次第に彼は気を許していた。
そしてある日、問いかけた。
「鳥留さん」
何だい、と弁護士氏は振り向いた。いつもの様に、二人して縁側で並んでぼんやりと庭を観賞していた。端から見れば奇妙な光景かもしれない。土曜の午後に、いい若い者が、父親くらいの年齢の男と、縁側で茶でも飲みながら話をしている。
静かな、庭だった。「離れ」というだけあって、人の気配もしない。
「一つお聞きしたいことがあるんですが」
そう口にしながら、彼の心臓は次第に鼓動を早めつつあった。静まれ、と彼は自分自身に命ずる。だが気持ちの冷静さに比べ、身体は正直だった。
「私に答えられることなら何でも」
「…権利の放棄、ってどうすればいいんですか?」
君、と鳥留氏は弾かれた様に彼の方を向いた。
「…ふざけるのは止したまえ、大介君」
「ふざけている、とお思いですか?」
彼はまっすぐ、弁護士氏の方を向いた。ううむ、と相手は眉を軽く寄せた。
「無論、方法を知らない訳ではないが、そういうことは、軽々しく言うものではないよ」
初めから馬鹿なことを、と言わないあたり、このひとには脈がある。彼はそう感じていた。
「僕は」
彼は年長者の意見を受け流し、口を開く。心臓の鼓動はどんどん早く、大きくなっていく。大事なことだ。これは自分にとって、大切なことなのだ。
どうしても答えが欲しい、大事なことなのだ。
「兄は… あのひとは、僕を自分の片腕にしようと思っているのでしょうか」
「当然それは考えられるね。何しろ現在、あの一朗君にとって、最も近しい肉親は君だけなのだから。たとえ母親が異なったとしても、同じ父親の血を引くものとしてね」
「そうかもしれません。でも」
一度彼は、そこで言葉を切る。
「僕と彼は、違うんです」
「そりゃあ、人間皆違う」
「しかしあのひとは、自分と僕を混同しています。僕はあのひとのように、あの会社や…そういった中で、上に立つ人間としてやっていく才能は無いです」
「自分でそうやって言い切ってしまうのかい?」
「はい」
「それは逃げじゃないのかい?」
彼は一瞬詰まる。だがそこで踏みとどまらなくてはならないのだ。
「…鳥留さんは、どうして弁護士になろうと思いましたか?」
質問をした側は、苦笑する。された側は、何をいきなり、と目を大きく広げる。そしてあの感じのいい口元だけの笑みを浮かべた。
「さあ、もう遠い昔のことだから忘れたよ」
「でも、自分がやったから、できたから、ってきょうだいにまで、同じ職業を選べ、とは言わなかったんではないですか?」
「…私には、きょうだいは無いんだよ、大介君」
ははは、と鳥留氏は笑った。彼はあ、と言って口を押さえる。決めつけているのは自分も同じじゃないか。
「いや、でもまあ、君の言いたいことは判るよ。そう、きょうだいは居ない。だが娘と息子が一人ずつ居る。確かに、どちらも弁護士どころか、文系とは縁の無いことをしているな」
その言葉を聞いて、彼は少しだけほっとする。
「だがそれは、二人とも、その分野にしたいことがあったからだ。私がそれならあれこれ口出すことでもないだろう。だが君は、何かその、会社に関わるのが嫌だというのなら、他にしたいことがあるのかい?」
彼は詰まった。つまりはそれが自分のネックなのだ。
人にこうと主張できる程の強い肯定的な「何か」が無い。「嫌だから」という消極的な理由だけでは、あまりにも理由としては弱すぎるのだ。たとえそれが、自分にとって最も大きな理由であったとしても!
だから彼はいいえ、と答えた。
「だったら、もう少し続けてみたまえ。その中で、自分に向いたものがあるのかもしれない」
あるのだろうか。ぽん、と置かれた鳥留氏の手は大きくて暖かい。少しはそれを信じてみてもいいのかもしれない、と彼は思った。
だが。
「どういうつもりだ?」
あああの目だ、と彼は思った。頬が痛い。どうして自分が床に転がっているのか、彼にはすぐには理解できなかった。
ああそうだ、自分は「兄」に殴られたのだ。
その勢いが強すぎて、大したウエートもない自分は吹っ飛ばされてしまったのだ。
「…何の、ことですか?」
「空とぼけるんじゃない」
彼は床でこすれた頬を撫でる。擦り傷までは行っていないが、それでもひりひりと痛む。
「お前、鳥留に何を言った」
「何を、とは」
「権利を放棄したい、と言ったそうだな」
鳥留氏が言ったのだろうか。彼は考える。いや、どうだろう。
「鳥留さんが… 言われたのですか?」
「そんなことはどうでもいいだろう」
なるほど。彼は奇妙に冷静な頭で納得した。鳥留氏が言った訳ではない。おそらく、この家の中の誰かが、自分達の会話を聞いていたのだ。
それが誰であるかはどうでもいいことだ。問題は、誰かしらが自分達の会話が聞こえる所に居た、ということだ。
「冗談にしても程がある」
「兄」は吐き捨てる様に言った。
「…冗談ではないです」
彼はぼそ、と言った。だがその言葉は果たして届いたのかどうか。
「今度そんなことを口にしてみろ。お前を今の学校から転校させる」
そんな無茶な、と彼は思った。既に三年も半分まで行ったというのに。そんな時期に転校する馬鹿も転校させる馬鹿もいないだろう。
だがそんなことが、きっとできるのだ。出来なければこの男はそれを口にはしないだろう。
わかりました、と彼は乾いた声で答えた。判ったならいい、と「兄」は言った。
「今日のうちに、身の回りの荷物をまとめておけ。明日から、離れではなく、お前は本宅の方に移れ」
はい、と彼は答えた。そしてその晩、彼は身の回りの荷物をまとめた。
だがそれは、本宅に移るためではなかった。




