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11 一緒にいたい理由とは

「あれ、今日はスタジオ行かなくてもいいの?」


 目をこすりながら、DBは問いかけた。P子さんもそう前に起きたのではないらしく、むき出しの足のまま、新聞を読んでいた。


「そりゃあ毎日毎日行ったって仕方ないでしょう」

「そういうものなの?」

「ワタシの録りはもうたいがい終わってますからね。後はまあ、リーダー殿がいきなり呼びつけたらそれに応じるのみってとこでしょうな」

「ふうん。そういうものなの」


 先ほどとは違うイントネーションで同じ言葉を彼はつぶやいた。


「…でもじゃあ、何か、久しぶりに、あなたと一緒に居られるんだ」

「…そう言えば、そうですね」


 がさがさ、とP子さんは新聞を畳む。読みますか? と問いかける。彼はううん、と手を振る。


「ねえ知ってた? 今日は僕も休みなんだけど」


 ん? とP子さんは新聞の日付を見る。ああ、とうなづく。曜日は確かにDBの休暇を示していた。ふらり、と彼女はそのまま窓の外に視線を移した。


「いい天気ですね」


 既に時計は昼近くを示していたが。


「暑くなりそうだね」


 のそのそ、と彼もまたベッドから降りてくる。


「ごはんでも食べに行きましょうか」

「朝? 昼? それとも夜になってから?」

「何でしたっけ、朝と昼のごちゃまぜになった」

「ああ、ブランチ」

「そうそのブランチ」


 いいね、と彼は笑った。



 考えてみれば、こんな風に昼間に外を二人で歩くなどということは一度も無かった気がする。

 よく晴れた――― 晴れすぎだ。案の定、夜型の二人はすぐにばてた。何処に行くとも決めてなかったから、ともかく都心に出てみようか、ということにした。せっかくのお休みなのだから、と。

 しかし「お休みだから」で人の集まる所へ出るという発想は無かったはずだった。どちらにせよ。

 どういうことだろうか、とDBは考える。二人で居るからだろうか。がたんがたんと揺れる車内。時々帰りなのか途中で抜けてきた女子高生が、P子さんの真っ赤な髪を見て、何やらこそこそと囁いている。確かにこれは目立つ。

 それだけに、逆に人混みの中に行ってしまうのはありかもしれない、とDBは思う。紛れてしまえ、と。


「終点だけど」

「そうですねえ」


 ううむ、とP子さんは入り口上に貼られた都内路線図を見上げる。


「…確か今日は」

「ん?」


 終点で、山手線に乗り換え。P子さんはこっち、と彼の手を引っ張った。珍しいことに、一瞬DBの心臓が飛び跳ねた。指先だけが、異様に堅い手。

 そのまま、山手線から総武線に乗り換えて、水道橋で降りる。そこには大きな卵があった。


「ここ?」

「確か今日は、こっちで試合があったはずなんですよね」


 東京ドーム。行き慣れているのだろうか、彼女にしては実に珍しい程すたすたと歩いていく。DBはその後を急ぎ足でついていく。


「…P子さん、足速い」

「え? そうですか?」


 よほど好きなんだなあ、と彼は思う。下手するとギターを弾きに行く時より速いのではないだろうか。

 さくさくと彼女はチケット売場へと向かう。二枚購入すると、一枚を彼に渡した。


「外野自由席しか無かったですけどね。まあ仕方ないですか」

「遠いね。いいの?」

「まああれは、見ようと思って見るもんじゃないですよ」


 P子さんはそう言って、笑った。


「見ようと思って見るものじゃない?」

「まあ行けば判りますよ」


 そういうものだろうか、と彼は思う。


 それから二人で、近くの蕎麦屋に入った。冷房が効きすぎていたので、結局熱い天ぷらそばをすすることになってしまった。


「そう言えばP子さん、身体の方は大丈夫?」

「え」


 一瞬、彼女の箸が止まる。あれ、とDBは少しだけ不思議に思う。


「…まあ、前よりはましですよ。うん。ほら今日はちゃんとこうゆうものも食べられるし」


 衣がぴっと立っている大きなえび天。ごぼうと人参の野菜天。のり天はつやつやと蛍光灯の光を反射している。目線の上にあるTVでは、NHKの連続TV小説の再放送を流している。すいませんお茶のお代わり下さい、とP子さんは通りかかった店員に声をかける。


「これからどうしようかな」


 DBは何気なくつぶやく。


「どうしましょうかね」


 P子さんも首をかしげる。結局、普段こうやって出る習性が無いから、何処へどう行っていいのか二人とも判らないのだ。

 ドームの開場時刻まではまだしばらくある。


「外ぶらついても暑いだけですからねえ…」


 もっともである。東京の夏は暑い。年々暑くなっている。そんな中、昼間にただぶらぶらとするというのは、結構に体力を使う。夜に遊ぼうと思ったら、そんなことで無駄に体力を消耗するのは、賢い方法ではない。

 だけどまあ。


「まあ別に、涼しいとこをあちこちぶらついて、時々茶でもしてれば、時間が適当に過ぎてくんじゃないですかね?」

「そうだよね」


 要は、二人でぶらぶらとできればそれで良かったのだ。初心忘れるべからず。



 しばらくあちこちの「涼しい所」を二人して渡り歩いた。店の中やデパート、地下鉄だけではない。区民センターや区役所、図書館といったところも「涼しいところ」には違いなかった。

 備え付けのソファに並んで座っては、しばらくだらだらとやって来る人々の姿を眺めている。自分たちをちら、と見てはまた目をそらすその人々を見ながら、P子さんはつぶやいた。


「別に髪の色くらい、誰でも変えますよねえ」


 確かに、とDBは思う。ただ真っ赤にする人はそういないというだけで。

 十年くらい前までは、ちょっと色を抜いただけで大騒ぎされたというのに、今ではまあそれもありだな、と思う人が増えて。それでも唐辛子の様な真っ赤は滅多にないから。

 区役所から税務署、図書館を過ぎてしばらく坂をだらだら歩くと、妙に緑が多い場所に出た。


「こういうとこもあるんだ…」

「ああ、赤門が近いですからね」

「赤門?」

「東大の正門。知らないですか?」

「それはもちろん、東大は知ってるけど… こんな緑が多いんだ」

「都内ったって、結構自然はあるんですよ。特に学校だの公園だのっていうのは、何かと」

「P子さんの学校もそうだった?」

「んー… どうだったでしょうねえ。ワタシそーんなに学校の記憶って無いですから」

「そう?」

「そ」


 P子さんはそれ以上は言わなかった。別に言っても構わないことではあったかもしれない。ただ言う必要も無いと思ったのかもしれない。


「僕の通ってた学校は、逆に緑とかって無かったな」

「そうですか?」

「うん。開発地域みたいなとこで。味気なかったなあ」

「それでもちゃんと学校には行ったんでしょう? ならまあいいじゃないですか」

「そうかもね」


 DBはうなづいた。そう。確かに行ったことが無いよりはずいぶんとましだ。少なくとも彼の記憶の中、学校とそれにまつわる出来事が自分自身を傷つけたことはない。


「P子さんはちゃんと学校には行きたかったの?」

「さあどうでしょう。今となっては判らないですね」

「判らない?」

「行ってたら、今のようにギターだけ弾いて、まあ時々つまらない取材とかもありますがね、そうゆう好きなことでやっていけるひとになっていれたかどうかは判らないでしょう?」

「そう言えばそうだね」


 学校へ行かなかった彼女だったからこそ。


「まあワタシの場合は、あまり身体丈夫じゃなかったこともありますしね。ある日いきなり、面倒になってしまったんですよ。全部」

「全部?」


 全部とはただごとじゃない。


「でもまあその時には、それがどういう気持ちなのか、うまく自分にも説明できなかったですからね。ただもう全てが面倒だったから、学校にも行かずに、だらだらと、毎日過ごしてただけ、なのかもしれませんがね」

「後悔してる?」

「やってしまったことですよ」


 今更言ったところで、どうにもならない。そんな意味がこもっているように彼には思えた。


「それよりまた移動しましょうか。いい加減喉も乾いたし」

「あ、そうだね」



「あのですねえ」

「はい?」


 DBは差し向かいの席で、砂糖とクリームを入れたコーヒーをかき回す。このショップオリジナルの紙コップはひどくデザインが派手だ、と何となく彼は思う。


「…ああ、何でもないです」


 黙って首を傾げる。もう何度目だろう。

 あちこちで、座れる場所に来て落ち着くと、何かをP子さんは言いたそうにしている。話を切り出そうとしている。だがそれをこうやって必ず止めてしまう。


「何か、僕に言いたいことがあるんじゃないの?」

「あることはあるんですが、いまいちどう言っていいのか、判らないんですよ」


 そうやって言うあたりがP子さんなのだが。ふうん、とDBはうなづく。P子さんの前には、コーヒーショップなのに、リーフティのミルク入りが置かれている。


「前から、紅茶好きだったっけ?」

「ちょっとコーヒーが最近いまいちで」

「やっぱりまだ、身体の調子良くないんじゃない?」

「まあ本調子ではないですがね」


 そのことで、何か判ったことがあるのだろうか。疑問には思うのだが、突っ込んでまで、聞けない。このひとのことだから、そう聞いても、はぐらかすか、言える本当のことしか言わないだろう。



 そして夕方が来たら、東京ドームの外野席で、ビールとつまみと弁当を適当につまみながら、ゲームを観戦した。

 確かにこれは「見る」ものじゃないなあ、と点のようにしか見えない選手が動くのをDBは確認した。



 何だろうなあ。


 P子さんは思う。

 夜明け前に、目が覚めてしまった。

 開け放した窓から入ってくる空気が涼しい。露をはらんだ、あの特有のにおいが漂ってくる。

 別に悪い夢を見た訳でもない。なのにふと目が覚めてしまった。彼女にしては珍しいことだった。

 横ではDBが気持ちよさそうに寝息を立てている。何かする訳でなくても、二人でくっついて眠るのはは好きだった。落ち着ける。


 

 あれから試合終了まで、二人でドームの外野席に居た。「ビール・ウーロン茶・おつまみいかがっすかぁ」と回ってくるバイト君からビール二杯とウーロン茶一杯を買って、売店で買い込んだたこ焼きや名物の弁当をつついていた。

 確かに外野自由席では「見る」ことに力点など置けない。見ようと思ったら、それこそバードウォッチング用の双眼鏡が必要だろう。周囲では鳴り物入りの応援団がこれでもかとばかりに音と声を鳴らしている。

 なるほどね、とたこ焼きを口に運びながら、DBはその様子に目を見張っていた。でしょう、とP子さんは少しだけ笑った。


「いつもこうゆう席で見るの?」

「色々ですよね」


 選手が見たかったなら、だいたいTVで見たほうがクローズアップされることが多い。日本で一番TV中継の多い球団なのだ。ニュースだって、とある放送局はこれでもかとばかりにその球団のことばかりを流す。


「あれはですねえ、そもそもその局と球団がまあグループのようなものだからですよ」


 P子さんは以前TVを見ながら首をひねっていたDBにそう説明したことがある。

 別段P子さんとて、球団の歴史を紐解いた訳ではないが、放っておいてもその程度の知識は好きなら入ってくる。DBはふうん、と感心したようにその時はうなづいていた。


「そうですね、まあできれば内野自由席で見たいですけど、そうそうこの球団の場合、いきなりは無理だし」

「ふうん。他だったらいいんだ」

「パ・リーグとかの試合でしたらね、同じこのドーム使っていても、結構空いてるもんですよ」

「そういうもの? うちに来るお客さんは、結構パ・リーグのファンも多いんだけど」

「だからそれがマスコミの力、なんじゃないですかね。何だかんだ言っても、毎日毎日ナイトゲームの中継をゴールデンタイムに流して、三十分までは延長して時間のずれこみもオッケーにしまうような球団ってのは、絶対目に触れるじゃないですか。土曜日にはこれでもかとばかりに選手一人一人ピックアップして面白おかしく紹介しているし」

「うん、確かに、この僕だって、何人か選手の名前覚えてしまってるもんね」


 DBはうなづく。


「そう言えば、あの球団の選手たちって、皆TV慣れしてるもんね」

「そうですよね。ところが他の球団は、確かに夜や朝のニュースのスポーツコーナーでは試合の様子とか流しますけどね、とにかく何だかんだ言っても、量がケタ違いなんですよ。そうすると、親しみの度合いが違う。知ってる選手が活躍すると嬉しい、ってことあるじゃないですか」

「確かにね。うん、この間、たまたまパ・リーグのデイゲームをNHKで流していたけど、あの時間に流すんじゃ、よっぽど好きな人じゃないと見ないなあ、と思ったもん。それでも流さないよりはずっといいんだけど。試合自体は面白かったし」

「そんなことあったんですか」


 P子さんはやや驚いた。


「まあ昼間は暇なことが多いし。うんでも、この間の休みの日だよ。P子さんちょうど何か知らないけれど、遅かったじゃない」


 それは、と彼女は黙ってビールに口をつける。あの日だ。ヒサカに紹介された病院に行ってきた日。結構あれは時間を食った。戻ってきて、テアとファヴを見送った後も、多少リーダーやマヴォと話をしていたのだ。

 ファヴはその時には何かしらのショックを受けていたようだが、翌日からはまた何事も無かったように、レコーディング作業に戻っていた。見事なものだ、とP子さんは思った。テアが何かしらの形で慰めたのだろう、とは思うのだが、そのあたりを聞くことはためらわれた。それは自分が口を出すべき範疇のことではないのだ。


「で、野球、好きになったんですか?」

「知らなかった頃よりは」

「なら、いいですけど」


 結局、お目当てのチームは負けたので、さっさと席を立った。

 勝った方のヒーローインタビューが行われていたようだが、負けた方には用は無い。

 基本的にその負けたチームのホームグラウンドであるので、客もそのファンが大半だ。同じことを考える者も多いらしく、人の波にもまれるようにしながら、二人は外に出た。

 観戦しながら何かと食べたり飲んだりしていたので、それからまたわざわざ何処かへ行こう、という気は起こらなかった。


「さすがに昼間ずっと外に居たから、疲れちゃった」


 地下鉄の駅へと向かいながら、彼は何気なく言った。そうですね、とP子さんは答えた。とてもそんな風には見えなかった。疲れているのは自分のほうなのだ。彼女は彼の頭を軽く抱きかかえた。ちら、と通り過ぎていくOLらしい女性が、びっくりしたように二人の姿を眺めていった。

 列車の込み合いを避けながら、だらだらと帰った頃には、ちょうど見たばかりの試合の結果をニュースでやっていた。

 冷たい麦茶を口にしながら、DBは生で見た試合をTVで改めて見るのが珍しいらしく、へえとかはあ、とか声を漏らしていた。


「でもたまにはいいね。誰がどうとか判らないけれど、周りの音とか、何かお祭りみたいで」

「そうですね。何かああいう応援はけしからん、とか言う人も居るらしいですが、ワタシは好きですよ」

「そう? 結構P子さんあんだけ騒々しいと嫌なんじゃないか、と思ったけど」


 彼女は首を横に振った。


「ワタシはあれはお祭りだ、と考えてますからね。あれで憂さが晴らせればいいんじゃないですか?」

「ふーん。お祭りかあ。ねえ、バンドのライヴもそういうとこってない?」

「ライヴが?」

「うん。うちの店のママの妹が、…PH7のファンだって言うんだけど」

「おやまあ」


 それはそれは、とP子さんは肩をすくめた。


「ん、大丈夫。あなたのことは気付かれないようにしてるから」

「そのほうがいいですね」


 自分のためにも、彼のためにも。


「で、その子はまあ、PH7だけでなくて、いろんなバンドのライヴにも行ってるって言うんだけど、それってやっぱり普段の学校とかでつまらなかったことがあっても、そこで忘れられる、とか言うんだよね」

「それが『お祭り』?」

「うん、僕はそう思ったけれど」

「それはありますねえ。ワタシはあまりそういう意識はないですが、ヒサカはそういうこと考えてるようですよ」

「あなたのとこのリーダーが?」

「あいつは曲書いたり演奏する時のアタマと、そういうこと考えるアタマと、二つ持ってるんじゃないかとワタシは思うんですがね。そう、できればTV露出は多いほうがいい、とも言ってますね」

「TV、出るの?」


 DBは目を丸くする。


「機会があれば、出られるだけ出よう、ってあれは言ってますがね。ワタシは面倒くさいの一言に尽きると思いますがね、でもまあそのくらいは『お仕事』ってことで…」


 それでも毎日毎日決まった時間に会社に行くOLちゃん達よりはましだ、と彼女は思う。


「でもそうしたら、全国的にあなたの顔が知れてしまうよね」

「今だって一応全国誌に顔は出てるんですよ? それでこの程度なんだから、別に変わりゃしませんよ」


 ぽん、とP子さんはDBの肩を叩いた。

 だけどDBは知っている。TVというものは、雑誌のように、それを読む人が自主的に動かない限り中身が判らないものと違って、一方的に、その前に居る人々に情報を送り出すものなのだ。

 別に見る気のないものであったとしても、たまたまその時間にTVの前に居たら、その情報を受け取ろうという意志が無かったとしても、音の一部分、バンドの名前くらいは頭に刷り込まれてしまうのだ。自分がいつの間にか野球選手を覚えてしまったように。

 P子さんもそれを全く考えていない訳ではない。だが今はそう懸念することはない、と思っていた。


「でもそうなったとして、人気が出たら、僕はここに居てはいけないかもね」

「は?」


 思わずP子さんは問い返していた。気付かないうちに、眉根が寄せられていた。


「何言ってるんですか」

「だって僕は、やっぱりこうゆう商売やっている訳だし。『人気バンドのギタリストの同居人はゲイバーづとめ』とか言われたら」

「だったら辞めればいいでしょう。アナタだっていつかは昼間の仕事につこうとは思ってるんでしょう? それは理由になりませんよ」

「だけど」

「だいたいウチのバンドがそんなことで傷つけられなくちゃならない程売れるってまだ決まった訳じゃあないでしょう」


 リーダーはそのくらい売れるようにしよう、と思っているだろうが。


「でも」

「ワタシはアナタに居て欲しいですよ」

「そうなの?」

「そうですよ」

「何で?」

「何でって」


 P子さんは詰まった。だが答えはたぶん、一つしかない。


「好きですし」

「本当?」


 彼は問い返した。その目には、やや不安げなゆらめきがあった。P子さんはうなづいた。


「そうたぶん」


 DBは何も言わずに、向き合う彼女の首に腕を伸ばした。


「僕もあなたが好きなんだ。とっても」

「そうなんですか?」

「そうたぶん」


 同じ言葉を返す。


「あなたと居ると、僕は別に皆が僕に期待したような、そんな姿でなくっていいって感じがしたんだ」

「そうなんですか?」

「うん」


 それがどういう意味なのか、P子さんには本当に意味は判らない。

 ただ彼が言う言葉そのものは、本当のことに、感じられる。


「ワタシには、アナタは、現実だったから」

「?」


 さすがにそれは言葉が足りない。


「アナタがこうやって触れてくるのは、間違いがない、今ここでワタシに対して起こっている、現実だ、って感じられるんですよ」


 そんなこと、今までほとんどなかった。―――ギターを除いて。

 誰かと触れていることで、自分が今ここの、現実に居ることを思い出すのかもしれない。

 ただそうやって自分が触れてもいい、と思うことができる相手というのは滅多に居ないから。


「だからアナタが居ないと、ワタシはまた」


 知らなかった頃に戻るのは嫌だ、と彼女は感じていた。

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