駆けよ三輪軽トラック~極東ロシアを踏破せよ!~
1937(昭和12)年2月。
大日本帝国陸軍はようやく国産初の軍用トラックである九四式六輪自動貨車の仮制式制定の上申に漕ぎ付けた。
だが、もう直近まで迫っているであろうソ連との戦争に対しては、更なる陸上輸送手段の整備は急務であった。
日露戦争の対砲迫戦で目の当たりにした幾十倍もの弾量差を埋めるには、砲兵部隊への途切れなく潤沢な弾薬補給が必要であることは明白なのだ。
しかし、これ以上の輸送能力の整備がどうやって可能であろうか?
鉄道輸送の拡充?―――確かにその鉄路が発揮する輸送能力は絶大である。しかし新たに満州で鉄路を敷設するとなればソ連を徒に刺激することになりかねない。
更なる新型トラックの開発製造?―――もちろん日進月歩の技術発達を利用したトラックの改良は必要だ。だがしかし、総数を増やすににも生産能力には限界がある。戦車や装甲車だって造らなければならない。
人馬による人海戦術輸送?―――馬鹿馬鹿しい、正面戦力を減らすのは最悪手だ。輜重車(軍用貨物馬車)に加えて民間から徴発したリアカーでも使うならまだ考え物だが輓馬にも限りがある。幾百kmもの道程を人力では無理―――、
そうだ、リアカーにエンジンを付けよう!ついでに前輪も付けて、三輪トラックをずっと簡略化したようなトラックだ!九四式六輪トラックの半分のタイヤで、半分の速度で、半分の積載量の軽便トラックを作ろう!
こうして誕生したのが『九七式三輪軽便自動貨車』である。
26インチホイールのリアカーをベースに設計された全長2.4m、全幅1.2m、自重180kgの小型な車両で、運転席はリアカーの梶棒部に吊り下げたハンモック式の座椅子となっており、ハンモックと前輪を取り払えば通常のリアカーとして人力でも運用可能な造りとなっていた。
駆動装置にはタカタモーター製作株式会社製の排気量0.3L、出力7馬力の二気筒エンジンを採用し、前進のみの三段変速後輪駆動。大八車へと逆行したかのように車軸で接続された後輪に差動歯車は装備せず、旋回時には内側の車輪のクラッチを切る事とされていた。
操向装置は梶棒部先端の真下に配置された18インチ径の前輪を、梶棒上のハンドルバーによって操作する形式だが、その出自は児童用の自転車だという。
そして肝心のトラックとしての性能であるが、最高速度は28km/h、積載量は550kg、武装した兵員であれば6名、傷病兵であれば3名の輸送が可能というまあまあ目論見通りの性能となった他、あまりも軽量なため荷台に水密を施せば水面に浮かべて舟艇の代わりとすることができ、その際にはスクリュープロペラを装備して300kgまでの貨物を8km/hの速度で輸送可能あった。
また元がリアカーであるから主な生産は町工場で十分であり、既存車両と生産能力を食い合わない事が上層部としては非常に好評であった。
こうして1937年9月、発案から僅か半年で九七式三輪軽便自動貨車は制式採用され、それまで輜重部隊で長らく使用されてきた三九式輜重車の更新も兼ねて大々的に配備される事となったのだ。
1938(昭和13)年7月29日。
九七式三輪軽便自動貨車に活躍の場が訪れた。
満州国東南端にある張鼓峰を巡って、ソ連国境警備隊との武力衝突が発生したのだ。
これ以前にも黒竜江での河川砲艦との戦闘等があったが、今回の武力衝突には一層の警戒が必要だった。
それというのも、一ヶ月前にソ連内務人民委員部の極東局長ゲンリフ・リュシコフが満州に亡命しており、またソ連国境警備隊がNKVDの所管であることから、NKVDが局長亡命の汚名を雪ぐべく国境警備隊へ以前以上の武力行動を取らせる可能性があったのだ。
ともかく、この戦いの中で九七式三輪軽便自動貨車、現場では九七式三輪軽トラックと略されたこの車両は当初の想定を超えた働きを見せた。
彼の地では南満州鉄道北鮮線の洪儀駅まで鉄道輸送された物資を最前線の張鼓峰と沙草峰に輸送する為に、その間に跨る豆満江を渡河する必要があったのが、この地理的要因ゆえに九七式三輪軽トラックが限定的ながら有する渡河能力が遺憾なく発揮されたのだ。
それというのも、渡河に艀舟を用いる場合では、渡河前にトラックから、渡河後にトラックへと貨物を載せ移さなければならないのだが、これが大変な労力と人手、そして時間を要するのだ。
これが為に、移載する必要の無い九七式三輪軽トラックは遅滞なく物資弾薬を前線へ輸送することができ、その結果として前線部隊は陣地に来襲するソ連軍を潤沢な火力を以て撃退し続けることに成功したのだ。
だが、この結果がソ連を刺激してしまったのか8月1日には航空部隊をも含む大部隊が来襲。
張鼓峰と沙草峰の二拠点を巡っての戦闘は取って取られてと次第に熾烈さを増していき、それに従ってかモスクワでの日ソ停戦交渉も実を結ぶことが出来ずに終わる日々が続いた。
結局この武力衝突、張鼓峰事件は11月に入って大陸特有の厳しい冬の訪れによって両軍の行動が制限される事によって一応の沈静化を見たのであった。
さて、張鼓峰事件で大活躍した九七式三輪軽便自動貨車であったが、当の輜重部隊や荷台に乗せられた歩兵から一つだけケチが付いた。
「「「ケツが痛い」」」
というのもこの九七式三輪軽トラック、元がリアカーと自転車であったからサスペンションの類が全く無く、九四式山砲などを積載する際には辺りから刈り取った高粱などを荷台に敷き詰めて緩衝材としなければ砲が破損する恐れさえあったのだ。
そのため、「周辺に十分な草が無ければ輸送能力が減じられるトラック?それでは輓馬と変わらないではないか!」というのが現場指揮官から陸軍上層部までの共通の認識となり、配備から僅か一年で九七式三輪軽トラックの改良型の開発が決定された。
とにかく今回の改良ではサスペンションを設ける事を第一として民間の三輪トラックを参考に、町工場でも扱えるバネとして後輪には板バネを用いた板バネ式、前輪には弦巻バネを用いた揺動アーム式が採用された。
また、タカタモーター製作株式会社からは改良案が2点、排気量を0.3Lから0.36Lにボアアップして出力を2馬力増の9馬力にした新型エンジン、登坂用の超低速ギアを加えた四段変速装置が提案され、これらも採用される事となった。
その結果、車体構造の重量増の為に積載量が地上500kg、水上250kgにまで減ったものの、サスペンションの採用とエンジン出力増大のために最高速度は地上35km/h、水上10km/hにまで向上したのであった。
この新型軽三輪トラックは新たに、『九八式三輪軽便自動貨車』として制式採用され、これまでの九七式は平行配備、もしくは余剰分を満州国陸軍に供与という事になった。
1939(昭和14年)年5月18日。
ユーラシア大陸の厳しい冬が終わり、春と共にまたしてもソ連の脅威が訪れていた。
満州国北西部のノモンハンでは満州軍とモンゴル軍との小競り合いが頻発。
当初は歩兵同士の撃ち合いであったのが、ある日に満州軍が九七式三輪軽トラックで運び込んだ九二式重機関銃でモンゴル軍を圧倒、その次の日にはモンゴル軍がイジョルスキー装甲車を持ち出して満州軍を圧倒するなどして日に日に程度が強くなってきていた。
さらに上空では日本陸軍航空隊とソ連空軍の戦闘機らによる空中戦も繰り広げられた。
そして今日、モンゴル軍とソ連軍が戦車60両を擁する大部隊でハルハ河の渡河を決行。
装甲車が精々だった満州軍と日本軍は九四式速射砲や四一式山砲を陣地に据えての防衛戦を行なったが、それでもハルハ河を続々と渡河してくるソ連軍増援の圧力には耐え切れず日に日に後退を強いられた。
これに対し日本は急遽、支那中部方面の中支那派遣軍から二個師団を後備の為にノモンハンに転用させる事とし、満州方面での戦況の推移によっては支那中部で予定されていた攻略作戦の延期も止む無しとされた。
こういったノモンハンでの厳しい戦局の中にあって、九八式三輪軽トラックは九七式三輪軽トラックと並んで活躍し、サスペンションの無い九七式が糧秣輸送に、サスペンションの有る九八式に兵員や火砲弾薬の輸送にと使い分けられながら、満州国有鉄道浜洲線ハイラル駅からの道程200kmにも及ぶ長大な補給路で活躍した。
またとある速射砲部隊では、後退の為に九四式速射砲を九八式軽トラックへ積載し、いざ移動を始めようとした時にソ連軍戦車2両の来襲を受けてしまったが、これを九八式軽トラックに積載されたままの九四式速射砲によって撃破に成功。九四式速射砲の反動を受けた九八式三輪軽トラックにも幸いにして損傷は無く、そのまま部隊は後退に成功した。
さらには歩兵部隊でも九八式三輪軽トラックに跨乗して機械化騎兵の真似事をして戦場での機動力の増強を図るなど、当初の軽便輸送を目的とは違った用法がされ始めてきた。
これについては陸軍上層部も、高価な九四式六輪トラックや九七式四輪トラックではなく、下町の自転車工場やリヤカー工場で安く大量に生産されている三輪軽トラックでなら多少の用法の逸脱は容認するとされ、それどころか逆に、九四式速射砲を車載しての戦闘事案に着目して、有力な砲を発砲可能な状態で車載することによって戦術的に高度な機動力を与えられる可能性の研究が始まった。
6月14日。
現場での奮戦もついに報われた。
ハルハ河から40kmも後退した末ではあったがソ連側の攻勢が止まったのだ。
航空隊の偵察によればソ連軍の輜重車両がハルハ河の渡河点を前に列をなして格好の爆撃目標になっているとの事で、補給線がハルハ河を境に途絶えがちになっているようだ。
さらに日本側には中支那派遣軍から転用した二個師団とさらに追加された一個師団からなる第二軍主力が到着し、着々と反攻作戦の準備が整い始めていた。
6月16日未明。
薄っすらと明るみ始めた東の空を背に、反攻作戦の火蓋が切られた。
九七式中戦車や九五式軽戦車を戦車部隊の主力とした総勢14万の兵員による一大攻勢が、補給もままならないソ連軍正面に激突したのだから、結果は火を見るよりも明らかであった。
ソ連軍は燃料にも逼迫していたのか、快速を武器としていたBT戦車の半数は壕に車体を据えてトーチカ代わりにされており、また肝心の火力の勢いさえも低調で、弾切れに及んで降伏するソ連軍部隊が続出した。
結局、この日の午前だけで5km近い前進に成功したが、午後に入ってからは陣地と5千を数える捕虜の整理に時間を取られてこれ以上の前進は成せなかった。
6月17日早朝。
それまでは殆ど空であった前線からハイラル駅への輜重車両の荷台が深緑色の軍服を着た兵士で埋まった。捕虜となったロシア軍兵士らである。
60両を超えるその車列を構成するのは殆どが九七式三輪軽トラックであり、一両当たり8人の捕虜を乗せているのが50台、予備車両を兼ねた糧秣輸送に3台、監督のための憲兵が乗る九八式三輪軽トラックが6台と九五式小型乗用車が2台という構成だ。
出発前には三輪軽トラックを興味深そうに観察し、荷台に積まれていた草藁を捨て除けて乗り込んだロシア兵捕虜であったが、自らの乗る九七式三輪軽トラックが発進すると同時に草藁の意味をケツで悟ったらしく、かつて自らもケツで体験した日本軍輜重兵や憲兵らの配慮によって草藁を回収に成功し、彼らはケツの安寧を得たのであった。
昼になると昼食として麦と蕎麦を菜葉と共に雑多に煮込んだ粥がソ連軍捕虜らに配給されたのだが、牛肉缶を入れても日本兵には不評だった献立であったはずの雑煮粥が、どういう訳かロシア軍捕虜にはやたらと好評であった。
ようやく午後の運行も日が暮れて、ノモンハンを出発してから12時間でようやくハイラル駅に到着した。
通常であれば少なからず出る故障による落伍車も、珍しく今回は出なかったのは僥倖であった。
それというのも、普段の物資輸送であれば落伍車が出ても腐らない糧秣を捨て置いて次の便に任せられるのだが、生身の人間、それも捕虜を荒野に放り出したとなれば国際世論が黙っちゃいないのだ。
こうであるからして監督を務めた憲兵隊長はホッと胸をなでおろす思いを抱えつつ、海外の新聞記者、アメリカのニューヨークタイムズ紙の記者の取材に答えるのであった。
そして記者の質問が戦況の話題から見慣れぬ三輪車両についての話題に移った。
「ところでフバタ憲兵隊長、日本陸軍が用いているあの小さな三輪車両ですが、あれはどういった車両なのですか?」
「あぁ、あれかい?『タイプ97スリーホイール・ライト・トラック』と『タイプ98スリーホイール・ライト・トラック』という見ての通り三輪の、10馬力エンジンを積んだ軽便トラックであります」
「タイプ97とタイプ98ですか。10馬力のトラックとなるとあまり軍用としては適さないのでは?」
「まあ、そうでありますな。牽引も出来ず、速度は精々時速20マイル、積載量も千ポンドだけ。タイプ97に至ってはサスペンションも無しであります」
「そ、それでは……出来ない事尽くしでは?」
「うむ。その通り。ではあっても、私も兵站や輜重には門外漢な憲兵隊長でありますが、彼らが運んでいる全てが重量物という訳でもありますまい。大きな大砲であるとか、そういう物だけ本式の牽引車やトラックで運びさえすれば、それ以外は軽便トラックで十分なように見えますな」
「つまりは、使い分けという事ですか」
「そう、使い分けでありましょう。それに、あれは運転が簡単でね、私のような機械音痴でも運転出来る良い車なのだよ。うん、コイツは良い車だよ」
「わかりました。取材協力ありがとうございました。最後にもう一枚、写真良いですか?」
「うむ、良いとも。ぜひ格好良く撮ってくれよ」
憲兵隊長への取材を終えたニューヨークタイムズ紙の記者、に扮したアメリカ陸軍軍事情報課に所属する諜報員の彼は思うような情報が得られずに溜め息をついた。
日本陸軍が突如としてそれまでに無いカテゴリーの軍用車両を開発し、さらには何千両と大量生産しているのだから、必ず何かしら大きな意図がっての事だと踏んだのだが、それが全くとして掴めないのだ。
「まったく、車ってのは最低でも排気量1L、もっと言えば2Lのデッカイエンジンを積んでこそだろうに。なにがスリーホイール・ライト・トラックだ、たった0.3Lのオモチャで戦争しやがって」
結局の所、何千何万両と大量に数を揃える事自体が目的であったのにアメリカが気付いたのはこのノモンハン事件、後に第二次世界大戦と呼ばれるまでに拡大したこの戦争が1943年に日本軍が極東ロシアを完全占領し、モスクワを占領したドイツと合同でソビエト連邦を無条件降伏させてからであった。
この戦争において、九七式三輪軽便自動貨車から始まった三輪軽トラックは、九八式、一式、三式の各改良型を生み出し、それぞれが極東ロシアの大地を大いに駆け巡った。
最終型となった三式三輪軽トラックに至っては、寒冷地に対応した暖房付き密閉型運転室と750kgの貨物の積載能力を備え、18馬力を発揮する0.66Lエンジンによって駆動する幅広タイヤによって地上38km/h、雪上14km/h、水上10km/hの機動力を発揮するまでに発展したのであった。
しかもそれでいて、九七式と変わらずエンジンや駆動系、空調機械以外の全てが町工場で生産可能であり、戦場で主力となる戦車や装甲車の生産をほとんど阻害する事無く大量生産が可能だったのだ。
さらには輜重部隊の自衛用にと武装型も製作された。
九八式三輪軽トラックをベースに、九八式二十粍高射機関砲を射撃可能な状態で荷台に据えて自走化した九九式三輪軽便対空自動車である。
この自走対空自動車は、機関砲の防楯の6mm装甲板以外の装甲がまったく無いものの、それまで機動力を持った対空火器を持たなかった日本陸軍にとっては待ちに待っていた自走対空機関砲であり、また陸軍で広く普及していた軽三輪トラックがベースとなっていた事からも良く歓迎された。
また、この九九式三輪軽便対空自動車の配備によって、日本陸軍は何処にでも、何処の部隊にも対空機関砲を追随させる事が出来るようになり、ソ連空軍の爆撃機や襲撃機からの被害を劇的に減らす事が出来たのだ。
もっとも、九九式三輪対空戦車と親しまれたこの車両においても、2000両を超える生産数の中には本来想定された用法から逸脱した扱いがされた車両も多く、時にBT戦車やT-70軽戦車との対戦車戦闘に引っ張り出され、ある輜重兵においてはT-34を1両含む戦車5両を撃破して対戦車エースとなり功五級金鵄勲章を賜る強兵などもいたのだ。
そして現代。今でも愛好家らによって三輪軽トラックは走り続けている。
また、戦後日本では自動車を広く普及させるために、安価な自動車として軽便自動車規格を制定。この規格では三式三輪軽トラックを元に、排気量0.66L以下、全長3.40m以下、全幅1.4m以下、全高2.0m以下、定員6名以下、積載量750kg以下と定められていた。
この規格に基づき、戦時中に三輪軽トラックを製造していた町工場の数々が揃って軽自動車製造に名乗りを上げたのだ。
これによって日本中に軽自動車が普及するに至り、現代では日本で登録されている自動車の三割以上が軽自動車だという統計データもあるのだ。
そして海外でも、小型で扱いやすい軽自動車は老若男女問わず人気を集め、軍用としても今もなお雑役車両として運用している国も多い。もちろん日本軍でも現役である。
「軽自動車?ああ、良い車だよ。若い頃にはコイツの良さが全く理解出来なかったけれど、今なら分かる。うん、コイツは良い車だよ」
戦後間もない頃に日本軍から放出された『タイプ1スリーホイール・ライト・トラック』のオーナーであるアメリカ人の老人は朗らかにそう言うのであった。
彼のガレージには戦時中に日本軍が運用した全ての形式の『スリーホイール・ライト・トラック』があるという。
―――駆けよ三輪軽トラック・完―――
本作を読んで下さった読者の皆様ありがとうございました。
本作では張鼓峰事件にて、九七式三輪軽トラックが図らずとも水陸両用トラックとして兵站線で活躍し、その結果ソ連との関係が史実より悪化。
これを根に持ったソ連がノモンハン事件で大規模な越境攻撃、これに曝された日本が中国中部での作戦を無期限延期、部隊をノモンハンへ転用。
さらにノモンハン事件が激化―――という流れなのですが、この後1943年8月に独ソ間で不可侵条約が締結。日独間の関係が急速に冷え込みます。こうなると日本は中国権益が欲しいアメリカと反ソ連で接近することを強いられ、ここからの第二次世界大戦では恐らく、欧州では英仏vs独伊vs露、極東では露vs日(米)、しかも日本が伊を、米が独を対露戦支援とかやってそうで史実よりも混沌を極めそうな気もします。はたしてフィンランドの未来はどっちだ!?
書くかなぁ……書かないと思います。
では改めて、読者の皆様ありがとうございました。
2015年10月12日―あとがき追加