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作者: 北浦十五

2作目となる短編を書き終えた時は、しばらくは何も書けないかなと思っていました。しかし、すぐに書きたい意欲が沸いて来てこの作品を書きました。読んで頂けたら嬉しいです。

恵理子はカッターナイフの刃を見つめていた。

ナイフの刃は鋭く光っていた。

恵理子はそれを自分の手首に当てゆっくりと力を入れる。

傷みと共に血が流れ落ちる。

恵理子は血が流れる自分の手首を無表情で眺めていた。

これは恵理子にとって日課となりつつあった。恵理子の手首には無数の傷痕がある。

恵理子は、この行為でしか自分が生きている実感を持つ事が出来なかった。流れ落ちる血を見る事で、自分は生きていると確認出来た。

恵理子はもう何ヵ月も学校に行っていない。度重なる虐めによって恵理子は学校に通う意欲を失ってしまっていた。

ひどい虐めを受けた訳でもなく暴力をふるわれた訳でも無い。しかし恵理子の精神はそれに耐えられず、学校は恵理子にとって恐怖でしかなかった。

始めの頃は両親も心配して恵理子を説得したり叱ったり励ましたりした。精神科と呼ばれる医院に連れて行ったりもした。

そこの医師からは、今は無理強いしない方が良いと言われたので両親も諦めたようだった。

恵理子の両親は共働きで家に帰って来るのは夜遅くだった。

自然と恵理子は自分の部屋で1人で過ごす事が多くなった。何をする訳でもなくベッドの上で天井を見つめていた。

恵理子は何も考える事が出来ず、ただぼんやりと天井を見つめていた。

リストカットを始めたのは1月くらい前の事だった。

死のうと思ってナイフを当てたがあまりの痛さに断念した。しかし自分の手首から流れ落ちる血液を眺めていたら不思議なやすらぎを感じた。

あぁ、自分は生きているんだなと思った。

それからリストカットは恵理子の日課になった。


ある日の夜、恵理子は久し振りに家の外に出た。

満月が明るく道を照らしていた。

いつものようにリストカットをしようとしていて、ふと窓を見ると真ん丸のお月さまが浮かんでいた。

しばらくそれを見ていた恵理子はナイフを置いて、ふらふらと家を出てしまった。久し振りに感じる外の空気は新鮮で街路樹の緑の匂いがした。時おり吹いてくる夜風も肌に心地良かった。

まるで生まれて初めて外に出る子供のように、恵理子はわくわくしていた。



「よぉ、姉ちゃん。お散歩かい」

突然、声がして恵理子はびっくりして振り返った。

そこには3人の男達がにやにやしながら恵理子を見ていた。

この数ヵ月で、両親以外の人を見た事がない恵理子はその場で固まってしまった。

「お、けっこうカワイイじゃん」

「お姉ちゃん。いっしょにイイ事しようぜ」

そう言って男達は下卑た笑みを浮かべ恵理子に近付いて来た。

恵理子の思考は停止していた。

真っ青な顔で目を大きく見開いて近付いて来る男達を見ていた。

「お前ら、何やってる!」

突然の大きな声に男達は驚いたように声のした方を見た。

そこには浮浪者のような格好をした1人の男性が立っていた。

「お前ら、その子をどうする気だ!」

「なんだぁ?オッサン」

男の1人が前に出た。

「ホームレスかよ。てめえに」

男は喋り終わらないうちに殴り倒された。

「テメェ!」

浮浪者のような男は素早い身のこなしで2人目の男の顔面に拳を叩き込んだ。

「ぐえっ」

男は奇妙な声を発して倒れた。口から折れた前歯が飛んだ。

「こ、こいつ強いぞ!」

「ちくしょう、覚えてろ!」

そう言い棄てて3人組は逃げて行った。


恵理子は茫然とそれを見ていた。

浮浪者のような男が自分を助けてくれた事は理解した。

「大丈夫かい?」

その男は恵理子に語りかけた。

とても優しい声だった。

恵理子は、自分を助けてくれた人にせめてお礼を言いたくて口を開いたが声が出なかった。かなりの長い間、両親とも会話をしていない恵理子にとっては無理もない事だった。

「女の子がこんな時間に1人で歩いてちゃいけないな」

男が目の前に来ても声が出ない恵理子は、そんな自分が悔しくて涙をぼろぼろこぼした。

男は泣き続ける恵理子をじっと見ていた。

「なんかワケありみたいだな」

男はしばらく考え込んでいたが

「良かったら僕達の所へ来るかい。大したものは無いけど暖かいココアを飲ませてあげるよ」

歩き出した男に恵理子は不思議な力に導かれるように着いていった。


男は月明かりの中を歩いていた。

その足取りが早かったので、恵理子はちょっと小走りで着いていった。

男が着いた場所は広い公園だった。

この公園なら恵理子もよく知っている。子供の頃によく遊びに来ていた公園だ。

男は公園の中に入って行った。

公園の片隅に赤い火が見えた。何人かの人の声がした。

人の気配を感じた恵理子はとっさに逃げようとした。

その手を男は掴んだ。

恵理子は手首の傷痕を隠そうとしたが、そんな恵理子の顔を男は覗き込んだ。その目は「大丈夫」と言っていた。

火に近づいた恵理子はその周りに段ボールで作られた、たくさんの家のようなものを発見した。

「…ホームレス?」

恵理子の口からやっと声が出た。

とてもちいさな声だったが。

「よー、雄一!今日は可愛い子連れてるなぁ」

雄一。

恵理子は自分の手を掴んでいる男の顔をまじまじと見つめた。

この人は雄一さんと言うのか。

雄一は声を掛けてきた男に軽く手を振って、恵理子を火を囲む人々から少し離れた所に座らせた。

「だけど雄一、その子は」

さっきとは別の男が話しかけて来た。

「ここじゃ、人の詮索はしないのがルールだろ」

そう言って雄一は火の方へ向かった。

「そりゃ、そうだ!」

また別の男が答えた。

「それに、こんなべっぴんさんを見てると酒もうめえゃ!」

そう言って大きな声で笑った。それに吊られるように皆が笑った。

恵理子は自分の事を言っているんだ、と思うと身体を縮めた。

そこに雄一がやって来て恵理子にカップを渡した。

「熱いから気をつけて」

「なんだ、雄一はまたココアかよ」

「俺はココアが好きなんだよ」

そう言い返して雄一は恵理子の隣に座った。

「飲んで。美味しいよ」

恵理子はカップを啜った。

「熱い!」

恵理子は言った。さっきより少し大きな声だった。

「だから、熱いって言ったじゃないか」

雄一は恵理子を見て笑った。

思わず恵理子も微笑んだ。

そしてびっくりした。

自分が笑うなんて、いつ以来だろう。

ココアは甘かった。その甘さは恵理子の全身に広がった。懐かしい味だと思った。恵理子は雄一と並んで、赤く燃える火とその周りで酒を酌み交わす人達を見ていた。

皆、笑っていた。

身なりはとても粗末だったが、目はとても優しそうだった。

恵理子は雄一と並んでそれを見ていて、楽しいと思っている自分が不思議だった。


しばらくして雄一が立ち上がった。

「もう帰ろう。家の人が心配してる」

恵理子は名残惜しかったがうん、と雄一の手を握った。とても暖かい手だった。

「じゃ、俺はこの子を送っていくから」

そう雄一が言うと、火を囲む人達がぶーぶー言った。

「なんだ、もう行っちまうのか」

「また来いよー、べっぴんさん!」

「また来いよー!」

皆が恵理子に向かって手を振った。それを見た恵理子は恥ずかしそうに手をあげた。

月明かりの道を恵理子は雄一と並んで歩いていた。

さっきの3人組の男達の事を思い出した。

怖くなった恵理子は雄一の手にすがりついた。

雄一はそんな恵理子を見て恵理子の肩に手を置いた。

他人の手なのに少しも不快に感じなかった。

2人は何も喋らずに歩き続けた。

今夜は不思議な夜だった。

恵理子はそう考えていた。

数ヵ月ぶりに家の外に出て怖い3人の人を見た。

雄一が助けてくれてココアを飲むかいと言ってくれた。

久し振りに自分の声を聴いた。

たくさんの人達を見た。

ココアは甘かった。

たくさんの人達が自分に手を振ってくれた。

そして。

雄一に向かって微笑んだ。

自分がまだ笑えるなんて信じられなかった。

肩に置かれた雄一の手は暖かい。

男の人に肩を抱かれるなんて。

恵理子は自分の頬が染まるのを感じた。

家の前に来ると恵理子はちょっと残念な気持ちになった。

「それじゃ。これからは夜に1人で歩いちゃダメだよ」

雄一は立ち去ろうとした。

「…あの」

雄一には聞こえてないようだった。

「あの!」

恵理子は叫んだつもりだったが、それはか細い声だった。

それでも雄一は振り返った。

「なんだい」

「…あの、…また行ってもいいですか」

消え入りそうな声だった。

雄一はしばし考えていたが

「夜は危ない。来るなら昼間においで。僕はしばらくはここにいるから」

「…はい」

恵理子はまた消え入りそうな声で答えた。

雄一はそんな恵理子を見て笑って「おやすみ」と言って去って行った。

恵理子は雄一を見送ると家の中に入った。

その日、恵理子はリストカットをしなかった。


翌日、恵理子は勇気を振り絞って家の外に出た。

数人の人達が歩いていた。

恵理子は家に戻ろうとしたが、前を向いて歩き出した。

もう一度、雄一に会いたい。会って、あの笑顔を見てみたい。

恵理子はそれだけを考えて歩き続けた。

公園の中に入った恵理子は辺りを見回した。

隅の方に昨日見た段ボールの家々を見つけた。

昨日のようにたくさんの人はおらず、2、3人の人がいた。

恵理子は気後れした。

やっぱり帰ろうと踵を返すと聞き馴れた声がした。

「おーい!」

振り返ると雄一が立っていた。

「よく来たね。ココアを飲みなよ」

やっぱり優しい声だった。

恵理子は雄一に向かって歩き出した。

雄一は座ってスケッチブックに鉛筆で何か書いていたが、恵理子が側に来ると立ち上がった。

「ちょっと待っててね。ココアを持って来る」

そう言うと段ボールの家の方に向かった。

そこにいた初めて見る2人が恵理子に向かって「やあ」という感じで手をあげた。恵理子も恐る恐る手をあげた。

2人の目も優しそうだった。

「お待たせ」

そう言って雄一が恵理子にカップを差し出した。恵理子は黙って受け取った。

ココアはやっぱり甘かった。

それから2人は黙って座っていた。雄一はスケッチブックに絵を書いているようだった。

恵理子はぼんやりと太陽を見つめた。太陽を見るのも久し振りだな、と思った。

そんな沈黙の中、恵理子が口を開いた。

「…あたしの手首の傷痕、見ましたよね」

雄一は鉛筆を動かしながら言った。

「僕らはみんな生きている、っていう歌を知ってるかい」

その歌なら恵理子も知っている。幼稚園の時、皆で歌った歌だ。

雄一は鉛筆を止め、自分の掌を太陽にかざした。

「君もやってごらん」

恵理子も自分の掌を太陽にかざした。

掌の中の血管が見えた。

「こうすれば、そんな事をしなくても自分が生きていると実感できる」

恵理子は、はっとして雄一を見た。

「おっと。よけいな詮索だったかな」

そう言って笑うと、再び鉛筆を走らせだした。

それから2人は何も喋らずに、ただ座っていた。太陽の光が気持ち良いと恵理子は思った。

家に帰った恵理子は自室のベッドに座った。

傍らには見慣れたカッターナイフがあった。

しばらく見ていた恵理子は、それを掴んで窓の外に放り投げた。


それから恵理子は毎日のように公園に通いだした。

両親は心配そうにしていたが、それでも娘が自分から外に出て行くのを見てちょっと嬉しそうだった。

段ボールの家にはいつも2、3人の人がいた。恵理子と顔馴染みになった人もいた。

恵理子はそんな人に「こんにちは」と言えるようになっていた。

雄一はいつもいて絵を描いていた。

恵理子を見ると黙ってココアを持って来てくれた。

2人は黙って座っていた。

雄一は何も聞かずに黙々と鉛筆を走らせていた。恵理子がそれを見ると風景画のようだった。

恵理子は絵の事は判らなかったが、とてもキレイだなと思った。雄一にそれを告げると「そうかな」と照れたように笑った。

「雄一さんは、いつも絵を描いているんですね」

恵理子は最近では、はっきりとした口調で喋れるようになっていた。

「ま、一応これが俺の仕事だからね」

「仕事?」

「こうやって書いた絵を道に並べて売るんだ。あまり売れないけどね」

雄一は苦笑した。

恵理子は最初に会った時の雄一の言葉を思い出して、急に不安になった。

「あの、しばらくはここにいるって言ってたけど」

「ああ、僕は旅をしながら絵を描いてる。まだ行ってみたい所もたくさんある」

恵理子は叫んだ。

「雄一さん!どこかに行っちゃうんですか!」

恵理子の目は涙目だった。

雄一はそんな恵理子の頭に手を乗せた。

「しばらくはここにいるって言っただろ。ここは居心地も良いし」

それでも涙目の恵理子に雄一は小さな箱を取り出した。

「こんなのも作ってる」

箱を開けるといくつかのアクセサリーのようなものが入っていた。

「こっちはまるで売れないけどね」

恵理子が覗き込むとさまざまな色をした、指輪やネックレスが入っていた。

「…キレイ」

恵理子はネックレスを取り出した。

紅い石がついていた。

太陽にかざすと、それはキラキラと光った。

恵理子には本物の宝石のように見えた。

「とってもキレイ」

恵理子はうっとりするように言った。

「君にあげるよ」

「え?」

恵理子は驚いたように雄一を見た。

雄一は頭を掻きながら言った。

「どうせ売れないんだし。君が気に入ってくれたのなら君にあげるよ」

「……」

恵理子は無言だったが、いきなり雄一に抱きついた。

「ありがとう!ありがとう、雄一さん!」

抱きつかれた雄一は、ちょっと困ったような顔をしたが優しく恵理子の肩に手をかけた。


翌日、恵理子はある決心をして家を出た。

今日こそ雄一に自分の名前を言おう。そして、色々な事を聞いてもらおう。

「雄一さん、びっくりするかな」

恵理子は微笑みながら公園に向かった。

公園に着いた恵理子は愕然とした。

段ボールの家が無い。

数人の作業員が大量の段ボールをトラックに積んでいた。

恵理子は思わず作業員に駆け寄った。

「あの!ここにいた人達は!」

作業員はやれやれといった態度だった。

「やっと浮浪者どもを追い出したよ。住民から苦情が出てたからな」

恵理子は茫然と片付けられる段ボールを見ていた。


恵理子は無言で自室に入った。

引き出しからネックレスを取り出した。

雄一からもらったネックレスだった。

紅い石が光っていた。

「…雄一さん」

恵理子の瞳から涙がこぼれ落ちた。

それは途切れる事なく溢れ続けた。

「雄一さん!雄一さん!」

恵理子はいつまでも泣き続けた。


恵理子が学校に行く、と両親に告げると両親は驚いた。無理はしなくていいと言ったが恵理子の決心は変わらなかった。

制服を着た恵理子は通学鞄を持って家の前で立っていた。

朝の太陽は昼間ほどではないが、それでも眩しく光っていた。

恵理子はその太陽に掌をかざした。

自分の血管が見えた。

恵理子は制服の中のネックレスを握りしめた。

「雄一さん。あたし負けないからね」

そう言って恵理子はしっかりと前を向いて歩きだした。





終わり

社会的弱者という言葉をよく耳にします。ニート、引きこもり、ホームレス、このような言葉も耳にします。しかし彼らを弱者という言葉で片付けてしまって良いのでしょうか。人よりも繊細な心を持ち、普通の人には何でも無い事でも傷ついてしまう。そんな事を考えながら書きました。読んで頂いて本当にありがとうございました。

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[良い点] 以外なところから勇気を貰う主人公の心の変化が上手く表現出来ていると思います。 [気になる点] 読む側に立ってみると、暴力やホームレスの描写が不快に思う方がおられるかも知れません [一言] …
[良い点] 良い意味で、次の展開が読めなくて、次々読み進めたくなりました。 赤、紅がキーワードなんですね。 [一言] 短時間で書き上げたと思えないです。 次回作も楽しみにしてます。
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