――③――
そうして訪れた、待望の昼休み。
僕は立ち上がり、弁当の袋を持って教室を出た。これから一人になれる場所を探さなければならない。
と言っても、見つけるのにそれほど時間は掛からないだろう。この寒い時期に外に出ようとする生徒は少なく、暖の取れる教室で食事を取ろうとする者が多い。なので、とりあえず教室の外に出てしまえば一人になれる。
僕は廊下を進み、階段を登っていく。そして、校舎で最も高い位置まで上り詰めると、その手前の階段に腰を下ろした。床は冷たく、尻が冷える。
周囲に人はおらず、空気が静まり返っている。時折、屋上の扉に強風がぶちあたり、ガタガタと軋む音が聞こえてくるが、大した問題ではなかった。
僕は傍らに携帯を置き、メールが来るのを待った。
その間に弁当の包を開き、中身を食べ始める。
程なくして、携帯が震えだした。食事を止めずに目だけで文面を見る。
『静かですね……今なら話をしても大丈夫ということでしょうか?』
「うん、平気だよ。まぁ一応、突然誰かが来てもいいように小声で話すけど」
『はい、念には念を』
その時、外で強烈な突風が吹き、屋上の扉にぶち当たった。
ガン! と大きな音が響く。
僕は少しだけ驚いだが、誰よりも驚いていたのは僕ではないらしく、
『ば、場所を変えませんか? こ、ここでは落ち着けませんよ』
「アラクネさんって、大きい音が苦手なの?」
『……大きい音というより、ビックリさせられるのが苦手です。精神的に冷静じゃ居られなくなりますから』
「ふーん、じゃあ遊園地の絶叫マシンとかも駄目ってこと?」
『あ、あ、あれの何が楽しいんですか! 上から下に急降下とか最悪ですよ、ただの拷問機械じゃないですか。あんなので喜ぶ人間はおかしいです異常です理解できません――でももし並木君に誘われたら、誘われたら……』
「美味いなー、この卵焼き」
『さらっと無視しないで下さい!』
ガツン! 扉から発せられる大きな音。笑えるくらいナイスタイミングだった。アラクネさんからのメールは静かになり、僕は黙々と弁当を食べ、程なくして平らげた。
両手を合わせて、ごちそうさまでした。と呟き、空になった弁当箱を袋に詰める。
『お願いですから場所を変えましょうよぅ』
「分かったって、そうだな……次は選択授業の美術だから、美術室の鍵は空いているだろう。早めに行けば人も居ないと思うし、そこにしよう」
美術室に行くなら、教科書を持っていく必要がある。弁当箱も鞄に戻しておきたい。
すっかり冷えてしまった尻を持ち上げ、階段を降りて己の教室へと引き返した。食事を取りながら楽しく話している連中を尻目に、自分の机の中から教科書を漁る。
すると、ふいに誰かの手のひらが背中に触れた。
振り向くと、青山さんがにっと笑みを浮かべて見下ろしていた。
僕の心臓がドキリと跳ねる。距離が、近い。そして可愛い。
「やっ、並木先輩。今日はマジパネェっすね。絶好調じゃないっすか」
「な、なんのこと……?」
「当然、授業のことよ。今日の並木は一味違うねーって、みんなで話してたんだ」
青山さんは親指を立てて、教室の後ろを指差す。
そこには女子の二人組みが居て、こちらを見ていた。二人はそれぞれタイプが違う女子で、一人は眼鏡を掛けた小柄で小動物的な、『里田都姫さん』。それともう一人、大柄でマツコデラックスの親戚みたいなのが、『大塚貴子さん』だ。
様々な交友関係を持つ青山さんの顔は広いが、そんな中で最も親しそうな仲に見えるのがこの二人だ。休み時間になると決まって三人は楽しそうに笑い合っていて、そんな彼女たちを僕はよくチラ見していた。
「あそこの里田ちゃんなんて『いつもの並木くんなら、あたふたして更に怒られてるのにー』って、笑ってたよ」
「あ、青ちゃん! 本人に言わないでよ!」
子リスのような里田さんが顔を真っ赤にして、慌てて駆け寄ってくる。その後ろからグリズリーのような威圧感と共に、大塚さんがゆったりとした歩調で追ってくる。
「あはは、だいじょぶだいじょぶ。あたしも同じこと思ったから」
笑う青山さんに対し、里田さんはぷんすか怒る。
が、全く怖くない所か、それが逆に可愛らしさを強調させている。
「気を悪くしたよね、ごめんね並木くん」
里田さんは、僕に向かって深々と頭を下げる。そのあまりにも大層な謝罪っぷりに、逆に僕が悪者になった気分だった。
「あ、謝る必要なんてないから、ホント無いから、だから頭を上げて!」
「でも……」
顔だけを上げ、小首をかしげる姿勢になる里田さんに向かって、僕は願うような気持ちで「気にしてない、ぜんっぜん、気にしてない」と嘆くように言った。そんな僕を見た青山さんは、何故かドヤ顔になり、両手を組んでうんうんと唸っている。
「よしよし、これでいつもの並木に戻ったね。カッコイイ並木なんて並木じゃないよ」
そう言った直後、姿勢を戻した里田さんが怒ったように言う。
「もう、青ちゃんってば酷いよ! ……でも、今日の並木くんは本当に凄かったよ。わたし、ビックリしちゃった。先生も感心してたもんね」
「いやぁ、それほどでもないというか、僕は別に凄くないというか――」
「え、どういうこと?」
「……いや、なんでもない。昨日は暇だったからいつもより勉強してただけで、そんなタイミングで先生から沢山当てられただけだから、ただの偶然みたいなものだって」
「それでも凄いよぉ、あんなに難しい問題、私じゃ絶対解けないもん」
「ははは……そんな風に褒められると、照れるなぁ……」
背筋から嫌な汗が吹き出す。先ほどから、ポケットに入れた携帯がずっと震えている。恐らく『デレデレしないでください!』的な内容のメールが大量に送られているのだろう。僕は半ば慌てながら教科書を強引に掴み、引き抜いた。よし、後は美術室に向かうだけだ。
「じゃあ、僕はちょっと急いでるから」
僕はそう言って、彼女達をすり抜けて行こうとした。
――が。
「いやん、セクハラァ」
大塚さんの巨体が突如立ちはだかる。
正面からぶつかり、反動で吹き飛ばされた僕は尻餅を着いた。手から離れた教科書が床の上を滑り、遠く離れた椅子にぶつかる。
僕は両目をぱちくりさせて、彼女達を見上げた。
「私達がァ、話しかけに来たって言うのにィ、何逃げようとしてんのよオォ」
大塚さんの太い声には、まるで上から押しつぶされるような重圧感がある。僕を攻撃しようとしているのではなく、元からそういう声質なのだ。彼女が国語の授業で音読をすると寝ている奴ですら飛び起きてしまう。
「僕に話があるの?」
「そうよォ、ッてもォ、私じゃなくて霞からなんだけどねぇェ。あ、でもォ、マヌケな勘違いだけはすんなよォ」
大塚さんは、他人を小馬鹿にするような目付きで僕を見た後、ふんっと鼻を鳴らした。
さっさと逃げようとしたのが気に入らなかったのか?
「もう、やりすぎだってば貴子! ほら並木、立てる?」
青山さんが前かがみの姿勢になって、僕に手を差し出す。
それは雑誌で見たことがあるようなアングルで、このままずっと眺めていたい気分にさせられたが、
「ふゥん、男の癖に軟弱なチィビ。染谷とは大違いだわァ」
大塚さんの嫌味ったらしい一声が僕の興奮を落ち着かせた。ここまで言われて苛立たない男は居ないだろう。
僕は青山さんの手を無視して、自力で立ち上がり、ズボンを叩いてホコリを落とす。すると、すぐ横に里田さんがいて、吹き飛ばされた教科書をおずおずと差し出してきた。
「あの……さっきのは貴子ちゃんなりのコミュニケーションで、本人には悪気があるわけじゃないの……」
「ありがとう。別に怒ってないよ」
本当は怒ってる。でも、その怒りを里田さんにぶつけてはいけない。
僕は表情に精一杯の笑みを浮かべて、渡された教科書を受け取った。ここまで露骨な笑顔を向けてしまうと、流石に苛立ちを隠そうとしているのが分かってしまうだろうか?
だが、それは杞憂だったらしく、
「よかった、並木くんが怒ってなくて」
にこりと微笑み返される。
「そんじゃァ霞、あたし等は先に行ってるからァ」
のしのしと、まるで冬眠から這い出る熊のような遅い動きで、大塚さんは教室の外に出た。その背中に向かって石でも投げてやりたい気分だったが、まぁ、僕みたいな小心者には無理だ。里田さんも一緒になって教室を後にする。
教室の残っていた他の生徒たちも、次の移動教室に向けて準備をしている。程なくして、この教室は無人になるだろう。二人っきりで話せるのは素直に嬉しいが、青山さんを遅刻させたくはない。
「それで、僕と話がしたいってどうしたの?」
なるべく早く話を切り上げるつもりで、僕は口を開く。
「うん、実は、染谷について何だけど……今日のあいつ、調子がおかしかったよね。まるで昨日の並木みたいに」
青山さんの態度は、友人達と一緒にいた時と違って、何処かしおらしい。 僕はその豹変に少しだけだじろいだ。
僕は視線を染谷の机へと向けた。だが、そこに当の本人は座っていない。もう授業に行ったのだろうか?
「並木が帰ってくる直前くらいまでは居たんだけどね……その、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「ん?」
言いづらそうにしていた青山さんは何を思ったのか、両手で自分の頬をパシンと叩き、気合を入れるような仕草をして、表情を引き締めた。
そして、その小さな唇をすぼめて空気を吸い込むと、ぶつけんばかりの言葉を放つ。
「喧嘩するなんてアンタ達らしくないよ! さっさと仲直りしちゃいなさい!」
「はいぃ?」
一瞬、マヌケな声が出た。
言われている事の意味が分からず、僕は目を見開いて驚いてしまう。
「……違うの?」
青山さんの探るような声に、僕は首を正面に振る。
「えー! だって、今日は朝から一言も話してなかったじゃん!」
「あんな状態だったし、話しかけ辛かったから」
「昼休みもお弁当持って何処かに行っちゃうし」
「それは……」
アラクネさんに染谷について聞こうとしていた。もとい、他人のことをどうやって調べていたのか問いただそうとしていた。……とは言えない。
「うー、色々納得いかないけど、でも、並木と染谷が喧嘩してるとか、そんな心配はしなくていいんだよね?」
「僕等って。そんなにいつも一緒にいるように見える?」
「うん、里田ちゃんが変な妄想を始めるくらいには一緒にいるね」
「……」
変な妄想については、聞かないでおこう。精神衛生上、あまりよろしくない気がする。
とにかく、勘違いを正す為にはっきりと宣言する。
「僕と染谷は喧嘩なんかしてないから」
「……じゃあ、何が原因なんだろう」
「そんなに気になるの? 染谷のこと」
「そうじゃないんだよ。……あたしが悩んでるのは別の意味なんだよ」
「別の意味?」
「実はさっきね、並木が教室に帰ってくるちょっと前くらいなんだけど……染谷の奴、私達が話してる所に混ざってきたのよ」
「へー、それは珍しい」
染谷は女子と必要以上に接しようとしない。中途半端に仲良くして好意を持たれても、最後には必ず振ってしまうからだ。と過去に本人はそう言っていた。そんな染谷が自ら女子の輪に入ろうとするなんて、一体どういうことだ?
僕の疑問をよそに、青山さんの話は続く。
「それでね、染谷はあたしと貴子を無視して、なんと里田ちゃんを口説き始めたのよ。外見を煽てたり、くだらない恋愛漫画の常套句みたいなセリフを言ってさ……正直、ウザかったのよ、アイツ」
青山さんの腕が小刻みに震えている。
「里田ちゃんは、他人に向かって強く言える娘じゃないから、さっきはあたしが物理的に撃退したけど……でも、やっぱり可哀想だった。染谷の奴、自分が周りの女子からちやほやされるからって、皆が好いてくれるものだと勘違いしてるんだわ……ほんっっとにムカつく!」
「お、落ち着いてよ。分かった、僕がなんとかするから」
もはやブチギレる寸前という所で、僕がほとんど嘆くように言った。
その言葉に、少しだけ冷静さを取り戻したのか、青山さんは幾分か柔らかくなった目付で僕を見る。
「並木にお願いしていい?」
青山さんのすがるような声に、僕は頷かざるを得ない。
「男同士の方が後腐れないからね。午後の授業が終わってから言うよ」
「流石並木! 相談してよかったよ~」
青山さんの表情がパッと明るくなる。
話に一段落がつき、ふと周囲を見回すと、教室に残っているのは僕と青山さんの二人だけになっていた。どうやら話に熱が入りすぎていたらしい。
それに気付いて教室を飛び出した瞬間、授業開始のチャイムが鳴り響く。
「やっば! それじゃ並木、授業が終わったらお願いね」
「了解、任された」
廊下に出た僕等は、それぞれ反対方向に走っていく。僕は一階の美術室へ、青山さんは三階の音楽室へと向かう。
廊下を歩く生徒は自分以外に誰一人として居ないのを確認すると、僕は携帯を開いてアラクネさんへと語りかけた。
「本当にごめん、まさかこんなことになるとは」
『……私、ちょっとだけ並木君に怒ってます』
「そう言わないでよ、僕だって本当はアラクネさんと話をするつもりだったんだから」
『……話せるようになるのは、家に帰ってからですね。……ワガママを言っているのは私だと自覚しています。……ただ、今日はいつもよりも長く話せると思って期待し、喜んでしまった自分も居てですね……』
「悪かった、本当に僕が悪かった」
メールの文面からは寂しさが滲みだしているような気がして、僕の心に罪悪感が芽生える。
なんだろう、家族サービスのつもりで休日に旅行を予定していたのに、突如仕事が入ってしまった父親の気分というか……気持ちの上では残念なのだが、しかし、無視する訳にもいかず、泣く泣く頑張らなければいけないような。そんな心境だった。