――③――
『私のことは絶対に言わないで!』
送られてきたメールに目を落とした僕は、喉の奥から飛び出しそうになっていた言葉をぐっと飲み込んだ。
もし、このメールの到着が一秒でも遅れていたら、僕はこう言っていただろう。「なぁ、知り合いにアラクネって人いる?」と。
僕は今頃になって、体のどこかに盗聴機があり、それで会話を聞いている人物がいるのを思い出した。
「お、新しい携帯じゃんそれ! いいなー」
何も知らない染谷が感嘆の声を上げる。
「こら、そうじゃないでしょ染谷。並木の悩みを聞くのが先」
何も知らない青山さんが染谷を窘める。
気を利かせてくれたのだろうけど、本音を言えばこの話題を持ち出したくなかったので、新作携帯の話題で盛り上がってくれる方が有り難いのだが……。
僕は悩む。アラクネさんに筒抜けなこの状況で、言いたい事なんて言えない。とはいえ、ここで何も答えずに無言を貫くことも出来ない。染谷と青山さんは不調そうな僕を心配してくれているのだから、その優しい心使いを無碍に扱うことなんて許されるわけがない。
さて、どうするべきか……。
単純に風邪でも引いてしまったことにするか? いや、喉が枯れてもいないし鼻水も出ていない。それに僕は意外と表情に出るタイプだから、露骨に嘘を吐くと簡単にバレてしまう。
ていうか、この二人は僕が何かで悩んでいるのだと見抜いていた。これまでの会話の中で僕は「悩みがある」なんて一度も言っていないのに。これまでの友人つき合いの中で、僕の性格や人間性を理解しているから、無意識に分かってしまうのだろうか?
とにかく、嘘は吐けない。吐けば間違いなくバレる。
かといって、アラクネさんのことは絶対に話せない。
「おい並木、マジでどうした?」
「並木……ホントに大丈夫?」
二人の心配そうな視線が突き刺さる。
板挟みになった状況で、僕は救いを求めるような気持ちで右手の携帯に目を向けた。
その直後、求めた救いに応じるようにして電波を受信する。僕はすぐさまメールを読んだ。
『私の名前を出さずに、「何が起こったのか」だけを話して下さい。真実の中に嘘を混ぜながら上手く誤魔化せば、バレないはずです。頑張ってください、並木君』
まるで目前に蜘蛛の糸を垂らされたような気分だった。地獄の底にいる僕にはそれに頼るしか手段が無く、与えられた糸を掴み、必死になって上るしかない。それは、周囲に失望されたくないと嘆く僕が掴んだ、一筋の希望だった。
なるほど……じゃあ、頑張ってみるか。
心を決めた僕は、小さく深呼吸をする。そして、ぽつりと小さく、ここにいる二人にしか聞こえない程度の声量で言葉を発した。
「実は、ある女の子に告白されたんだ」
「マ、マジで!? 並木にかのじ――」
大声で驚く染谷の口を、青山さんが両手で強引に押さえた。
ぎょっとした僕が周囲を見ると、辺りで談笑していた連中の会話がピタリと止まり、全員がこっちを見ているようだった。
……が、しばらくして再び談笑は始まった。青山さんのナイスフォローのたまものである。僕はホッと息を吐き出し、そして改めて、ここで余計なことは言えないと痛感した。
「こんのバカ!」
青山さんが染谷の頭を殴る。ガツンと良い音がしてかなり痛そうに見えたが、染谷は怒りも悶えもせず、ぼんやりとした表情を僕に向けている。
「そんなに驚かなくてもよくない?」
僕が言うと、はっと目に力が戻り、
「い、いや、冷静になるとめでたいことだな。……そっかぁ、並木に彼女かぁ」
声のトーンを落とした染谷は両手を組み、うんうんと頷く。首をカクカクと動かしながら、しきりに「めでたいめでたい」と言い、その様子からはまだ動揺が拭えないのだと見て取れる。
「こら染谷、いくら意外だからって、その反応は失礼すぎるでしょ。確かに意外だけど、っていうか、物好きだとは思うけど」
いや、うん、まぁ。
僕自身が意外だったから、別に失礼だとも思わないけどさ。
「罰ゲームで告白とかじゃないよね? それを本気にして、後から笑い者にされるとか、そういうことじゃないよね?」
青山さんの言葉は、内心では染谷以上に動揺してるんじゃないかと疑うくらい、きつい。
その物言いは、僕に彼女が出来るなんて絶対にありえないと断言するようだった。まるで僕を馬鹿にしているように聞こえて少しだけムッとするが、
「あたしもね、貰ったんだよ。ラブレターって奴」
青山さんの言葉を聞いて、あらゆる意味で間違えたのは僕だと理解した。
心臓がぎゅっと捕まれた気分だった。
「昨日ね、げた箱に手紙が入っててさ、それには「告白がしたいから体育館裏に着て欲しい」みたいな事が書かれてたんだよ。それを読んだときはさ、「あたしは可愛いから仕方ないなー」なんて、陽気な気分だったんだけど、いざ向かうと誰も居なかったんだよね。それが、ちょっと怖かったんだよ」
「こわ……かった?」
「うん、もしかしたら、クラスの誰かにからかわれていたのかもしれないし、知らない所で自意識過剰な女だって笑われているかもしれない。って思ったらね……ってヤダ! 並木ってばなんて顔してるのよ。ごめんね、あたしの話しちゃって! 今は並木を応援する場だっていうのに、ほんとごめん、さっきのは忘れて!」
胸の奥にある罪悪感が、ぐつぐつと肥大化している。だが、『僕が書いた 手紙でした。でも怖くなって逃げてしまいました』と、打ち明けられる訳もなく。僕にはただ、奥歯を強く噛みしめることしか出来ない。
僕は屑だ。どうしようもない腰抜け野郎だ。自分が傷つくのを恐れて、その結果、青山さんを傷つけてしまった。
「ほら並木! 彼女が出来ただけなら、普通に嬉しい話で終わっちゃうじゃん。でも悩んでるってことは、それだけじゃないんでしょ?」
「あ、ああ、そうだったそうだった」
僕はあふれる感情を抑え、なんとか声を絞り出す。ここで黙ってしまっては、青山さんがまた余計な責任を感じてしまう。僕は思考をフル回転させ、紡ぐべき言葉を探す。……話すべきは、まだ付き合っていない理由について、だ。
「えっと、告白されたまではいいけど、まだお付き合いはしていないんだ。ちょっと彼女の性格に問題があって、その……彼氏を拘束するタイプの人みたいなんだ」
「拘束って、女のメルアドを消させたり、他の女と話してるだけで怒ったりするってことか?」
ここにきて染谷が口を開いた。
監視カメラと盗聴機とは意味合いは違うが、性格に問題があると思ってくれればそれでいい。それにもし、実際に付き合えばそうなる可能性は十分にある。
「付き合う前から並木がそれを知ってるってことは、相手が事前に『自分はそういう性格の女です』って言ってきたからだよな?」
「まぁ、そんな感じかな」
「……ふぅん」
長い足を組み、親指と人差し指で顎をつまみ、まるで探偵のようなポーズになった染谷は、冷静な目を机に向けていた。
こうして黙っていればカッコいい。普段のおちゃらけた様子からは想像できない真剣な表情に、僕は口出しすることが出来ず、染谷が話し出すのを待った。
「いいんじゃね?」
口火を切った染谷の表情は、柔らかいものに変わっていた。
僕が「どうしてそう思った?」と訪ねると、染谷は「いや、大したことじゃねぇけどさ」と前置きをして、
「だってさ、その子は自分が面倒くさいことを前もって自白してるんだろ?」
僕が頷くと、染谷は言葉を続ける。
「そういうことってさ、普通、付き合っている間に徐々に発覚していくものじゃん。で、そういうことが原因で別れるカップルだっているしさ。例えば、喫煙者じゃないと思っていたら、隠れてタバコを吸っていた、とか。俺だったらそれくらい許せるけど、もっと面倒なものだと、整形とかな。これは流石に腹立つだろ。でも仕方ねぇんだ。自分から好き好んで己の短所を見せたがる奴はいねぇし、好きな人に幻滅されたくないと思うのは当然だからな。でも、並木の彼女は違う」
「まだ彼女じゃないって」
「その子は並木と長く付き合いたいと思っている。だから最初に、自分にはこんな短所があります。と言ったんだ。後で発覚して、嫌われたくないって思いもあっただろうな。――でもさ、並木、お前は好きな女子に向かって自分から『俺はこんな短所がある人間だ』って言えるか? 無理だろ? それを彼女が堂々とやった点は評価すべきだと思うし、お前も俺等なんかに相談しないで、ちゃんと自分で悩むべきだと思うぞ」
「いいんじゃね? って言った後にその説教か」
「良い子なのは確かだからな、俺は付き合うのもアリだと思う。ただ結論はお前自身が出せよって話だ」
話終えた染谷は、途中まで飲んでいたコンポタに口を付けた。一方で、僕は悩んでいた。
付き合ってもいい、まぁ、そうかもしれない。
昨日、自室で告白された後、僕は結果を保留にするように頼んだ。君が僕のことが好きなのはわかった、だけど、少しだけ悩ませて欲しい、と。顔も分からない相手で、知っているのはメールアドレスとその性格だけなんて、そんなのどうやって判断しろってんだ。
先ほど染谷は、隠して許される範囲を煙草と整形で説明していたが、監視カメラと盗聴機による拘束は許容出来る欠点なのだろうか? 本人はいっさい顔を見せず、触れあうことも不可能な男女の付き合いが、果たして楽しいと言えるのだろうか?
「俺から言えるのはこれだけだな。青山からは何かあるか?」
突然話題を振られた青山さんは、両手を組んで眉根を寄せる。
「うーん、恋愛系の話題はちょっと苦手で」
「お前何で此処にいるんだよ」
「だって、まさか並木に彼女なんて思いもしないじゃん」
「それもそうか、人は見かけに寄らないって奴だな」
こいつら、本人の前でよくもまぁ好き放題……いつもなら、ここで何かしら言い返している僕だが、今回は上手く言葉が出てこなかった。
ふと思ったのだ。昨日、逃げ出さずに告白をしていたら、こんな風に楽しく話をする機会は失われていただろうと。
間違いなく、青山さんとは話せない。もしそうなっていたら、今後の学校生活は全くの別物になり、寂しいものに変わっていたかもしれない。
そういう意味で、アラクネさんは僕を守ってくれた。今も盗聴機で話を盗み聞きしている彼女がそうする理由。それは僕を守るという目的に一貫している。僕が今、此処でこうしていられるのは、アラクネさんの行動の賜物なのだと改めて実感していた。
だけど……その結果、たった一人で放置された青山さんは傷ついた。
逃げてしまった全ての原因をアラクネさんに押し付けるつもりは無い。けれど、それでも、好きな女の子を傷つけてしまうくらいなら、自分一人が恥をかけばよかったと思う。
友人関係を守ってくれた感謝と、好きな女の子を傷つけてしまった後悔。そんな矛盾した感情を抱えてしまう。
他人に言えない秘密を持つのは、酷く苦しいことだと知った。
こうして僕の相談は「自分で考えろ」という結論の元に終わった。
あまりにも正論すぎる答えを示され、その通りだと納得した僕は、染谷と青山さんの二人に「ありがとう、ちゃんと考えて結論を出すよ」と礼を言った。
染谷は「後悔の無い結論を祈ってるぜ」と言って席を立つ。その直後に昼休み終了のチャイムが鳴り、慌てて青山さんも立ち上がった。
僕はパンの山を鞄に詰め込みながら、去っていく二人の背中を見つめた。
僕に彼女が出来そうだというのに、全く嫉妬する様子を見せなかった青山さんからは、やっぱり脈なしだったのだと改めて実感させられる。
一人になった僕は、小声で呟いた。
「ありがとう、アラクネさん」
二人と仲良くできる現状を守ってくれて。
『本当は、告白して貰っても良かったんですよ。傷心の並木君を助けた方が、好印象ですからね』
「いや、そんなことないと思う。こうして普通に話が出来る今に安心しているのが、アラクネさんを信用する説得力になった気がする」
『惚れ直しました?』
「そもそも、まだ惚れてない」
『なら、絶対に振り向かせてみせます。あなたの友人の染谷君が言っていたように』
「……期待してるよ」
アラクネさんの計画は、僕の想像を超えた所まで綿密に考えられているのだろうか? 告白を潰されたことで、僕の心はまだ折れずに済んでいる。実際の所、僕は未だに――青山霞に恋しているのだ。好きな女の子を諦める機会を失われた僕の気持は、今もなお健在だ。
自分でも未練がましいと思う。