――⑪――
翌日、学校に着いてすぐに、僕は青山さんと話そうとした。昨日、渡された遊園地のチケットについて、理由を聞かせて貰いたかったのだ。
しかし、そんな僕の想いを無視するかの如く、自分の席に鞄を置いた青山さんはさっさと教室から出て行ってしまう。僕は追いかけようとしたのだが、外の廊下には月元先輩が立っていて、近寄れなかった。
二人は揃ってどこかに行き、授業が始まる直前に帰ってくる。授業が終わり、休み時間が始まっても、月元先輩がやってきては同じようにどこかへ連れて行ってしまう。
あまりの苛立ちに気が狂ってしまいそうだ。
好きな女子が、自分じゃない誰かと一緒にいる。そんな光景をまざまざと見せつけられるのは、想像以上の苦痛だったらしい。一日の授業が終わってすぐに、僕は逃げるようにして教室を後にした。
廊下を早足で進む。歩いているだけなのに、妙な息苦しさすら感じる。呼吸のリズムが不規則になり、酸素を上手く取り込めない。
頭がおかしくなってしまったみたいだ。
どうしようもない苛立ちに襲われ、うまく思考がまとまらない。僕は、今日、何がしたかったんだっけ? 確か、朝家を出る前に色々と考えていたんだけど。
「……くそ!」
思い出そうとして、とっさに廊下の壁を殴ってしまった。固い音が周囲に響く。
アイツが傍にいては、話をするなんて絶対に無理だ!苛立ちを爆発させるように、心の中でそう叫ぶ。
殴りつけた手を見ると、赤くなった小指と薬指が小刻みに震えていて、それを認識した瞬間、激痛が発せられた。「うわ、痛そう」「大丈夫かアイツ」
ひそひそと交わされる会話が耳に届く。授業が終わった廊下には自分以外の生徒も大勢いるから、そう言われるのも仕方ないだろう。頭の中の怒りが、徐々に恥ずかしさへと変わるのが分かった。
僕は痛みを振り払うようにして、今居る廊下を走り抜けた。
その場から離れることだけを考えて、僕は走る。
人をかき分け、階段を下り、一階の廊下をひたす走る。「こら、廊下を走るな!」と、教師の呼び止める声すらも無視して、僕は走った。上靴のまま外へと飛び出す。それでも止まる気にはなれなくて、ひたすら足を前へと進める。
そうしてたどり着いたのは、体育館の裏だった。
肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す。
僕は尻餅をつくようにして、その場に座り込んだ。両手を後ろにつき、長い時間を掛けてゆっくりと呼吸を整えた。
『少しは、スッキリしましたか?』
呼吸が正常に戻ったタイミングで、アラクネさんからメールが送られてくる。僕は座った姿勢のまま携帯を開き「まぁ、それなりに……」と曖昧な返事をした。
本当の事を言えば、気持ちは今も不機嫌で、月元に対する怒りはむしろ増す一方なのだが、それを伝えた所で八つ当たりにしかならないと考えたのだ。
「……あの先輩……何がやりたいんだろう」
ぼそりと独りごち、アラクネさんの反応を伺う。それは、何か知っていることがあるなら教えてくれ。という気持ちを含めた呟きだったのだが、
『私にも、分かりません』
思わず舌打ちをしそうになって、歯を強く噛みしめた。落ち着きそうだった怒りが、再び爆発しかけている。
「君は、情報を集めるのが得意なんだろ? だったらすぐに調べてくれよ。青山さんの真意が分からないなら、月元の弱みでも良い。それで脅迫でもしてやれば、その目障りなツラを見ずに済むようになるからさ!」
気付けば僕は、口汚く罵るようにして、現状への不満をぶつけていた。心の中に溜まった濁りきったヘドロを、全て吐き出すまで止まらなれなかった。
悪いのは、アラクネさんでは無いのに。
僕は、自分のストレスを晴らす為に、八つ当たりをしてしまった。
「あ……」
そう思った瞬間、はっと意識が冷静になった。自分がどれだけ馬鹿なことをしでかしたのか、すぐに理解した。
まるで、氷の刃で心臓を突き刺されたように思考が停止する。
携帯を握る手が震える。返事のメールは、一言だって送られこない。
やってしまった……僕は最低だ。
謝れば、きっとアラクネさんは許してくれるだろう。
その上で、僕の苦しみを軽くするために、愚痴の言葉を延々と聞いてくれる。傷ついた自分を隠したまま、僕の気持ちを受け止めてくれる。
謝る訳にはいかなかった。
アラクネさんの優しさに、甘えてしまってはいけない。
「君はすごいね、アラクネさん」
数秒の沈黙の後、僕は口を開いた。
嘘偽りのない、自然な気持ちをそのまま口にしていた。
「アラクネさんはずっとずっと、こんな気持ちのまま僕の傍に居たんだね。僕は今まで、君の気持ちが全く分かってなかったよ」
『ど、どうしたんですか、突然』
驚く声が返ってきて、心の中で安心する。
あれだけ酷い言葉を叩きつけたんだ、僕の元から去っていても不思議ではなかった。
「今になってようやく分かったんだ。前に喫茶店で怒られた意味とか」
本気の怒りをぶつけられたのは、後にも先にもあの時だけだ。
自分の好きな人が、自分じゃない別の誰かと一緒にいる。その痛みは、耐え難い代物だった。
胸が苦しく、心が痛くて、もうどうしようもなくて、まるで深い海の底で溺れてしまったような絶望。それを受け止めきれなかった僕は、お前なら何とか出来るだろと言って、たまらずアラクネさんへと責任転嫁した。
最低な事をしてしまった後悔はある。
しかし、胸中にうずまく気持ちはそれだけではなかった。
この時、非常に身勝手ではあるが、アラクネさんの気持ちが一つ理解できた小さな喜びがあったのだ。
今なら分かる。
僕が感じたこの苦しみは、アラクネさんがずっと抱いていたものでもあったのだ。
『凄くなんか無いですよ。私はただ、並木君が幸せになってくれれば、それで私も満足なだけです』
「そう平然と言ってのけるのが凄いんだけどね」
『凄くないです。私は並木君が大好きなだけで、大好きな人の幸せを願うのは当然の事です』
「当然、か」
僕は、はぁ~とため息を吐いた。アラクネさんの器の大きさに、目眩すら覚えそうな気分だった。自分の矮小さに呆れてしまいそうになる。だが、先程まで悶え苦しんでいた自分の気持ちが軽くなっているから不思議だ。
その大きな器に触れて、僕の気持ちに変化が起こったのだろう。
「本人達が幸せなら、喜んでやるべきなんだよね」
言い聞かせるように呟き、胸に手を当てる。激しかった心臓の鼓動は、今は正常に戻っていた。
決して、割り切れたわけではない。僕はまだ、青山さんが好きだ。でも、もうあんな風に嫉妬でおかしくなったりはしないだろう。
後悔と反省を済ませた僕は、ゆっくりと立ち上がった。ズボンについた土を払い、体育館裏を後にする。
とりあえず、今日はもう帰ろう。デートの件については、週末の休みに行くことは分かっているのだから、それまでに何とか隙を見つけて、五分でも話せればいい。
断るだけなら、それで十分だ。
少しだけ気が重い。しかし、決意は固かった。
申し出は嬉しかったけど、彼氏の居る青山さんと僕がデートをするのは普通じゃない。だから、やっぱりお断りします。ごめんなさい。
頭を下げている自分を想像する。それを見た青山さんは、どんな表情になるのだろう? 怒るのか、それとも悲しむのか――僕には、まるで分からない。教えてくれないのだから当然なんだけど。
そんなことを考えながら歩いていると、昇降口にはすぐ到着した。僕は自分の靴が入った下駄箱の前に立ち、取っ手を摘んで蓋を開ける。
すると、見慣れない物が目に入った。
置かれた靴の隣に、封筒が添えられている。
それを手に取った僕は、まじまじと見つめた。そして、端っこに小さな文字で『青山霞』と書かれているのを発見する。
「――ていうか、これって」
驚きは、差出人の名前だけには止まらない。
花の模様が入った、ピンク色の封筒――見覚えがある、なんてものじゃない。
手にしたこの封筒は、過去に僕が送った物と同じだったのだ。




