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アラクネさんは大好きな彼を見守りたい  作者: 石橋いも
二章 並木陽太と染谷亮介
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――⑤――

 程なくして、保健室に到着した。

 閉じた扉に向かって「すみませーん」と青山さんが声を掛ける。しかし、反応は返ってこない。

 窓から室内を覗き込もうとしても、スモークガラスになっていてよく見えない。だが、部屋に明かりが点いているのは確認できる。ということは、先生は中にいるのだろうか? 

 僕のそんな疑問をよそに里田さんが扉に手をかけると、簡単に扉が開いた。

「保健の先生はね、帰りのホームルームの時間はいつもタバコを吸いに行ってるんだよ。部活が始まると怪我人が来ることが多いらしくて、今のうちにニコチン摂取するのが習慣なんだって。前にそう言ってた」

「だからって鍵締めないのは無用心でしょー」

 青山さんが呆れたように苦笑する。

「あはは、まぁいいじゃない。早く並木くんを手当してあげよう」

「それもそうだね。並木、さっきから黙ってるけど生きてるよね?」

「……あぁ、うん」

「男だろ、シャキッとしろ」

「青ちゃん、今の並木くんにそれを言うのは酷だと思う」

 室内に足を踏み入れると、途端に、病院で嗅ぐような薬品の匂いが鼻腔を擽った。室内はそれなりに広く、部屋の中央には大きな丸テーブルに、とりかこむように椅子が四つ置かれている。左の壁には大きな薬品棚があり、その傍に先生が利用するデスクがある。奥にはベッドが二つあるが、カーテンが開かれたままになっていて、今は誰も利用していない。

 先に入った里田さんが、ベッドの傍にある丸椅子を持ち出し、デスクの前へと移動させる。青山さんは僕をそこへ座らせた。 

 部屋の奥には身体測定で使うような鏡があり、視線を向けると僕の顔が映る。額から血が流れていて、顔色が悪く不健康そうだ。自分では全く気付かなかったのだが、こうして見るとかなり重症そうだ。

 里田さんは迷いもせず、デスクの下から二番目の引き出しを開け、中から鍵を取り出した。それを薬品棚の鍵穴に突き刺し、くるりと捻る。たやすく扉を開き、上から三番目にある『消毒液』と書かれたラベルの貼られたビンを掴み、デスクの上に置いた。

「えっと、あとはガーゼと包帯とテーピングかな? 探しておくから青ちゃんは先に消毒してて」

「なれてるなぁー勝手知ったるってやつ?」

「あはは、私、保険委員だから。たまに先生の手伝いをさせられてたんだ。一緒に来て正解だったでしょ」

「うん、あたしだけじゃ鍵の場所すら分かんなかった」

「えへへ……あ、脱脂綿とピンセットはデスクの上から二番目の引き出しにあるから」

「りょーかーい」

 言われたとおり、青山さんは引き出しを開ける。お目当ての物はすぐに見つかったらしく、すぐさま消毒の準備に取り掛かる。ピンセットで脱脂綿をつまみ、その上から消毒液を少量垂らす。

「ぐへへ、並木ぃ、泣き叫ぶ覚悟はいいかぁ?」

 頬をいやらしく釣り上げ、怪しげな笑みを浮かべる。そして、

「おりゃ!」

 掛け声とともに、脱脂綿を摘んだピンセットの先端が傷口に触れる。まるで電気を直接流されたみたいだったが、僕の喉から悲鳴じみた声が漏れなかった。

「ちぃっ、悲鳴の一つも上げぬとは面白くない奴め……並木らしくないぞ、可愛くない」

「並木くん……大丈夫? 出血はそれほど酷くないんだよね?」

「私もスポーツ中にこれくらいの怪我なんてしょっちゅうだし。でも並木は頭を打ってるから、安静にしたほうが良いかもね」

 里田さんが僕の後ろに回り込み、消毒を終えた傷口にガーゼを押し付け、テーピングで固定する。

 包帯を額にくるくると巻き、「これでよし」と言って鼻を鳴らした。

「二人共、何から何までありがとう」

「いやいや、気にしないでよ。……ていうか、逆にごめん。無責任に染谷のことを頼んで」

 僕が素直に礼を言うと、罰の悪そうな顔になった青山さんは、人差し指で自分の頬を掻いた。

「ほ、本当は私がちゃんと断っておけばよかったの。だから青ちゃんは悪くなくて……本当に悪いのは、私で……」

 じんわりと、両目に涙を貯めながら言う里田さん。最後の方はもう上手く喋れていなかった。

「殴られたのは僕が必要以上に煽りすぎたからだよ。だから、里田さんが責任を感じることなんか無いからね」

「……でも、私が……私のせいで……」

「つーか何よりも悪いのは染谷だ。なんだよアイツ、そりゃ僕の言い分にも悪い所はあったけどさ、でもそれで普通殴るか? 気に入らないから殴るって何処の蛮族だよ。ねぇ青山さん」

「そうね! この件に関しちゃ百パーセント染谷が悪い!」

「そうだよ、だから里田さんが気に病む必要なんてないから」

「……また仲直りできる?」

「余裕余裕。男って生き物は想像以上に単純なんだ。だからこうやって喧嘩もするけど、仲直りするのもかなり早い。その上アイツは男の中でも特に単純馬鹿だから、明日になったら今日のことなんてケロッと忘れてるさ」

「ふふ、それは言いすぎじゃないかなぁ」

 里田さんの微笑みを見た僕は、ほっと息を吐く。そして内心で染谷に謝る。

 すまん、お前がデートに誘おうとした女子なのに、蛮族だとか単純馬鹿だとか、悪い印象を与えてしまった。でも、こんなことになったらもう無理だろ。

 ――って、あれ? 

 なんか変だぞ。

 そもそも、何で染谷は里田さんを誘おうとしたんだ? 

 あいつには彼女が居るじゃないか。恋人が大切だから、他の女とは深く関わろうとしなかったんだろ?

「……もしかして、別れたから?」

 咄嗟の思いつきだが、それ以外に考えられない。

 ここ最近、僕と遊ぶことが多かったのは――彼女と一緒に居られなくなって、時間を持て余していたから?

 でも、もしそうだったとしても、腑に落ちない点がある。

 僕の想像通り、付き合っていた彼女と分かれていたとしても、何故里田さんを選んだのか理由が分からない。

 染谷は外見が良いからモテる。だから、無理に選びさせしなければ新しい相手なんてすぐに見つけられるだろう。なのに、染谷は執拗に里田さんを誘おうとした。青山さんの後ろで震えている姿を見れば、怯えていることくらい分かる筈なのに。

「染谷が里田さんを選んだ理由……」

 僕は痛む頭を回転させ、今日の染谷の言動や行動を思い浮かべる。

 朝の染谷は、心ここにあらずといった様子でボーッとしていた。

 昼は直接見ていないが、里田さんを誘っていたらしい。

 そして今しがた、僕と口論になり、カっとなった染谷に殴られた。

 ふと、そうなる直前に言っていた言葉を思い出す。



『いつもの俺ってなんだよ、お前、俺を理解したつもりになってんのか?』


『言った所で並木には理解出来ねぇよ』



「――ってことはつまり、里田さんなら理解出来るってことか」

「え、私ならって……並木くん、どういうこと?」

 きょとんとする里田さんに、僕は言う。

「あのさ、里田さん。学校以外の場所で染谷と関わることってある?」

「えっ!?」

 僕の質問に、里田さんは小さな体をビクリと震わせ、目を大きく見開いた。ただ聞いているだけなのに、この反応はおかしい。

「えっと、その、これは本人の名誉の為にも言わない方が良いと思うんだけど……ていうか、私もあまり自分から堂々と言える内容ではないというか……」

「分かった、その反応はアニメ伊藤だ」

 もじもじしている里田さんよりも早く、青山さんが答えた。

「あ、青ちゃん!」

「だいじょぶだいじょぶ、並木はそんなことで態度を変える奴じゃないから。ね、並木」

 聞きなれない単語に僕が首をかしげていると、青山さんは丁寧に教えてくれた。

「アニメ伊藤は、有名なアニメ専門店のことよ。DVDや漫画だけでなく、色々なグッズが置いていて、まぁオタクな連中が利用する店のことね。ここから駅四つ分くらい離れた所に店舗があって、熱心なファンは通いつめてるそうよ」

「へぇー」

「ちなみに並木はアニメ見る? 漫画は?」

「いや全く」

「面白いのが欲しくなったら里田ちゃんに借りるといいよ、山のように持ってるから」

「うえぇぇーん! 青ちゃん止めてよぉー!」

 先程とは別の意味で涙目になった里田さんは、ぽかぽかと青山さんを叩く。だが青山さんにはまるで効いておらず、あはははは、といつものように笑っている。

「酷いよ青ちゃん、まさか並木くんにバラしちゃうなんて! こうなったら、私も青ちゃんの秘密を言っちゃうんだから! ……あのね並木君、青ちゃんは百合が好きなんだよ」

「わああー!! ストップストップ!!!」

「ゆり……って、どういう意味?」

「えっとね、百合っていうのは――もががもが!」

「あははははは! 並木、気にしなくていいから! この娘ただのアホだから」

「――もがもがもががが!!」

「えぇい、まだ口を閉じぬかぁ、もうトーン削ったりするの手伝わないぞ、このぉ」

 何かを言おうとした里田さんの口を、青山さんが強引に押さえつける。抱き合ったり、手を繋いでいる姿を見かけることはあるが、これは女子同士がするスキンシップの中でも、かなり過激な部類だろう。なんだか珍しいものが見れた気がして、僕はつい笑ってしまった。

「笑うなんて……並木くんも酷いよぉ」

 解放されていた里田さんは、睨むような目で僕を見る。だけど、持ち前の穏やかさのせいで全く怖くない。それどころか、むしろ可愛いから逆に困る。さらに笑ってしまいそうになった僕は、ごまかす意味も含めて感謝を伝えた。

「ありがとう、里田さんのおかげで分かったよ」

「え……分かったって、染谷くんのこと?」

「うん、大体だけど、もう十分だろ。――さて、教室に行って仲直りしてこなきゃな」

 僕は椅子から立ち上がり、ぐっと伸びをする。頭がまだちょっとだけ痛いけど、別に動けない程じゃない。携帯を手に取り、時間を確認する。その時、ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴り響く。

「……ホームルーム終わっちゃったね」

 そう呟いた里田さんの表情には、どこかしら影があった。

「染谷が怖い?」

「実は、ほんの少しだけ……」

 僕が聞くと、申し訳なさそうに答える。

 今日の一件で、染谷に対する悪い印象が強まってしまったのだろう。人の意思を無視して強引に誘おうとしたり、僕をゴツンと殴ったり――確かにそれだけのことを見ていれば、染谷が酷い人間にしか見えないのも仕方ない。

 だけど、僕は染谷が良い奴だってことを知っている。

 僕が悩んでいると、頼んでもいないのにあいつはやってくるから。

「もう大丈夫。染谷はあの時、僕を殴った時点で元に戻ってた。やっちまったっ! って後悔すらしてたよ」

「え……あの一瞬で、そこまで分かるものなの?」

「なんだかんだで僕等は友達だってことさ。だから安心して」

「……並木くんがそう言うなら」

 意を決したのか、里田さんは小さな掌をぎゅぅと握り締める。

「よし、それじゃ戻ろっか。鞄取りに行かないとね!」

 青山さんが暗くなった空気を吹き飛ばすようにして、元気よく言う。

 だが、その必要は無くなったようだ。

 ガラリと扉が開けられ、その手に三つの鞄を持った大塚さんが現れる。

「アンタたちぃ、簡単な手当に時間を掛け過ぎじゃないのォ?」

「貴子ちゃん、それ、私達の鞄?」

 里田さんの驚きに、大塚さんはニヤリといやらしい笑みで返す。

「そうよォ、並木の分も持ってきたやったからァ、ありがたく思いなさァい」

「ど、どうも……」

 中央の丸テーブルの上に、どさどさと鞄が置かれていく。僕等はそれぞれ自分の鞄を掴むと、保険室を出ようとしたが――またもや、僕の前に巨体が立ちはだかる。

「並木は駄目よォ。見たところ、保健室の先生は居ないんでしょォ? 勝手に道具を使ったことも報告しないとォ」

「あ……それもそうか。でも出来れば、さっさと染谷と話したいんだ。後々にするとこじれそうで面倒だからさ」

「残念ながら、それは不可能。なぜなら染谷はアンタを殴った直後に鞄を持って出て行っちゃったのよォ。もう学校には居ないわァ」

「ま、まじすか」

「ソッッ! だから今日は諦めて大人しくしてなさァイ、それじゃ先生が来るまでそこに居ておきなさいよォ」

 大塚さんは、相変わらずの大股で保健室を跡にした。それに続くように、 青山さんと里田さんも外にでる。

「じゃあね、並木。私も急ぐから行くね」

「並木くん、保健室の先生が来たら、一応ちゃんと見てもらってね」

 二人の退出を見送った僕は、保健室の扉を閉じた。

 携帯を取り出し、画面を見ながら語りかける。

「ようやく二人きりになれたよ、アラクネさん」

『ようやくですか、全く……心配しましたよ。大丈夫ですか?』

「平気。額が少し切れただけで、ちょっと痛いくらい」

『そうですか……』

「さて、アラクネさん。先生が来るまでに色々聞かせて貰うよ」

 僕は椅子に座り、丸デーブルの上に携帯を置いた。

 僕は今までに思いついたことをまとめ、話して聞かせる。

「ここ最近、僕は染谷とよく遊んでいた。僕と染谷は友達だから、普段からよく遊んでいるし、それ自体に違和感は無い。だから僕は何も気付かず、いつも通りの感覚でその誘いに応じていた」

 だけど、染谷の本当の目的は気晴らしだった。

「彼女と分かれてしまった染谷は、ゲーセンに行ったりカラオケに行ったりして、精神的な傷を癒そうとしていたんだ。――こんなのはただの推測でしかない。だけど、僕の周辺を調べていたアラクネさんなら分かるよね。染谷は彼女と別れていたんじゃないの?」

『そうです。染谷君が別れたのは一週間前、並木君と頻繁に遊ぶようになる直前です』

「やっぱり……」

 アラクネさんの答えを聞いて、ただの想像が確信に変わる。

 だが、気になる点は他にもある。正しいと答えたアラクネさんは、いったいどうやって事実を知ったのか……最も気になる大事なことを、僕は素直に聞く。

「ていうかアラクネさん、それよりも僕が気になるのは君のことだ。一応聞いておくけど、染谷の部屋に勝手に入って監視カメラを仕掛けたりしてないよね?」

『そんなことはしません。私がそこまで手間暇を越さえる相手は並木君だけです』

 安心していい……のかな?

 僕が無言になると、アラクネさんは詳しい説明を始める。

『やることは基本的に、張り込みと尾行を数日続けるだけです。まずは並木君の生活を調べ、数日中に出会った人間をメモします。その中から、最も出会う回数の多かった人間から順位付をしていって、上から順番にまた尾行します。そこからまた並木君に繋がりそうな情報を求め、無いなら切り上げる。それを何度も何度も繰り返しました。まぁ一応、表情の変化等もメモりはしますが……並木君の場合はそっちの方が分かりやすかったですね。青山霞への好意なんて、一発でお見通しでした』

 ……うん、簡単に言うけど、それってとんでもない手間暇じゃないかな? 良く言えば探偵じみた調査で、悪く言えば徹底したストーカーとも言える。あまりにも地道で、大変な作業。まるで、僕自身を中心に蜘蛛の巣が張られているようだ。並木から始まる糸が、染谷や青山さんへと伸びていき、それらへと繋がると、次はそこから別に人へと伸びていく。アラクネさんは僕の人間関係を辿って、僕という人間がどういう存在なのか調べようとしたのだ。

『私は並木君を知るために、その周囲を徹底的に洗いました。本人だけでなく、その周囲からも情報を得ることで、並木君の周囲で起こるトラブルをいち早く察知し、解決への糸口を見つける。それがアラクネ流、並木君を護る術なのです』

「アラクネさんって、外に出るんだね。引きこもりがちな印象があったよ」

『私だって学生ですから、学校にも行きますし、買い物だってしますよ。そして今も並木君の為に行動中です』

「え?」

『私は今、染谷君を尾行しています』

「えぇぇ!?」

 僕の驚きに対して、さも当然のようにアラクネさんは答える。

『先程までの話は全て聞いていましたからね。並木君が染谷君と話したがっていると知れば、私はどんな手を使ってでもその願いを叶えます』

「でもどうやって見つけたのさ? 尾行するにしても、学校から何処へ行くかなんて分からないだろ? もしかして、アラクネさんは実はこの学校の生徒で、下駄箱で待ち伏せしてたとか?」

『いえ、私はこの学校の生徒では無いです。もしそうだったら、荒久根という名前を明かしている時点で、顔がバレてしまいますから』

「なら尚更どうやって?」

『簡単なことですよ。染谷君は電車通学なので、駅で待ち伏せしただけです。後は同じ電車に乗れば、それでおkです』

「でも、駅まで来ない可能性だってあったろ」

『その時は素直に諦めますが……まぁ、その、こうして並木君と話し始めるまでの潜伏期間が、それなりに長かったので……来る確信はありました。今向かっている先も、十中八九予想通りでしょう』

 僕は少しだけアラクネさんの行動力に恐怖を感じたが、僕以外の人に犯罪的な行為をしていないと知り……まぁ、尾行と張り込みが犯罪じゃないとは言えないけど、カメラと盗聴器を使っていないというだけで胸のつかえが取れた気分だった。

 ほっとした僕は背もたれに全身を預ける。

『あ、染谷君が降りました。ここで降りるということは、行き先はやはりあそこでしょうね』

「先生が戻ってきたら、僕もそっちに行くよ」

 僕はそう言い、返信を待つ。今頃、電車から下りて駅内を歩いているのだろう。普段は声を文字に変換するソフトを使ってメールを送っていると聞いているが、外にいる今はそれも使えないだろうし、手元を見ながら染谷を追うのは忙しいだろうな。

 僕がぼんやりとそんなことを思っていると、携帯がぶるぶる震えた。

『……あの、ここまでサポートしておいて何ですけど、先に病院に行った方が良くないですか? やっぱり心配になってきました。頭を打って死ぬ病気ってあるじゃないですか』

「ははは、アラクネさんが染谷の居場所を報告してくれた時点で、その選択枝は消えたちゃったよ。ありがとね、背中を押してくれて」

 嫌味な発言だと自分でも思う。だけど、感謝の気持ちも勿論ある。

 勉強にしても、この件にしても、今日の僕はアラクネさんに助けられてばかりだ。

 返信はしばらく来なかった。尾行に集中しているのだろう。予想通りの駅に降りたからといって、目的地までが一緒とは限らない。まさか! と驚いてしまうような、思いもよらない場所へ行く可能性だってあるのだ。そういう意味で、アラクネさんは油断しないだろう。

 人間は分からない。他人なんて特に。……まさか、知らないあいだに染谷が彼女と別れていて、しかも思いっきり殴られるだなんて夢にも思わなかった。

 だけど、アラクネさんは他人なんて分からないものだと知っているから、徹底した調査を行う。結果、染谷の友人で、なんとなく知った気でいる僕よりも、アラクネさんの方が圧倒的に詳しい。

 その事実が、少しだけ悲しかった。

「アラクネさんが僕に嘘を吐かない理由が、今ならなんとなくわかるよ」

 僕がぽつりと言う。電波の向こうで聞いてくれているかは分からない。

 アラクネさんは、僕に信用されたいのだと思う。顔と名前を明かさず、それでも仲良くしたいから、僕の為に行動してくれる。私は使える人間ですよ、と存在価値をアピールしつつ、一見すると陰湿な自分のやり方を全て話し、僕を安心させようとする。

 そんな想いが分かっているからこそ、僕は言いたい。

「僕は、こうしてアラクネさんと話しているこの時間が、割と好きだよ」

 テーブルの上に肩肘を突き、先生が来るのを今か今かと待ち続ける。

 早く現地に行きたくて、僕の体はうずうずしていた。


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