VR症候群
VRマシンというものがある。VRとはバーチャルリアリティー、つまりは仮想現実のことだ。VRマシンは装着者の意識を仮想世界で作られた仮想の肉体に接続し、仮想世界での活動を可能とする代物である。俺はこのマシンでVRゲームを遊び尽くしていた。剣と魔法のRPG、宇宙を舞台にした戦略ゲーム、大量の敵を斬りまくる爽快な無双もの、可愛い二次元女子を攻略する恋愛ゲーム、学園を舞台とした異能バトルなどなど、多彩なラインナップをこなしていた。
そして今日、俺は新たなジャンルのVRゲームを入手した。そのゲームの名は、『リアルワールド・イフシミュレータ』、通称〈RIS〉。 このゲームがどんな内容なのかと言うと、仮想現実の世界で現代に生きる人間の人生をシミュレートするというものである。これだけ聞くと「それって面白いの?」という声が聞こえてきそうだが、詳しい説明を聞けばそんなことを言うやつもぐっと減るだろう。こんなことを思ったことはないだろうか。『あーあ、俺にもっと才能があればなぁ』だとか『もっといい環境にいれば違う人生が歩めたはずなのに』だとか、つまりは『イフ』。それを実現するのがこのゲーム、〈RIS〉なのだ。〈RIS〉では最初に与えられるポイントを使って産まれてくる環境を選べたり擬似的な才能を得たり、容姿を調整することなどが可能である。つまり人生を仮想世界でやり直すことが出来るのである。
自慢じゃないが俺の人生はろくなもんじゃなかった。幼い頃に両親と死別し、その後は親戚の家をたらい回しにされ最終的には孤児院に預けられた。容姿も才能も恵まれていなかった俺は孤児院でいじめという名の気晴らしの標的にされたりもした。それでも、義務教育を終えた後、何とか就職をして孤児院から脱出し、自分でお金を稼げるようになった。しかし、さらなる不幸が俺を襲った。会社に行く途中で事故に巻き込まれ、半身が不随となってしまったのだ。原因は交通事故。トラックの運転手の居眠り運転によって俺は跳ね飛ばされたのである。
まあそのおかげで保険金や特別手当てでVRマシンや必要な設備を購入し、仮想世界に入り浸ることが出来たのだが。
そして、だからこそこのゲーム〈RIS〉が俺には必要なのだ。現実はリセットすることが出来ない。それが故に嫌なことや理不尽なこと、死にたくなるようなことがあっても歯を食いしばって生きるしかない。だがゲームの中なら話は別だ。容姿や環境、能力値などはある程度ゲームを始めるときに決めることが出来るし、それでももし上手くいかなければリセットすればいい。人生に成功した奴らから見ると、自分で設定した環境で擬似的な人生を歩み無意味な満足感を得ることなど下らない自慰行為に見えるかもしれないが、俺のような失敗者にとってはこのゲームは『救い』なのだ。
俺はこのゲームで俺の人生を取り戻すことを決意する。俺はVRマシンを頭にセットし、スイッチオン。マシンが静かに唸りをあげる。目蓋を閉じて体をリラックスさせると、意識がゆっくりと闇の中に落ちていった。
気が付くと俺は簡素なパイプ椅子に座っていた。周りを見渡すとどうやら俺は小さな部屋にいるらしい。〈RIS〉の体験版と同じ始まり方だった。
俺が「設定」と念じると目の前にウィンドウが現れる。パラメータ設定のウィンドウだ。俺は容姿、能力、環境などを設定していく。それぞれどのように設定するのかは体験版を遊んだ時点で既に決めてある。資産家の息子で、容姿は並より上、能力は知能を高めに設定し、スキルは〈度胸〉〈幸運〉〈カリスマ〉などを取得しておいた。完全にコンプレックスの裏返しだが俺は気にしない。現実じゃできないことをするのがゲームだ。
設定を終えた俺は一旦ログアウトすることにした。そのまま始めても良かったのだが、ちょうどきりの良い0時から始めようと思ったからだ。別に競うゲームじゃないから焦ってプレイする必要はない。設定を保存してからログアウトと念じると意識がふわりと浮きあがるような感覚に包まれる。魂が抜けるというのはきっとこんな感じなのだろう。時計を確認すると今の時刻は夜の10時。あと二時間だ。それまでに用事を済ませてしまうことにした。
俺は腹ごしらえとトイレを済ましてテレビジョンを付けた。テレビではVR症候群の特集が放送されていた。不快だったのですぐにチャンネルを変えた。
VR症候群というのは簡単に言えば現実の世界を虚構の世界だと思い込んでしまう病だ。VRゲームが台頭し始めてから「所詮この世界は仮想世界だから本気になっても意味がない」と無気力になった者や、「クソゲー過ぎるからパラメータを振りなおす」などと自殺する者が増加したと言われている。さらに、〈プレイヤー〉を名乗る者たちによって新興宗教が作られたりもした。そして自分の中だけで完結するならまだ良いのだが、「どうせこの世は仮想世界なんだからやりたい放題にしてやる」と凶行に走る者まで現れる始末。それによりVRゲームを規制するべきだという声が大きくなってきている。まったく、迷惑な話だ。妄想するのは勝手だが他の人に迷惑をかけないでほしい。
チャンネルをザッピングしながらそんなことを考えているとチャイムが鳴った。おいおい、今は夜の10時だぞ。一体誰だよ。そう思ってインターフォンを見るとそこにあったのは孤児院時代からの知人、篠田の顔だった。篠田のかを見るのは篠田が俺の見舞いに来て以来である。篠田と俺の関係は、いわゆるいじめられ仲間というやつ
だった。孤児院ではいつも二人していじめられていた。懐かしいがあまり思い出したくもない思い出でもある。
「お、篠田か。久しぶりだなぁ。こんな遅くに何の用だ?」
暗い表情をしていた篠田を安心させてやろうと思った俺はわざと明るい口調でもって篠田へと呼びかけた。
「あ、ああ。こんな遅くに来てしまって済まない。実は君にちょっと頼みがあってね」
「頼み?」
「実は……」
そう言って篠田が語ったのは事業に失敗して一文無しになったことと、家事でも何でもやるからその代わりに仕事と住む場所が決まるまで泊めてくれないかということだった。知人のよしみということで俺は快く了承した。それを聞いた篠田はほっとした顔をしていた。
「狭いところだけど、まあ自分の家だとでも思ってくつろいでいってよ」
「ありがとう、助かるよ」
それからしばらく俺たちは今までのことを語り合った。篠田は仕事を馘首になって恋人には振られ事業を起こすも失敗、住むところも追い出されたという。話を聞くと篠田も俺に負けず劣らずろくな人生を送っていないようだった。
0時前になった。俺は篠田にVRゲームにログインすることを伝え自室に戻った。
俺はベッドに寝転がりVRマシンを頭にセットし、スイッチをオン。一瞬の闇の後、沈み込むような感覚が体を包み、俺は再び仮想世界の小さな部屋へとやってきた。ウィンドウを展開し、プレイ開始のボタンをタップする。〈RIS〉ではゲームを開始する際にキャラクターの年齢もセットすることが出来る。つまり赤ん坊から始めることも高校時代から始めることも可能だということだ。俺は丁度物心のつくあたりであろう5歳から始めることにした。しばらく操作してみて、5歳児の体に慣れたら〈忘却モード〉を使うことにしよう。
〈忘却モード〉というのはVRマシンに備わっている機能で、この機能を使うと、ゲームをプレイしている間のみ現実世界のことを忘れてしまうというものだった。これは仮想世界にのめり込みたい人のための機能であり、現実世界のことを考えるとせっかくの雰囲気が台無しになるからという理由で付けられたものだ。もちろん、ログアウトすると記憶はちゃんと甦るようになっている。忘却と言うより封印と言う方がより正確かもしれない。
俺はベッドの上で目を覚ました。そのベッドはとても柔らかく高級なものであることはすぐに分かった。体を見るとちゃんと5歳相応のものとなっている。部屋にある鏡で顔を見ると設定した通りの愛らしい顔となっていた。部屋から出ると広い廊下があった。さすが資産家だ。そのまま居間に向かうと居間には両親がいて、二人は俺のことを認識すると「おはよう」とあいさつを交わした。両親は二人ともノンプレイヤーキャラクターだ。しかし、ノンプレイヤーキャラクターには高度なAIが備わっているので、現実世界で普通に会話しているのと変わらず、滑らかな会話を楽しむことができる。ゲーム内のキャラクターが決められたセリフしか喋ることが出来ないのは昔の話だ。
俺はしばらくゲームの中で5歳児として過ごした。仮想世界で優しい両親と遊んでもらったりして過ごすのは何だか気恥ずかしいものがあったが、それと同時に現実世界で幼い頃に両親を亡くしたことを思い出し、もの悲しい気持ちになった。まあ、そんなときのための〈忘却モード〉なのだが。
そして、それが起こったのは突然のことだった。何だか息苦しくなったと思ったら頭の中で警告音が鳴り響いた。
『警告、警告。強制ログアウトします』
意識が浮きあがる感覚が生じ、視覚がプツリと切り替わった。
目を開くとそこにいたのは篠田だった。篠田は無表情で俺の首に手をかけている。息苦しくなったのはそれが原因のようだった。
どうしてこんなことをするんだ。
そう言おうとしたが絞められた咽喉ではうまく発語することができなかった。
「ふざけるなよお前俺とお前は同じはずなのになんでお前だけがこんな暮らしをしてるんだちくしょうちくしょうゲームばっかりしやがってくそくそ俺は苦労してるのに■■■って理由だけで国に甘えやがって俺の払った税金返せよくそが許さねえ許さねえぞこの■■■野郎が■■■のくせに■■■■■■■■■」
ぶつぶつと何やら呟いている篠田の声が聞こえてきたが酸欠で頭が朦朧とし始めた俺はそれどころではなかった。篠田の手を払いのけようとするが力がうまく入らない。やがて息苦しさが限界を迎え、俺の全身を痺れにも似た脱力感が襲った。その感覚はVRマシンのログアウトするときの感覚によく似ていた。
そして目を覚ますとそこはベッドの上だった。
「あれ……? ここは……」
確か俺は篠田に首を絞められていたと思ったのだが……。
そこは〈RIS〉を開始したときの部屋によく似ていた。
まさかここはまだゲームの世界なのか?
そう思って自分の体を見るとそこにあったのは5歳児の体──ではなく、ちゃんとした成人男性のものだった。しかし、半身不随ではなく、五体満足である。
俺は慌てて部屋にある鏡で自分の顔を確認すると設定した通りの愛らしい顔──を20年ほど成長させたような顔がそこにはあった。
そして自らの存在を認識した途端に、堰を切ったようにして記憶が甦った。
俺は資産家の男だった。優しい両親のもとで健やかに成長し、容姿や才能にも恵まれ、金にも女にも不自由せずに暮らしている、そんな男だった。
恵まれた環境で育った俺は、すべてが上手くいく現実に退屈を覚え、いくつものVRゲームに手を出した。仮想の世界は楽しかった。剣と魔法のRPG、宇宙を舞台にした戦略ゲーム、大量の敵を斬りまくる爽快な無双もの、可愛い二次元女子を攻略する恋愛ゲーム、学園を舞台とした異能バトルなどなど、多彩なラインナップを遊び尽くした。そしてある日、とあるVRゲームと邂逅する。そのゲームの名は、『リアルワールド・イフシミュレータ』、〈RIS〉だった。
何をしてもうまくいく人生に嫌気がさしていた俺は、苦労する人生というのを体験してみることにした。苦労している人の心情を知りたかったのだ。恐らく高校生あたりのころ、友人に「お前には出来ないやつの気持ちがわからない」と言われたことが、さながら魚の小骨が咽喉に引っかかるようにして心の何処かに引っかかっていたのだろうと思う。
俺は〈RIS〉の世界で遊ぶにあたって環境や容姿、能力などを低レベルに設定した。
そして俺はゲームの世界で不幸な人間として育った。〈忘却モード〉を使って。
俺はゲームの中でろくな人生を歩むことが出来なかった。幼い頃に両親と死別し、その後は親戚の家をたらい回しにされ最終的には孤児院に預けられた。容姿も才能も恵まれていなかった俺は孤児院でいじめという名の気晴らしの標的にされたりもした。それでも、義務教育を終えた後、何とか就職をして孤児院から脱出し、自分でお金を稼げるようになった。しかし、さらなる不幸が俺を襲った。会社に行く途中で事故に巻き込まれ、半身が不随となってしまったのだ。原因は交通事故。トラックの運転手の居眠り運転によって俺は跳ね飛ばされたのであった。つまり、俺の願いどおりの不幸に塗れた人生だった。想定外だったのはVRゲームの世界の中にVRゲームがあったことだった。しかも現実のものと同じ〈RIS〉。その世界で俺は、現実世界の俺が恵まれない環境に生まれることを望んだのと同じように、恵まれた環境に生まれることを望んだ。皮肉なことに、俺は恵まれていても恵まれていなくてもVR世界にのめり込み、ゲームの中に正反対の環境を求める運命にあったようだ。
一般にVRゲームのログアウトにはいくつかの種類が存在している。ゲーム内での操作による任意ログアウトとタイマーによる自動ログアウト、そしてVRマシンの機能による緊急ログアウトだ。緊急ログアウトというのは現実の世界でユーザーの肉体が危機的状況に陥っている可能性──例えば、誰かに危害を加えられたりだとか──がある時に行われるものだった。例外としてはVRマシンを外されたことなどによる物理的な切断や運営がメンテナンスをするために行われる強制ログアウトなどがある。また、〈忘却モード〉を使っているとゲーム内から任意でログアウトすることが出来なくなるので、タイマー設定によるログアウトか、〈死〉による自動ログアウトに頼ることになる。ちなみに〈死〉による自動ログアウトは記憶が混乱しないようにするための措置だ。今回俺が現実世界に戻ってきたのも俺が命を失ったことで発生した自動ログアウトによるものである。
俺はふかふかのベッドに座って水を一口飲み、咽喉を潤した。
そこで俺はふと疑問を覚えた。
俺は〈RIS〉の世界の中にいるとき、自分がゲームの中にいるのかもしれないという疑念を抱くことはなかった。それはその世界に確かなリアリティを感じることが出来たからだ。篠田に首を絞められたときもそうだ。あのときに感じた苦しさは確かに本物だった。しかし、今となってはどうだろうか。現実だと信じていたところは実は虚構だったのだ。もしかして、俺が今いるこの世界も虚構なのではないだろうか。
そこまで考えたところで急に恐ろしくなった。今まで確かなものだと思っていた土台が崩れ落ちるような感覚に見舞われた。俺は自分の手を見た。指紋や掌紋の細部まで視認する。確かに現実だ。確かに現実のはずだ。
そのとき、どこからともなく軽快な音が鳴り響いた。その音は俺の頭の中で響いているようだった。そしてそれに次いで女の声が聞こえてきた。
『ユーザーの皆さま、いつも〈RIS〉をご利用頂き、ありがとうございます。これより定期メンテナンスに入りますので、ユーザーの皆さま方には10秒後にログアウトの措置を取らせて頂きます。メンテナンス終了の予定時間は6時間後となっています。これからも〈RIS〉を、よろしくお願いいたします』
笑うしかなかった。