05『たかが挨拶だろ、気にするな』
恋が熱しやすく冷めやすいことは知っている。俺のこの想いもいつか冷めるのかもしれない。だったら遠距離恋愛なんかしない方がいい。追いかけて京都で就職なんて馬鹿げてる。
ずっと東京にいるのがいいんだ。東京にはくさるほど女はいるし、京都と比べ物にならないほどの就職口がある。
自分に言い聞かせる自分がいる。ずっと、俺を制御し続けてきた理性とか良心とか、そんな類の俺の心だろう。
だが、今、俺を突き動かしているのは、今までずっと俺の中で眠っていた心だった。
来年就職できなくてもいい、その挙句理子さんに振られる羽目になっても、全てが無駄骨になっていい。
今は、俺を突き動かしている情熱には逆らいたくないんだ。
新幹線までの電車の中で理子さんにメールを打った
『今、京都に向かってる』
すぐに返事が返ってくる。
『あたしの言ったこと、分かった?』
またすぐにメールを返す。
『「二度と会わない」』
「さよなら」の反対は「こんにちは」とか「おはよう」だ。
「はじめまして」は基本的に一人に対して、一度しか使わない。そしてそれ以前は会っていない。だから、その反対の意味を考えれば、俺の出した答えの通りになる。
『だったら?』
『たかが挨拶だろ、気にするな』
これが、俺の出した結論だった。もう、初めて会ったからって「はじめまして」ということは減っている。夜だって「おはようございます」という業界もあるくらいだ。
たった一つの挨拶ごときで俺が止められてたまるか。
もう一度返信が返ってきた。
『中央口で待ってる』
人生で一番もどかしい二時間強が過ぎた。俺は大分前から扉の前に張り付いていて、扉が開くと同時にホームに飛び出す。
中央口は駅ビルの一階部分に広く取られた改札口だった。そして、その先に、俺の会いたかった人はいた。
「六時間ぶり……やね。まさか当日に来るとは思わんかっ……ちょっ――」
「挨拶はいらないだろう? 会いたい女に会ったら抱きしめるってのは間違っているか?」
「………ううん」
ゆっくりと俺の背中に、理子さんの手が回されるのを感じる。一度離し掛けた女だけに、抱き心地もひとしおだった。
抱き合ったまま、耳もとにささやく。
「もう一度言う。俺は理子さんが好きだ」
「……うん」
自然と理子さんの声もささやきになる。小さな声だけど、抱き締めあっているおかげか、声を全身で感じ取れる。
「迷惑か?」
「……ううん、嬉しい」
望む答えを得られて、俺は酷く安堵し、もう一度きつく抱き締めてから、理子さんを解放した。自然と目が合い、お互いに気恥かしそうに笑う。
腹が減ったので近くにあるコンビニで軽食を買うことにした、俺達は京都駅ビル前に広がる広場のベンチに座って食べる。フィッシュアンドチップスの魚のフライをかじりながら京都駅ビルを見上げると、俺は思わず感嘆の息を漏らした。
「駅ビルに移る月と京都タワーか、都会の景色なんだが妙に風流だな」
「京都タワーはそんなに高さないんやけどね。それなりに味があるでしょ」
カフェオレに口をつけながら嬉しそうに理子さんは答えた。
「これからどうするん?」
「実は、京都で就職口を見つけようと思ってる」
「こっちって……ええの?」
せいぜい遠距離恋愛を想像していたのだろう。理子さんは驚いた様子で聞き返してきた。
「俺がそうしたいんだ。その代わり、理子さんも京都から出ていかないでくれよ。二度の移動は無理だからな、さすがに」
照れ隠しに付け加えた言葉に、理子さんがくすくす笑った。
「うん、努力する」
自然と視線が絡み合い、俺達は吸い込まれるように口づけを交わす。
至近距離で視線を合わせたまま、俺は気になっていたことを尋ねた。
「そういや、結局、あの『はじめまして』の真意は俺の答えで合ってた?」
「半分だけ。あたしも……怖かったから」
怖いというのは遠距離恋愛の事だろう。一筋縄ではいかないことは想像に難くない。自信がなかったからいっそ見切りをつける意味でああ言ったのだろう。
「もう半分は?」
「正人君のことなんよ。今までは誰がいなくなっても変わらない正人君やったけど、あたしを好きになってくれて、あたしがいなくなったら寂しいって思うようになった正人君に『はじめまして』って言いたかったんよ」
「……なるほど」
俺は今まで、執着というものをしたことがなかった。来る者は拒まない、だが離れていくものを留めようとしない。離れた女を京都まで追いかけるような執着なんざ、今までの俺からは考えられないことだった。
俺と理子さんが出会って、変わったのは理子さんだけじゃなかった、ということか。
俺はもう一度、京都駅ビルに移る月と京都タワーを見上げた。
これから俺が何度となく訪れ、いずれ住むようになる街、
そして、ここから始まる理子さんとの関係。
春は出会いの季節だ。
出会うのは人だけじゃない、場所や出来事もそうだ。
俺はこの春、たくさん出会うような気がする。
それぞれに、たった一度の『はじめまして』に。
(別れ際のはじめまして 了)