02『あたしなら落ち込むけどなぁ、友達と喧嘩したら』
年が明けて一月も後半に差し掛かった。寒さは厳しさを増し、俺の上着はパーカーからセーターとコートになっている。
「今日はメシ、自分で作ってきてるんだ」
食堂で、理子さんの姿を見かけた俺は、その向かいにカツカレーを乗せたトレイを置きながら言った。理子さんの前には小さな弁当箱が広げられている。
「残念ながらたこ焼きもお好み焼きも入ってへんけどね」
「そういや京都ってたこ焼きやらお好み焼きって感じはしないな。京都って」
「有名なところなら漬物とかやね。土産物なら八ツ橋とか和菓子系もそれなりに」
そういって、弁当箱の隅に盛っているつぼ漬けを摘み上げながら答えた。
あの合コンの日から俺と理子さんは、会えば一緒にメシを食うようになっていた。特に昼食は必ず食堂でお互いの姿を探すようになるほどだ。
四年生ともなれば、あとは卒業論文くらいで特に授業に出る必要性はなさそうだが、理子さんは『せっかく授業料を払ってるのに、出れる授業に出ないのはもったいない』と、時間割をほとんど講義で埋めていた。そのおかげで会う機会は結構ある。
もともとの命題である「一人になると寂しいのか」という答えは結局うやむやになっていた。理子さんもなんだかんだで、俺だけじゃなく、相沢や池西も含めて話すことも多くなり、だんだん人と触れ合うことに慣れてきたようなので、その態度こそが答えなのかもしれない。
そこによろよろとギターケースを担いだタワシ頭が混ざってきた。目は落ち窪み、濃い隈ができている。
「相沢……やつれたな」
「……まあな」
はあ、と大きなため息をつきながら相沢は俺の隣に腰を下ろした。
「中尾さんと何かあったん?」
理子さんの指摘は的確だったらしい、相沢は目に見えて肩を落としがっくりと首を垂れた。
「正人ぉ、いっそ俺を殺してくれぇ!」
「のわぁ!?」
相沢の目には俺のカツカレーは入っていなかったらしい。がばりといきなり抱きつかれて、俺は昼飯を危うく床にひっくり返すところだった。
「お、落ち着けぇ! どうした?」
「亜里沙のやつさぁ! 浮気してやがったんだ!」
亜里沙というのはあの合コンにいたダンサーの女子・中尾の下の名前だ。あの合コンがきっかけで相沢と中尾は付き合っていた。
クリスマス前なんぞ、あまりにのろけてうるさいもんだから、こいつのレッド・スペシャル(※ブライアン・メイの愛器と同じモデルのギター。本物はブライアン自身の手作りである)を人質にとって黙らせてたくらいだ。
しかし浮気か。合コンのときは俺にも気のあるそぶりを見せておきつつ、相沢と付き合いだしたから気の多い女なんじゃないかと思っていたが。
「しかも誰とだと思う?」
「見当もつかないな」
「先輩だよ、先輩! ほら、あの合コンの時にいたろ? しかもクリスマス前からだよ。あいつ、あいつイブに俺と過ごして、クリスマスは先輩と過ごしてやがったんだよ!」
「それは……すごいもんやね……」
理子さんも呆れている。あの合コンの日、友達一人作るので精一杯だった彼女にしてみれば未知の世界の行動だろう。
「お、俺は情けなくてさぁ! 俺のギターの話とかも結構ちゃんと聞いてくれてさぁ! 今度こそいけるとおもったのに……!」
そのまま相沢はクックッとしゃくりあげてそのまま泣き出してしまった。
「相沢くん。もう彼女のことはあきらめんとしょうがないわ。残念やけどね。……でもあたしは、相沢君を尊敬するわ」
意外な理子さんの言葉に相沢が涙まみれの顔を上げた。あまりにも見るに耐えない表情なので、俺は反射的にハンカチをその顔に押し付けた。
「な、何で?」
「相沢君は振られてこんなに悔しくて悲しくなるくらい、中尾さんのこと深く好いとったんでしょ? それは全然悪くないやん。あたしはそこまで人を好きになったことないから。あたしは相沢君を尊敬する」
「……理子さん……」
相沢は、あれからひとしきり泣いた後、妙にすっきりした顔でこの場から去った。やはり、あの理子さんの慰めの言葉が利いたのか。
「出たな。さかさま理論」
「たまには役に立つでしょ。喜びと悲しみは表裏一体ってね」
すっかり弁当の中身を空にした理子さんは食堂で無料提供されている茶を啜りながらにっこり笑う。
「うらやましい?」
何がだよ、と問い返す。
「あんなふうに恋愛で泣いたり笑ったりするの」
「俺も彼女できたり、振られたりするんですけど」
自慢じゃないがその回数は相沢よりずっと多いのだ。
「でも、正人君は付き合えても特に喜ばへんし、別れても特に悲しまなさそうやと思って」
その指摘に俺は「そんなことない」と否定することはどうしてもできなかった。理子さんは浮かべていた笑みを消すと、まっすぐに俺を見て続けた。
「あたしね。正人君が友達たくさんいるのを見て、何か参考にならへんかと思って、考えたんよ。正人君が一人になったらどうなるかって」
俺はその答えを聞きたいのか聞きたくないのか。ただ、黙って次の言葉を待つ。
「変わらなかったんよ。何にも」
「変なこと言うてごめんね、気にせんといて」と、理子さんは苦笑しながら弁当箱を片付け、次の授業があるから、とその場を去った。
俺は呆然としていた。俺は友達が多いほうだ、一人じゃない、と思っていた。
だが、納得せざるを得ない。俺はいつでも実は一人だった。好かれようと努力する裏で、好きになろうと努力したことはない。いつも感情は相手から俺への一方通行で、俺からは何の感情も示した記憶はない。
「お、杉浦じゃん。どしたの? 珍しくぼーっとして」
そう言って、隣に座ったのは池西だった。そのトレイの上にはラーメンと餃子が載っている。
「いや、何でも……ない」
「何だ何だ、理子さんと喧嘩でもしたかぁ?」
「そんなんじゃねぇよ。大体そんなんで落ち込む奴がいるか!」
「そう?」
池西は、麺を箸で手繰ると、息を吹きかけて冷まし、ずるずると吸い込んだ。申し訳程度の咀嚼をするとごくりと飲み込む。
「あたしなら落ち込むけどなぁ、友達と喧嘩したら」
池西にとっては何気ない返答だっただろう、しかし今の俺には意味深長に聞こえた。
「………」
またぼうっとしていたらしい。気がつくと池西はラーメンの汁を啜りきり、餃子に取り掛かろうとしていた。
「ぷはー。ここのラーメンセット美味しいよねー。学食なのに。麺もしこしこして手打ちっぽいし、スープは本格鳥ガラ。餃子も白菜とか韮がたくさん入っててヘルシーだし、なんか下味ついててそのまま食べても美味しいし」
「………」
「またぼーっとして。喧嘩したんじゃなきゃ何で悩んでるの」
化粧で目力が強化された池西の目が俺の目を覗き込む。
「……俺って、友達多いと思うか?」
「多いんじゃないの? 相沢だってそうだし、理子さんだってそうでしょ? それにあたしだっている。他にもいっぱいいるじゃん」
「たとえば、池西は友達がいなくなったらどうなる?」
俺の問いに、彼女は口に運びかけた餃子を止める。予想していなかった質問に、その意味と意図を探っているのだろう。
「どういうこと?」
「たとえばの話だよ。そうだな、突然まったく知り合いのいない町に住むことになったとか」
「それなら、出会いを求めてうろつくかな。一人じゃつまんないじゃん」
「性格とか、態度とかは変わると思うか?」
「そりゃ、頼る人も相談する人もいなけりゃ、不安になるしね。多少引っ込み思案になるんじゃないかな」
「俺は、一人になったらどうなると思う?」
「んー……」
池西は餃子を咀嚼しつつ、考えていたが、飲み込むころには答えを出した。
「あんま変わらないんじゃないかな。誰かに頼るとかしなさそうだし」
「そうか」
あまりにも符号の合う言葉に、俺は深く息をついた。というか、俺は池西に何を聞いてるんだ。本当にどうかしてるよ。
「そうそう、そんなこと聞くなんてどうしたのって感じ。何か悪いもん食べた?」
「食中毒にならなきゃ、考え事ができないのか、俺は」
「少なくとも悩むキャラじゃないね。こういうのってうだうだ考えてても答え出ないよ」
池西は、じっと俺を見詰めると、吸い込まれるように俺に顔を近づけてくる。
視界いっぱいに池西の色っぽい顔が広がったところで、彼女は若干声を小さくしていった。
「こういうときは、何も考えないのが一番だって。気が紛れないなら、今夜あたしのカラダ貸したげよっか?」
池西は外見を裏切らず、セックスフレンドがいることを公言してはばからない男遊びの激しい女で、こんな言葉があっけらかんと出てくる。だが、本人がさっぱりした性格のせいか、あんまり下品に思えないのが不思議なところだ。
「遠慮しとく」
「なんだ。弱ってるみたいだからちょっと漬け込もうと思ったのに、残念」
だが、池西は顔を離さない。それどころか、俺の顔に手を添えてきたものである。ちょ、ちょっと待て、まさか――!
「今日はこんなところで許しといてあげよう」
誰も気づかなかった(と思う、そう信じたい)とはいえ、こんな公共の場で、俺の唇をかっさらった池西は、俺が呆然としている間に自分のトレイを持って立ち上がると、ウィンクを残して俺から離れていった。
「……なんて女だ……」
 




