Phase42: 災厄の夏 -空谷の跫音に-
「はい、珈琲入ったよ、智恵ちゃん」
「あ、どうもです。悟史先輩」
稲川はソファに座った赤坂と自身の前にカップを置き、彼女と向かい合う様に腰掛ける。赤坂は稲川に礼を言い、差し出されたカップに砂糖とミルクをドパドパと注入する。稲川は彼女の行動に対して、何も言わない。彼もまた珈琲をブラックで飲む習慣が無い為だ。りゅうが居たのならば、顔を思いっきり顰めただろう。そして、こう叫ぶに違いない。その物体は最早珈琲ではなく、珈琲風味のホットミルクだと。
何はともあれ、二人は話し合う体勢を整える。奇しくも、二人の位置関係はりゅうが榊の相談に乗っていたのとほぼ同位置であった。
「すみません。こんな時間に、練習で疲れてるでしょうに、押しかけてしまって」
「いやまぁ。別に良いって」
「すみません。……やっぱり悟史先輩って優しいですよね」
「いや、そんなことねーよ」
「ありますよ!」
「……そうかねー」
「ええ、あります」
「……」
「……」
黙りこくる二人。妙に緊迫している空気やら重苦しい雰囲気という訳ではない。青春の香り漂う、そこはかとなく甘酸っぱい雰囲気といった体だ。もし二人が恋人関係であるのならば、このまま密着体勢へと移行し、戦闘の場も寝室へと移り変わるのであろうが、生憎とそうではない。
昨今稀に見る初々しさで場は停滞する。
かちこちと近くで時を刻む時計が自己主張し、珈琲から漂う湯気が存在感を放つ。辺りに広がる珈琲の香りに誘われるように、空いた沈黙を埋めるように、二人はカップを傾けた。
幾度目かのカップの上げ下げの後、流石にこれ以上の沈黙は心臓に悪かろうと、稲川は口を開く。赤坂もそれを期待していたのだろう、稲川が行動を起こしたときに合わせて、上目遣いに彼を見遣った。
「で、さ。えーと、智恵ちゃんはどうして家に?」
赤坂の眼球がぴたと硬直する。彼女が期待していた言葉とは異なり、稲川はストレートに彼女の訪問の理由を尋ねてくる。その真っ直ぐさが今の赤坂には少々鋭すぎた。稲川に本来の精神的な余裕があれば、或いは肉体的な余裕があれば、また違った話の展開だったであろう。ただ、今日、そして今にあっては、稲川にそこまでの余裕を求めるのは酷である。
果たして、彼女は
「その……あ、先輩、お腹が空いてるんでしたよね? 私何か作ってきますよ。台所お借りしますね!」
台所へと転がるように走っていくのである。稲川はそれを眺めることしか出来ず、空きっ腹に珈琲を埋める作業を続けるのであった。
稲川の腹の虫が叫び声を挙げ、腹を食い破ろうとする前に、無事赤坂は夕飯を運んでくる。意外な程早く赤坂が夕飯を作り終えたことに稲川は賞賛すれば、赤坂はさも当たり前のような顔をして「簡単なものですから」と謙遜して答える。運ばれてきた料理は炒飯。量は増々、『オトコノコ』で存在感があるが、比較的簡単な料理だろう。
だが炒飯、されど炒飯。
数多に作り方はあれど、抑えておかねばならない点は無論存在する。早く、多くを求められようとも、そうした要点を抑えねば満足してはもらえない。ましてや、ハーレム員と称される赤坂にとっては、『彼の心を掴むにはまず胃を抑える』という金言にもある通り、獲物が目の前にぶら下がっている大チャンスと言えた。下手な炒飯は出せやしない。
ふんわりこんもり盛られた炒飯に、スプーンがざくりと突き立てられ、稲川の口へと運ばれていく。彼の口腔へ炒飯が入り、咀嚼され、飲み込まれる。その様をじっと固唾を飲んで見守る赤坂。そうして、下される審判。
「うーん……ウマイじゃないか。これだけ量多くて早く作れるなんてすげぇよなぁ。体育祭の時に弁当作ってもらってさ、まぁ料理が得意なこと分かってたけど。いや、ホントすごいわ」
「そう言ってもらえて嬉しいです! 毎日作ってるから慣れてるだけなんですけどね」
結果は合格。
食べ初めの評価以後、稲川は炒飯を消化することに専念し、会話は中断する。集中して自分の料理を食してもらうのは嬉しいが、手持ち無沙汰になった赤坂は適当にTVのチャネルを回していた。
「痴漢の冤罪に失業率の悪化。何だか暗いニュースばかりですね。いやいやでもでも、有名旅館の女将が倒れたとか誰得ですか。他に流す大切なニュースあるでしょうに。えっと、こっちの番組は……あ、駄目首相の海外遊説ですかって、おお?」
「ん? どおしばんば?」
「先輩、口の中キレイにしてから喋ってくださいよ。あのですね、あの首相の横に映ってる人見てください。あの車の後ろに立ってる人です、強面の」
「SPか? 黒服のおっさんか……あれ? 誰かに似ているような」
TV画面に映っていたのは国の首長たる――筈の――内閣総理大臣が国際会議会場に到着した中継映像である。中身はさておき、一国の首相という立場の人間は非常に大事な人物である為、厳重な警備が敷かれている。当然のように大量の警備員が表に裏に配置されていて、死角からの襲撃に備えて目を光らせていた。
その警備網の一人であるだろう黒服の人物。平和そうに周囲に手を振る首相の横で、緊張感を持ち周囲を警戒している人物が赤坂の指し示した人である。その人物は稲川の知る誰かに似ていて、彼の記憶に訴えかけているのだが。
「先輩、分かりませんか?」
「うん、喉あたりまで出かかっているんだけど」
「駄目じゃないですか、親友の顔を忘れちゃったら! あの人の顔、りゅう先輩にそっくりなんですよ。体型とか髪型とか違いますけど、あの武士道か修羅道に片足ずぶずぶ入れてしまってるような、斬り捨て御免で人斬ってしまってそうな顔や雰囲気はそっくりなんです!」
「……それ本人に言ったら、殴られるから言わないようにね」
後輩の遠慮のない発言に稲川の顔は引きつる。言われてみれば確かに、映像にあるSPの顔は彼の親友に似ていた。酷似とまではいかない。ただ、顔の各パーツに類似点が多く見られ、オーラが可視化出来るのであれば、纏っているオーラも似ているだろうと想像出来る程雰囲気が近いと感じられた。
「しかしね、智恵ちゃん?」
「なんです?」
「あのSPが実はりゅうが変装した姿で、この間からずっと行方をくらませてるのが首相の警備の為だったなんて、非現実的にも程がある話は無いよね? 無いよな、無いと言ってくれよ……」
「あの……その……私達人材派遣委員なので」
Tvに映るSPが彼らの友の姿であるのか否か。それは単なる学生にしか過ぎない彼らには知る術がないことだった。
赤坂の炒飯が稲川の飢えを癒し、信じられないハプニングが彼らを襲い、ようやくひと心地着いたところで、時計の針は既に深夜の域に入っていることを告げていた。
稲川にしてみれば、まだ赤坂が家に押しかけてきた理由を聞いてもいないのだが、このような時間――気を抜いてしまうと日付が変わりそうな時間帯――に女の子、それも小さめで可愛い部類の女の子を外に放り出すのも気が引けた。なし崩しとは言え、彼女の目的は彼女の知らぬうちに達成されていたのである。
そんな事は露知らず、赤坂は気持ち緊張した面持ちで稲川に相対していた。心の中では稲川の優しさから、無碍にあしらわれることもないだろうと思いつつも、その思考の厚かましさに恥じている彼女である。既に食器は洗われ、相談する体勢は整われていた。
「随分と話を長引かせてしまってすみません。本当ならすぐにでも先輩を頼った訳を話さなくちゃいけなかったんですけど……その、いざ話すとなると心の準備が必要で。ホントにごめんなさい」
「いいよ、智恵ちゃん。そりゃ俺だって玄関先に智恵ちゃんが蹲ってた時はなんで? とかどうしよう? と悩んじまったけどさ、考えりゃ誰だって言いたくないことあるよな。俺だって勿論あるから、もし智恵ちゃんが言いたくないんだったら聞かないよ。あ、勿論追い出さないから安心してくれていい」
「先輩……有難うございます」
稲川の言葉に目を細め、頬を染める。
そうして彼女は一つ息を吐いて上気していた顔を改め、真剣な眼差しを送る。誰が見ても何かを覚悟した表情であり、稲川も彼女の決意の表れを汲んで、真面目な顔で応えた。
「でも、先輩の優しさに甘えて礼儀を忘れちゃ駄目ですよね。その、つまらない話ですし、短くてちっちゃい悩みですが聞いてくれますか?」
「ああ、勿論」
笑顔で応える稲川。この場に学校での彼の信者達がいれば、真っ先に腐った妄想に塗れるだろう微笑み。猛る男を自らの肉体で鎮めようとし、菩薩の笑みを浮かべる、そんなシチュエーションで使われそうな包容力溢れる笑みである。
彼の笑みに導かれて、赤坂は己の家庭状況を語り始めた。彼女は元々父親一人、娘一人の父子家庭であること。長年家事は彼女が担っていたこと。駄目な親父だけれども、加齢臭がちょっと気になり始めたけれど、自分には良い父親であること。へそくりや艶本の隠し場所がバレバレなこと。そんな巫山戯てて、でも良い所もある父親との二人暮らしには満足していたこと。そして……近々『新しい奥さん』が出来そうということ。
「私だってそんな馬鹿じゃないですから、男の人がやもめで、その欲求不満とか、まぁ色々苦労していることは分かります。何もソレが嫌で、潔癖に、奥さん作るとは何事だ、私のお母さんは一人で十分だって訳ではないんです。理解していて、でもやっぱり今まで二人で頑張ってきて、そうやって築いてきた生活をいきなり壊せってのは」
「そうだよな。今まで二人だったもんな」
「分かってはいるんです、分かってはいるんですよ。でも、やっぱり駄目なんです。こうやって、先輩に迷惑かけてるってイケナイのに、でもそれ以上に嫌なんです。駄目なんです。生理的拒否感って感じで……唯一一緒に暮らしてる父親の幸せも願えないなんて、親不孝な娘ですよね」
「そっか」
稲川にはこれ以上の語彙が浮かんでこなかった。
自分がそういう立場になったら、どのような気持ちになるだろう。そうして、その心情に対して、どのような言葉をかけるのが適切だろう。問題は浮かべど、答えは閃かず。経験が足りないのか、応える能力が足りないのか。
頭に親友の姿が霞む。
同時に浮かぶ夕暮れの――
「いいよ。智恵ちゃんが収拾着くまで家にいていいから。まぁ、夏休み中は部活や受験対策であんまり居ないけど、さ」
「先輩……本当に有難うございます」
そう言って深々と頭を下げる赤坂。彼女の姿を見て、稲川は安堵する。頭を下げる彼女に顔を起こすよう言って、そうして口早に自分が先に汗を流すことを了承させる。時間も遅くなり、明日の部活にも影響すると、足早に風呂場へと去っていき、赤坂はそれを潤んだ目で見送った。
手早く服を脱ぎ、シャワーを浴びる時に、ふと彼は考える。赤坂と初めて会った時はどうだったかと。
そうして、彼の記憶からは何の返答も無かった。