Phase36: 災厄燃ゆ -宴の始末-
「……して, 話とは」
りゅうはソファに座った榊と自身の前にカップを置き、彼女と向かい合う様に腰掛ける。途切れていた話を促しながら、りゅうは自分が淹れた珈琲を顔に近付け、香りと味を楽しむ。無論、飲み方はブラックだ。正確に言えば香り付けにブランデーも入れてしまっているが、一応ブラックの類と言えるだろう。
一方で榊は目の前に置かれたカップを凝視するだけで一向に飲みも話もする気配が無い。微動だにせず、自分の考えに篭ってしまっている。常日頃から口数が少ない部類に入る彼女ではあるが、こうした様子は珍しい。
「……榊。こうして場所を変え、しかしだんまりとはあまり褒められたものではないと思うのだが」
りゅうの珈琲の半分ほどが消え去っても、未だ榊は口を開こうとしない。
りゅうの言葉通り、彼ら二人が座っているのは先程までの『狂乱の宴会場』ではなく、稲川家のリビングルームである。『宴会場』である悟史の部屋では依然としてハーレム員達と悟史が、酒をかっ喰らい混沌とした場を生み出している。そのような場では落ち着いて話も出来ないだろう、また悟史が居ると本音を聞けなくなる可能性が高いだろうと、リビングに移動してきたのだ。
こうしたりゅうの配慮にも関わらず、一向に話し出さない榊。
りゅうのカップが空になり、榊のカップから湯気が立たなくなっても彼女は変わらず、俯き加減でカップを凝視するのみ。否、カップを見てすらいないのかも知れない。ただただ、沈黙がリビングを支配していた。
「……温くなってしまったか」
榊のカップから湯気が完全に消えてしまったのを確認し、温め直す為に腰を浮かせる。そうして、彼女のカップへと腕を伸ばした時、漸く榊が動きを見せた。りゅうの伸ばした腕を掴んだのである。
りゅうはひとつ息を吐き、浮かしていた腰を再びソファへと着陸させる。掴まれた腕は無理に引く事無く、榊の好きな様にさせたまま。
「……どうかしたか?」
「ひつじはさ、ひつじは……」
常よりも幾分か軟らかい口調の彼の問い掛けに、常よりも幾分か焦った口調で返す彼女。伏せられていた眼はりゅうへと向けられているが、その眼には惑いの色が隠しきれていない。
「ひつじは……」
「……私がどうかしたか?」
「ひつじは何でも知ってる?」
「……否。私が知っている事等、精々が微塵程度。私の手が届き、目が捉え、耳が察し、そうして脳が刻み込める範囲の事のみが私の知り得る事だ。……榊が今如何様な答を望んでいるのかは知る由も無い。だが、聞かぬよりかは聞いた方が良いと私は愚考するが?」
「……ん」
その一言を呟き、また目を伏せてしまう。これはまた話が再開するのに時間が掛かるだろうと、りゅうが腰を浮かしかける。しかし、未だにりゅうの腕を掴んでいる手がより一層力を入れて掴んだ為、りゅうは再度腰を下ろす事になる。
再び訪れる沈黙。そして、低く漏れる溜息。
りゅうは軽く目を瞑る。榊は矢張り微動だにせず。
まだまだ榊が話し始めるには時間と彼女の決心が必要のようだった。
榊由紀という人間に初めて接したのは何時だったろうか。
私は少々錆びれた記憶を掘り返し、彼女との邂逅を思い出す。
実の所、榊との初対面は悟史とは何の関係の無い状況で達成されている。歴代の稲川ハーレムの中では非常に稀有な存在だ。他の面子は悟史に頼まれて私が救出した女性か、悟史が手を差し伸べ私がそのサポートをした女性かの二択だと言ってしまっても過言ではない。
初顔合わせは放課後の、更に言えば部活後の剣道場。
互いの名も知らない状態で向かい合った私と榊。それが初対面であった。向かい合った榊の第一印象は『背伸びした威圧で立ち向かう正義漢』。恐らくは何食わぬ顔で男子剣道部に混じり練習を行う私を、彼女は礼儀知らずの門外漢だと認識し灸を据えようと思ったのだろう。放つ雰囲気――彼女は『剣気』だと主張しているが――を意図的に居丈高にし、私を威圧する様に構えていた。
記憶は掠れているが、大体この様な会話をした覚えがある。
「……お前、礼儀知らず」
「……ほぅ。しかし、部活後にこうして喧嘩を吹っ掛けて来る貴様の方が礼儀知らずではないか?」
練習終了直後、榊に剣道場に残る様伝えられ、律儀に坐して待っていた私におもむろに竹刀を突きつけて言った言葉だ。こういった物言いに素直に反論していた自分が酷く懐かしい。今であれば、懐柔する様お茶を濁していただろう。
こうした私の若気の至りに、榊も当然ながら牙を剥き
「そんな事無い。お前の方が礼儀知らず。だから、お前に礼儀を教えてやる。構えて」
「……是非も無い。私も貴様に礼節という言葉から指導せねばならない」
「……くたばれ」
そのまま試合に雪崩れ込んでしまったという経緯である。無論、勝敗については私の圧勝となった。私と榊の身長差は今も昔も然程無く、腕の長さという意味での間合いの優劣は無いのだが、跳びを考慮した本来の間合いでは一尺弱私の方が長い。加えて、私は正確な数を覚えられぬ程度、あの剣道娘に文字通り突き合っていた経験もあった。当然の結果と言えば言えるかもしれない。今であればどうであろう。榊の弛まぬ修練が私の実践経験と身体的優位を覆すかもしれない。
だがしかし、あの場で榊を打ち崩した歴史は覆される事は無い。それ以後も私が依頼されて練習に参加した際には、必ず試合を挑まれ競い合い、そして打ち負かしてきた。そうした接点があった為、普段の高校生活においても日常的な会話を――私に怯える事無く――交わせる貴重な女友達だったのだ。
だからこそ、彼女が稲川ハーレムに所属する事になった事は私にとって十分に衝撃を与えるものだった。
ああ、そう言えば、彼女が私の事を「ひつじ」と呼び始めたのはその辺りだったか。そうであるならば、私の事をそれまで何と呼んでいたのだったか――
「……ひつじはさ、どうしても勝てない相手っていうのに当たった事は無い?」
堅く閉ざした貝の口から漸く吐き出されたのは、何とも歪曲的な、常の榊を知るものであれば首を傾げる様な変化球染みた質問であった。ちなみに未だに彼女はりゅうの袖先を掴んで離さない。
突然の質問に、りゅうはゆっくりと目を開き反応する。じっと榊の目に視線を遣り、幾分時間をとって口を開く。
「……生憎、勝機零に相対する事は経験に無い。如何なる相手であろうと、勝ちの目は潰れる事は無かった。それがその問に対する答えだ」
りゅうの答を聞き、幾分落胆する榊。はっきりと顔に出さないのは彼女のりゅうに対する気遣いか。
「……そ――」
「だがな、榊。それは榊自身にも当てはまる事だ、と私は思う」
そう、と答える榊を遮る様に、常よりも幾分語調を強くりゅうは語りだす。その様に驚いたのだろう、榊は眼を見開いてりゅうを見る。俯いていた顔はすっかりりゅうの方へと向けられていた。
「確かに、勝ち目の全く無い勝負も存在する事だろう。魚と人間が潜水勝負した所で人間が勝てる訳が無い。しかし、榊の言っている勝負はそうした単純な能力の比較ではなかろう? 否、率直に言おう。恋愛関係だろう?」
「……ん」
「これ以外の選択肢は非常に限定されるからな。大体見当はつく。だが、この際恋愛勝負かどうかは置いておこう。至極一般的な話だ。勝負に勝ち目が無い状況は、より正確には、そう思い込む状況は、大抵幾つかの類型に分類出来よう。ひとつは相手が此方の思考を限定する場合、そしてもうひとつが此方が自ら思考の幅を狭めてしまう場合だ。更に言えば、実際にはどちらのケースも内包する場合も挙げられるが、この際これは無視しておく」
「それはどちらも同じ?」
「無論、包含関係になる場合もあろう。だが、決定的な差異がある。例えれば、二つの信号源が無相関であるが独立ではないという具合に」
「……全く分からない」
「……すまない。様は積極的か受動的か。そう思わされたのか、思ったのかの違いだ。結果としては同じであるが、その過程が真逆である。また、その対処法も全く以って異なる。さて、そこで質問だ、榊。君は……否、貴様はどっちだ?」
「あっ……」
「答は既に己の内に」
そう言い放ち、カップを口元に運ぶりゅう。しかし、中身が空である事を思い出し、若干眉間に皺を寄せる。他の飲み物を取りに行こうにも、榊の手が邪魔であった。
一方の榊はりゅうの言葉に惑いの表情を見せる。りゅうの比較的珍しい長口上に目を廻したというよりも、言われた事の鋭さと毒にやられたのだろう。それでも、先程までとは異なり、必死に反論しようと試みる。
「で、でもっ」
「……私に竹刀を突きつけた榊は浅慮で礼儀知らずだったがな」
「……や、やなぎ……」
昔話を穿り返され、りゅうの呼称も昔のものになる。自分の奇行を思い出したのか、榊の顔面も多少赤くなるのだが、それを振り払う勢いで榊はソファから立ち上がり、
「部屋に戻る。麗華達の事が心配だから」
と言って部屋へと戻ってしまった。
こうして、短いながらも異例の『りゅう恋愛相談室』は幕を閉じたのである。
要らぬお節介をしたものだ、と自嘲してしまう。これでは益々ハーレム連中の瘴気に晒される危険性が増すだけではないか。視覚的にも聴覚的にも触覚的にも苛まれる生活が続くだけではないか、と。
だがしかし、希少な女友達が近い将来後悔すると予測し得る状況は回避したかったのである。勇気を示さず、敵前逃亡する寸前の友人の肩を後方より押したかった。勿論、これが私のエゴである事は十二分に承知である。だがそれでも、という想いを無碍には出来なかった。
今頃は部屋に戻り、何時も通りの姿を悟史に見せていることだろう。それで良い。若しかすると、より積極的に働きかけているかもしれない。それでも良い。兎に角、後悔だけはして欲しくは無い。
ふと、先程まで榊が座っていたソファを見遣れば、そこには対面に置かれたカップ、そして一口も飲まれていない、冷めてきってしまった珈琲が鎮座していた。
「……そう言えば、確かに榊には『やなぎ』と呼ばれていたな」
残ってしまった珈琲を飲み干し、カップを両手にキッチンへと赴き、流し台へカップを置いておく。恐らく、夜が進行するにつれ、流し台の陳列物は多くなっていくだろう。また、夜明け頃に私が片付ける可能性が非常に高く、今の内にカップを洗う気にはならない。
棚から新たなグラスを取り出し、冷蔵庫より群青の瓶を取りそれに注ぐ。キャップを開けた刹那に香る涼やかさ。水よりも粘性が高く、とろりとグラスの中に納まった。くいと口に含み、喉に通せば、癖になる味が私の中を駆け巡る。
「……ふむ。ジン様様だ」
聴覚に意識を置くと、離れた位置に居る筈のハーレム狂想曲が響いてくる。十中八九、北条寺が絡み、多村が対抗して襲い掛かり、悟史が悲鳴をあげているのだろう。榊も無言で突っ込んでいるに違いない。
だが、何時までもこのままではいられないだろう。
終曲が何時になるかは作曲者ならぬ、そして神ならぬ私には想像に頼るしかない。想像は想像でしかない。真実を捉えているとは言い難い。それでも、確信している。このハーレムは軋み始めているのだ。
「……要は悟史の意思次第なのだが」
せめて束の間の幸せを。
誰に祈るでもなく、私はグラスを上げ飲み干した。
蛇足。
とある店に集合してしまった修羅と呪術師と酔っ払いと執行者と屍達――背景担当であるが――の、どうでもよい話である。
「ねぇ……さっさと話せば良いと思うよ?」
「ちょっ、コブラツイストは痛いって!」
修羅は話を聞き出す為に、己の腕力に訴える。しかも、聞き出したい相手ではなく、敢えて関係の無い呪術師に技をかける事によって。無関係の人間を痛めつけられて平然としていられる者は少ないという人の慈悲を見越した、立派な――人道的に褒められるものでは無いが――交渉術のひとつである。
「ほらっ! 早くしないと昭君の腕が」
「いえ、私は痛くも痒くもないので」
「うん? まーごとー君っすし、どーでもいーっす」
「あんたら、酷いな!」
惜しむらくは執行者と酔っ払いには全く効果が無かったという所だろう。
渋々、修羅は呪術師から手を引き、さり気無くオシボリで手を拭くのである。多分に彼女はその行為を無意識に行っているのだろう、だからこそ呪術師は自身の胸を押さえ、只では転ばぬと明日への呪いの糧とする。
「で、りゅう君は何処に行ったのかな。あと、この写真は何なのかな、かな。悪いんだけど、ボクに教えて欲しいなっ」
修羅は己の携帯画面を執行者と酔っ払いに見せ問い質す。彼女の手にある携帯電話からはミシミシという音が断続的に聞こえ、彼女の堪忍袋の緒とどちらが先に事切れるか、という機器としての危機に陥っている。
執行者はちらと酔っ払いを見、修羅と呪術師を人道へと還す道を模索する。
「りゅうさんは転校しまし」
「「嘘だっ!」」
「冗談です。りゅう委員長は急な用事という事で帰られました。その用事に至っては我々の与り知らぬ所ですが」
「むっ」
「だがよ、源。常識的に考えて、この時間から用事ってのもおかしくないか」
「いえ、おかしいおかしくないという判断は我々が出来るものではありませんよ。当事者間にしか分かり合えない部分というものはあるでしょう? 従ってですね、私は委員長が何処に居るかという質問には解答出来ません」
「そう……なんだ」
「ええ、そうなんです」
修羅は幾らか修羅道より人道に歩みかけている。これは良い傾向だと執行者はほくそえむ。
だが、何時だって世界は混沌を望んでいる。エントロピは増大するのだ。
「ですから、もう今日はお帰り頂いた方が」
「んー、あとちょっとっだったすよー。あとちょっとでりゅーくんおもちかえりだったのにー」
酔っ払いがへらへらと笑いながら独り言つ。嗚呼、何をくっちゃべってるのだこの馬鹿は、と執行者は顔色を変えず、だが冷や汗がだらだらと背中を流れていくのを感じている。
ぶちり。
ごん。
荒縄が切れる様な音と木が何かに打ち据えられた音が響く。
「な、なにを言ってるのかな。ボクには良く分からないよっ」
「し、ししょーーー。師匠だけはそうじゃないと俺は願ってたのに。裏切ったな、僕を裏切ったんだっ!」
「落ち着きましょう、二人とも。これは酔っ払いの戯言です。ですから、その握り拳と藁人形は仕舞って下さい」
前者の音はどうやら修羅の堪忍袋の緒が切れたもの、後者は藁人形が床に固定されてしまった音であったらしい。執行者は思う。これはもう私の力では如何しようも出来ない、阿修羅王に対峙出来るのは帝釈天しかいないのに、と。
「んーもーすこーしでキスできたのになー」
「……ボ、ボクはもう人間をヤメテヤルゥゥゥゥ! コローース、コイツブッチKILL!」
「し、ししょーーー……って、痛ぇ! こっち殴るな、映子! 痛ぇ痛ぇって!」
「あははーつぎこそぜぇぇったい、ぜぇぇぇぇぇっっっったいやってやるっすー」
「ムキィィィィィィィィィィ」
「……はぁ」
執行者は無言で会計計算を進める。実際の会計と無論迷惑料も込めて。幸いにしてりゅうが置いていった万札がある。後はこの喧騒の中でも一向に目を覚まさない屍共から徴収すれば良いだろう。
執行者は何となくグラスを持ち上げ、同じ様な喧騒に塗れているりゅうに捧げる。そっちも頑張って下さい、私ももう少しだけ頑張ってみます。
阿修羅王対稀代の呪術師・セコンド酔っ払いの異種格闘戦時間無制限一本勝負を横目で見つつ、執行者は溜息を吐くのだった。
静かに、または騒々しく体育祭の宴の夜は過ぎていく。
望む望まないに関わらず、高校生活の残り時間は刻々と無くなっていくのであった。
……遅くなりました、瀬戸です。
恐らく最も難産であっただろう、今回のお話どうだったでしょうか。
「蛇足」以下は15分程度でばばっと書けてしまったのですが……それまでが長かったです。主人公の長台詞は書き手にとっても珍しく、それ故難しい。
そして、やっと体育祭編が終わりました。これまた長かった! 一年くらいかけてるのかと思うと、自分の遅筆が至極情けないです。精進します。
さて皆様、常日頃より様々な感想有難う御座います。(感想返しにつきましては、今後徐々に行っていく予定です)
皆様の御蔭でやっとこ60万PVを達成した模様です。有難う御座います。今後とも『ハーレムな隣人』を宜しくお願い致します。
と言う訳で、今後数話は皆様のご要望をなるべく反映した小噺にしようと思うのですが……1学期期末〜夏休み〜9月〜文化祭開始までの間、お望みのシチュエーションが御座いましたら是非ご一報を。(但し、彼らは受験生ですのであしからず)
それでは長くなりましたが、また次話にお会い致しましょう。