境界〜報告を受け取る世界
突然だが、王国の騎士団と言えば、何を想像するだろう。
花形、かっこいい、憧れる。
逆に団員たちに求められるのは?
少なくともこの王国に求められるのは、秩序。
その一言で全てが表される。
当然とも言えるべく、騎士団長室の執務室は静かだった。
羽根ペンの音と、紙をめくる音だけが、一定の間隔で響いている。
机の上には、封の切られた報告書が一通。
その執務室の主、ことラオス・シェルガードは、それを読み終えると、もう一度最初から目を走らせた。
――洞窟周辺における異常発光および体感異変について。
簡潔な文面。
被害なし。負傷者なし。継続異常なし。
どこにでもある、地方からの小さな報告。
それでもラオスは、紙から視線を離さなかった。
「……団長」
控えていた副官が、ためらうように声をかける。
「その件ですが。現地からの追加報告はありません。村の判断では、経過観察で十分とのことです」
「そうか」
短く答え、ラオスは報告書を机に置いた。
副官は一瞬、言葉を探すように口を開きかけてから、続ける。
「正直に申し上げれば、調査を出すほどの内容ではないかと。よくある――」
「“よくある”の中に、切り捨てたものが残る」
ラオスの声は低く、感情はなかった。
副官は口を閉じる。
ラオスは報告書を取り上げ、端を揃えて整えた。
「洞窟。発光。体感異変。過去にも例がある、と書いてあるな」
「はい。ただ、いずれも大事には至っていないようで……」
「至らなかっただけだ」
ラオスは立ち上がり、背後の棚から一冊の手帳を抜いた。
年季の入った、私用の記録帳。
ぱら、と開かれた中ほどのページには、細かな文字と、いくつかの赤線が引かれている。
副官の位置からは見えない。
「冒険者は――」
小さく呟き、ラオスは後ろの気配にそこで言葉を切った。
手帳を閉じ、報告書の上に重ねる。
「私が行く」
「団長自ら、ですか?」
「王国の盾は、想定外に触れる役目だ」
それだけ言って、ラオスは外套を手に取った。
「出立は三日後、準備しておくように」
副官は一瞬だけ迷い、それから深く頭を下げる。
「……了承しました」
ラオスは頷きもせず、扉に手をかけた。
夜、静かな家で、何事もなかったように待つ愛しい妻の元へ戻るために。
騎士団長、という肩書きからは想像もつかないような小さな家。そこが帰るべき場所だった。
もちろん、獅子と盾の家紋に相応しい本邸は当然ある。
ただ、ラオスにとっては、そこは両親が住むべき場所、私としての自分にとっての居場所がない場所でもあった。
だから、エリー…妻と結婚した時さまざまな理由をつけてこの別邸に移り住んだとも言える。
その分、エリーには色々負担をかけているとは思うが、自分にとってはどうしてもそこだけは譲れない。
「あら、おかえりなさい」
さっきまで夕食の支度でもしていたのだろうか、首にかけたエプロンを外しながらエリーが微笑む。
「ただいま」
ここで抱きしめて、という思いと、外から帰って埃だらけの自分がという葛藤がせめぎ合った結果、外套を自らの手でハンガーにかける。
「今日は疲れたでしょう?」
何が、とも何をとも聞かず、ただねぎらいの言葉だけ。
エリーは空気を読むのが異様に上手い。
これは、今までの環境や経験から来るものだとしても、一度その心地良さを知ってしまうと抜けられなくなる。
だから、両親にしても大した用でもないのに、ラオスにとっては嫌がらせとしか思えない頻度で何度もエリーを本邸に呼ぶのだ。
本来なら文句を言うのは自分なんだろう。でも、エリーが大したことないと微笑むので任せてしまっている。
「今日、辺境の村から報告があった。洞窟からの体感変化と、薬草畑の発光。だが異常なしと」
外からの埃を落とすついでとばかりに簡単な業務報告を行う。
エリーは、一瞬目を伏せる。
「で、出立はいつですの?」
すぐに切り替えたのだろう。公の顔を被ったエリーが問う。
「三日後だ。両親にはこのまま伝える。先ぶれはもう出してある」
着替えをと言おうとしてやめた。どうせエリーのことだから全て準備してあるのだろう。案の定一旦必要引っ込んだエリーの手にはバスタオルが握られている。
「お風呂の用意出来てますわ」
準備を整えて、両親の待つ応接の間の扉の前に立つ。先ぶれで出した時間の通り。ほぼ一分の狂いもない。
部屋の扉は、音もなく開いた。
中は静かだった。
火は入っているはずなのに、暖かさは届かない。
薪の音さえも、この場では鳴りを潜めているようだった。
通された先には、すでに父と母が座っていた。
二人とも、姿勢は正しく、視線はまっすぐで、
そこに「待っていた」という気配はない。
「来たか」
父は立たない。
母も頷いただけだった。
ラオスは一歩進み、片膝をつく。
その動作は、体が覚えている。
「洞窟周辺で異変があったと聞いた」
父は机の上の書類に目を落としたまま言う。
「また、飲まれたか」
ラオスは答える。
「現時点では、被害は出ていません。でも、確認が必要と判断しました」
「“現時点では”か」
父は興味を失ったように書類を置いた。
「冒険者が関わっていると報告にはあった。冒険者は、いつも我々にいらん仕事ばかり持ってくる。秩序ある王国には不要だと王に進言せねばな」
母が口を開く。
「冒険者というのは、いつもそうね。
自分は大丈夫だと思って、境を越える。
欲を張るからだわ」
父が続ける。
「弱いから飲まれる。
自分の立場を理解せぬからだ。
ーあの出来損ないと同じだ」
その言葉を聞いた瞬間、
ラオスの視界の端が、ふっと暗くなった。
―――
それは、幼い頃の部屋だった。
夜。
灯りは小さく、毛布の中は狭くて、あたたかい。
扉がそっと開いて、
年の離れた弟が、息をひそめて入ってくる。
「兄ちゃん、これ」
差し出されたのは、擦り切れた絵本。
表紙の色はもう分からない。
でも、中にはあった。
角のあるひとと、
人の子どもが、
同じ鍋をのぞきこんでいる絵。
「父上達には、内緒にして。絵本なんて絶対怒られる」
まるでイタズラの共犯者に巻き込むように、弟は隣に座り込む。
どこでそれを、とは言えなかった。弟はこちらの斜め上の行動で物事を成し遂げる。自分には絶対マネ出来ない行動力だ。
軽やかにページをめくる音。
笑う顔。
鍋の絵。
ラオスは、そのとき初めて、
“知らない世界”があることを知った。
―――
「――絵本など、無駄なものだ」
父の声で、現実に引き戻される。
「ああいうものに触れるから、
ああなる」
母は淡々と続ける。
「あなたは違うわ。
あなたは正しく育った」
机の上に、茶が置かれることはない。
誰も「疲れただろう」とは言わない。
「その点、エリーは」
父の言葉は商品と何処が違うのかという評価だった。
「家を守り、夫を支え、余計なことを言わない。
ああいうのを、良い妻と言う」
母も頷く。
「完璧よ。
余分な感情がない。
家にふさわしい」
ラオスは返事をした。
声は、いつも通りの高さで、いつも通りの速さで。
「はい。私には過ぎた妻です」
それ以上、話すことはなかった。
父は書類を閉じ、母は視線を外す。
「用件は以上だ」
それで終わりだった。
扉を出るときも、
誰も立たなかった。
ただ、無言の圧。
屋敷の外に出たとき、
ラオスは初めて、自分の手が冷えていることに気づいた。
屋敷へ戻るにつれ、温かなシチューの香りが鼻腔をくすぐる。
その匂いに、ラオスは自分が朝、家を出てから何も口にしていない事を思い出す。
「待ってたわ」
扉を開けるより先に姿を見せたエリー。
その勢いのままラオスに抱きつく。
「あ、ああ。報告は終わった。飯にしよう」
なんとなく抱きしめ返すと、壊しそうな気がして、肩にそっと手を置くにとどめ、お腹が空いていることをアピールする。
「だから言ったでしょう?お弁当を持って行かないから。どうせ、早く帰るために、書類を昼休みに捌かないとーとかやってたんでしょう?」
まるで見てきたかのようにクスクスと笑いながらエリーは言う。
「そんな事は、いや、ない?、ある?」
真剣に悩み始めたラオスの手を優しく引いて、エリーは食卓に座らせる。
あたたかい食事、たわいもない会話。
自然と食は進み、シチューなど軽く3杯はおかわりをする。
そして、夜。
月明かりと小さなランプの光の中で、ラオスはベッドに腰掛ける。
開いたのは、昼間の手帳。
何度も線を引き、赤い丸を書き、そしてまた書き…。
今のラオスの心のままを綴られたそこには、
「冒険者の生存報告?」
いつのまにか風呂から上がったエリーが後ろから手帳を覗き込む。
夕方のキッチリとした服とは違う体温。夫婦なんだから当たり前という感覚。そして、少し湿ったエリーの髪の毛がラオスの心の奥の何かを呼び起こそうとしている。
「ねえ、今日近所のおばさんに聞いたんだけど」
慌てて手帳を閉じたことに、話題を変えようとエリーが少し離れる。
その事を少し残念に思いながらも、続きを促す。
「夫婦って、いっぱい仲良くしたら子供なんて自然に授かるって言うんだけど」
けど、の続きが知りたい。でも心の速さは気取られたくない。余裕ある夫の仮面などとうに剥がれているなんて事に気づかず頷くに止める。
「子供って、こう、すーっと光が夫婦のもとに来て、お腹に入ったら出来るんだよね?」
真面目な顔で話すエリーに、ラオスは言えない。夫婦の常識なんて、この場では。
「そ、そうだな。然るべき時に然るべき手順を踏めば、やって来るとは聞いている」
頑張って真面目な顔で返すラオス。
「楽しみだね。早く来ないかな。女の子だから、リリーが良いな」
性別まで決まっているのか?、もう、名前まで?ここで頑張るべきなのか?悩むラオスを他所に
「だから、早く寝ないとね、来てくれなくなっちゃう」
ぽんぽんと無邪気に枕を叩く姿に、やっぱり、今日も夫婦の常識を言う場では無さそうな雰囲気に、がっくしと肩を落とすラオスを慰めるように、月明かりが優しく彼を照らしていた。




