眩光
わかるって、便利な言葉だよなと思う。共感は他者の自分への警戒心を簡単に減らすことができ、警戒心が削がれた人間は本音を言いやすくなる。
だから、容疑者に自白を求めるときは「わかる」という言葉が多用される。
本当にわかるかどうかなんてどうでもいい、相手は法律を犯した人間なんだ、心から理解してやる必要なんてない。ときに涙交じりに犯人に頷く同じ個体がそんな冷淡な言葉を吐く。
結局は、ただそれだけのこと。割り切るように心の中でつぶやいた。
休日は公園にいることが多い。用は特になくても子供の裏表のなさそうな笑顔を見ているだけで安堵する。警察官は皆、情報のために自分を作り変えることに長けていて、だからこそ無邪気な姿を他者に求めているのかもしれない。
自分は本音を見せないのに他者には本音で接してほしいと思う。自分勝手で無茶苦茶な願いだとわかっているのにそう思うことをやめられない。
犯罪を犯す、その行為にはときに同情に値する理由が存在する。困窮等による生活困難、被害者に恒常的に負わされていた傷、幼少期の家庭環境。理由があれば犯罪をしてもいいというわけでも罪がなくなっていいわけでもないが、ただ法律違反という言葉で一律に括って罰する側という立場に立てるほど高尚な人間かと自分を疑ってしまう。
警察になる前、警察は正義だと思っていた。犯罪者の人生や想いを抱えるのがこんなに重いなんて考えていなかった。自分の人生を生き抜こうともがく人間を途中で社会の道から離脱させることが正しいとは思えない、そう自身の仕事に悩む時間もしょっちゅうあった。
法律、それだけを基準に物事を考えたら警察ほど正しさの近くにいる人間はいない。それでも、当たり前に人生の要素は複合的で、様々な角度から人は人に評価され続けていて。
自分の人生を手探りで歩むことを諦めて社会に馴染みやすく仕事に有利なキャラクターをつくった。自分の人生と向き合うことから逃げた。そんな自分自身は、正しさから程遠い。
ころころとボールがベンチの角に当たって、子供たちのごめんなさいという元気な謝罪が聞こえた。
「いいよいいよ、投げるよ〜」
その集団に笑顔でボールを投げ渡すと、楽しそうにありがとうございますと叫ばれる。
わかっていなくてもわかると言う、そんな処世術を言わないくらいには、子供へ愛想良く接するくらいには、誰かからよく思われたいという承認欲求に満ちている。その欲のためだけに社会に適応し他者のためと思われる行動をとる自分が浅ましいと思う。
浅ましい、醜い、嫌い、可哀想、賞賛、共感。溢れる思いは形を変えて、でも全てがただ自分への刃となる。
「なにがしたいんだろうな」
こんなに自分を責めて、他者を不快にさせているかもしれないと怯えながら、それでも生きている意味がわからない。
割り切って、割り切れなくてそうやって生きていく人生をいつか肯定できるだろうか。もし肯定できたのなら、そこは現実を諦めた景色でなければいいと思う。