表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
気が付いたらストーカー  作者: 鈴木 和音
1/1

前編

物語の始まりは、主人公が小学生のときから。どこにでもいるような、将来の日本代表を目指してサッカーをしている女の子の安蘭は、姉の此花の背中を追ってサッカーをしていた。

   いつの間にかストーカー

                               

                   鈴木 和音


   序章


 真夏の太陽は校舎の窓に反射して、校庭の一部を照射している。校庭には太陽が二つあるかのように思える暑さだ。蝉の声が騒々しく鳴り響く中、サッカー部の部員は道具を片付け終わり、一年生がトンボをかけている隅を、練習着に身を包んだ野球部員が歩いている。これから練習がある野球部が、サッカー部と入れ替わりでグラウンドに入ってきたのだ。

 夏休みも折り返し。例年ならサッカー部は三年生がとっくに引退し、今頃は一週間のオフに入る時期だが、今年は都大会で優勝し、今週末から千葉県で開催される関東大会に出場する事が決まっているため、三年生も全員が練習に参加している。練習中は実に張り詰めた空気が漂うが、クールダウンが終わって解散すれば、各々リラックスした表情で雑談をしながら更衣室に引き揚げ、帰り支度を始める。

 青梅市立A中学校サッカー部の顧問、西部監督がTシャツにハーフパンツ姿で職員室に戻ると、自分のデスクのパソコンに付箋が貼ってあった。

「武田様よりサッカー部の取材について問い合わせがありました」

 学校の代表番号に電話を掛けると事務室に繫がる。サッカー部の練習を指導している間に西部宛てに電話が来た事を、事務室の職員が付箋にメモして武田のデスクに残しておいたのだ。

 サッカー部の取材? 何の事だろう? 記憶を辿ってみるが、大学を卒業して教員生活十五年目の西部は、武田という人物に心当たりはなかったし、サッカー部のコーチ、監督としても、一教師としても、メディア関係者から取材を受けた覚えはない。

 ともあれ、西部はデスクの電話機を持ち上げ、付箋に書いてある携帯電話の番号に電話を掛けてみた。

「武田です」

 三回目のコールで出た男性はそう名乗った。

「青梅市立A中学校サッカー部の西部です」

「お忙しいところ恐縮です」

 武田はいかにも申し訳なさそうな口調だ。どんな顔なのか分からないが、電話の向こうでかしこまって正座している姿が目に浮かぶ気さえする。

 武田は漫画家として活動している者で、府中市在住だという。

「漫画家と申しましても、連載の依頼が来るほど名前が売れている身分ではなくて、まだまだ勉強中の身なのですが、今、サッカーを題材にした青春漫画の構想を考えていまして」

 先日行われた都大会の準決勝でA中学校が対戦したチームに武田の従弟が所属していて、武田も従弟の応援のために試合を見に来ていたという。

「A中学校サッカー部さんに、女性の選手がいますよね?」

 A中学校サッカー部に唯一所属している藤崎安蘭ふじさきあらんの事だ。A中学校には女子サッカー部がないので、安蘭も男子の中に混じって一緒に練習しているが、幼少期からサッカーをしている事もあり、何の遜色もなくチームの一員として機能している。むしろ試合では、まだ二年生ながらチームの攻撃の軸として欠かせない存在となっている。

「男子顔負けのプレーで大変驚きました! 従弟のチームはあの試合で負けてしまいましたが、プレーに魅了されてしまい、決勝戦も観戦させていてだきました。もし差し支えなければですが、漫画の執筆の参考として、サッカー部の選手を取材させていただきたいと思い、お電話させていただきました」

 自分の教え子のプレーを見て、漫画を描く上でのヒントになると思ってもらえた。子供を預かる監督として、自分のプレーを評価されたとき以上に嬉しい事だ。西村はすぐに快諾した。

「ただ、ご存じかと思いますが、チームはこれから全国大会を目指して関東大会を戦うところですので、大会が終わってからにしていただきたいと存じます」

「もちろんでございます。また改めてご連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします!」

 受話器を置くと、西部は胸がわくわくしてくるのを感じた。まるで子供のようにはしゃぎたい気持ちを抑えていた。この知らせを聞けば、安蘭はもちろん、チームメートたちも喜ぶに違いない。今すぐにでも知らせたいところだが、今週末の金曜日から三日連続で行われる関東大会は、来週行われる全国大会へ出場出来るかどうかがかかった重要な大会で、負ければそこで三年生の引退が決まる。ここまで来ると、選手たちは監督がいちいち言わなくても日々緊張感を持って練習に励んでいる。サッカーに集中させるためにも、三年生の引退が決まるまでは、取材が来ている話は伏せておこう。

 それにしても、漫画家の取材なんて、どんな内容になるんだろう? 西部は高鳴る高揚感に、思わずにやけてしまう。そんな彼を、周りにいる同僚教師たちは不思議そうな顔で窺うのだった。




   第一章 此花このは


   1


 生ぬるい春風が吹く日曜日の午後。真っ青な空から西へ傾いていった太陽は、ちょうど離れの校舎の陰に隠れ、校庭に聳える二つのサッカーゴールのうち、離れに近い方のゴールは、子供たちに踏まれて消えかかったペナルティエリアの線まですっぽりと影に覆われている。校庭の隅にある鉄棒で、低学年の子供が親と一緒に逆上がりの練習をしている以外は、校庭にいるのは、今年でこの小学校を卒業する藤崎此花と、二つ年下の妹の安蘭だけだ。二人ともサッカージャージに身を包んでいる。

「じゃあ、いくよ」

 耳が半分見え隠れする程度の長さに髪を切りそろえた此花がトレーニングシューズを履いた右足で四号球のサッカーボールを蹴り上げる。インフロントにジャストミートしたボールは「ボンッ」と軽い音を立てて宙に浮き、クロスバーの上を越えて行った。

「(蹴る力が)ちょっと強かったな」

 此花は首を傾げながら、ゴールの向こう側に転がるボールを走って取りに行く。

 続いて、髪をアップに束ねた安蘭がボールを蹴ると、ボールは緩やかな弧を描きながらゴールの中に入り、ゴールネットを揺らした。

「私は力が足りなかった……」

 安蘭も走ってボールを取りに行く。試合のない、晴れた日曜日の午後は、二人でリフティングの練習をした後、こうしてボールを蹴り合うのが、ここ数年の慣例となっている。ペナルティエリアの外側から二人で交互にボールを蹴り、先にクロスバーに当てた方が勝ち。ペナルティエリアの外側であれば、ゴールの正面からでも右側からでも左側からでも、どれだけ離れたところから蹴っても良い。そういうルールで、どちらかがクロスバーに当てるまで、ひたすら蹴り続けるのだ。遠くから蹴ってゴールを決めるよりも、狙う場所が限られるため、キックが強すぎても弱すぎてもいけない。正確なボールコントロールが求められるため、安蘭にとっては、早くお姉ちゃんみたいに上手くなりたいという思いで、いつも真剣な表情でボールを蹴っている。

 今日はお互いに二十回くらい蹴り合った頃だろうか。此花の蹴ったボールがクロスバーに「カツンッ」と音を立てて当たってから、ゴールネットの上に乗っかった。此花は内心、ホッとした。

「今日はお姉ちゃんの勝ちだね!」

 安蘭は足元にある自分のボールを足の甲で掬い上げ、両手で抱きかかえる。此花はゴールの中に入ってゴールネットを摘まんで下に引っ張る。すると、ゴール上の弛んでいたネットが張ってバネのようにボールを弾き、ボールが地面に落ちた。此花はポケットの中にしまっておいたネットを取り出してボールを入れる。安蘭を見ると、彼女も同様にネットの中にボールをしまって、右手にぶら下げるようにして持っていた。

この勝負を始めた頃、というよりも、此花は当初、勝負をするつもりではなく、姉として、サッカーの先輩として、安蘭がサッカーを上手くなるための手伝いをしてあげるつもりだった。誰もいないところで一人で練習するより、此花のキックを間近で見ながら練習する方が上達するからだ。最初のうちはいつも此花が先にクロスバーに当てて、安蘭はなかなか当てる事が出来ず、「やっぱりお姉ちゃんは上手いなぁ」と感心していたが、見る見るうちに安蘭はキックが上手くなり、最近では安蘭がクロスバーに当てる事も多くなってきた。どちらが勝ったか、きちんと数えているわけではないが、ここ半年間だけを見れば、安蘭が勝った回数の方が多い気がしている。


 此花は小学校入学と同時にサッカーを始めた。物心ついた頃から自宅の近所のグラウンドで練習をしている少年サッカーチームの姿を見るたびに、両親に「私もサッカーやりたい」と言っていたものだ。男子の中に混じって女子も数名いたので、親も安心して通わせる事が出来た。

 此花にとって、ボールを追いかけ、チームメートとボールを蹴り合っている時間は、学校で過ごす時間よりも数段楽しいひと時だった。全くできなかったリフティングも、コーチに教えてもらったとおり、ボールの芯を捉えて、自分の足の甲に正確に当てる事を意識しながら粘り強く練習していくうちに、リフティングが出来る回数が少しずつ増えていき、初めて十回以上出来たときは、幼心に、努力すれば結果が付いてくるという事を学んだ。チームのユニフォームに身を包み、スパイクを履き、ソックスの下に脛当てを入れて対外試合に出て、初めて勝ったときの嬉しさは、きっと一生忘れないだろう。気が付けば、何も考えなくてもリフティングが百回以上出来るようになる頃には、自分は確実に上手くなっているという自信を身に着ける事が出来た。

 そんな此花がサッカーをする姿を見ながら、二つ年下の妹、安蘭も、五月の誕生日プレゼントに父親から幼児用のサッカーボールを買ってもらい、公園で父親と一緒にボールを蹴って遊ぶのが好きになっていった。小学校に入ると、此花と同じチームに入り、学校の放課後も、男子と一緒にサッカーをして遊んでいたものだ。

 此花がサッカーをする姿を間近で見て、ときには練習相手になってもらう事もあった安蘭は、キックもドリブルもヘディングも、全てにおいて此花よりも上達が早かった。試合ではどちらかといえばベンチスタートが多い此花に対し、安蘭は四年生の今ではゴールキーパー以外のあらゆるポジションをこなせるユーティリティプレーヤーとして不動のレギュラーだ。さすがに六年生と四年生という体格の違いがあるため、一対一でボールを取り合う勝負では今でも此花が負ける事はない。それでも、ドリブルをするときのボールコントロールだったり、相手のボールを奪うときの身体の入れ方は、一昨年から去年、そして今にかけて、確実に上達している。負ける事がないとはいえ、遊び感覚で楽に勝っていた去年までと違い、今では結構真剣な気持ちで勝負をしないと勝てなくなっているのを感じる。


「お姉ちゃんも来月からは制服を着て中学校に行くのかぁ……」

 ネットでぶら下げたボールを蹴って歩きながら、安蘭がしみじみと呟いた。車一台が通るのがやっとの路地には、戦前、あるいは戦後間もない頃に建てられた家屋が所狭しと建ち並んでいて、古びた板葺きの塀や、ブロック塀が続いている。

「A中には女子サッカー部あるのかな?」

「お兄さんやお姉さんがA中に通ってる友達に聞いたら、A中には女子サッカー部はないって言ってたよ」

「それじゃ、サッカー部で男子と一緒にサッカーをやる事になるんだね!」

 安蘭は自分の事のようにはしゃいで、ニコニコしている。学校でも昼休みや放課後になれば男子に混じってサッカーを興じている安蘭の肌は、此花よりもやや焼けている。髪形は違うが、切れの長い目が二人の類似点だ。

「お姉ちゃんはサッカー上手いから、男子の中でも活躍出来るでしょ」

 此花は肩からネットでぶら下げたボールが、より重く感じられた。四年生の安蘭から見れば、此花は十分上手いだろう。それでも六年生に進級した頃から、此花は男女の体力差が開き始めている事を感じている。試合形式の練習でも男子のスピードに付いていくのがやっとで、空中戦でも競り負ける事が多くなっている。最近では、試合に出てチームが勝っていても、正直、楽しいと思えない自分がいる。

「私……中学校に入ったら、バスケ部に入るよ。サッカーはやらない」

「何で? お姉ちゃんサッカー上手いから、このままサッカー続けて、なでしこジャパン目指せばいいのに」

「中学生になると、男子と女子で体力が違いすぎて、私のレベルじゃ通用しないよ。バスケを一から始めて、女子バスケ部でレギュラーを目指すんだ」

 此花が最近、もどかしさを抱えたままサッカーを続けている事を、四年生の安蘭は気付いていないし、話したところで、理解してもらえないだろう。というより、此花は自分の弱い部分を、妹に見せたくないのが本音だったのかもしれない。妹の前では、常に頼もしい姉でいたいのだ。

「でも、バスケも面白いかもね。お姉ちゃん背が高いから、案外バスケの方が活躍出来るかも」

 安蘭が小さな唇を横に伸ばして笑うと、その頬には笑窪が出来た。無邪気に笑う安蘭の言葉に、此花はどこか、荷が軽くなったような気分になった。両親はともに「部活はどこに入ってもいいぞ」といった口調だったが、サッカー以外の道へ進む背中を押してくれたのは、安蘭が初めてだった。


「これ、あげる」

 桜が芽吹き始めた三月の終わり。少年サッカーチームで最後の練習を終え、自宅に帰った此花は、自宅の縁側でスパイクを磨いてから、安蘭に手渡した。安蘭がこれまで使ってきたスパイクも全て此花のお下がりだが、こうして直接手渡すのも、これが最後だ。

「私のお下がりのスパイクを履くのは、これが最後。次からは、お父さんに新しいスパイクを買ってもらえるはずだよ」

「ありがとう。いいスパイクを買ってもらえるように、これを履いて頑張って練習するよ!」

 安蘭はそう答えてくれたが、本音はどうなのか、此花は何年も前から気になっている。スパイクはもちろん、練習着もその都度新しいものを買ってもらってきた此花に対し、安蘭はスパイクは全て此花のお下がり。練習着も大半はお下がりだ。同じ年齢だったときで比べれば、安蘭の方が確実にサッカーが上手いのに、身に着けるものは使い古されたもので、安蘭は文句も言わずにサッカーを続けている。

 自分だったら、誰かが使ってボロボロになったスパイクや、ところどころ汚れがこびり付いたシャツを着て練習をするのは気が引けるだろう。それでも、安蘭は此花が履き古したスパイクで、楽しそうにボールを追いかけている。純粋にサッカーに対するひたむきな気持ちは、安蘭の方が強いのではないかと、此花は子供心に感じている。




   2


 此花は中学校に入ると、女子バスケ部に入った。本格的な持久走の訓練はきつかったが、此花は女子の中では背が高い方だし、サッカーをやっていて身に付いたポジショニングの判断はバスケにも通用する部分があり、身体と身体のぶつかり合いがあるサッカーとは違い、相手に触らずにボールを奪わなければいけないという難しさも、バスケの面白い部分だ。

 部活のない放課後、校庭でサッカー部が練習する姿を数分ほど見てから帰る事があったが、此花はその度に、やっぱりサッカー部に入らなくて正解だったと思わされた。中学校のサッカー部員は、硬い五号球を強いキック力で遠くまで蹴り飛ばしているし、パスの速さも走るスピードも、とても此花が付いていける速さではなかった。


 一方、安蘭は相変わらず少年サッカーチームのレギュラーとして背番号十を背負って活躍し、都大会でも、此花の学年では勝ち進む事が出来なかった八強まで進出する事が出来た。しかも、得点の多くが、此花が絡んで生まれた得点だというから、まさにチームの中心選手と言えるだろう。

 安蘭は運動神経が良く、並みの男子と駆けっこをしても負ける事はなかった。中学生の此花も安蘭の試合を何度か見に行ったが、安蘭は男子が相手でもドリブルで抜き去ったり、相手のドリブルを止めたりといったプレーを見せてくれた。シュートも男子に引けを取らない威力だ。肩まで伸びた髪をアップに束ねている姿で女子だという事が端から見ても分かるが、試合を見ている人の中には、「十番の子、女の子っぽく見えるけど男の子だよね?」という会話をしている人もいた。それくらい、安蘭の実力は秀でたものなのだ。

 安蘭は中学校に入ると、迷わずサッカー部に入り、男子と一緒に練習をした。

「藤崎の妹、サッカー上手いな!」

 此花が三年生になり、もうすぐゴールデンウィークに入ろうとしていたある日の朝、同じクラスにいるサッカー部の部長を務めている男子生徒が、此花に話しかけてきた。

 中学校に入ってから初めて本格的にサッカーを始める初心者もいるため、入部したばかりの一年生には、まずは持久走とリフティングの練習をひたすらやらせ、リフティングを十回から二十回程度以上出来るようになった者から上級生と一緒にパスやシュート、一対一や二対二の練習に参加させるそうだ。安蘭は上級生と一緒に練習をしていても、三年生が蹴るボールに遅れる事なく付いて行き、スピードの速いクロスにもしっかり反応してシュートを打つ事が出来るそうだ。

「一対一の練習のときも、最初は〝一年生の女子〟だから本気で当たったらかわいそうだと思って手加減したら余裕で抜かれちゃってさ。基本的な動きをちゃんとわかってるっていうより、二年生や三年生と比べても普通に上手いから、先輩としてアドバイス出来る事が少ないよ」

 サッカー部の部長は恥ずかしそうに後頭部を手で掻きながら苦笑した。男子の、それも上級生とも互角に勝負が出来るなんて、此花は既に、妹に実力を越された悔しさよりも、生まれたときからずっと同じ家で育ってきた妹がそこまでサッカーが上達しているという事が、ただただ誇らしい気持ちが上回っていた。此花がサッカーに打ち込んでいた小学生時代、なでしこジャパンを目指せと安蘭から言われた事があり、自分にはとてもそんな実力はないと思っていたが、むしろ安蘭の方こそ、その現実性が高いのではないかとさえ思えてくる。

 A中学校のサッカー部は、三年生が現役でいるうちは、一年生は紅白戦ではボール拾いをするだけで、もちろん安蘭のような上手い一年生がいきなり試合に出る事もなかった。それでも、夏の大会で三年生が引退すると、安蘭はすぐにレギュラーの座を獲得し、トップ下やボランチとして公式戦ではフル出場が当たり前となった。女子バスケ部で、中学校生活最後の大会でもベンチスタートが多かった此花にとって、男子サッカー部で一年生のときから不動のレギュラーとして活躍している妹の姿は、実に頼もしいものだった。自分も女子のクラブチームなどでサッカーを続けていたとしたら、同じ競技で自分の上を行く妹に対してこういう気持ちでいられるか分からないが、サッカーをとっくに辞めた今となっては、自分が上がっていく事が出来なかったところへ順調に上っている安蘭を、心から応援したいと思っている。




   3


 半袖のセーラー服の肩にエナメルバッグを提げた此花が夕飯の少し前に自宅に帰ると、ハーフパンツにTシャツ姿の安蘭が居間のソファに座り、韓流ドラマを見ていた。今日は確か、都大会の試合があったはずだ。試合の結果がどうなったか気になったが、安蘭が真剣な表情でドラマを見ているので、此花は声はかけず、黙って二階にある自室へ上がっていった。今年の春から私立B学園高校に入学し、男子バスケ部のマネージャーをしている此花のエナメルバッグには、B学園高校バスケ部の名前が印刷されていて、セーラー服の胸には校章が印字されている。B学園高校は青梅駅から電車を乗り継いで一時間余りかかる八王子市内にある、運動部の名門だ。男子バスケ部も、全国大会の出場権を狙える実力を持っている。当然、一週間のうちで部活に割かれる時間は長く、帰宅するのが夜の八時半を過ぎる事が多い。夏休みに入ってからも部活の毎日で、遠征では東京都の東端まで行く事もあるし、八月には長野県で四泊五日の合宿も予定されている。


 部屋で普段着に着替えて再び一階へ降りる。此花の家では、居間と台所の間のスペースに食卓があり、そこで家族が揃って食事をする。台所では母さんが晩御飯の準備をしていて、此花は冷蔵庫で冷やしておいた五百ミリリットル入りペットボトルの麦茶を取り出して食卓に座り、ごくりと飲む。安蘭はドラマの次回予告を見ながら、「え、マジで⁉ 正体がバレちゃうの?」などと言ってソファから身を乗り出している。

 安蘭はサッカー少女であると同時に、小学校六年生のときから大の韓流ファンでもあった。とある韓国歌手の特集をテレビでやっているのをたまたま見たのがきっかけで、小遣いを貯めては、お気に入りの歌手のCDやDVDを買ってきて、好きな俳優が出てくるドラマは欠かさずチェックしている。安蘭の部屋は、韓流スターやアイドルのポスターで埋め尽くされ、本棚にはこれまで買ってきた韓流情報誌が並んでいる。ピッチの上では男顔負けのプレーを見せるが、家に帰れば、どこにでもいるような典型的な韓流女子なのだ。

「さぁ、晩御飯が出来たわよ」

 安蘭が見ていたドラマが終わると、母さんが大きな声で居間に向かって言った。安蘭が居間から台所にやってきて、居間の隣の寝室にいた父さんも出てきた。父さんは仕事から帰ってくると、晩御飯の前の僅かな時間に寝室で読書をするのが日課だ。

 一家四人で配膳を済ませ、揃って食事をする。父さんと母さんが隣り合わせに座り、その向かい側の椅子に此花、安蘭の姉妹が座る。此花が高校に入ってからというもの、家族の中では部活をしている此花の帰りが一番遅くなる事が多いため、こうして家族四人で一緒に食事をする機会は少なくなっている。

「あと一回勝てば、関東大会だな」

 食事を始めるや否や、父さんが言った。

「明日は土曜日で父さんも仕事が休みだから、母さんと一緒に応援しに行くからな」

「おっ。ていう事は、今日の試合も勝ったんだね!」

 此花は声を弾ませながら安蘭を振り向いた。安蘭は白米を一口頬張りながらにっこり微笑む。それが照れ笑いなのか、自慢げな笑顔なのか、此花にはちょっと分からなかったが、多分両方だろうと理解した。

 例年、地区予選敗退が恒例のA中学校サッカー部は、今年は二年生の安蘭がゴールに絡む活躍もあり、都大会に出場。順調に勝ち進んで、今日の準々決勝まで駒を進めていた。今日の試合は先制こそされたものの、安蘭の同点ゴールで追いつき、延長戦で逆転勝ちをする事が出来たそうだ。明日の準決勝で勝てば、明後日の決勝戦進出と同時に、来週から千葉県で行われる関東大会への出場権を獲得する。

「何かさ、これから地区予選が始まるってときは、全部で三試合あるうち、何回勝てるか、なんてチームメイトと話してたのに、ベスト4まで来れただけでも、何だか不思議な気持ちだよ」

 安蘭はそう言うと、おかずの焼き魚をゆっくりと噛んでから、時間をかけて飲み込んだ。笑顔は絶やしていないが、表情はどこか硬い。やはり緊張しているのだろうか。此花は自分がバスケをやっていたときはそこまで勝ち進んだ事がないから、今の安蘭の気持ちは分かり切れない。それでも、此花がマネージャーをしている男子バスケ部も、既に都大会で敗退して三年生は引退しているが、レベルの高いチームと試合をする前になると、ベンチ登録の選手の表情は見るからに強張り、見ているこちらが怖じ気づくようなオーラを出していた。人生最大の挑戦を目の前にするのだから、神経が刺々しくなるのは当然だろう。明日の試合に勝つか負けるかで、関東大会に行けるか否かが決まるのだ。安蘭のサッカー人生の中で、最も大きな壁が立ちはだかっている。緊張を隠そうとしても、隠しきれないのは当然だ。もしかしたら、韓流ドラマを見ていたときだって、いつもに比べて、ドラマの内容には集中しきれていなかったかもしれない。

「あーあ。明日の試合見に行けないの、ほんと残念だなぁ」

 此花は明日も部活がある。何とかサボって安蘭の応援に行けないか、なんて考えてもみるが、どこかでバレたら大変な事になりそうなので、大人しく諦める。

 明日の部活が終わって帰宅したとき、安蘭がどんな顔で帰ってきて、どんな報告を聞かせてくれるのか、此花はまるで自分の事のようにそわそわしてくるのだった。




   4


 A中学校は準決勝でも勝ち、見事に関東大会出場を決めた。決勝戦の日は此花が部活が休みだったので観戦しに行こうかと思ったのだが、決勝戦は監督の方針で三年生主体で臨み、安蘭はベンチスタートとの事だったので行かなかった。翌週末、安蘭をはじめ、A中学校サッカー部は二泊三日の日程で、千葉県で開催された関東大会に出場。上位に入って全国大会出場を決めた。ここでも安蘭はフル出場をしてチームを勝利に導く事に貢献した。此花は部活があったので応援には行けなかったが、試合に勝つたびに、安蘭からラインで送られてくる報告を見ると、自分がバスケの試合で勝ったとき以上にホッとした。

 愛知県で行われる全国大会の初日は、ちょうど此花の部活も四日間のオフ期間と被るので、応援に行けるね、などと家族で話していたのに、夏休みの楽しみが一つぶち壊しにされる知らせが入った。

 安蘭は女子だからという理由で、全国大会に出場出来ないというのだ。全国大会の出場チームを決めるための関東大会までは、各都道府県や地域のサッカー協会が主催だが、全国大会は日本サッカー協会主催の公式戦のため、男子と女子でカテゴリーが分けられている以上、女子の出場は出来ないと大会の運営側から言われたそうだ。

「それ、女性差別じゃん」

 ある日、部活から帰ってくるや否や、安蘭からその話を聞いた此花は激怒した。太宰治の「走れメロス」の冒頭での主人公も、きっとこんな心境だったのだろうと理解した。それでも、安蘭本人は至って冷静に受け止めていた。

「女子には女子の全国大会がちゃんとあって、もちろんそこには男子が出場する事は出来ないでしょ? これは理不尽な差別じゃなくて、もしろ、ウチの学校の女子の間でサッカーの人気がないだけなんだよ。女子サッカーを男子サッカーと同じくらい人気のあるものにしていくためにも、日本サッカー協会主催の大会で、男子と女子が一緒に試合には出れないっていうルールは変えちゃいけない」

 中学二年生の安蘭が、急に大人になったように見えた。都大会でも関東大会でも、自分が勝利に貢献して出場権を得た全国大会に自分が出れない――。そのやり切れなさは、此花には想像しようにもしきれない。それなのに、どうしてこんなに冷静に、理論的に話せるんだろう?


『ねぇ、どうしてそんな大人な考え方が出来るの?』

 夜、此花は自室のベッドで横になりながら、隣の部屋にいる安蘭にラインを送ろうと、メッセージ入力画面に文章を入力したが、送信ボタンを押すところで思い止まった。ひょっとしたら、さっき安蘭が言った言葉は、安蘭本人の考えじゃないのかもしれない。顧問の西部先生とか、担任の女性教師とか、あるいは、同じような経験をした事がある女子日本代表選手がテレビや雑誌でそういう話をしてて、それをそのまま自分に言い聞かせているだけなのかもしれない。でも、もしそうだとしても、安蘭の胸の中には、他人には計り知れない悔しさがあるのではないだろうか。例え一つ屋根の下で暮らす家族であっても、それはそう簡単に話せるものではないのかもしれない。そう考えた此花は、スマートフォンの画面を閉じ、全国大会の話題に繫がる話題は避けるように心掛けた。




   5


 A中学校サッカー部は結局、全国大会初戦で負けた。安蘭はスタンドで観戦していたというが、どんな思いでチームメイトの試合を見ていただろう? 此花はそんな考えに思いを馳せたが、安蘭が全国大会から帰ってきたとき、此花はそれよりさらにショッキングな事実を両親から知らされた。父さんがトラック運転手として働いていた会社が実は先月で倒産していて、今月から別の会社で働いているというのだ。これまでは月曜日から金曜日の午前九時から午後五時までの勤務だったが、今は土曜日も仕事で、以前と同じくらいの給料を稼ぐために夜八時くらいまで働いているという。最近、父さんの帰りが遅くなっているのは此花も気付いていたが、残業が増えたんだろう、くらいにしか考えていなかった。母さんは倒産した時点で父さんから知らされたらしいが、子供たちには新しい仕事を始めてから話したのは、子供たちに心配させたくなかったからだろうか。特に安蘭は都大会を闘っている最中だった。親の会社が倒産したなんて聞いたら、サッカーに集中出来なくなってしまうかもしれない。

「お金の事は心配するな。高校はちゃんと通わせる。此花は勉強に集中してればそれでいいんだ」

 父さんが言ってくれた言葉は心強かった。子供は親の背中を見て育つと言われるが、生まれて初めて、父さんの背中が大きく見えた。中学生の頃は同じ洗濯槽で下着を洗われる事すら嫌な時期もあったが、父親として、男として、頼もしいと思えた。家族のために毎日遅い時間まで働く父さんを、社交辞令などではなく、心から尊敬出来た。

ところが、此花が二年生に進級した春。父さんと母さんは突然離婚した。もちろん、子供がいないところで話し合いをしていたとは思うが、土曜日に部活を終えて此花が帰宅すると、両親は離婚が決まった話を突然聞かせてきた。此花たちが住んでいる一軒家は母方の祖父が買ってくれたものだったから、父さんが家から出ていく事になり、此花は母さんと安蘭と三人による、新しい生活が始まった。部活で忙しい此花は、元々父さんと過ごす時間が少ないと感じていたが、それでも、家族が一人いなくなると、それだけで何か物足りない気持ちに見舞われた。母さんからは、父さんに連絡を取る事も会いに行く事も自由にして良いと言われたが、父さんが住む場所は八王子市内の、駅からはとても歩いて行けるような場所ではなかったので、気軽に会いに行く事も出来ない。このもどかしさが何なのか、此花には何とも説明のしようもない。それは安蘭も同じなのか、安蘭も父さんとたまにラインのやり取りはしているようだが、姉妹の間で父さんに関する話題が上がる事は少なくなった。


A中学校サッカー部は、その年の都大会も安蘭の活躍で快進撃を続けたが、惜しくも準決勝で負け、関東大会まであと一歩のところで、安蘭の夏は終わった。此花は部活のため、今年も応援には行けなかった。去年は仕事の休みと重なったときは欠かさず試合を見に行っていた父さんは来なかったようだが、安蘭が試合の結果をラインで送ると、必ず激励の言葉が返ってきたという。

「高校に行っても、サッカー続けるの?」

 夏休みのある日。此花が部活が休みで、二人で家にいるときだった。母さんは仕事に出掛けていて、二人で作った昼ご飯を食卓を挟んで食べながら、此花が訊ねた。昼ご飯といっても、スクランブルエッグとも玉子焼きとも呼び難い、卵をフライパンで炒めたものの中にハムを挟んだおかずに、冷蔵庫の中にあったキュウリとトマトを切って添え、母さんが炊いておいてくれたご飯と即席みそ汁を並べた、質素なもの。

「私が行きたい高校には女子サッカー部がないから……」

 安蘭は下を向いてご飯を食べながら、小さな声でぼそりと呟いた。此花はその言葉の後に続く言葉を待ってみたが、安蘭はみそ汁を啜ると、そのまま黙々と食事を続けるだけだった。小学校低学年の頃からアップに束ねた髪形がトレードマークの安蘭だったが、この夏にサッカー部を引退してからは、髪は解いたまま過ごしている。食事をするとき、肩甲骨まで伸びた髪を後ろに搔き上げる姿が、自分の妹ながら、どこか大人びて見える。

「最近の安蘭のプレーは直接見てないから何とも言い切れないけどさ、男子と互角に張り合って、関東大会まで出たくらいなんだから、女子サッカー部のある高校に入るとか、社会人のクラブチームに入るとかすれば、結構イケるんじゃないかな。今からなら、東京オリンピックのときはちょうどいい年齢になるでしょ!」

 安蘭は胸を張って顔を上げた。

「今まで、ずっとサッカー中心で突っ走ってきたから、高校は韓流を追っかける事に青春燃やしたいんだ。ペンミティン(ファンミーティング)やライブにも沢山行ってみたいし、そのためにはお金が必要だから、バイトもしなきゃいけないし」

 そう話す安蘭の笑顔は、楽しみを待ち望む子供というより、落ち着いた大人の表情だった。安蘭の韓流に対する情熱ぶりは、此花もよく知っている。父さんと一緒に住んでいた頃、父さんがクラブワールドカップ決勝のチケットを二枚手に入れたので一緒に行かないかと安蘭を誘ったときは、贔屓にしている韓国俳優が来日する日程と被っていて、韓流ファンの同級生と羽田空港まで出迎えに行くといって断った。結局あのときは此花が高校の部活の遠征先の都内からスタジアムの最寄り駅である新横浜に移動して父さんと合流して試合を見に行ったのだった。世界一のクラブチームを決める試合の生観戦より、韓国俳優の出迎えを優先するくらい、安蘭にとって韓流の重要度は高い。

 だが、安蘭にとって、韓流に青春を燃やしたいという事自体は本当の事でも、一方では、ちょうど良い口実である事も、此花は察している。母さんは離婚して以来、今までパートで働いていた会社で契約社員になり、毎日八時間働いている。月末は残業になる事も多いから、此花や安蘭は、帰りが早い日はご飯を炊いたり、自分でお風呂を沸かして先に済ましておいたりする。父さんがいた頃は、父さんが毎月くれる五千円の小遣いの他に、母さんから昼食代として毎週千円を貰っていた。母さんがパートが休みの日は母さんの手作り弁当を持って登校し、パートの日は学食で食事をしていたのだが、母さんが公共料金を全て支払うようになると、月々の小遣いは母さんがくれたものの、週一回の昼食代は貰えなくなった。その代わり、毎日弁当を作ってくれるようになった。毎日働いていたら、むしろ弁当を作る時間がなくなるんじゃないかと思うのだが、母さんは毎日早起きをして此花の弁当を作ってくれる。それも、おにぎり二個とかそういう簡単なものではなく、米、肉、野菜のバランスがしっかり取れた内容。

 多分、小遣いと別に毎週千円ずつ食費を払うのが厳しくなったのだろうと此花は察した。我が家の月々の収支がどの程度のものかは分からないが、来年、安蘭が高校に入ったら、家計は一層厳しくなるのは間違いない。此花の同級生にもバイトをしている友達は数名いるが、「ケータイ代は自分で払え」「遊ぶ金くらいは自分で稼げ」と言われているという。

「私も……そろそろ部活辞めてバイト始めよっかな」

 此花はお皿の上に残った卵の食べかすを箸で搔き集めながら呟く。

「いいの? せっかくここまで続けてきたのに辞めるのって、勿体なくない?」

 安蘭は心配そうに眉間に皺を寄せ、やや身を乗り出すような姿勢になった。

「毎日部活で帰りが遅くなるより、週三回のバイトの方が、勉強する時間も確保出来るし、小遣いも貯まると思うんだ」

 此花はそう言うと、卵を箸ですくって口の中へ運び、ゆっくり味わってから飲み込んだ。その様子をじっと見つめていた安蘭は、口元をそっと緩めて頷いた。それ以上何も言わなくても、安蘭は此花の心の内を察してくれているようだった。




   6


九月の秋分の日だった。この日は此花が部活が午前中で終わりの日で、母さんからは寄り道せずに真っ直ぐ帰ってくるように言われていたので、その通り帰ってくると、母さんと安蘭が居間のソファに向かい合って座り、母さんの隣には、見知らぬ男性が座っていた。

「お母さんのカレシ」

 照れくさそうに笑う母さんの隣で、整った短髪に細長い縁の眼鏡をかけた男性は立ち上がって、「はじめまして」と言って此花にお辞儀をした。同じ会社で、母さんとは別の部署をまとめる中間管理職をしていて、歳は四十四歳の母さんより一つ年下だという。大学を出てからどんな職歴を経て今の立場に就いて、どんな趣味を持っているか、といった自己紹介から始まり、此花と安蘭の学校での生活ぶりについても興味深そうに訊ねてきた。休日ではあるが、交際相手の家族に会うという事もあってか、身だしなみはYシャツにスラックスパンツという服装で、此花が帰ってきてからは一時間ほど話をして引き揚げていったが、カレシは終始笑顔を絶やさず、優しい口調で話しかけてきた。話し方は穏やかなのだが、此花は話をしていて、どこか窮屈さというか、居心地の悪さを感じていた。母さんのカレシだから、もしもこのまま順調に結婚したら、此花と安蘭から見れば、継父の関係になる。その割には、彼が此花と安蘭と話すときの口調がどこか、娘と話すというより、女を口説くような口調に思えてしまうのだ。


『お母さんのカレシ、どう思う?』

 その日の夜。開け放っていた窓を閉めて寝ようとしたところで、廊下を挟んで向かい側の部屋にいる安蘭からラインが送られて来た。

『まだ一回しか会ってないからよく分からないなぁ』

 此花が返信すると、安蘭は『私は気さくで話しやすい人だと思う』と送ってきた。

『お母さんのパートナーとして相応しいと思うよ』

 文章の後に、漫画で描かれた可愛らしい狸が微笑みながら両手で頬を抑え、その周りを大小色々な大きさのハートマーク数個が囲っているスタンプが送られてきた。

『お母さんの恋がどうなるか、これから楽しみだ』

 安蘭はすっかり母さんのカレシを気に入ったようだが、此花はいまいち、あの男性に対して、快く歓迎する気持ちにはなれないのが正直な気持ちだった。何か自分が嫌がる話をされたわけでも、悪口を言われたわけでもない。具体的に何が嫌かと問われても説明出来ないが、彼が何か一言を発するたびに、此花は言いようのない居心地の悪さを感じるのだ。生理的に好かないというのは、まさにこういう事なのだろう。

 ただの考えすぎだろうか。まさか自分の母親がカレシを家に連れてくるなんて事を人生で経験するとは思っていなかったので、此花は戸惑っていたというのもあるが、それにしても、彼が此花と安蘭を見る目には何か、隙を伺う肉食獣のような鋭さを感じて仕方がない。

 それでも、安蘭は気に入っているようなので、此花は自分の気持ちは取りあえず封印しておく事にする。そういえば、安蘭は小さい頃から、学校にどういう友達がいてどんな話をしたか、といった事は話しても、人の悪口を言う事はなかった。小学校時代からクラス替えが何度かあり、中学校で別の小学校の人と一緒になり、複数の教師を見てきているのだから、馬が合わない人だって当然いるとは思うが、少なくとも、此花がいる前で、安蘭が誰かに対する愚痴を言っているところは見た事がない。学校でもそうなのだとしたら、きっと彼女は同級生からの人望もそれなりにあるだろうし、彼女を好きになる男子だって、何人かいるかもしれない。

 安蘭は大らかさのある子なのだ。


 母さんのカレシとはそれから二回ほど一緒に食事をした。一回は自宅で、もう一回はカレシが運転する車でレストランに連れて行ってもらい、彼にご馳走してもらった。安蘭は母さんのカレシに会える事をそれなりに楽しみにしているようだったが、此花はやはり、今一つ純粋に食事を楽しむ気持ちになれなかった。一食五千円くらいするようなレストランなんて初めて入ったが、いくら母さんのカレシとはいえ、まだ会うのが三回目の自分までこんな高価な食事をご馳走になってしまって良いのか、恐縮するばかりだったし、相変わらず、自分たち家族の会話の中に彼が入ってくるという事に、どうしても生理的な嫌悪感を感じてしまう。


 結局、母さんは年明けにカレシと別れた。

「どうして別れたの?」

 此花が母さんに訊ねると、「大人の事情が色々あるのよ」と言ってけむに巻かれてしまった。此花は初対面のときから彼が生理的に好かなかったからあのまま付き合い続けてくれなくて良かったが、理由を教えてくれないから余計気になる。

 ともあれ、此花はその頃から部活を辞めてバイトを始め、通学の定期券はバイトで稼いだ小遣いから買うようにした。安蘭は電車と徒歩で四十分少々のところにある都立F高校に入学。部活には入らず、入学してから間もなくバイトを始めた。

 此花は部活をやっていたときに比べて、家にいる時間は長くなったが、部活よりも、バイトの方がよほど疲れる。此花はバイト先で「疲れた」と言うと、年上の先輩たちからは「若いくせに疲れたなんて言うな」と窘められる。若くても疲れるものは疲れるんだこの野郎、と心の中では思うが、安蘭は家に帰ってくると、両手を上に伸ばして「今日も疲れたぁ」と言いながらお風呂に入っていく事はあっても、バイト先のお客さんの話をしたり、先輩や上司の愚痴を言う事はない。もちろん、学校の同級生にこんな面白い人がいるんだといった話はしても、悪口を言う事はない。

「ねぇ、バイトしてて、嫌な事とかない?」

 母さんが残業で帰りが遅いとき、安蘭と二人で家で食事をしながら、此花は訊ねてみた。

「嫌な事?」

 安蘭は一瞬箸を止めて、此花の目を見ながら首を傾げる。

「安蘭ってさ、バイトから帰ってきても、いつも活き活きしてるっていうか、人の悪口を言わないじゃん。ひょっとして、職場の事は家族に話すなってバイト先の上司から言われてるの?」

「そんな事はないよ」

 安蘭は可笑しそうにくすりと笑いながら食事を続ける。

「嫌な事を話しても、余計嫌な気持ちになるだけでしょ? それじゃ、人生楽しくないじゃん」

 インターネットかテレビで誰かが言っていた言葉の受け売りかもしれない。もしそうだとしても、大人な振る舞いをきちんと実践出来ている安蘭を、自分の妹ながら、見習わなければと此花は思っている。そうとは分かっていても、此花はついつい、日常生活で溜まったストレスを、学校の友達に話したり、ツイッターやフェイスブックに投稿して発散してしまう。ツイッターやフェイスブックで同級生から「いいね!」を押してもらえたり、同調するコメントが貰えると、自分の存在を認めてくれる仲間がいるという確かな自信になるし、これからも頑張っていこうと思う原動力になる。だが、安蘭のツイッターやフェイスブックを見ていても、そういう愚痴を書いている事はなく、専ら韓流のページに「いいね!」を押したり、最近見た映画や読み終わった本のレビューを書く事が多い。

此花は高校の国語の授業で、「自分が尊敬する人」というテーマで三分間スピーチをした事がある。予め原稿用紙に書いておいた文章をクラスの生徒全員が一人ずつ発表していくのだが、此花はそこでも安蘭の事を話した。自分の妹をそこまで持ち上げるのも図々しいと思う人がいるかもしれないが、此花にとって、安蘭はそれくらい人に自慢出来る、立派な妹なのだ。




   第二章 菜摘➀


   1


 藤井菜摘が通っていた青梅市立C小学校は、A中学校、D中学校、そしてE中学校の中間地点にあり、卒業した児童はそれぞれ、住んでいる場所に近い中学校へ進学していく。菜摘はA中学校に入ったが、小学校で特に仲良くしていた同級生は違う中学校へ行ってしまった事もあり、中学校生活は友達と呼べる人がいない状況で迎える事になった。六人一組の班で机を向かい合わせに付けて給食を食べるときも、C小学校出身は菜摘だけで、話しかける相手がいなかった。別の小学校出身の人にはどうしても遠慮がちになってしまう。そんな中、気兼ねなしに声をかけてくれたのが、菜摘の後ろの座席、給食のときは右隣に座っていた安蘭だった。

「C小の女の子って、休み時間はどんな事して遊んでたの?」

 中学校で初めての給食の時間、安蘭が話しかけてきた。よそよそしさを感じさせない。それでいて、馴れ馴れしさもない。安蘭は小学校時代、少年サッカーチームに所属していて、チームメイトにはC小学校の男子もいたので、今は別の中学校へ行った共通の友達も何人かいた。

「え、アイツってサッカーやってるときはめっちゃ真面目な奴だったけど、学校ではそんなのんびりしてたの? 意外!」

 話題は大いに盛り上がり、一時間にも満たない昼休みの会話だけで、彼女と打ち解けるのは難しくなかった。アップに束ねた髪形がトレードマークで、笑うと切れ長の目が恵比寿様のように優しく弧を描く。そんな笑顔が愛くるしい子だ。しかも、安蘭は根っからの韓流ファンで、スマートフォンの待ち受け画面から授業中に使う下敷きやクリアファイル、ペンケースにいたるまで、好きな韓国俳優やKーPOPグループの写真で溢れていた。菜摘も韓流ファンだった事もあり、まだ見ていないドラマのDVDを相手が持っていると、お互いに貸し合い、感想を述べ合ったりもした。

 また、安蘭は男子顔負けの運動神経の良さを持っていて、サッカー部でも早々とレギュラーの座を獲得して、二年生の夏にはチームを全国大会まで導いた。大会の規定で安蘭は全国大会には出場出来ず、チームは一回戦で負けたが、逆に言えば、安蘭の存在感がそれだけ大きい事の証明ではないだろうかと菜摘は考えている。

 男子サッカー部に選手として所属しているという事もあり、サッカー部の男子とも仲良くしていたが、多くの女子がそうするように、安蘭は菜摘をはじめ、仲良し女子のグループで休み時間や休日に一緒に行動する事が多かった。立川まで女子数人で連れ立って電車に乗って映画を見に行ったり、安蘭が卒業した小学校の後ろに聳える小山の中腹にある永山公園の石垣に屯して話をしたりした。韓流の話から好きな男の子の話、クラスや部活の人間関係の悩みまで、いつも時間が足りないくらい話し合った。

二年生の十二月には、二人が大好きな韓国俳優が来日してペンミティンをする事になった。SNSのページで俳優のファン同士で情報交換をしたところ、羽田空港から入国するとの事で、来日の日付と便名も判明し、学校が休みの日だったので、二人で電車を乗り継いで、空港まで出迎えに行った事もある。

 菜摘と安蘭が空港に着くと、到着ロビーには既に数百人のファンが集まっていて、二人は警備員の誘導を受けて後ろの方に立ち、俳優が出てくる姿は全く見えず、ただ、前方から「キャー」という黄色い声援が聞こえてくるだけだった。せっかく二時間近くかけて移動して、空港でも一時間以上待ったのに、顔を見れなかったのは残念だったが、大好きな俳優と同じ空間にたった数秒間でもいられたというだけでも、二人にとっては夢のような時間だった。

「でもさ、公式サイトじゃどの飛行機で来日するかなんて公表されてないし、本人も一切公言してないのに、どうして情報がネットで全部バレてるんだろうね?」

 青梅まで帰る電車の中、菜摘が呟いた。吊革に掴まりながら、車窓から流れていく景色は都心を離れていくに連れて高い建物が少なくなっていき、のんびりとした住宅街に変わっていく。

「韓国在住の事務所のスタッフと知り合いの人とか、関係者の誰かが家族や友達に話した情報が色んなところを巡り巡ってネットに流れてくるのかもね」

 安蘭がさらりと答えた。冷静な分析だ。

「ある意味、芸能人にしてみれば怖いよね」

 一呼吸置いてから、続けて安蘭が口を開く。

「どこからどういう風に情報が漏れてるか分からない中で、大勢の人に待ち伏せされてるわけだからさ」

 これまでも、韓流歌手の芸能人が来日したとき、ファン同士のツイッターの書き込みを見ていると、空港で出迎えたファンに対し、芸能人は一切手を振る事もなく、名前を呼ばれても振り返りもしなかったという声を多く見受ける。それでも、今日の自分たちのように顔すら見れなかった事を考えれば、たとえ振り向いてくれなくても、一目顔さえ見る事が出来ればそれだけでも幸せなひとときになる事は間違いないだろう。

「ある意味私たち、集団ストーカーだよね」

 安蘭は冗談めかして笑ったが、菜摘は案外間違ってもいないと気付いた。芸能人だから、到着ロビーに予め規制線を張ったり、警備員を配置したりといった対応が出来るが、菜摘や安蘭のような一般人に対して同じように待ち伏せをしている人がいたら、ストーカー行為といえるかもしれない。空港で出迎えたファンに対して芸能人がノーリアクションで素通りをしていく話はよく聞くが、最初から交流を目的としたペンミティンなどとは違って、空港やホテルなど、公表していない場所での出迎えについては鬱陶しく感じているのだろうか。菜摘はこれまで考えた事もなかったが、こうした客観的なものの見方が出来る安蘭を、菜摘は同級生ながら尊敬している。




   2


 菜摘と安蘭は偶然にも、三年間同じクラスだった。ともに苗字が「藤」で始まるという事もあり、新学年になって最初の、出席番号順で座る席も、安蘭は毎年菜摘のすぐ後ろの席だった。

 そんな安蘭だが、三年生のゴールデンウィークが終わって最初の登校日。担任の女性教師が、朝のホームルームで、安蘭の苗字が変わった事を突然発表した。

「ご家庭の事情により、『藤崎安蘭』さんから、『安達安蘭』さんになります」

 先生はそう言って、安蘭にも一言挨拶をするよう促した。安蘭は立ち上がり、教室の皆を見渡すようにしながら挨拶をする。

「これからは、安達って呼んで下さい。でも、しばらくは『藤崎』でも『安達』って呼ばれても、どっちでも振り向くと思います」

 ちょっぴり照れ笑いを浮かべながら軽く会釈をしてから、安蘭は座った。

「いつ変わったの?」

 菜摘がこっそり訊ねると、安蘭は「先週」と、語尾の「う」がほとんど聞こえないほどの小さな声で答えた。菜摘は、安蘭には両親がいる事は知っていたから、多分離婚をしたのであろう事は察しが付くが、ここ最近、両親の仲が悪くなっているとか、そんな話は一切していなかったし、普段の彼女の表情や話し方から、家庭内にそんな問題を抱えていそうな深刻な様子は窺えなかったので、菜摘にとってはあまりにも意外だったし、ちょっぴり拍子抜けもした。

 だが、菜摘にとってさらに驚いたのは、その後だった。

 菜摘の学年で数学を教えている四十代前半の男性教師がいるのだが、授業中に安蘭を指名するとき、「ではこの問題を藤崎に答えてもらおう」と、安蘭の事を旧姓で呼んだのだ。うっかり間違えたのかなと思ったが、その教師はそれから何日後かも、さらにその次も、安蘭の事を旧姓で呼び続けた。その度に、教室は静寂に包まれた。授業に集中する静けさではなく、体感気温がヒヤリと感じられるような空気によって静まり返るのだ。その男性教師は何の悪びれた様子もなく、当たり前の顔をして安蘭に話しかけている。菜摘は胸の中で不愉快な感触が蠢くのを感じつつ安蘭を見やると、彼女は嫌な顔一つせずに答えていた。

「旧姓のままで呼ばれて平気なの?」

 菜摘が訊ねると、安蘭は「先生同士で情報が伝わってないんじゃないの?」と言って笑ってみせた。彼女が笑うと、細い眼が一層細くなり、瞳も白目も見えなくなる。眼だけ見れば、まさに恵比寿様という形容がぴったりな、穏やかな表情だ。それでも、これを許容していたら、生徒に対して示しも付かないし、安蘭に対して失礼だ。

「先生」

 あるとき、数学の教師が安蘭を旧姓で呼んだとき、菜摘はすかさずに挙手した。心臓の鼓動が高まる。身体中が熱くなっていくのを感じる。これは先生をからかおうという好奇心とか、反骨精神といった類のものではない。家庭の事情で苗字が変わったのに、旧姓で生徒の名前を呼ぶなんて、人格の否定も甚だしい。安蘭の親友として、安蘭を守らなければいけない。

「ウチのクラスに『藤崎』っていう生徒はいません」

 一瞬、教室の中の時間が止まったように感じられた。他の生徒たちは皆、呆気に取られた表情で教師、菜摘、そして安蘭の顔を互い違いに眺めている。

「何言ってるんだ。藤井の後ろに座ってるじゃないか」

 教師は安蘭を指し示して言った。

「ここにいるのは安達さんです。藤崎という生徒はいません」

 菜摘は大きな声で、はっきりとした口調で言い切った。今までは喉まで出かかっていてもなかなか言いづらかったが、もはやここまで来たら、怖いものはない。

「わけの分からない事を言うな。藤崎、答えて」

 教師がそう言って軽く話を流そうとすると、他の男子生徒らが続々と口を開いた。

「わけの分かんねぇ事言ってんのはオメェの方だよ!」

「教育委員会にチクるぞ!」

「そうだよ。謝罪しろ!」

「謝罪しろ!」

 教室の中は手拍子に合わせた「謝罪しろ! 謝罪しろ!」という掛け声で満たされた。気まずそうに俯く安蘭を他所に、教師の表情からは、怒りに燃えている事が見るからに明らかだった。もちろん、自分が間違っている事には気付いていない。理不尽な事をしているのはこの教室にいる生徒たちで、皆で寄ってたかって自分をからかっているとでも思っているのだろう。

「いい加減にしろ! お前たちが授業をやりたくないんだったらもう授業は中止だ! 後は勝手にしろ! 定期テストで分からない問題が出てきても俺は知らないぞ。お前たちのせいだ!」

 教師は教卓の上に置いた教科書と書類を纏めて教室から出て行ってしまった。教室の中はたちまち拍手喝采が沸き起こる。菜摘は安蘭を旧姓のまま呼び続ける教師に対してのみならず、ただ単に教師を教室から追い出す事に成功して喜んでいるだけの男子生徒たちに対しても憤りを覚えた。後で複数の男子生徒から、「藤井、さっきはよくやった」とか「なかなかやるな」などと称賛されたが、彼らは級友を守るとか、教師による横暴を止めるといった正義感ではなく、単純に授業が中止になった事を喜んでいるだけなのだ。

 後ろの席に座っている安蘭が、菜摘の肩を指でそっと突いた。

「ナツ……いいんだよ、そこまでしなくても」

「でも……アイツおかしいよ。今頃になってもまだ苗字が変わった事知らないわけないし、おまけに自分が間違ってるだけなのに逆切れして授業ボイコットしちゃうし」

 なおも気まずそうに周囲をキョロキョロしながら黙ってしまう安蘭を見て、菜摘はそれ以上、何も言えなくなった。安蘭は積極的なドリブル突破を見せるサッカーのプレイ中とは打って変わって、日常生活では優しい心根を持っている子だ。自分が傷付くような事があっても、他の人を巻き込む事はもっと心苦しく感じるのだ。自分の思い通りにいかない事があるからといって、自分より弱い者に八つ当たりをしたり、学校の備品を壊したり、授業中に騒いで授業を妨害する生徒もいる中、安蘭はいつも笑顔を絶やさない。先生の愚痴から恋愛の話まで、何でも話し合える親友の菜摘にさえも話せないほど、家庭に深刻な問題を抱えていても、それを面に出さない安蘭が、菜摘には一足どころか、はるか先に大人への道を進んでいるように感じられた。






   第三章 良次➀


   1


 ゴールに近いエリアにボールが運ばれるたびに、観客席からは黄色い声援が上がる。千六百ほどの座席があるメインスタンドには両チームの応援団。ベンチ入り出来なかった選手と、選手の家族や親戚が座り、反対側の芝生のバックスタンドにも、一般の観客の姿がちらほら見受けられる。暑さ対策のため、帽子はもちろん、冷却タオルを首に巻いている人の姿も見受ける。緑の芝は真夏の太陽を浴びて光っているようにすら見える。天気予報では今日も三十度を超えると言っていたが、やはり公園の職員か誰かが毎朝水を撒いているのだろうか。二十四歳の漫画家、 武田良次たけだりょうじは、観客席からただ試合を見るだけでなく、こうした観客席の様子やピッチの状態もよく観察して記憶に留めるよう努めていた。これから描く漫画のネタとして重要だと思うからだ。つい先日新調したばかりの青い縁の眼鏡は、乱視が進んできた良次の目にぴったり度が合っていて、ピッチの上でウォーミングアップしている選手たちの表情も、反対側の芝生に座っている観客の服装も、よく見える。

 この試合で関東大会の出場チームが決まるという事もあり、注目度はそれなりに高いようだ。良次も、九つ年下の従弟がこの試合に出るため、漫画の参考とする目的も兼ねて、父親と、叔父さん家族と一緒に応援に来ているのだ。ここは昭和時代の東京オリンピックで使われた陸上競技場や体育館などがある、歴史ある総合運動公園だ。


 良次は東京都府中市で父親と二人で暮らしている漫画家だ。高校生の頃から自分が描いた漫画を出版社のコンテストに応募しては、五つに一つくらいの割合で入賞している。まだまだ漫画家としての仕事だけで生活が成り立っている身分ではないので、親の脛をかじって生活しているが、いつかは週刊漫画雑誌で長編漫画が連載され、歴史に名を残すような漫画家になって、大きな家を建てるか、高級マンションを買うのが夢だ。去年は初めて、自分が描いた漫画「鬼ヶ島で見た夕日」が大手出版社の月刊誌に読み切りで掲載され、親戚一同が集まってお祝いの宴も催してくれた。一歩ずつだが、確実に夢に向かって近付いている。

 そのお祝いのために、同じ府中市内から集まってくれた従弟が、中学校生活最後の夏に都大会の準決勝まで進んでいる。今日は自分が応援する番だ。


 フィールドプレーヤーは、両チームで色こそ違えど、いずれも半袖のユニフォームに短パン、ソックスの下に脛当てを入れている分、足は幾分太く見える。ゴールキーパーはフィールドプレーヤーと色違いの長袖ユニフォームの袖を肘の上まで捲っている。良次は自分が中学一年生の頃は、運動系の部活をしている先輩が、とても同世代とは思えないほどに大人びて見えた事を今でも覚えているが、こうしてとっくに二十歳を過ぎた今になって中学生を見ると、あどけなさすら感じてしまうから不思議だ。

 試合の会場は公園のメインともいえる陸上競技場ではなく、第二球技場なので、陸上トラックがない分、客席とピッチが近く、選手の表情までよく見える。良次は試合開始前、審判団と両チームの先発選手がハーフウェイラインを挟んで礼をするときから、対戦相手である青梅A中の選手の顔まで一人一人見ていたが、短髪の選手が並ぶ中に一人だけ、長い髪をアップにした選手がいるのが目に留まった。周りの選手に比べると一回り小柄だから一年生かなと思った。一人だけ、しかも一年生であんなに髪を伸ばしていたら、上級生からイジメられるのではないかとも思ったが、顔つきや身のこなしを見て、すぐに女の子だという事が分かった。しかも、背番号七番を付けているから、怪我や病気で出れない選手の代わりなどではなく、普段からレギュラーとして活躍しているのだろう。

 試合が始まると、対戦相手の七番は4ー4ー2のトップ下のポジションでプレーしていた。攻撃時は、ボールは彼女の足元を経由して展開するパターンが多い。トラップもパスも正確だし、パスを出すと見せかけてドリブルで相手を抜いて自分でシュートまで持ち込む事もある。小さい頃からサッカーが大好きな良次の従弟も、まるで軽くあしらわれるかのようにかわされてしまっていた。どうやら、彼女は青梅A中の攻撃の中心選手のようだ。女の子なのに、男子の中でも何の遜色なく勝負が出来て凄いな、などと感心しながら見ていたら、前半終了間際になって、その七番の女子選手にシュートを決められ、先制されてしまった。ディフェンス二人が目の前に立ちはだかっていたが、その間の僅かなコースを縫うように、鋭いグラウンダーのシュートを決めたのだ。良次には、まるでボールが地を這っているように見えた。とても女の子とは思えないような力強いシュートは、経験豊富な三年生のゴールキーパーでも阻止する事は出来ず、キーパーの左手を僅かにかすめながらゴールに吸い込まれていった。

「安蘭ちゃん、ナイッシュー!」

 青梅A中の応援席からは盛大な歓声が上がる。従弟のチームにしてみれば嫌な時間帯に失点してしまったまま前半を終了した。

「点を取った七番って女の子だよね?」

「相手が女の子だから油断してるのかしら?」

「油断もあるかもしれないけど、あの子は確かな技術を持ってますよ」

 ハーフタイム中、選手の保護者同士の話題の中心となったのは、専ら青梅A中の七番の事だった。テクニックといい、シュート力といい、走る速さも男子に引けを取らない。

 後半が始まっても、七番の動きは衰えを感じさせる事はなかった。競り合いでは流石に体格の差もあって負けている印象だったが、疲労が見えてくるはずの試合終盤でも、男子に走り負けする事はなかった。後半二十分過ぎには、七番がドリブルでディフェンスを二人抜き、ゴールキーパーと一対一になる場面があった。七番が蹴ったシュートはゴールキーパーが弾いたが、ボールがこぼれたところへ詰めていたフォワードがシュートを打った。体勢を崩していたゴールキーパーは反応する事が出来ず、ボールは無人のゴールに転がっていった。

 この頃になると、良次はもはや、従弟の応援に来た目的を忘れ、七番の選手の動きと、七番の選手の顔の表情を観察する事に夢中になっていた。この試合に勝ちたいという気持ちはもちろんの事、ここまで自分が試合に出て勝ち上がってきたという自信があるような顔をしている。そして何より、彼女がピッチを走り回る姿からは、本当にサッカーが大好きだという心意気が伝わってくるのだ。鼻や耳など、眼鏡のフレームが当たっている部分は滲み出た汗で痒くなるものだが、この試合中は全く気にならないほど、良次は熱中して見ていた。全体的にぽっちゃりと丸みを帯びた体系の良次は普段から汗っかきの体質で、今も天然パーマを短く刈り上げた頭からも首からもだくだくと汗が滴り落ちているが、手に持っているタオルで汗を拭く事すら忘れている。

 男子の中に混じってサッカーをする女の子がなでしこリーガーを目指す漫画があったら、面白いかな……。

 良次の頭の中には、中学生の女の子が男子サッカー部の中で活躍している姿、そんな彼女をピッチの外から応援する家族、そして、彼女のテクニックの高さに翻弄される対戦相手の選手たちの姿が思い浮かんだ。もちろん、全ての人が彼女を尊敬の目で見るとは限らないだろう。男子として、自分がやっている競技で女子に負けるという事を屈辱として捉える者は当然いるはずだ。それは対戦相手に限らず、同じチームの中にも存在するだろう。単に自分の実力が足りなくてレギュラーになれないだけなのに、相手が女だからというだけで僻んだ見方をする者はどこにでもいるものだ。

 主人公の女の子に、ときに優しく、ときに厳しくプレーのアドバイスをしてくれるキャプテンの男子。同じクラスで、彼女に恋心を寄せている文科系の部活に所属している男子。主人公の心は二人の男子の間で揺れ動くが、これは果たして恋なのだろうか。そんな葛藤があっても面白いかもしれない。

 男子の中に混じってサッカーをする女子の姿を描くのであれば、やはり当事者に取材をする必要がある。いくらフィクションの漫画とはいえ、自分の想像だけで描いたのでは、現実からあまりにもかけ離れたものになってしまい、出版社の担当者が読んだとき、「今どきこんな練習しないよ」「こんなプレーは物理的に無理!」というツッコミ満載のものになってしまう。良次自身はサッカー部の経験がないため、サッカー部がどんな練習をするのかは従弟に聞き取り済みだ。後日、青梅A中に電話をして、サッカー部の取材を申し込んでみよう。


 試合終了のホイッスルが鳴ると、良次の従弟とチームメイトたちは、試合後の挨拶のため、ハーフウェイラインへと走っていくが、その足取りはいかにも重たそうだった。一方、青梅A中の選手たちは、相手選手と審判、続いて両チームのベンチへの挨拶を終え、良次が座っている応援席の前まで来た。

「気を付け、礼!」

 キャプテンの合図でお辞儀をする十一人の選手。顔を上げた七番を見ると、額から溢れた沢山の汗が、光の加減でところどころ光沢を放っていた。やり切ったような、自身に満ちた表情。それでいて、対戦相手を見下すような目ではない、透き通った、純粋な目をしている。よく、少女漫画などで、登場人物の周りに星のような柄のトーンを貼って輝いているように演出する事があるが、今の良次には、まさに彼女が輝いて見えた。大袈裟な表現などではなく、人が輝いて見えるときというのは、こういうものなのだと悟った。良次はこのときになって初めて、自分が着ているTシャツの背中が汗ですっかりびしょ濡れになり、背中にくっついている事に気が付いた。




   2


 翌日の夕方、良次がインターネットで都大会の試合結果を確認すると、青梅A中は決勝戦でも勝って優勝、関東大会への出場権を獲得したという事が分かった。今年の関東大会は千葉県開催なのでさすがに見に行けそうもないが、さらに翌日、インターネットで青梅A中の電話番号を調べ、電話を掛けてみた。

 ところが、実際に電話を掛けようと、自宅の自室のデスクに向かって座り、スマートフォンを手にすると、画面をタッチする指が震え始めた。

 有名な雑誌に自分の漫画が掲載されたとはいえ、読み切りで一回載っただけ。メディアの取材を受けた事もないし、漫画で得た収入といえば、自主製作した本をコミティアで販売したのと、インターネットのSNSやブログを通して購入してくれた人がいた分だけ。プロと呼ばれるにはまだまだ程遠い身分だ。当然、学校の教職員も生徒も自分の名前なんて知らないだろう。怪しい人だと思われて相手にもしてもらえないかもしれない。そんな不安が過ると、次第に怖くなってくる。

 それでも、電話をしない事には何も進まない。門前払いされたら、今後の事はそれから考えれば良いのだ。まずは今出来るだけの事をやってみよう!

 深呼吸をして自分をある程度落ち着かせてから、良次はスマートフォンの画面を操作する。

「青梅市立A中学校です」

 先方は二回目のコールで出た。女性の声だった。

「私、府中市で漫画を描いている武田良次という者なのですが、サッカー部の取材をさせていただきたいと存じまして、お電話致しました」

 声が震えてしまわないか自分で心配だったが、スムーズに話せた。

「顧問の教員に代わりますので、少々お待ちください」

 先方が一旦保留ボタンを押して、受話器の向こうからはオルゴールのメロディが聴こえてきた。この曲は確か、ビートルズの「ヘイ・ジュード」だ。八小節ほどのメロディが終わると、同じメロディが二回、三回と繰り返されていく。とても優しい音色なのに、音楽が長引けば長引くほど、心臓の鼓動が激しくなっていく。掌は汗でびっしょりだ。元々汗をかきやすい体質だが、掌に汗をかくのはよほど緊張しているときだ。

 メロディが途中で途切れ、先ほどの女性が再び電話に出た。

「顧問の教師が今、部活動の指導をしているところですので、折り返しご連絡致します」

 良次は自分の携帯電話の番号を伝え、先方が電話を切るのを待ってからスマートフォンを置いた。取りあえず、一歩を踏み出す事は出来た。こんなにドキドキしたのは久しぶりだ。中学生の頃、これから好きな女の子に告白するというときも、心臓の鼓動を抑えられなかった事を今でも覚えているが、今日はそれを上回った。だが、まだ顧問の教師と直接話せたわけではないが、こうして電話を切ると、先ほどまでの緊張がまるで嘘のように落ち着いている。とにかく、ボールは投げたのだから、後は先方から電話がかかってくるのを待つだけだ。スマートフォンをズボンのポケットにしまって一階に降りると、台所で鍋に水を入れ、電子コンロで沸かす。お湯が沸くまでの間、冷凍庫の中にあるパック入りのご飯をどんぶりに移し、電子レンジで温める。これは昨日の晩御飯の残りだ。それからレトルトの麻婆豆腐を鍋に入れて、沸騰するのを待つ。すっかり温かくなった麻婆豆腐はどんぶりのご飯の上に乗せ、流しの頭上にある棚から即席味噌汁を取り出して茶碗に入れ、別の茶碗で鍋のお湯をすくってかける。それらを冷房がよく効いた居間に持っていき、一人で食べる。良次にとって、すっかり定番の平日の昼食の食べ方だ。


 良次の両親は、良次がまだ小さい頃に離婚した。母親の顔を思い出そうとしても思い出せない。写真を見た事もない。ただ、ひたすら大きな声で泣きじゃくる自分を抱きながら、父親が一所懸命あやしてくれている記憶をぼんやりと覚えている。このときの良次は三歳か四歳ほどだったのだろうか。「ママ」と叫んでいたのか、「お母さん」と呼んでいたのかすら定かではない。ただ、母親がいなくなった事が悲しくて泣いていたのを覚えている。悲しいという感情だけはきちんと覚えているのに、母親がどんな顔をしていて、どんな声だったのか、どうしても脳裏に思い浮かべる事が出来ないのだ。

 小学校四年生のとき、学校のクラスで毎月一回、誕生月の人を対象に「半成人式はんせいじんしき」という行事をやっていた。当時、二十歳が成人年齢だったので、その半分の年齢である十歳まで達した事を祝おうという担任の先生の考え方だ。誕生月の人が皆の前に立ち、保護者が児童に向けて書いた手紙を担任が読み上げる。「生まれてからもう十年経つのかと思うと感慨深い」とか、「こんな大人になってほしい」とか、手紙の内容はだいたいそういったものだったが、ほとんどの児童は母親が手紙を書いていた。いずれも、親として子供を大事に育ててきたという事がよく伝わってくる内容だと良次は感じた。

 たいていの児童には母親がいるのに、どうして自分には母親がいないのだろう? 良次はある日、父親に訊ねてみた。

「僕のお母さんは今、どうしてるの?」

「お母さんはもう、別の男の人と結婚してるんだ」

 良次はこのとき、自分が世間一般的な子供とは異なる家庭環境に置かれている事を思い知らされた。自分を生んだ母親は、既に違う男の女となっている。自分を生んだ母親でありながら、もう自分のものではない。同じクラスの子たちは皆、母親から愛されて暮らしているのに、自分は愛してくれる母親がいないのだ。

 だが、良次には自分が人より優れた能力を持っている分野があるという自信があった。

 良次は小さい頃から絵を描くのが好きであると同時に、想像力が豊かだった。小学校一年生のとき、秋の運動会が終わった後、図画工作の授業で「運動会の絵を描きなさい」という課題を与えられた。たいていの児童はついこの間学校で行われた運動会の思い出の一コマを描いたのに対し、良次が描いた絵は、百年後のどこかの小学校で行われる運動会を想像して描いたものだった。人工知能のロボットが人間と徒競走をしたり、一緒に踊ったりしている絵。現代のロボットは、人間より計算が早かったり、複雑で危険な機械作業を人間の代わりに行う事は出来ても、オールマイティに色んな事を知っているロボットはいない。百年後には、子供が出来ない人でも子育てが出来るよう、小型の赤ん坊型ロボットを自分の子供として育て、成長していくタイプのロボットが販売されているというのが、この頃の良次の予想だった。

 良次が描いた絵は担任の先生の心を惹いた。

「君には天才的な才能がある!」

 この言葉は、大人になった今でも、良次の心の支えとなっている。勉強が得意なわけでもないし、運動神経も悪い。ドッジボールをすれば、最初にボールを当てられて外野になり、一度外野になれば二度と内野には戻れない良次だったが、絵の才能ばかりは、同じクラスの子供たちからも称賛の対象となり、どうすればそんなに上手に描けるようになるのか、といった質問を色んな子たちから受けるほどだった。三者面談では、担任の先生から良次の父親に対して、絵画を習う事を勧められ、良次は週二回、地元にある絵画教室に通い、五年生と六年生のときには全国規模のコンクールで賞も取った。そんな良次の趣味は、専ら漫画を描く事だった。週刊漫画雑誌で読む漫画が大好きだった良次は、いつの間にか、自分でも漫画を描くようになっていた。小遣いで買ってきた画用紙に鉛筆と定規ででコマを描き、登場人物や背景を書き込み、セリフを書き込んでいく。ショッピングモールの雑貨チェーン店で買ってきたトーンを使って背景を彩ると、臨場感が増す。真っ白な画用紙に、自分の世界が広がっていく。

 漢字を覚えるのも、九九の暗記も遅く、学校では居残りで勉強させられる事ばかり。体育の授業では同級生たちから運動神経の悪さを笑いのネタにされる。喧嘩をすれば大抵負ける。そんな良次が唯一自分の思い描いた通りに進める事が出来るのが、漫画の世界だ。子供の頃はいじめられっ子だった主人公が、高校時代に空手を習い、大人になったら警察官になり、子供の頃に自分をイジメていた奴らをやっつける。主人公をイジメていた奴らは銃で足を撃たれて身動きが取れず、痛みに悶絶しながらひたすら主人公に謝り、命乞いをするが、主人公は容赦なく射殺する。

 別の物語では、推理漫画を描いた事もある。ある日、港町のとある小学校の教師が学校を無断欠勤する。その日のうちに、港のテトラポットに、その教師の死体が打ち上げられているのが発見され、検死の結果、絞殺された後に海に捨てられたものだと判明した。偶然にもその数日後、被害者の教師がかつて担任をしていたクラスの教え子で、今は社会人になった同級生同士が集まって同窓会が開かれたが、担任が殺されたという事で会の空気はかなり重い。かつての教え子で探偵をしている者が中心となり、殺人犯を探し出すが、犯人はなんと、同級生のうちの一人で、共犯者も全員同じクラスだった仲間。動機を追及すると、子供の頃に勉強が出来なくて罰を与えられた事に対する復讐だった、という物語だ。

 良次が小学校一、二年生のときの女性の担任は、良次の絵の才能を認め、ひたすら褒めてくれた。絵画教室の先生も同様だった。ところが、三、四年生のときの男性担任と、五、六年生のときの女性担任は、絵の才能を褒める事はほとんどなく、勉強の出来の悪さをひたすら厳しく注意してくるばかりだった。

「そんなに絵が上手なんだから、勉強にも同じくらいやる気を出して努力しなさい」

 良次は絵が上手くなるために、特別な努力をしたわけではない。絵が得意な人が行く学校があり、絵が得意な人が就く仕事もあるのに、どうして勉強が出来なければいけないのか、どうして勉強に努力をしなければいけないのか。国語の授業では漢字のテストで合格点を取った人、体育では縄跳びの二重跳びが出来るようになった人から順に校庭でドッジボールやサッカーをして遊ぶ事が出来て、合格出来ない人は合格点に達するまでひたすら繰り返し勉強や練習をさせられた。それでも出来ないと、放課後にも居残りをさせられた。校庭で遊ぶ同級生たちを尻目に、一人で教室に残って勉強している自分は実に惨めだった。

 俺には絵の才能があるんだ。絵を描かせれば俺より上手い奴はいないんだ。その俺がどうしてこんな惨めな仕打ちを受けなければいけないのか。

 良次は自分に罰を課す担任と、居残りをする良次を笑い者にする同級生を恨んだ。良次は夜、布団の中で眠るとき、自分に惨めな思いをさせる連中を気が済むまで殴り倒す事を想像した。良次に殴られた担任や同級生は鼻から口から血を流し、車で足を轢かれて大怪我をし、身動きが取れなくなったところへ毒蛇を放つ。安全な場所へ退避した良次は、皆が毒蛇に嚙まれ、苦しみながら死んでいく姿を気持ちよく眺めている。実際にそんな事は出来ないというのは自分でも分かっているが、それでも、良次は毎晩想像せずにはいられなかった。自分には天才的な絵の才能があるのに、毎日居残り勉強させる教師も、ドッジボールで最初に自分を狙おうとする同級生たちも、絶対に許せなかったのだ。

 将来、有名な漫画家になったら、自分に恥をかかせた事を後悔させてやる。良次はそんな思いで、毎日漫画を描き続けた。




   3


 昼食を食べ終え、流しで茶碗を洗っていると、ポケットの中のスマートフォンが鳴る。青梅A中からだ!

 良次は直感でそう思い、急いで蛇口の水を止め、布巾で手を拭くと、スマートフォンを取り出す。電話に出ると、サッカー部の顧問の教師からだった。名前は西部というらしい。

「漫画家と申しましても、連載の依頼が来るほど名前が売れている身分ではなくて、まだまだ勉強中の身なのですが、サッカーを題材にした漫画の執筆のため、是非とも取材させていただきたいと思いまして」

 良次は自己紹介をしてから、先日の都大会の試合を見ていた事、その中でも、女子の選手の動きに魅了された事を話した上で、取材させてほしい旨を伝えた。西部という教師は良次が素性を明かした途端に声のトーンが上がり、喜んで取材を受け入れてくれた。相手の顔は分からないが、受話器を耳に当てながら、まさに漫画のように目をキラキラ輝かせている様子が目に浮かぶ。

 チームは関東大会を控えていて、そこでも勝ち進めば、喜びに浸る間もなく全国大会が待っている。選手をプレーに集中させるためにも、取材は大会が終わってからにしてほしいと頼まれたので、良次もそれは了承した。

 関東大会が始まって以降、良次は毎日インターネットで青梅A中サッカー部の試合結果と次の対戦相手をチェックした。取材に赴くとき、直前に行われた対戦相手との結果がどうだったかという情報くらいは予め知っておいた方が良いと思うからだ。大会を主催している団体のホームページを見るところによると、青梅A中は千葉県で行われた関東大会で四強の成績を収め、愛知県で行われた全国大会へ出場し、一回戦で敗退した。それぞれ試合のスコアと得点者の名前が書いてあったが、関東大会のホームページでは出場した選手の背番号と名前が掲載されておらず、誰が得点したのか、七番の女子選手は出場したのかどうかすら分からなかった。全国大会では試合に出場した両チームの選手全員の名前が載っていたが、そこに、七番の選手の名前はなかったから、少なくとも、全国大会の試合には出れなかったようだ。素人目に見てもあれだけ突出した技術を持っているのだから、戦術的な問題で試合に出れなかったという事は考えづらい。怪我でもしたのだろうか?

 七番の選手の事が気になりつつも、良次は青梅A中が全国大会一回戦で敗退した二日後、もう一度青梅A中に電話してみた。二日後であれば、選手も顧問も、遠征から帰ってきているだろう。

「大会の結果は、残念な結果になってしまって、さぞお悔しいかとお察し申し上げます」

 電話に出た西部にそう伝えると、西部は「お気に掛けていただき、ありがとうございます」と答えた。大きな大会を終え、疲れがドッと出ていそうな重たい口調に聞こえたが、どこか、清々しさを含んでいるようにも思える。

「僕はサッカー人生の中で、まさか全国大会まで経験出来るとは思っていなかったので、自分でもびっくりしているんですよ」

 これまで都大会の地区予選を突破するのがやっとだった弱小チームを全国大会まで導くという偉業を成し遂げた割には、それを自慢するような口調には聞こえない。

「全部、生徒たちのおかげですよ。生徒たちが僕を全国の舞台まで連れて行ってくれたんです」

 全国大会まで出場するチームの監督の口からこうした言葉を聞けるのは、良次にとっては意外だった。スポーツの強豪チームというのは、チームの規則も厳しく、選手を怒鳴りつけたり、ときには「愛の鞭」と称して選手に暴力を振るう事もある、怖い人というイメージを抱いていたが、とてもそんな雰囲気を感じさせない、穏やかな口調だ。それとも、自分が今まで勝手に描いていた「体育会系の教師」のイメージが間違っているだけだったのだろうか。

「それで……取材の日程を決めたいと思いまして、電話した次第なのですが……」

「そうですね……」

 スケジュール帳でも確認しているのだろう。暫しの間を置いてから、「今月中では、いつがご都合よろしいですか?」と質問が返ってきた。自分のスケジュールと調整した結果、八月三十日の午前中に学校で取材をさせてもらえる事になった。

 良次はどうして全国大会に七番の女子選手が出場しなかったのか気になっていたが、電話では根掘り葉掘り訊かない事にした。




   4


 八月三十日はまだまだ夏の暑さが続く晴天だったが、殺人的ともいえる猛暑は既に過ぎ去っていて、良次もここ数日は夜は冷房を切っても、窓を全開にして寝られている。

 普段は八時過ぎに起床する事が多い良次だが、今日は六時に起床して朝食を摂る。朝食に食パンを食べながらコーヒー牛乳を飲むのは、物心ついた頃からの日課だ。親戚の家に泊まりに行ったり、旅行などでホテルや旅館の食事を食べるときを除けば、自宅ではこれ以外の朝食を摂った事はない。

 普段は起きない時間なので、居間に置いてあるテレビでは、見慣れないアナウンサーがニュースの原稿を読み上げている。朝食を終え、流しで食器を洗っていると、父親が起きてきた。

「今日は早起きなんだな。どこか出掛けるのか?」

「漫画の取材で、青梅まで行ってくる」

 先日のサッカーの試合で従弟のチームが対戦した青梅A中サッカー部を取材するのだと話すと、父親は「おぉ、そうかそうか」と、感心しているような、していないような曖昧な返事をしながら洗面所へ入っていった。良次の父親も良次と同様、眼鏡を掛けている。小太りな良次と違い、父親は痩せ型で、そんなに汗っかきでもない。大学教授という立場上、出掛ける前には髭を入念に剃り、香ばしい香水を身体に吹きかけ、身だしなみのチェックには時間を掛けている。一日に多くの人と会うため、エチケットは重要なのだと、良次が子供の頃から常々語っていた。普段は人と会う事が少ない良次も、今日は整髪料を使って寝癖をしっかり直したが、天然パーマは持って生まれたものなので、どうしても直らない。朝食の片付けが終わると、二階の自室に戻り、あまりわざとらしいと思われないよう、少しだけ良い匂いのする制汗剤を脇の下に吹きかけ、スラックスを穿き、Yシャツにネクタイを締める。背中よりもやや小さいサイズの黒いリュックサックの中には、筆記用具と取材のときに使うノート、そして、天気予報が外れたときのための折り畳み傘が入っている。

「それじゃ、行ってきます」

 準備万端整えた良次が革靴を履いて玄関を出て行くとき、食卓からは「行ってらっしゃい」という声が聞こえてきた。

 世間一般的に見たら特に変わった事のない事かもしれない。それでも、良次にとっては何とも違和感のある朝だ。いつもなら、良次が目を覚まして一階に降りると、父親は既に出勤した後だ。朝からこうして父親と顔を合わせる事は実に珍しい。そして、滅多に着る事のないスーツを着るのも、何やら新鮮な気持ちだ。駅に向かう住宅街のバス通りを歩いていると、同じようなスーツ姿のサラリーマンの姿をちらほら見受けるし、最寄り駅の改札を入ると、プラットホームには通勤通学の人たちが沢山いた。こうしてスーツを着て満員電車に揺られていると、自分の姿も周囲に同化しているように見えるだろう。普段、自分がのんびり夢を見て寝ている間に、世の中ではこんなに沢山の人たちが動いている。ただ、よく見るとネクタイをしているのは自分だけだ。

 良次は二年ほど前まで、毎日電車通勤をしていたときの事を思い出した。警備員の仕事をしていたあの頃、先輩や上司から理不尽に怒られる事が苦痛で、いつまでこんな生活をしなければいけないのか、ひょっとして、自分の人生、プロの漫画家になれないまま、一生こき使われる毎日を送るのだろうか。ところが、退職してから今になって、こうしてあの頃と同じ時間帯の同じ路線の電車に乗ってみると、高揚した気分で車窓から見える景色を眺められる。分倍河原でJRに乗り換えるときも、忙しなく階段を昇り降りする人たちの流れに合わせて歩くが、いかにも急ぎ足でいながら、通路の左側通行は全員がしっかりと従って歩いているところが、やはり日本人の国民性だな、などと、冷静に分析する余裕すら今はある。

 南武線で立川に着く頃には通勤ラッシュの時間は終わりに近付き、都心から離れていく青梅線の車内には数名の乗客が座っているだけで、良次は腰を下ろすと、リュックサックを隣に置いて足を伸ばした。巨大デパートやモノレールのレールに視界を覆われた街の中を列車が走り始めると、次第に街並みは住宅街の中へと移っていく。青空の下、ベランダに洗濯物が干されている家が幾つも見受けられる。マンションも同様だ。大抵の家は主人が仕事に出て留守にしていて、奥さんが家にいるか、共働きだと誰もいないという家が多いのだろうが、これだけ無数に建ち並ぶ家々の中には、不登校の子供が家の中で一人で過ごしているという家もあるだろう。マンションだったら、一つの建物に一軒か二軒くらいはそういう家庭があるだろうか。中学時代に不登校だった経験がある良次は、世の中に不登校の子供がどれだけいるのか、とても興味がある。

 電車を乗り降りする人の姿はまばらで、車窓から見える道路を見ても、渋滞しているところは見られない。つい数十分前までの、鼻息を荒くしていた群衆の中を歩いていたのが嘘のようだ。

 学校や会社で慌ただしい日常が繰り広げられている間に、世界はこんなにのんびり動いている。良次はイジメを苦に自殺した子供のニュースを見聞きするたびに、この事実を教えてあげたい気持ちに駆られる。居場所のない場所へわざわざ苦しみに行く必要などないのに、どうして自ら命を絶ってしまうのだろう?


 列車が終点の青梅に近づくに連れ、良次は初めて青梅A中に電話したときの緊張感が蘇ってきた。窓の外を眺めていても、のんびりした気分は次第に失われ、心臓の鼓動が早くなる。良次は自分を落ち着かせようと、リュックサックの中に入れたペットボトルの麦茶を取り出し、一口飲んだ。それでも、あまり気分は変わらない。

 次から次へと額を滴れ落ちる汗をハンドタオルで拭きながら青梅駅で列車を降りると、時計は九時を少し過ぎた頃だった。良次はグーグルマップを手掛かりに、青梅A中に向かって歩いた。交通量の多い片側一車線の青梅街道は歩道もガードレールもなく、歩くのに少し神経を使う。平成の前半に建てられたと思われそうな古い一軒家やアパートが建ち並ぶ中に、金物屋や洋服屋など、こちらは昭和から続いていそうな年季の入った木造建築の個人商店がちらほらと見受けられた。平成も二十年以上過ぎた今、同じ東京でもまだこういう景色が残っているとは知らなかった。何やら昔の日本にタイムスリップしたような気分だ。

 だが、住宅街の一角に青梅A中の三階建ての校舎が見えてくると、いよいよ感傷に浸る気持ちは完全に消え失せ、身体中の鳥肌が立ち始めた。良次は最後にもう一口麦茶を飲んでカバンにしまうと、大きく深呼吸をしてから正門を入った。鉄筋コンクリートの校舎は清潔感の漂うベージュ色で、そんなに古そうな建物といったイメージではない。背負っていたリュックサックを降ろして右手に持ち替え、正面玄関の横にある事務室の窓口で職員に名前を名乗ると、話がちゃんと伝わっている様子で、落ち着いた様子で「今、サッカー部の顧問をお呼びしますのでお待ちください」と言われ、数分してから、スラックスのパンツにポロシャツを着た男性が玄関に出てきた。見た感じ、良次より一回りは年上だろうか。だいぶ日焼けした肌は連日の校庭での練習によるものだろう。

「顧問の西部です」

 にっこりと微笑みながら出迎えてくれた西部は直角にお辞儀をした。

「武田良次です。今日はお忙しい中、取材に応じていただき、ありがとうございます」

 良次も丁重にお辞儀をする。続いて、内ポケットに入れた名刺入れから名刺を一枚取り出し、両手で西部に差し出す。西部は丁寧な手つきで受け取ると、「失礼ながら、私は名刺を持っていないので、名刺をお出し出来ないのですが……」と、神妙な面持ちになった。

「あぁ、大丈夫ですよ」

 良次は手を振る。いつだったか、学校の先生は基本的に名刺を持っていないという話を聞いた事がある。良次は子供の頃、学校の先生は夏休みが長くていいな、なんて思っていたものだが、公務員は色々としがらみがあるようだし、実際には夏休みを取れる日数はサラリーマンと変わらないか、場合によってはサラリーマンより少ないという事が最近分かってきた。実際、今日もこうして良次の取材に対応するため、普段やっている公務を停止しなければいけないのだから、世間一般の人が思っているよりも大変な事はあるかもしれない。

「僕はサッカーについては素人なんですが、府中C中戦での青梅A中の選手のプレーはとても落ち着きがあって、チームとしてのまとまりがあると感じました」

 サッカー部の部員たちが待機しているという教室まで歩いて移動する途中、良次は試合を見ての感想を伝えた。

「ありがとうございます。僕はいい選手たちに恵まれました」

 電話でも感じた事だが、西部は自分の頑張りをアピールするというよりは、選手を褒めて伸ばすタイプのように見受ける。良次はこういう教師が自分の担任だったら、自分の中学校生活も、その後の人生も、もう少し変わっただろうかと考えてみた。


 取材は二階にある、西部が担任をしている「三年二組」と札の掲げられたクラスで行った。部のミーティングをするときはここでやるらしい。練習前後の着替えは校庭隅の校舎の陰でするが、女子は校舎の中の更衣室で着替えるそうだ。

 窓が全て開け放たれた教室に良次が入ると、夏用の制服である白いポロシャツにグレーのパンツを穿いた男子生徒五人に、上は男子と同様のポロシャツに下はグレーのスカートを穿いた女子--試合で七番を背負っていた女の子が席に座っていた。生徒たちは西部が良次を伴って入ってくるのを見るや、一斉に立ち上がり、「こんにちは!」と挨拶をした。いかにも体育会系を思わせる、威勢の良い声だ。西部の話では、全員がレギュラーだという。

「失礼します!」

 良次も十歳近く年下の子供たちに負けないよう、元気良く挨拶をする。

「府中市在住の漫画家、武田良次といいます」

 良次はまず、自己紹介をした。普段はアルバイトをしながら漫画を描いていて、これまで、連載の経験はないものの、読み切りの作品が月刊誌に掲載された経験がある事。都大会の準決勝で対戦した府中C中に従弟がいて、従弟の応援のために試合を見ていた事、サッカーを題材にした漫画を描こうとしている事を伝えた。いきなり相手の話を聞こうとしても、自分の目の前にいる人がどういう人なのかも分からないのに、自分の事を包み隠さず話そうという人はいない。相手の事を知りたければ、まずは自分を知ってもらう事から始めなければいけない。かつて、福祉を題材にした漫画を描くときに参考にした文献に書いてあった事だ。

「漫画家というと、一日中部屋に閉じこもって、画用紙に向かって絵を描いているイメージを持っている人が多いと思いますが、実際には、漫画を描き始める前の段階で、これから物語を描く上で必要な知識を得るために、沢山の本を読んで勉強したり、その道の関係者にお願いをして、取材をさせていただく必要があるんです」

 黒板に向けて並んでいた机を、会議をするときのようにコの字型に並べ替え、お互いの顔を見やすいように座って良次が自己紹介を続けると、生徒たちはとても興味深そうに、口々に「へぇー」とか「そうなんだぁ」と頷きながら聞いてくれた。

「今はまだ、同人誌を二冊ほど出版したばかりで、プロと呼べるには程遠いレベルですが、より良い作品を描いていけるよう、日々、勉強しているところです」

 良次はリュックサックの中から、自分がこれまで出版した漫画本二冊を取り出し、表紙が生徒たちに見えるように自分の前に立てて置いてみせた。

「あ!」

 突然、男子生徒の一人が口を開いた。

「『鬼ヶ島で見た夕日』を描いた人ですね!」

「え、知ってるの?」

 他の生徒たちは「何それ?」といった表情だが、良次はやや身を乗り出し気味に彼の顔を見た。「鬼ヶ島で見た夕日」は良次が描いた作品で、去年、大手出版社に応募して、初めて月刊誌に掲載された読み切り短編漫画だ。御伽草子の「桃太郎」を脚色した話なのだが、桃太郎ではなく、桃太郎に退治される鬼を主人公にした物語だ。絶滅危機に瀕しているキジを鬼ヶ島で繁殖させ、犬や猿を愛玩用に飼うなどして平和に暮らしていた鬼たちのところへ、犬、猿、キジを引き連れた桃太郎が「俺たちの仲間をイジメるな」と因縁をつけながら侵略してきて、島の鬼たちが虐殺された。桃太郎に洗脳された猿、犬、キジ、総勢五百匹にも及ぶ軍団だった。鬼たちは一致団結して、金棒を持って戦うが、鎧兜に切れ味の鋭い日本刀で武装した猿に、骨まで食い込む強力な歯を持った犬、空の上から鬼の隠れている場所を見つけるキジの偵察部隊に、鬼は成すすべもなく殺され、ある者は生け捕りにされる。義理と人情に溢れた棟梁の鬼は涙を流しながら、自分の命と引き換えに、生け捕りになった鬼たちがこれまで通り鬼ヶ島で暮らし続ける事を懇願するが、桃太郎は容赦なく棟梁を打ち首の刑に処し、生け捕りになった鬼たちも処刑されてしまいましたとさ、といった物語だ。

「僕はあの漫画を読んで、鬼にまつわる諺を理解出来るようになったんです」

 彼は興奮気味に鼻息を鳴らしながらそう言った。作品の中で、鬼が桃太郎に懇願するとき、「鬼も十八番茶も出花。せめて女子供の命はお助けを」と言う場面があるが、それに対し、桃太郎は「鬼の目にも涙はあるのか、空念仏を唱えるな」という言葉を吐き捨てる。桃太郎一行は帰りの船上で、「これで、渡る世間に鬼はなくなった」と笑いながら「鬼ころし」を飲む場面で漫画が終わる。

「鬼にまつわる諺は、『桃太郎』が書かれた時代に出来たんですね」

「いやいや」

 良次は苦笑しながら手を振った。

「鬼絡みの諺がいつの時代に出来たかは僕は知りません。ただ、漫画の中でパロディにしただけです」

「え、そうだったんですか?」

 目を丸くして首を傾げる彼の隣に座っている別の男子生徒が、小声で「馬鹿じゃねぇの」と冷やかしながら彼の脇腹を小突く。他の生徒たちもそんな彼を見てクスクス笑っている。全国に出場する選手でも、中にはちょっと間抜けで愛嬌のある子もいる。全国の舞台を経験しているとはいっても、やはりピッチの外へ出れば、特別な事はない、普通の中学生なのだろう。

 ここまでのやり取りで、良次は緊張感がすっかり解かれていた。自分が教室に入ったときと比べて、生徒たちの間に和やかな空気が漂っているように見えた。

「今はサッカーを題材にした漫画の執筆を考えていて、全国大会出場を果たした青梅A中のサッカー部の皆さんに、是非、話を聞きたいと思って、お邪魔したわけです」

 生徒たちは「おぉー」と感嘆の声を上げた。良次はリュックサックの中からノートとシャープペンを取り出し、早速質問に入る。このノートは取材のときにメモを取ったり、資料館で見たもの、たまたま人から聞いた話をメモしておき、漫画を描くときに参考にするためのものだ。

 まずは生徒一人一人の氏名とポジションを聞きノートに書き込んでいく。トップ下の女の子は藤崎安蘭という名前で、この六人の中で、唯一二年生の選手だった。いつからサッカーを始めたか、小学生のときからサッカーをやっている人は小学生時代に出場した大会など、選手全員に訊いてみると、青梅選抜で大会に出たり、現役Jリーガーが教えてくれるサッカー教室に参加して益々サッカーが好きになったとか、同じ中学生でも、それぞれが違う人生を歩んでいるのだという事を良次は感じた。

 サッカー以外の趣味を訊いてみても、運動神経が良いだけあって、友達とバスケや野球をやって遊ぶのが好きだという生徒や、冬になると家族でスキーに出かけるなど、アウトドア派の生徒もいるが、良次が描いた漫画を知っている生徒のように、週刊漫画雑誌を毎週欠かさず読んでいるとか、小説を読んだり、小学生時代はサッカーをやりつつピアノを習っていて、今は部活が休みの日は家でギターを弾いているという生徒がいるのも意外だった。安蘭は韓流ファンで、韓流関係の雑誌やネットの情報をこまめにチェックしていると話していた。彼女の隣に座っていた男子はそれを聞いて、「え、お前そんなに韓流ハマってんの?」と驚いている。どうやら、部活仲間には自分の趣味の話はしないのかもしれない。

 良次は一方的に生徒たちに質問するだけではなくて、ところどころ、生徒が話す事に対し、自分が知っている知識を小出しにして、「こういう話を聞いた事があるんだけど、どう思う?」と訊いてみたりもした。すると、そこからさらに新しい話を引き出せる事もあり、会話が弾む。会話が弾むと、ちょっとした質問を一言しただけでも、生徒の方から沢山話し始める。気が付けば、良次のノートはあっという間に五ページ、六ページとメモが進んでいった。特に、安蘭が入部してから今年の全国大会に出場するまで、チーム内における彼女の立ち位置も見えてきた。

 安蘭はチームの絶対的なレギュラーでありながら、自分がチームを全国大会に導いてあげたんだ、といった自尊心はなく、チームが全国大会まで勝ち進む事が出来たのは、あくまでもチームとしての総合力によるものだと言っていた。

「どんなにシュートが上手い選手でも、パスをくれる選手が下手だったら、良いシュートは打てないし、どんなにドリブルが上手くて正確なクロスを上げる事が出来たとしても、シュートを打つ選手が決定力がなかったら、点は取れないですから。私はたまたま、良い選手と同じチームでいられているだけです」

 安蘭が言ったこの言葉は、良次にとって最も印象的だった。安蘭が全国大会に出場しなかったのは、大会規定によるものだったそうだ。これについては、彼女なりに、あるいはチームメイトにとっても、思うところはあるかもしれないが、さすがにここで語るのは憚りがあるだろうと思い、良次は掘り下げて質問しない事にした。良次が中学時代、同級生の中には、野球部のレギュラーでありながら、自分よりスポーツが苦手な生徒を見下し、試合で負けると、敗因をチームメイトのミスや球審のミスジャッジに擦り付けてばかりいる者がいた。そういう生徒が、教室ではガキ大将の立ち位置にいて、良次をイジメていた。おまけに、そんな者が甲子園大会に何度も出場している体育会系の私立高校に進学したのだから、世の中は理不尽だ。

 安蘭のように、チームメイトを尊重し、その上で、日々真面目に練習に取り組む事こそが、真のスポーツマンシップなのではないだろうか。安蘭のような選手こそが、将来、日本の女子サッカーを盛り上げるような選手になってくれるだろう。良次はそう思った。


「漫画が出来たら、是非、私たちにも見せてください!」

 取材を終え、良次が帰るときになると、生徒たちが校舎の玄関で見送ってくれて、安蘭が弾むような声でそう言った。瞼の下に僅かに垣間見えるその薄い眼は、憧憬というか、夢に満ち溢れたような、純粋な気持ちの籠った眼差しで良次を見つめていた。

「俺も楽しみにしてます。頑張ってください!」

 他の男子生徒たちも、口々に応援の言葉を口にする。良次の人生の中で、誰かからここまで熱烈に応援してもらえるのは初めてだ。

 帰りの電車の中では、車窓から見える青い空を漂う雲を見つめながら、漫画の構想が見る見るうちに膨らんだ。良次は客数もまばらな七人掛けのシートに腰掛け、リュックサックから落書き用のB5サイズのノートを取り出し、主人公の女の子の絵をシャープペンで描いてみた。主人公が女の子の場合、目は大きく描かれる事が多いが、切れ長の目をしていた安蘭をモチーフにしたいから、目はへの字の線だけにし、瞳は描かない。瞳を描かずにキャラクターの感情を表現出来るかという不安が出てきたが、への字の曲がっている部分を、外寄りにするか、内寄りにするか、どの程度曲げさせるかで、アクセントが違ってくるような気もする。良次は二枚目、三枚目のページにも、色んな表情の顔を描いていく。描いているうちに、キャラクターに命が吹き込まれていくのだ。キャラクターがどんな生い立ちで、どんな性格で、どんな趣味嗜好なのか、自然とイメージが広がり、ストーリーが頭の中で出来上がっていく。

 これは良い漫画が描けそうな気がする。良次は電車が終点の立川に到着し、折り返しの下り列車になって乗車してきた乗客にも気付かず、絵を描き続けていた。




   第四章 安蘭


   1


 帰りのHRが終わり、放課後の掃除を終えると、教室の掃除当番の安蘭は、教室の隅にあるエアコンのスイッチを切った。米軍基地の傍に校舎が建っている都立F高校は、軍用機による騒音対策のため、夏季でも窓を閉め切って授業をするので、全ての教室にエアコンが完備されている。五月も後半に差し掛かり、窓を閉めていたら、天気が良い日はさすがにエアコンなしでは暑すぎて授業に集中出来ない。生徒の中には、都民である自分たちの親が払った税金から払われてる電気代なのだから、好きなだけエアコンを使って構わないんだと主張する者もいるが、何年か前、この学校の在校生がそうした考え方をツイッターに投稿したところ、フォロワー以外の人たちから批判のコメントが殺到して炎上した事があるという話を聞いた事がある。F高校の予算はF高校に通う生徒の保護者だけでなく、東京都に住む都民全員が払った税金から賄われているのだから、無駄遣いをしていたら、「F高校は放課後、誰もいなくなった教室でいつまでもエアコンが稼働し続けている」として、ある事ない事をインターネットで拡散されてしまうのだ。

 掃除当番の同じ班の同級生らとともに、教室の窓が全て閉まっているか確かめた安蘭は、校舎を出たところで、煉瓦の花壇に腰掛けてスマートフォンを弄っている菜摘に声を掛けた。

「ナツ、お待たせ!」

 安蘭に気付いた菜摘はスマートフォンをリュックサックのポケットにしまった。冬服ならブレザーのポケットにスマートフォンをしまえるので楽なのだが、夏服はセーラー服にベージュのスカートなので、鞄などにしまうしかない。二人ともスカートの丈は太ももの露出がやや多いが、二人並んでみると、中学三年の夏までサッカーをやっていた安蘭の方が、多少肉付きが良いのが窺える。中学時代と髪形が変わっていない安蘭に対し、菜摘は髪を茶髪に染め、眉毛も一般的な若い女性に好まれるような細い曲線ではなく、やや太く、平行に描いている。これは「オルチャンメイク」と呼ばれる、韓国の若い女性たちの間で流行している手法だ。ゴールデンウィーク中日に菜摘がいきなりこのスタイルで学校に来たときは安蘭も驚いたが、毎日一緒に通学しているうちに、もう慣れてしまった。新鮮に感じていた高校の制服も、今では既に違和感なく着こなせている。


 安蘭と菜摘は高校受験をするとき、たまたま第一志望がF高校で一緒だった。菜摘よりも内申点が少しばかり上だった安蘭は推薦入試で受験したが、面接で失敗を犯してしまった。

「中学校ではサッカー部で関東大会にも出場したようですが、本校には女子サッカー部がありません。女子の運動系の部活動はいくつかありますが、何か、やってみたいと思っている部活動はありますか?」

 面接官からそう訊かれた安蘭は、思わず「サッカーでは、自分のやりたい事をやり切れたので、高校では部活をする考えはありません」と即答してしまったのだ。

「あ、そうですか……」

 事実、それが安蘭の正直な気持ちだったのだが、男子チームの中で活躍していた事に対して興味深そうだった面接官の表情は、急にしぼんでいく風船のように元気を失くしていくのが見て取れた。

「ダメだよぉ。そういうときはバスケでもバレーでも何でもいいから、『是非挑戦してみたいです!』って元気良く答えておかなきゃー」

 翌日、学校で菜摘に面接官とのやり取りを話すと、彼女からは強い口調でダメ出しをされてしまった。

「『嘘も方便』って言葉があるべ。合格しちゃえばこっちのもんなんだから」

 そうは言っても、安蘭は心にもない事を言って自分を着飾る事には抵抗を感じた。一度そういう事をすると、そのまま薄汚い事を平気でする大人の道を突き進んでしまいそうな気がする。

 結局、安蘭は推薦入試は落ち、菜摘と一緒に一般受験で合格して、F高校に入学した。クラスは別々になったが、お互い何も部活に入らなかったので、毎日青梅駅で待ち合わせ、同じ電車に乗って通学をしている。最近では菜摘がバイトを始めたので、中学時代のようにお互いの家に遊びに行く事は少なくなったが、クラスでの出来事や恋バナで盛り上がるのは相変わらずだ。


 太陽はまだまだ高いところにあり、二人が立っている福生ふっさ駅のプラットホームは屋根の陰になっている。福が生まれると書いて「福生」という名前が縁起が良いとされ、福生駅は鉄道マニアの間では全国的にも有名な駅だ。わざわざ遠方の地域から来て、福生駅で買った切符を記念に取っておく人もいるという話を、安蘭は小学生の頃に父親から聞いた事があるが、その父親とは、もうかれこれ一年以上会っていない。SNSでは今でも交流があるし、電話やラインで連絡を取り合う事はあるから、疎遠になっているわけではないが、実の父親と一年以上顔を合わせていないというのも、安蘭にとっては実に不思議な気分だ。それでも、高校の入試に合格した事をラインで報告したときは、祝福のスタンプとクーポンを送ってくれて、自分の事を娘として大事に思ってくれているのだという実感を噛み締めた。


「実はね、ナツ。ついさっき発表された大ニュースがあるんだ」

「大ニュース?」

 目が細い安蘭に対し、ぱっちりとした瞳の菜摘は興味津々といった態でさらに目を見開く。

「私の事をモチーフにした漫画が読み切りで掲載される事になったんだよ!」

 安蘭はそう言って、両手とも親指と人差し指をクロスさせ、小さなV字に近い形を作り、菜摘に差し出すようにして見せた。韓国の若者の間で流行っている、指で作るハートマークだ。

「あぁ。中二のとき、漫画家が取材に来たって言ってたやつ?」

 菜摘は遠い記憶を辿るような顔をした。無理もない。中学二年生のときに武田良次という漫画家が取材に来た事は菜摘にも話したし、その後、SNSで繫がった事も話したが、もう彼の話題を菜摘と最後に話してから、既に一年以上経っているから、今まですっかり忘れていたのだろう。

 昼休みに武田良次からフェイスブックのメッセンジャーからメールが送られてきて、小学校時代に男子チームでサッカーをやっていた女の子が中学校に入り、サッカー部で男子の中に混じってサッカーをするという内容の漫画が大手月間漫画誌に読み切りで掲載される事を伝えてきたのだ。掲載されるのは来週発売される六月号だという。

「マジで!? 安蘭やばいな!」

 やって来た電車に乗り込み、ちょうど別の高校生が立って二人分空いた席に一緒に座ると、安蘭はスマートフォンでツイッターの画面を開いて、菜摘と一緒に武田良次のアカウントを見てみた。昼休みの時点ではまだ更新されていなかったが、つい一時間ほど前、読み切り漫画を宣伝するツイートが更新されていた。読み切りなので、作品の表紙などは掲載されていないが、サッカー部で男子の中に混じってレギュラーを目指す女の子の物語だという事が書いてあった。

『僕にとって、三年振りの読み切り作品です! 前回はおとぎ話のパロディでしたが、今回はスポーツ青春漫画に挑戦しました。是非、読んでいただけたら嬉しいです!』

 彼のツイートを一緒に読んだ菜摘は、早速自分のスマートフォンでもツイッターの画面を開き、安蘭がリツイートした武田良次のツイートをリツイートし、ついでに武田良次のアカウントをフォローした。漫画家といっても、まだまだ有名ではないとあって、フォロワーの数は二百にも満たない。

「これ、普通に安蘭の事だよね。めっちゃ楽しみなんだけど!」

 菜摘は安蘭の背中に手を掛け、興奮したように何度も小さく叩く。

「凄いよ安蘭。安蘭の話が漫画になるなんて、夢みたいだよ!」

 安蘭自身、小学生の頃、なでしこジャパンが女子ワールドカップで優勝したときは、自分も将来は日本代表選手になって女子ワールドカップに出場する事を夢見た事もあるし、中学二年でレギュラーになって得点に絡む動きを出来る公式戦が続いたときも、女子サッカーの強豪高校やクラブチームに入る事も考えた。それでも、三年生の夏の都大会の準決勝で負けたとき、小学校低学年の頃から安蘭の胸の中で燃え続けていたサッカーに対する情熱の炎が、一気に消えたのだ。

 あの大会、安蘭はピリピリしていた二年生のときの都大会とは違い、落ち着いた気持ちで、一つ一つの試合を楽しみながら勝ち進む事が出来た。安蘭個人だけでなく、チームの雰囲気もそうだった。三年生も二年生も、試合に出ている者全員が、全速力で走らなくてはいけない事を辛いと感じるのではなく、サッカーが出来る、試合に勝てる事を純粋に楽しいと思いながら走り続けていた。それだけ技術的にも精神的にも成長し、チームとしても結束力が高まっている証だったし、あともう一回試合に勝って関東大会に出る気満々でいた。二年生のときの都大会で準決勝では、芝生のピッチで試合が出来る事に対してわくわくする余裕もなかったが、三年生のときは、本来自分たちが来るべき場所へ久しぶりに戻ってきた、といった気分すら感じていた。チームメイトの誰もが、勝てる事を前提に試合当日を迎えた。去年は全国まで行けたのだから、都大会で負ける気がしなかった。

 ところが、その試合だけは、安蘭がそれまで経験してきた試合の中で、全く別物だった。都大会に出るのが二度目で、ましてや準決勝までレギュラーで出てくる女子となると珍しくて目立つというのもあってか、安蘭の動きは相手の選手に完全に読まれていた。たまたま同じ会場で試合があったとき、女の子というだけで目立つ安蘭は、ドリブルを切り返すときの癖だったり、パスを受けてから次へ繫げるときのリズムだったり、色々な選手から動きをチェックされていたのだ。それまで、「うわっ、女だから余裕で勝てると思ったのに」といった感じで慌てる相手選手の顔を見て優越感を感じていた安蘭にとっては、初めての経験だった。相手はまるで、予めシナリオを全て知っている映画を見ているかのように、余裕の表情で安蘭のドリブルを止め、パスをカットする。

 〇対〇のままで迎えた後半。ディフェンスラインの裏を取る動きをしていた安蘭にチームメイトがスルーパスを出そうとしたら、そのパスが相手に読まれていてインターセプトされ、そこから流れるようにパスを繫がれてシュートを打たれ、相手に先制を許してしまった。そこから青梅A中が怒涛の攻撃を仕掛ける展開が続き、安蘭も二本のシュートを打ったが、一本はクロスバーに当たり、もう一本はギリギリ枠内に飛んだものの、ゴールキーパーの指先に当たって僅かにコースが変わり、こぼれたところを相手ディフェンダーにクリアされた。

 一点返さなければ、もう中学校でサッカーが出来なくなってしまう。安蘭は暑さも忘れ、給水するのも忘れるほど、ボールを追い、相手の選手を追いかけたが、安蘭にとって、青梅A中学校の三年生にとって、サッカー部の引退を告げる長いホイッスルは鳴り響いた。安蘭のサッカー人生の中で、最も空虚な音に聞こえるホイッスルだった。相手チームの選手、審判、両チームのベンチに挨拶を終えた後、ロッカールームで泣きじゃくるチームメイトたちの前では泣かなかった安蘭だが、女子の着替え用に用意された別室で一人きりになったときは、大粒の涙をぽろぽろ零し、しゃくり声を上げながら泣きじゃくった。あんなに泣いたのは、おそらく小さい頃以来だったと思う。

 ところが人間というのは不思議なもので、涙を拭った腕が塩っ辛くなるほど泣いたというのに、帰りの電車の中では、チームメイトたちといつも通り芸能人の話をしたり、世間話をしながら帰る事が出来た。つい二時間ほど前の出来事なのに、試合で負けた事が、まるで何日も前のように感じられてしまうのだ。


 それから四日後には、一人で電車を乗り継いで、自宅から一時間半ほどかかる場所にある都立高校の見学に行ってきた。女子サッカーの全国大会にも出場経験のある強豪校という事もあり、以前から見学に行ってみたいと思っていた高校だ。一人で高校見学という初めての経験に胸が高まる一方、四日前の試合に勝っていれば、今頃は関東大会に向けて練習しているところだったのに、自分でも不思議なほど、悔しさとか、やるせなさは湧いてこない。ただ、イヤホンから流れるスマートフォンの音楽プレイリストの曲に身を委ねるばかりだ。プレイリストに入った曲は専らK-POPが中心だが、安蘭はプレイリストを再生するときはたいてい、ランダム再生にして次にどの曲が流れるかを楽しみにしている。


 高校に着くと、会議室で少し待たされた後、他の中学校から来た男女数名の生徒と一緒に見学をした。グラウンドを見学したとき、たまたまその時間に女子サッカー部が練習していたのだが、数分間そこで練習を見ていても、安蘭は自分もあの中に入って一緒にサッカーをするイメージが湧かなかった。ずっと男子と互角に渡り合ってきた自分なら、このチームに入ってもレベルは十分通用すると思う。それでも、高校まで行って、中学時代のように、上のレベルのカテゴリーの大会を目指して毎日厳しい練習を積んでまで、サッカーを続けたいという気持ちが湧き出てこないのが正直な気持ちだった。

 サッカーでは既に、自分がやれるだけの事は全てやり切った。自分より上手い選手からすれば、生意気だと思われるのかもしれないが、これは安蘭の中で確信出来る。高校ではサッカーではなく、韓流の趣味を追及する人生を歩もう。安蘭はそう決心した。




   2


 話は前後するが、安蘭の中学校生活最後となる試合では、漫画家の武田良次も観戦に訪れていた。安蘭もチームメイトもそれを知らずに試合に出ていたが、試合が終わり、自宅に帰ってからツイッターを開いてみると、良次が青梅A中の試合を観戦した事を投稿していたのだ。

 安蘭が中学二年生のとき、良次が取材に来たときの事ははっきりと覚えている。男子チームの中に一人で女子が混じってサッカーをやっていると、対戦相手のチームの選手同士が、「女に抜かれてんじゃねぇ」とか「女にシュート打たれたら恥ずかしいぞ」などと言い合っている声が聞こえてくる事があった。大抵、そういう事を言う者は安蘭より下手なので、あくまでサッカーの技を見せて黙らせる事が出来るのだが、対戦相手の監督によっては、「女の子が一人で男子の中に入ってサッカーをするのは色々大変だと思うけど、頑張ってね」と声を掛けてくる人もよくいた。着替えをするときに少し気を遣う以外は、サッカーをする上で、自分が女の子だから大変だと感じた事は一度もないし、チームメイトから差別を受けた事もない。

「男子の中に混じってサッカーをやる中で、やり辛さを感じる事はないですか?」

 良次が取材に来たときも、やはりこうした質問が来たが、安蘭が自信を持って自分のサッカーに対する向き合い方を答えると、良次は「なるほど、そうなんだねぇ」と頷いて、必死にメモを取っていた。大抵の大人は、男子チームの中で自分がプレーしているからといって特に大変な事はないんだと説明しても、「いやいや、苦労は多いはずだよ」「これから色々あるんだよ」などと否定してくる。安蘭が何を言っても頭ごなしに否定してくるので、安蘭はもはやそれ以上何も言えなくなる。何も言わずに黙っていると、大人は自分がありがたい話を聞かせてやったぞ、とでもいった得意げな顔をして去っていく。

 でも、良次は違った。安蘭が言う事はもちろん、男子が言う事に対しても同様に耳を傾け、休む間もなくメモを取っていた。話をしていても、「女子だから」といった特別な見方をしているところは見受けられない。安蘭より十歳も年上の大人だが、一時間半から二時間ほどの取材時間の間に、「青梅A中サッカー部の皆」という一括りにせず、部員一人一人のサッカーに対する思いをしっかり汲もうとしている姿勢が感じられた。それだけ、良い漫画を描きたいという気持ちが強い証拠なのだろうと安蘭は理解した。自分がもっとサッカーを上手くなりたいという気持ちと、きっと同じはずだ。一方で、安蘭に対して、自分だけ全国大会の試合に出れなかった事をどう思うか、といったような質問を予想していたが、それはしてこなかった。規定なのだから仕方ないとはいえ、もちろん、自分が都大会で結果を残して出場権を得た全国大会に自分が出れない事に対しては、正直、複雑な気持ちがあるのも事実だが、試合に出た男子たちだって、試合で負けてしまった悔しさを抱えている。そんな仲間たちの前でそんな質問をされても答えづらいという事を察してくれたのだろうか。だとしたら、漫画家としてだけでなく、人の気持ちを思いやる事が出来る、人としても優れている人だと安蘭は感じた。

「三年生の皆さんは、これから進路の事で悩みが多くなると思うけど、頑張ってくださいね。藤崎さんは、これからは後輩を引っ張っていく立場として、頑張って」

 昇降口の前まで見送ったとき、良次は一人一人の顔をしっかりと見ながら声を掛けてくれた。自分たちはただ、好きでサッカーを続けている。そんなどこにでもいる中学生と変わらないが、都大会で勝ち上がったところをたまたま見ていたというきっかけで、自分たちの気持ちを汲んでくれ、一人の人間として見てくれる大人と出会う事が出来た。安蘭にとって、一生の思い出になる気がしていた。




   3


 月刊漫画誌発売当日の朝。安蘭が学校に行くと、既に月刊誌を買った男子生徒が教室で漫画雑誌を広げ、複数の友人同士で安蘭の事を話題にしているところだった。

「安達って中学んとき、男子と互角にサッカーやってたんだな!」

「漫画の主人公になるなんてマジすげぇよ!」

「これって全部マジ話!?」

 F高校は漫画本の持ち込み禁止で、先生に見つかると没収されてしまうため、安蘭は帰り道に買うつもりで楽しみにしていたのだが、放課後まで待ち切れない男子たちは既に、学校に来る途中にコンビニで買ってきたようだ。安蘭は自分が取材に協力した読み切り漫画の発表を宣伝する良次のツイッターの投稿をリツイートしたり、自分で書いた文章で漫画を宣伝するツイートもした。また、フェイスブックは基本的に投稿の公開範囲を「友達」までに設定している安蘭だが、漫画の宣伝を投稿するときは「全体」まで広げた。するとツイッターとフェイスブックで、同じクラスの友達だけでなく、菜摘をはじめ、中学時代の同級生や、中学時代のサッカー部の先輩や後輩、かつて対戦した他の中学校のサッカー部にいた男子からも「いいね!」が押してもらえたり、リツイートやシェアをしてもらえた。また、フェイスブックで全体に公開している投稿の場合、例えば菜摘が「いいね!」を押すと、菜摘の「友達」のタイムラインに「藤井菜摘さんが『いいね!』しました」という一文とともに、安蘭の投稿が表示される。そのため、それを見た菜摘の「友達」や、「いいね!」を押してくれた他の「友達」の「友達」のタイムラインにも安蘭の投稿が表示され、安蘭とは直接繫がっていない人たちからも「いいね!」が押されていった。気付けば、投稿してから二十四時間少々の間だけで、「いいね!」や「超いいね!」などのリアクションが五十件以上押されるまでに至った。

 これだけ沢山の人たちから反応が来たのだから、中には実際に漫画を買って読んでくれる人も何人かはいるはずだ。そう思って発売当日を迎えたら、自分が読む前から既に漫画を読み終えた生徒たちが数名いて、安蘭は何やら、ちょっとした有名人になれたようで、少し照れくさい気がした。


 この日の安蘭は退屈な教師の授業を受けていても、常にテンションが高いままだった。早く下校時刻になって、自分の事をモチーフにした漫画を買うのが待ち遠しいという気持ちで一日を過ごした。学校が終わると、菜摘と一緒に福生駅の反対側にある大型スーパーの中にある書店に行って、武田良次の漫画が掲載されている月刊誌を購入した。二人とも、本を綴じている封を解くのに必要な鋏を持っていないため、中身は自宅に帰ってからのお楽しみにして持ち帰った。


 いよいよ自宅に帰り着き、机の引き出しに入った鋏を使って封を解き、目次で武田良次の漫画のページを探した。

 漫画は四十五頁の作品で、主人公である、中学校に入学したばかりの「カオリ」という女の子が、サッカー部への入部を希望する。マネージャーとしてではなく、選手としてサッカーをやりたいと申し出るカオリに対し、男子の先輩たちは驚くが、顧問の教師は「女子だからと断る理由はない」として入部を許可。小学校を卒業と同時に親の仕事の都合で遠方から引っ越してきたカオリは同じ小学校出身の同級生がおらず、サッカー部の男子たちから白い目で見られながらも、同級生と一緒に練習をしてみると、リフティングは一年生の中で一番上手い。一年生同士でミニゲームをすると、小柄なものの、ドリブルでは周囲に引けを取らず、ディフェンスも上手い。ある日、三年生が立て続けに二人怪我をして、女子の入部に反対している二年生が、監督や部長の考えと対立して退部してしまった。二、三年生だけで行われる紅白戦に、一年生から一人だけ参加する事になり、同級生はカオリを推してくれたが、先輩たちの中には、女子と一緒にサッカーをしたくない者もいて、わざと強いキックでパスを出したり、ボールを受けようとしているところへ身体を押してパスを受けられなくしたりなど、嫌がらせをするが、カオリはそんな事はものともせず、紅白戦で得点に絡む動きを見せ、レギュラーの座を獲得する。都大会、関東大会でも、カオリの活躍によって順調に勝ち進み、チームは全国大会への出場権を得る。

 ところが、日本サッカー協会主催の公式戦である全国大会には、女子の選手が出場出来ないという規定により、カオリが出場出来ない事が判明する。監督や部員の保護者らは男女平等を訴えてカオリの出場を認めるように連名で要請書を作成するが、当の本人であるカオリだけは、署名を拒否した。

「どうしてだ! お前が試合に出てここまで勝ち上がれたのに、チームの方針じゃなくて大会の規定で出れないなんておかしいじゃないか」

 夕日の差し込むロッカールームで要請書を両手で持つ三年生のキャプテンの問いかけに対し、長い髪をアップにした髪形のカオリは答えた。

「これは差別じゃないです。女子には女子の全国大会がちゃんとあって、そこには男子が出場する事は出来ないですよね? 女子サッカーを男子サッカーと同じくらい人気のあるものにしていくためにも、男子と女子が一緒に試合に出れないっていうルールは変えちゃいけません」

 スタンドライトを点けた勉強机でこの台詞を読んだ安蘭は、思わず背筋が伸びるほど驚いた。この言葉は確かに、あの当時、自分が考えていた事だが、自分の家族と、サッカー部のごく一部の関係者にしか話していない。ましてや、取材を受けたときも、良次には話していないはずだ。それなのに、当時の自分の思考がこの台詞に反映されている。良次は直接言葉で会話をしなくても、ここまで人の心を読み取る事が出来る人なのだろうか。実際の自分の経験とは物語の背景や進行が違うものの、主人公の思考や心理は、いかにも安蘭そのものだ。日本全国にいる漫画愛好家が読む漫画の主人公に、自分のアイデンティティが投影されている。人生でこんな経験が出来る人なんて、なかなかいないだろう。ある意味、名門大学に入学するより凄い事かもしれない。

 物語の中では、カオリが入部するとき、多くの男子が反発的な見方をする中で、いつもカオリを庇ってくれる三年生のゴールキーパーが描かれているが、カオリは彼に恋心を抱く描写が出てくる。夏休みに行われた全国大会一回戦でカオリのチームが負け、二学期が始まった日の放課後、その先輩に会おうと、三年生の昇降口の前で待っていると、先輩が他の三年生の女子と手を繫いで帰っていくところを目撃してしまう、という、ちょっぴり切ない場面で物語が終わっていた。

 安蘭が試合に出ている姿をたまたま見ていた事をきっかけにして、女の子を主人公にしたサッカー漫画のアイデアが生まれ、安蘭や青梅A中サッカー部の先輩たちが取材で話した事を参考にしつつ、フィクションとしてしっかり物語の展開がなされている。読み切りとはいえ、四十五頁もの物語を描けて、しかもそれが全国の書店やコンビニの店頭に並ぶ雑誌に掲載されるのだから、良次は凄い才能の持ち主だ。


『漫画読みました! 私が話した事がしっかり盛り込まれていて嬉しいです! 私は自分にしか歩む事が出来ない人生を歩んでるって実感しています!』

 漫画を読み終えた安蘭は、早速フェイスブックのメッセンジャーで良次に感想を伝えた。去年、中学校生活最後の大会となった都大会の試合に、良次が応援に来てくれた。トーナメント一回戦の試合に勝った後、チームメイトと一緒に会場を後にしようとしていたところ、「藤崎さん!」と声を掛けてくる人がいて、見たら良次だったのだ。

「久しぶり。次の試合も頑張ってね」

「ありがとうございます!」

 チームメイトと一緒に行動していたので、それだけの挨拶だけで別れたが、一年経った今でも自分の事を気にかけてくれて、わざわざ試合会場まで駆けつけてくれた事がとても嬉しかった事を今でも覚えている。あの後、安蘭は帰路の電車の中でスマートフォンを使ってツイッターで良次にダイレクトメッセージを送り、改めてお礼の言葉を伝えた。

『今日は見に来ていただき、ありがとうございました。まさか来てくれると思わなかったので、びっくりしました!』

 取材の数日後、安蘭がツイッターで「武田良次」という名前を検索してみると、その名前のままで登録されているアカウントを見付けた。顔写真は載せていなかったが、プロフィールには見習い漫画家と書いてあり、ツイートの履歴を見ると、「取材で中学校に行ってきた」というツイートがあったので、この人が間違いなく武田良次その人だと思い、フォローした。すると、ほどなくして相互フォローになったのである。安蘭のアカウント名は「アラン」、プロフィールには小学校時代からサッカーを続けて、中学校でサッカー部に所属している事、韓流ファンである事を書いてあったので、良次もすぐに安蘭だと分かったのだろう。進路が決まり、暇を持て余して毎日ネットサーフィンをしていたとき、フェイスブックで武田良次のアカウントを検索してみたところ、同姓同名のアカウントが何名も出てきた。プロフィールに顔写真を載せている人を見たらどれも別人だったが、机に向かって何か作業している人の後ろ姿を斜め後ろから撮影した写真を載せているアカウントがあった。丸みのある広い肩幅に、加工か天然なのか分からないが、パーマのかかった髪、眼鏡を掛けているのが見て取れるが、いかにも漫画家の良次のように見える。プロフィールを開いてみると、職業には見習い漫画家と書いてあり、居住地は府中市と書いてあるから、間違いなく良次だ。安蘭が友達申請すると、ほどなくして承認のお知らせが届いた。

 ツイッターでもフェイスブックでも、良次はたまに「いいね!」を押してくれる。良次はフェイスブックには滅多に投稿をしていないようだが、タイムラインを見ていると、同人誌などを出版している漫画家が全体に公開しているお知らせや宣伝に「いいね!」を押している事が多いようだ。


『読んでくれてありがとう! 物語を四十五頁に纏めるのって結構大変だったから、そう言ってもらえると、描いた甲斐があるよ! 評判が良ければ今後の連載の話に進展するかもだから、出来たら出版社に、面白かったという一言を書いた葉書を一枚送ってくれるとさらにありがたい』

 安蘭が良次に送ったメッセージに、ほどなくして返信が来た。良次は自分の事を漫画の題材にしてくれた人だ。六十二円の切手代で彼の今後のキャリアに関わる協力が出来るのであれば、喜んで葉書を書こう! 安蘭は小学校低学年の頃に学校の授業の一環で保護者に向けた葉書を書いたとき以来、手書きで葉書を書いて出版社に送った。良次のフェイスブックやツイッターの投稿を見てみると、やはり、「是非皆さん、出版社へ葉書をお願いします」という文言が、出版社の住所とともに書いてあった。

 もしもこれが上手くいって連載という流れになれば、良次はまた取材に来てくれるだろうか。高校生活はまだ始まったばかりだが、とてつもない夢が広がってきた。




   4


 夏休みに入ると、安蘭は学校から帰る途中の小作おざく駅近くの居酒屋でバイトを始めた。バイトの求人広告で見付けたのだが、チェーン店ではなく、安蘭の親と同世代の夫婦が自営業でやっている店で、安蘭以外にも、五人ほどのバイトスタッフがシフト制で働いている。安蘭は週二回から四回のペースで働いているが、月曜日は店の営業自体が定休日なので、スケジュールは立てやすい。学校が始まったら、平日は学校が終わってからバイトに行き、土日であれば自宅から通う。F高校は原則としてバイト禁止だが、生徒、保護者、担任で三者面談をして事情を認められれば、バイトを許可される。安蘭は母子家庭で、私立に通っている姉が今年は受験生なので、安蘭の定期券と携帯電話料金は自分で稼いでもらいたい、と母親に嘆願してもらい、バイトを認めてもらったのだ。定期券と携帯電話料金は実際に自分で払ったが、月に七万円前後の給料で余裕で支払う事が出来た。もちろん、残りのお金を使ってメイク道具を買ったり、友達と遊びに出かけたりした。十月には菜摘と一緒に、初めて安蘭がお気に入りの韓流の男性ダンスユニットの来日コンサートを見るために横浜まで行ってきた。ステージを横から見る二階席だったので全体的には見づらかったが、憧れの歌手が歌い、踊っている姿を生で見る事が出来たときは、小学生時代から彼らの曲を聴きながら成長してきた日々が走馬灯のように蘇ってきた。中学生のとき、サッカーの試合で負けて悔しかったとき、委員会活動を通した人間関係で悩んでいたとき、卒業後の進路に不安を抱えていたとき、いつも自分を励まし、勇気付けてくれたのは、彼らの音楽であり、映像を通して見る彼らのダンスパフォーマンスだった。今の自分がいるのは、彼らのおかげだといっても過言ではないと安蘭は思っている。一曲目が始まって間もないときから、安蘭は感極まって涙を流さずにはいられなかった。一曲目が終わったとき、隣にいる菜摘を見やると、やはり彼女も涙を浮かべていた。

 生きているからこそ、バイトをしているからこそ、自分で稼いだお金で、苦楽をともにしてきた菜摘と一緒にコンサートを見に来る事が出来る。部活なんてやってなくても、青春を謳歌する事は可能だという事を、安蘭は実感した。


 学校の授業は退屈だし、毎朝早起きしての電車通学は疲れる。酔っ払いを相手にしなければいけないバイトはきつい。それでも、次に韓流ダンスユニットのコンサートやペンミティンを見に行くためのお金を貯める目的があるから、頑張る事が出来る。

 それに、バイト先の店長夫婦はとても思いやりがあり、ミスを厳しく注意してくる事はあっても、上手く出来たときはきちんと褒めてくれる。上手くいかない事があっても、どんな工夫をすれば良いのか、的確にアドバイスをくれるから、やる気をなくさなくて済む。ブラックバイトやブラック上司といった言葉が騒がれる昨今だが、世の中、そんなに悪い人ばかりではないような気がしてきた。

 店を繁盛させる事が、自分の収入を安定させる事に繫がる。安蘭はツイッターで店長が投稿した店の投稿をリツイートしたり、店の装飾を安蘭が作ったときは、自分で写真を撮ってツイッターやインスタグラムにアップロードする事もある。そうすると、高校の同級生や中学時代の同級生が家族で来てくれる事もあるし、安蘭がアップロードした写真を此花がリツイートすると、それを見た此花の友達が来てくれた事もある。お客さんの中には、「安蘭ちゃんのインスタグラムいつも見てるよ」と言ってくれる人もいて、店の集客に貢献出来ている実感を得られる。


 あるとき、良次が一人で店に来た。取材に来たときのようなスラックスにYシャツではなく、デニムのパンツに白いTシャツ、その上にチェック柄の長袖を羽織った楽な出で立ちだったので一瞬誰なのか分からなかったが、二年ぶりに見る彼の顔は全然変わっていなかった。中学時代の同級生は既に髪を染めたりしてだいぶ変わってしまった者もいるが、大人になると、二年くらいではあまり変わらないものなのだろうか。

 府中からだと小一時間はかかると思うが、安蘭がツイッターに載せている写真を見ていて、是非食事をしに行きたいと思い、来てくれたという。

「まだ詳しい事は話せないけど、サッカーを題材にした連載漫画の話が進んでるんだ」

 カウンター席に座って食事をしながら、良次が言った。

「僕はサッカーに関しては素人だから、安蘭ちゃんに色々教えてもらいたいなと思ってさ」

 連載の話がいよいよ現実味を帯びてきた。まだ詳細が発表されていない段階なので友達に話せないのが残念だが、安蘭は何やら、自分のこれからの人生で、確実に大きな財産となる経験が出来そうな予感がしてきた。

「もちろんです。私に出来る事だったら、喜んで協力しますよ!」

後編へ続く。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ