90話 命名談義
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「おら、いい加減起きなさいよ」
「――ハッ!? お、俺は一体何を……!?」
「目、覚ましたならさっさと起き上がりなさい。邪魔よ」
事態の収束を見届けたセリカは、床に寝転がって気絶したままのジークを足蹴にしてたたき起こす。
足蹴にしても尚寝ぼけた風を装う姿に苛立ちを隠すことなく、容赦なく放った平手打ちは見事に頬に打ち込まれ、良い音を鳴らしてジークの意識をはっきりとさせるのであった。
謎の腹部の痛みと頬に感じる痛みに困惑する様子のジークに、レイは心の中で「ごめん!」と謝罪をしながら、力なく肩を落とす少女に目を向ける。
繋がったままの手からは固執、執念のようなものが伝わってくるようで、決してその手を離そうとはしない。ご主人様ではない、と言った手前、レイとしては離れた方が良いのだろうが、こうして彼女に手を差し伸べ、その手を掴んでしまったからには、最早その言葉に重みも何も無いようなものであった。
「お前にはいろいろと話してもらわなくちゃいけないことがある。いいな? ……あー、そうだな、名前が無いと不便だ。ゲロ女の意味も込めて、ゲロシャス、とかでいいだろ」
な? と同意を求めるようにレイ含め他の人間に目配せをするシオに対して、良いも悪いも無い、その判断に至るまでも無い、と不服さを表に出した少女がシオに対して睨みを強める。
「あ? 何か文句でもあんのか?」
「お前じゃ! っ、ない……」
反抗しようにも、自分に与えられた名前は没収され、自己を自己たらしめるものが存在しない浮ついた、地に足のついていない状況の中において、少女の声は段々と尻すぼみしていく。
「じゃあなんて呼べばいいんだっつうの」
「シオ、イライラしないの。落ち着こう?」
「そうよ、シオ。そんなに焦る必要はないと思うけど。それに、その……、流石にその名前はちょっとかわいそうって言うか、有り得ないというか」
「んじゃあセリカ、お前が考えてくれよ」
レイに対する敵意はすっかり消え失せてはいるも、シオに対しては今尚続く激しい敵愾心を抱いている様子の少女に対して、シオは苛立たし気に尻尾の先端でペシペシとレイの体を軽く叩く。
少女の我儘に付き合ってられるか、とセリカに丸投げする。
「あ、あたし!? そうね……。えっと、それじゃあ、桃色の髪の毛が綺麗だし特徴的だから、モモ、とか……?」
「安直だな」
「うん」
「い、良いと思うよ、うん!」
「……」
良くも悪くもない反応が各々から上がったことに、セリカは乾いた笑いを浮かべながら目の端に涙が浮かんでくるのを必死でこらえる。
けれども、続くシオの「セリカお前、犬にはポチ、猫にはタマって名付けるタイプだろ」と追い打ちをかけられ、必死で堪えた意味も無く涙が頬を伝う。続けて、レイの無邪気な声で「三毛猫にはミケでしょ」という、泣きっ面に蜂とひったくりに会って側溝に落ちる、くらいの追い打ちを食らった気分になっては、胸を抑えて蹲るのであった。
胸の傷は唯一の賛同者たるジークの称賛を受けようとも帳消しになるはずもない。
ただ一つの救いがあるとすれば、少女からは著しい反応を引き出せはしなかったものの、俯いて沈黙しているだけである、と言う点だろう。少なくとも、シオの「ゲロシャス」よりは何倍もマシだという事実にセリカはホッと胸を撫で下ろす。
もし仮にシオの圧倒的なまでにネーミングセンスの欠如した名前よりも下であったならば、セリカはこの場で人間性を捨てたような悲鳴を上げ、今後一切の名付けを放棄するところだった。それを一歩手前で立ち止まることができたのは、少女が気に入ってもいなければ嫌ってもいない名前を口にすることができた自分のネーミングセンスのお陰だった。
シンプル上等。
今この瞬間から、セリカのこれからの未来、ネーミングセンスにおいて悩むことは限りなく少なくなったと言える以上、正直な感想を口にしてもらえたことはセリカにとって、良かったことだと言えるかもしれない。
「――次! 次はあんたの番。笑ってる場合じゃないわよ」
だがしかし、この状況はセリカの未来を安堵させるための場では無く、桃色の髪の少女の名前を決める場なのだ。
もしこのまま決まらなければ、シオ命名の「ゲロシャス」に決定してしまう。
この状況に危機感を覚えているのは、この場で唯一少女と同性であるセリカのみ。
自分がそんな名前でこれから先生きて行けと言われたら、両親を憎もうと自分に言い聞かせていた時よりもずっと大きな憎悪をシオに向けてしまうかもしれない。
あの時の偽物の感情など比べ物にはならない、本物の憎悪を、本物の憤怒と言うものをその身に宿す羽目になるくらいには、絶対に避けなければならないものだった。
セリカから見て、同じ女性から見ても美しい少女に、そんな下品な名前が付けられるというアクシデントだけはどうしても認められないのであった。
けれども、セリカにとってはシオもレイも独特な感性をしているかもしれないと考えているがゆえに、一存でレイに託すにも不安が残る。
何せ、セリカの思い浮かべた名前は、レイもシオも全く同じ反応を示すという非常事態に陥ってしまったのだから。
このままではレイの口からもあんな不名誉な、シオと同等かそれ以下の名前が出てきても何ら可笑しくはない。
女性の名誉が崖っぷちに追い詰められ、残された最後の希望を、と頼ったのは、この状況にようやく追いついてきたジーク。
自分以外に普通の感性を所持していると言えば、と忸怩たる思いで最後の切り札だ、とばかりに密かにジークに期待を寄せる。
「あはは……。ちょっと俺には思いつかないかな」
優男の振りをして、ここで出しゃばるのは余計な真似だろう? とばかりに薄目を空けてセリカに訴えるジーク。
ものの見事にセリカの期待を外すジークに対して、こんな男に一瞬でも恋心を寄せ、期待を寄せた自分が恥ずかしいとばかりに視線を外す。
――ジークは、そう言う男だったわね。
心の中でそんな言葉を吐き捨てられているとも知らずに、ジークはレイもシオも視線を外した、誰の視界にも映ってない横で健気にセリカに向けてアピールをするのであった。未だに残る頬の痛みを擦りながら。
「次、レイな。なんかいいのが出なかったら、ゲロシャスで決定だからな」
「いや、それは流石にかわいそうだよ」
レイがその認識を持っていることに安堵するセリカはホッと息を吐く。
対して、シオには敵意を向ける少女は、レイの番になるや否や、媚びるような視線をレイに向かってとめどなく浴びせかける。
キラキラと眩い程の眼差しには「またヒジリと呼んでください」とでも言わんばかりに熱量が込められており、自然と握られる手に力が込められていくのを感じる。
「そ、そう言えば、元の名前はあったりするの? 僕たちと出会う前の名前、とか」
ここに来て当たり前の問いに、セリカとジークはハッとする。
何故そのことに思い至らなかったのか、と二人が反省する横で、シオは興味無さげに「なんでもいいから早く決まんねぇかな」と独り言ちる。
名前があるなら……、と僅かに期待を示したレイとセリカ、ジークの甘い考えは即座に否定される。
「ありませんでした。正確には、ありとあらゆる情報が欠如している、とも言い換えられます。ですが、マスターの望まれる答えがあるとすれば、かつて個体識別名称として与えられた『被検体0018』が名前であると仮定しても問題はありません。マスターが望むのであれば、これからも『被検体0018』として生きていっても――」
レイの問いに対して、少女は力なく首を振って答える。
色々と聞きたい情報が流れ出てくるのだが、かつて「なんにもない、空っぽの0」と自分の名前を数字に被せて馬鹿にされたことを思い出すため、人を番号で呼称することに忌避感を覚える。
――名前は、ヒジリが褒めてくれた大事な名前だから。
誰が与えてくれたかも分からない名前だが、それでもレイは自分の名前が好きだった。
素敵な名前だ、とヒジリは言ってくれた。教えてくれた。だからレイは、自分の名前が好きだった。
だからこそ、目の前の少女にこれから先どんな人生が待っていようとも、自分の名前を誇れると良いな、という思いを込めて名前を考えるのであった。
「……こんなやつに時間使う必要無ぇだろうよ」
シオはこんなことを言うが、それでもレイは自分でこうしたいと決めて、彼女に似合う名前を考える。
けれども、少女の願いに真正面から答えてやることは出来ない。
ヒジリの名前と姿は、姉を奪われた後にレイの手元に残った大切な記憶だから。
「あー……、うーん。いー……、うーん。うー……、うーん」
「……っ」
思いついた名前を口にしようとすると、少女はあからさまに不安がり、首を横に振ろうとするのを理性で押し留めているような苦々しい表情を見せる。
「? ヒ……?」
「――ッ!!」
頭文字に反応しているのかと見抜いたレイが試しに呟いてみると、少女は分かりやすい反応を示して期待が何十倍にも膨らんだ輝かしい眼差しが向けられる。
ヒジリに良く似た、けれども確かに異なるその顔つきが思い出させるのは、嫌な記憶ばかりではない。憎悪だけではない。
ヒジリと過ごした大切な時間を、時と共に薄れていく記憶が再び呼び起こされるような感覚を覚えるも、目の前の少女を姉の代わりに扱う事など出来るはずも無い。それは、姉に対しても、自分に対しても裏切り行為だと分かっているから。ゆえに、彼女が望む答えを、もう一度「ヒジリ」と呼ぶ夢を、レイは叶えてやることができないのであった。
だからこそ、レイは目の前の桃色の髪の少女に、新しい名前を付ける。
こればかりはいくら悩んでも考え得る数は限られており、なんだかんだ言って初めに出た名前が一番良かったりする。ゲロシャスが一番良いなんて意味ではない。
何が言いたいかと言うと、あまり考えすぎず、少女が気に入ってくれるような名前が良いのだということだ。
つまり、パッと閃いた名前、インスピレーションが赴くままの名前こそが、最高にセンスの良い少女も気に入ってくれるような名前なはずだ、と思い至ったレイは「良し決めた」と一つ頷き少女に向き直った。
「君の名前は、ヒ――」




