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龍の腕は世界を抱く  作者: 萌葱クレイオ
第三章 想いの継承、世界と人の業
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88話 ヒジリを名乗る少女

読んでいただきありがとうございます。

本日五話目。

 


「川を、見に行っておりました。マスター」

「いやいやいや、聞き取れなかったとかじゃなくって――」


 シオとセリカは警戒を強め、ジークは尻餅をついたまま立ち上がれない。異様な雰囲気を纏う桃色の髪の少女が突戦現れたものだから、腰でも抜けたのだろう。


 ジークが腰を抜かすのは無理も無い話。

 昨晩は夜の闇に紛れて気付かなかったが、桃色の髪の少女は灯りの下に姿を露にしたその容姿は、異様としか言いようがなく、この中で唯一の一般人であるジークにとっては恐ろしい存在に見えた事だろう。


 何せ彼女は、()()()()()のだから。


 自称ではなく、見た人全てが口をそろえるであろうと思えるほどに整いすぎている顔つき、小さなレイよりも一回り大きい理想的で抜群のスタイル。


 そしてそれはレイの記憶の中の最愛の姉、ヒジリにそっくりなのは間違いがなかった。

 しかし、記憶の中のヒジリはもっと柔らかな表情を浮かべ、鈴が転がるような笑みいつ何時でも絶やさない人だったため、目の前の少女とは全くの別人だとも分かる。


 それでもレイは心が騒めき立つのは止められず、目の前の美しすぎる少女から目が離せない。


 容姿端麗、才色兼備。

 そんな誉め言葉では足りないくらい、むしろその言葉が安っぽく聞こえてくるような美貌を誇る桃色の髪の少女は、シオにもセリカにも視線を向けることなく、ただ真っ直ぐにレイを見て、目を細め微笑んだ。


 刹那、自分を見つめてくる瞳に吸い込まれるようにして、レイの意識は呆然と思考の凪に囚われる。

 自分の手から意識だけが、思考だけが手を離れていく感覚に陥る中、深い青の瞳がいつしか桃色の妖しい光に変わっている事に気が付いた。


「これって……!?」


 だがしかし。気付いた時にはもう遅く、何かに気付いたセリカの声が遠くなっていくかのように、レイの思考は目の前の桃色の髪の少女しか捉えることができずに、文字通り釘付けになっていた。



 ――桃色の髪の少女がこてん、と首を傾げれば、レイは自然とその行為を「愛らしい」と思うようになり、レイの目線に合わせて前屈みになって緩くなった胸元に視線が誘導される。

 うぶ毛のないきめ細やかでミルクのような白さを誇る首筋に噛みつきたい衝動を抑えて視線を這わせると、レイの自分でも知らなかった扇情的な感情が呼び起されるようで。

 つつつ、と流れる自然な汗が、襤褸切れ一枚纏った少女の肌を伝って緩んだ胸元に飛び込んでいく。

 ほのかな、それでいて十分なふくらみを見せる胸がレイの目に映り込むのを、レイの頭では失礼だと分かっていても、釣られる体は言う事を聞いてくれな――。




「――んぐうぇっ!?」



 ごくり、と生唾を飲み込んだ瞬間、レイの視界は突如として暗闇に染まり、その状態のまま首ごと後ろに持っていかれた衝撃で、レイは奇妙な悲鳴を上げて一歩、二歩、と後退る。


「同じ手にかかるんじゃねぇよ」

「分かってても、敵意がないから判断できなくて……」


 後退ったレイの体を支えたのは、他でもないシオ。

 レイの視界を遮って、共に魔力も遮ってくれた頼もしい尻尾を解いて自分の足で立つと、今度は桃色の髪の少女の表情が険しくなる。

 不服そうに睨みを強めても尚整った顔つきは見事としか言いようがなく、再び桃色に変わった瞳を今度はシオに向ける。


 再び放たれた魔力を感じ取ったセリカが「やっぱり……!」と呟いた横で、シオは不敵に笑って喝ッ! と咆哮を放った。

 レイの耳がキン、と響いて講義の視線を送るも、シオは腹立たしい、と言った様子を隠すことなく牙を剥く。


「ぁぐっ……!?」

「そんな小細工、俺に届くとでも思ってんのか?」


 レイには感知し得ない魔力の応酬があったのか、と思うと、シオと対面していた桃色の髪の少女は目元を抑えて蹲る。

 苦痛に喘ぐ姿は痛々しく、それでも尚シオに立ち向かおうと髪を振り乱しては、初めて感情らしい感情を声に乗せて叫んだ。


「――マスターは、()()()のマスターです! マスターの役に立つことが、()()()の役目なのですっ! 邪魔を、しないでください!!」


「「ッ!?」」


 マスターが何を意味するかは想像つかないが、レイを見てそう言っているのだろうという事は何となくその場の雰囲気から読み取れていた。

 けれども、今しがた口にした名前は、他の誰でもない彼女が自分を呼称する際に用いる一人称であることを理解してしまっては、レイとシオはにわかに殺気立つ。


 先ほどまで敵意も何も抱いていなかった柔和な表情が嘘のように消え、今ではレイの顔には何の感情も宿っていなかった。それはまたシオも同じであった。


 桃色の髪の少女がシオに対して向けた敵意が、殺気となって返ってくる。

 彼女もまたそれは想定していただろうが、彼女がマスターと呼ぶレイからもシオと同じか、それ以上の冷たい殺気を向けられたことに対して酷く委縮して、今にも泣き出してしまいそうな表情でレイに縋りつこうと距離を詰める。


「……マスター、()()()は何か、何か気に障る事をしてしまったでしょうか。()()()にはマスターが何故起こっているのかが分かりません。マスター、()()()をその目で見るのは止めて下さい。どうか、どうかお許しください。()()()はマスターのためなら何でもしますから、だからどうか、見捨てないでください」


 昨夜に見た姿ともまるで異なる、心の底から切羽詰まったかのような女性の姿は、どんな顔をしても、どんな動きをしても、レイの記憶の中の姉とは合致しない。


 確かに似ている。

 似ているが、ただそれだけ。

 外面だけが同じなだけで、内面はまるで違う。


 ――姉さんじゃ、ない。


 そうすると、姉に良く似た顔で、声で、姿で、姉の名を名乗って自分に近付いてくることが、どれだけ尊厳を傷付けるものか。

 目の前で桃色の髪の少女が「マスター」と口にして弱々しい姿を見せる行動、一挙手一投足全てがレイの癇に障る。


 たださえヒジリの事に対して整理できていないことが多すぎるというのに、ここにきての追い打ちはレイの琴線に触れるどころか、琴線を踏み荒らすような悪意に満ちた行為に他ならない。

 また、レイとシオの二人を怒らせるには、これ以上ない姿だとも言えるだろう。


「……その顔で、その姿でッ、ヒジリを、姉さんを口にするな……! これ以上、侮辱するな……!」


 キッ、と怒りを露にして桃色の髪の少女を睨み付けるレイであったが、立ち上がった少女の目は決して死んでおらず、身に纏う襤褸切れの裾を皺が付くくらい強く握りながらマスター(レイ)に立ち向かう。


「それは、できません。この名前は、マスターが与えてくれた、大切な名ですので」

「……は?」

「この名前は、マスターが与えてくれた、大切な名――」

「いや、それはさっきもやった! ……そうじゃなくて、僕が与えた? いつ? って言うか、マスターってやっぱり僕の事?」


 レイの怒りの要求も、少女は断固たる決意を持って拒絶の意を示す。

 しかしそれはレイにもシオにも理解の及ばぬ言葉であり、話が噛み合わないことにすっかりレイも毒気を抜かれて問いかける横では、シオもまた首を傾げるのであった。


 そんな二人の疑問に答えるように、少女は再び感情の抜け落ちた声音で語り出す。


「昨夜、マスターはこの体、個体識別名:被検体0018(ゼロゼロイチハチ)を見て『ヒジリ』とおっしゃいました。これまでの呼称ではない、明確なこの身に対する名付けとして認識し、それは正式に行われました。被検体0018(ゼロゼロイチハチ)は改名、ヒジリと言う個体名称、名前を得たのです。そして、名付けを行ってくださいましたあなたはヒジリのマスター。この()()()ご主人様(マスター)として認められたのです。……ゆえに、ヒジリは()()()であり、マスターはご主人様(マスター)なのです。ヒジリにとってこの機会は待ち侘びたものであり、名付けを果たした以上、マスターはマスターとなっていただく他、ありません――っ」


 グイっ、と「マスター」と呼ぶレイに身を寄せる少女。

 再三に渡って瞳が桃色に輝きを放つ寸前、シオの尻尾がレイの目元を覆い、魔力の干渉を防ぐ。


 昨晩と先のシオでさえ事象が起こってから反応するのがやっとだった正体不明の魔力に比べて、今のはどこか粗が見つかるような、直前で察知できるくらいには粗雑な導入だった。


 レイを行動不能に陥れる原因が少女の瞳がレイの目と合わさることが原因だと判断し、少女の瞳が妖しく光る前にレイの目を覆う事で未然に防ぐことに成功する。


「真っ暗! ありがとう!」


 当のレイは呑気にも真っ暗な視界の中で、ひんやりと冷たいシオの体温に安心感すら感じていた。

 一定以上の刺激で簡単に抜け出せるとは言え、むやみやたらとレイを傷付けることを良しとしないシオはこうして対策を用意していたのであった。


 レイ自身も、なんとなく桃色に光る瞳に見つめられると意識が分断される感覚に気付いており、対策を考えていたものの、いかんせんレイは敵意や殺意のない相手にはとことん甘い。

 相手を警戒できない質のレイは馬鹿正直に相手の目を見て会話をしてしまうため、こうして何度も同じ手にかかってしまうのであった。それもまた、レイの良いところなんだがな、とシオは親バカな視点で溜め息を吐いた。


「……邪魔を、しないで下さい。マスターは、()()()のマスターなのです」

「ははっ。おいレイ、こいつ敵意剥き出しだぜ?」

「こいつ、ではありませんヒジリには、()()()という名がマスターより与えられているのです」


 ギリっ、と奥歯を噛み締めては、シオに敵意を晒す少女。

 しかし、少女の発言に対して声を上げたレイに対しては、酷く狼狽した様子を向けるのだった。


「――その名前は、ダメだ」

「……マスター」


 レイはシオの尻尾を解いて、少女と対峙する。

 その目はしっかりと閉じられていても尚、少女を真正面で向き合っており、自分の意思をはっきりと伝える。天地がひっくり返っても、その名を許すことは出来ないと言う意志をはっきりと込めて、言葉に乗せて、投げかけた。


 しかし、少女にとってその声は、その言葉はご主人様(マスター)からの拒絶の証。

 それを受けた少女は、先ほどよりもずっと激しい狼狽と、大きな困惑と混乱、そして焦燥。様々な負の感情を喉から絞り出したかのような声で、最後の希望を込めて彼女のご主人様(マスター)を呼ぶ。


 それは希望と言うよりも、懇願。

 神に祈るかのような、ありもしない希望に縋る、愚かな信徒であった。


「僕は、君のマスターじゃない。だから、その名前も君のものじゃないんだ。だから、返してほしい。勘違いさせたなら謝るから、その名前は、僕にとって大切な物なんだ」


 神は、沈黙よりも恐ろしい、拒絶を信徒に押し付ける。


 その声を聞いて、少女はヒタ、と素足が後退る音を鳴らして後退する。

 この時、レイが目を開けていたならば、その目には今にも泣きそうな少女の顔が映ったことだろう。その表情は演技でもなんでもない、心からの絶望を体現したかのような表情であり、それを目にしたシオは何とも言えない感情を抱く。


 だがそれも束の間、突如として溢れんばかりの敵意がレイに向けられる。


「っ!?」


 それは明確な敵意であり、同時に放たれた、膨大な量の魔力の波長はレイ以外の目を見開かせる。


「昨日と言い今日と言い、なんなのよ、これは……!?」

「……」


「おい、レイ! どうなってんだこれ!?」

「僕だって知らないよ!?」

「お前こいつのマスターとやらなんだろ! どうにかしろって……、うぇ、気持ち悪っ」

「だから知らないってぇ!!」


 少女の魔力に当てられて、空気が震え、窓ガラスが弾ける。

 そんな状況の中、シオが少女の体から放たれる特異な魔力に気持ち悪くなってしまい、嘔吐きながらレイの体から離れていく。


 対する少女は呼吸を荒くさせ、金切り声を上げてレイを睨みつける。


「嫌……、です……! マスターじゃないのなら、あなたは敵です。ヒジリの、()()()の名前を奪おうとする人はみんな、敵、ですっ!!」


 レイの目に映らない少女の姿は、どこまでも悲しそうで、肩を震わせて泣いているように見えるのだった。







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