3話 どこの誰に騙されたかは知りませんが
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「ゲホッ、ゲホッ!!」
「姉さん、落ち着いて、ゆっくり呼吸をして……!」
明朝、ヒジリの苦しそうな声で目が覚めたレイは、真摯に姉の背を擦っていた。
体調が急変したのは、また姉の体内から竜気が減少したからだろう。下級竜である小さな竜とさほど変わりない程に少ない竜気は、ラナの命の灯のようで。ヒジリの弱くなっていく脈拍が酷く恐ろしく感じられてしまう。
薬を飲ませるためにもまずは呼吸を落ち着かせねばならないために、ヒジリの手を握って安心させる。
目の端に涙を浮かべて咳き込む姉の姿に、レイはできることなら代わってやりたいと願うも、一人では二人の代わりにはなれない。
ヒジリが苦しむと、半身であるラナも苦しむ。
彼女らを救うためには、竜気の減少を留め、竜気の再生を願う他ない。
自分にできることはないのか、と悔しさから歯噛みするが、何を考えても後手。
今すぐに姉をこの苦しみから解放してやれる方法は、レイには取れなかった。
だからこそ、レイはその小さな手で姉の背中に手を置いて、姉の手を取り、必死になって声をかけ続ける。これしか出来ることが無いのならばと、自分にできる事すべてを全力で行う。
パニックになって呼吸のリズムを忘れたかのように苦しそうに喘ぐ姉に、レイは自分の呼吸の音を聞かせるように寄り添って落ち着かせる。
浅く短い呼吸が次第に穏やかになっていくと、青かった顔に血の気が戻ってくる。
「……っ、れい、ありが、とう」
息も絶え絶えの状態で、額に汗をにじませながら感謝の言葉を口にする姉に、レイはまだ油断しちゃダメだ、と完全に落ち着くまで楽な姿勢でいるようにと言付けをして薬を取りに行く。
「これ、苦いからあんまり好きじゃないの」
戻ってきたころにはヒジリは落ち着きを取り戻しており、汗ばんだ肌を自分の手で軽く拭っていた。
この状況でわがままを口にできるのなら、としっかりと飲み干すところまで見届ける。
倒れたばかりの頃、目を離した隙に一口飲んだだけの煎じ薬を窓から外に向かって捨てていたのを目撃して以来、必ず飲み干すまで見届けるようにしている。
薬と言っても、これはヒジリの上級区で学んだ薬草知識で合成しただけの煎じ薬で、効果は竜気の減少を微かに抑える程度しかない。根本的に治す薬ではなく、進行を遅らせる事しかできない薬なのであった。
「レイも笑顔じゃないし、何回飲んでも不味いものは不味いのよ……」
文句を垂れるヒジリの体をぬるま湯で拭った後、レイは一つの決心を固める。
――今日こそ、薬を買おう。
これ以上、ヒジリの苦しむ姿を見たくない、苦しませたくない。
竜気さえ戻れば、あとはラナの力で元気に戻るはずだからと信じて、今日も今日とて農作業に精を出す。
渋い顔をして薬を飲み干したヒジリは寝息を立て、ラナもその枕元で眠る。
残りのお金のために、レイは収穫できる全てをサオリおばさんの元へ運ぶのだった。
「これだけ竜文貨があれば、買えるはず……!」
今日の分の納品を終え、サオリおばさんに無理を言って借りた分と、今まで一年間かけてコツコツと貯めてきた分も合わせて巾着に入っているのは竜文貨五十枚。
これだけあれば『幻想の実』が買えるはずだ、と息せき切って歓楽区の方へ駆けていく。
幻想の実は、上級区の更に上、聖区にいると言われる樹木の幻想種が生むと言われる果実。その果実を食べれば、どんな病にも効くと言われている治癒の実。ヒジリを助けるにはもうそれしかない、と立ち上がった次第。幸運にも、ゲンさんからの臨時収入があったおかげで何とか足りた巾着を腕に抱き、レイは歓楽区へ走って向かう。
以前、歓楽区一大きいお店でどうやったら買えるか聞いたところ、この価格を表示されたのだ。竜文貨五十枚など、農業区の人間が用意するのであれば十年以上はかかると言われている家格だ。当然手を出せるはずもない値段を、レイは死に物狂いで働いて切り詰めてを繰り返して貯蓄し、果てにはサオリおばさんに前借してまでかき集めた。姉のためならばと、かき集めて見せたのだ。
噂でしか知らない『幻想の実』。それさえあれば、ヒジリが助かるはずだと信じて、レイは終業間近のその商店に駆け込んだ。
「げ、幻想の実……! 幻想の実を、売って下さい! これだけあれば、買えるって……!」
一番近くにいたスタッフを捕まえて、呼吸を整える間もなく申し付ける。
竜文貨五十枚は大金だ。
レイのような農業区の人間にとっては、一年間の収入と変わりないからだ。
サオリおばさんから借りた二十枚は一生をかけて返す覚悟で、その一年間の稼ぎ全てをつぎ込む。
それだけの価値が、ヒジリを、姉を救うだけの価値はあるとレイは判断した。否、大事な姉の命が救えるのであれば、一生の奉仕だって安いものだし、覚悟の上だった。
――僅か二年。
本当に自分とのつながりがあるのかも分からない、事実上は自称に過ぎない姉。
――されど二年。
いつだってレイのことを心配して、ずっと欲しかった、知ることのなかった愛を教えてくれた人。
このお金で助けられるなら、なんの後悔もない。
その心意気で、レイは竜文貨の詰まった巾着袋を差し出す。夢と希望も乗せて。
――しかし、レイの夢が叶う瞬間は、一秒とて訪れはしない。
「お売りすることは、できませんね」
過去最高を短い期間で更新し続け、農業区の子供が持つには相応しくない程にパンパンに膨らんだ巾着に目を向ける事すらせずに、店員は言い放つ。
その声はひどく冷たく、レイの火照った体には極寒の視線が突き刺さる。
だがそれでも、レイはここで引き下がるわけにはいかないがゆえに、周囲が何事かと奇異の目線を向けてくるのも厭わずに外聞も捨て去って縋りつく。
だがそれも、店員に面倒そうに引き剥がされてしまうのだった。
「な、なんで……! これだけあれば買えるって……!」
「はぁ、どこの誰に騙されたかは知りませんが、それっぽっちのお金ではその目で拝むことすらできませんよ」
「え……?」
そうして言い放たれたのは、どこか嘲笑の混じった、棘のある口ぶりを受け、レイは傷つくよりも先に「騙された」というフレーズが頭から離れなくなる。
――だって、だって……。と絶望を上書きするかのように困惑が頭の中でループし続ける状況の中、レイが捕まえた店員は「仕事がありますので」と無情にも去っていく。
そんな中、その店の奥から嘲笑う声と共に、レイの頭の中に浮かび上がってくる顔と同じ顔をした男が近づいてくる。
「あっははははは! バカだな、お前は! 本当に言った通り金を持ってくるとはな! そこは大した奴だと認めてやるよ。でもなぁ。それ以外が雑魚雑魚過ぎて、零点を通り越してマイナスだよ! バカ過ぎて笑い死ぬぜ! あっははははは!! 傑作だぜ、これは!」
「っ!! 君が……! 君がこれだけあれば用意してやるって、言ったんじゃないか!!」
「あ~? そんなこと言ったっけかぁ? レイ、なんて名前を持つやつの言うことは信じられねぇなぁ! 取るに足らない、根暗で、礼儀も知らない。ましてや、霊魂は俺達がお迎えされた後の物。エネルゼア様の所有物を騙るところが実に根暗らしい。これ以上その名前を名乗るんなら、エネルゼア様への冒涜になると思えよ! ……なんてな!」
顔を歪め、乳歯が抜けたばかりの前歯が目立つ口を下品に大きく開いてこれでもかと嘲笑う。
それでも、怪しく光る茶色の瞳を爛々と輝かせる三白眼はレイを上から見下し続ける。
わざわざナプキンを外しての登場のあたり、まさか食事を抜けてでも駆け付けたとでも言うのだろうか。
自慢の金髪を整えながら階段を下りてくる男こそが、レイに幻想の実の噂を教え、その値段を適当に告げた張本人。下級区一の大きな商店の一人息子の名は、シュウ。
何かにつけてレイを小馬鹿にしたがるシュウは、あろうことか、レイの一番大切にしている姉の命すらも揶揄の対象にしたのだ。
「君が言ったんじゃないか! 忘れたなんて、そんな都合のいいことが通ると――」
「――おいおい、そんな都合のいいこと言ってどうしたんだよ、レぇイ……。幻想の実が竜文貨五十枚なんかで買えると思ってんのか? 農業区の人間の年収ごときで? バカも休み休み言ってくれよ、流石にツッコミきれねぇっての」
「ッ……! これは、このお金は……っ、ごときなんかじゃ、ない……!」
「そうかそうか、それは悪いことを言ったな。だが何度だって言わせてもらうぜ? たかが五十枚で、幻想の実は買えねぇ。……だが、そうだな、これ以上いじめてやると流石の俺も、良心が痛むってもんだ。どれどれ、本当に五十枚もあるかどうか確かめてやるよ」
地面に這い蹲ったままのレイの手から強奪される巾着袋。
レイにとっては命と同等の価値があるはずのそれを乱暴に扱われるも、レイがこの場で手を出す訳にもいかず、ただ黙って数え終わるのを待つ。もしかしたら、という限りなくゼロに近い一縷の希望に身を委ねて。
「……四十九、五十。まさか、本当に集めてくるとは思ってもみなかったぜ」
「君が言ったんだ、五十枚で幻想の実を――」
「――あぁ、確かに言ったな。そうだったそうだった、俺ぁ、忘れっぽくてな。それじゃ、この五十枚は貰っていくぜ」
「っな!? ま、待って! 幻想の実は!? お金と交換だろう!?」
突然のシュウの行動に、レイは訳も分からずその足にしがみついて止める。その姿は傍から見ればみっともなく、情けない姿を晒しているにも拘らず、レイはそのお金で何の成果も得られない事だけが酷く恐ろしかった。
そして、恥も外聞も捨てて自分に縋りつくレイのこれ以上無いくらい格好悪い姿を見下ろして、さらに下衆い笑みを浮かべるシュウ。
普段のシュウの周りには、彼を持てはやして持ち上げる取り巻きがいる。
彼らも揃ってレイを馬鹿にして見下す存在であり、けれども誰も彼もレイよりも上の立場、歓楽区の人間であるため、レイは強気に出れない。
歓楽区もまた同じ下級区であるはずが、歓楽区の人間は総じて農業区の人間を下に見ていた。それ故に、歓楽区と農業区の人間は仲が悪く、常に対立しているような状況だった。昨日のお迎えの時も、農業区の人間たちがこぞって詰め寄せていた事さえ憎むような人間ばかりだった。
そんなシュウは、時折レイと仲良くしているアカリという少女に淡い恋心を抱いていることもあって、常に隣にいるレイと言う少年が余計に気に食わないのであった。
だからこそ今も、嫌味をたっぷり含ませた口でレイを嬲る。
「幻想の実は、ありとあらゆる怪我も、病も治す万能の果実。そんなものがもし、竜文貨五十枚程度で買えるようになっちまったら、治癒士はいらなくなる。だが今はどうだ? 治癒士はいらない世の中か? 違うだろ、他の誰よりも必要とされているんだ。ここまで説明してやれば、お前の脳足りんな頭でも理解できただろ?」
「そんなの、五十枚じゃ、足りない……。でも、君が五十枚あれば、って、言ったから……」
「お前の誠意を見たかっただけだぜ? 全財産を賭ける度胸があるかどうか、な? あとは簡単だ。うちで幻想の実を取り寄せるから、お前は正規の値段を払うだけ。払う気もねぇ奴のために、わざわざ争奪戦に首を突っ込むわけにもいかねぇしな? ほら、あとは本当の値段をお前が持ってくるだけ。俺は嘘は吐かないからよ」
「い、いくらなの……?」
五十枚集めるだけでも一苦労だったと言うのに、これ以上となると、レイには到底用意できない額になる。それでも、一縷の希望をかけて尋ねると、シュウは顎を上にしゃくって子供の五本指を大きく広げては、幻想の実の生気の値段を口にした。
「竜文貨、五千枚だ」
「――っ」
かひゅっ、とレイは自分の喉が掠れる音が鳴ったのに気付く。
提示されたその額は、レイが十年、二十年と働いたところでどうにかなる金額ではない。
それはつまり、レイにはその幻想の実を手に入れる方法が無いと言う事。その事実を叩きつけられ、レイは目の前が真っ暗になる感覚に陥る。
「ま、愚か者にやる薬はねぇ、ってことだ。おとなしくお迎えを受け入れるこったな。そんで……、二度とうちの店に顔を見せに来るんじゃねぇぞ。食糧も、薬も、日用品すら、道理の通らない奴に買わせるわけにはいかねぇんだよ」
二度と踏み入れるな、と口にするシュウに対して、恨み言すら返すことのできなかったレイは、叩きつけられて返された巾着を握りしめて、暗い夜道を一人で帰っていく。
絶望を内に抱えて帰っていくレイの背を見て、言ってやった、と気炎を吐くシュウの背後から大人たちの影が出てくる。その影は両親ともう一つ、最強の幻想師ガリウスの影もあった。
心配そうに駆け寄る両親によくやった、と絶賛されながら、シュウは先ほどとは打って変わって、緊張した面持ちで口を開く。
「…………これで、いいんですよね?」
「余計な口が多かったが、及第点と言ったところだろう」
「あ、ありがとうございます!! こ、これで俺も、幻想部隊に……!?」
「…………」
「っ。す、すみません、出しゃばった真似を……」
「入りたくば、力を示せ」
「は、はいっ! し、しかし、歓楽区から出禁とは、愚か者達とは言えいささかやり過ぎな気も――い、いえ、なんでもありません……」
ガリウスの無言の睨みにおびえるシュウは両親と揃って平身低頭で謝罪を口にする。
今しがた去っていった「愚か者」と自分は異なるのだと信じて、自分こそが最も上級区に近い人間だと信じて……。
「遅かったわね、レイ。……レイ?」
「……ぐすっ」
「…………おいで、レイ」
すっかり暗くなった野道をとぼとぼと帰ってきたレイは、どうしようもない無力感に包まれながら帰宅した。
薬が買えないこと、それはつまりレイがヒジリのためにできることは何もないことの証明になる。
ヒジリを苦しみから救ってやることは、どんなに頑張ったところでレイにはできないのだと、無力感に苛まれるレイは、吸い寄せられるように腕を広げたヒジリの元へ駆け寄った。
ぽすん、と腕の中に収まるレイの体は、折れてしまいそうな程に細く、同年代のシュウや病弱なアカリと比べても特に成長が遅かった。
そんな小さな体にどれだけのものを抱えているのか、背負っているのか。
背負わせてしまっている本人、ヒジリもまた、レイの苦しむ姿を見ているのが辛かった。
故にこそ、レイが幸せになるよう、元気になるよう、弟の前では常に明るく、理想の姉であろうとした。
「なんかあった?」
「…………」
ぐしぐしと、ヒジリの胸に額をこすりつけるレイは頭を横に振る。
無力感に苛まれていようと、姉に心配はかけたくないというささやかな抵抗であった。
「当ててあげようか。また、あのお坊ちゃんに虐められたんでしょ」
「…………!」
けれども、そんなささやかな抵抗も空しく、ヒジリはまるで見てきたかのように言い当てた。
あからさまな反応に、レイの頭と背中に当てられた少しだけ冷たい手のひらが優しく動く。
「名前を、馬鹿にされたのかしら」
「…………!!」
「お姉ちゃんは、レイの名前、大好きよ。零には、無限の可能性が詰まってる。これから素敵な出会いが、レイを満たしてくれる出会いがたくさん待っているはずだわ。黎には、あなたの髪のような、艶のある黒のことを指す意味があるわ。そして、良い未来が来るって意味もあるの。だから、自信をもって、前を向いて、笑ってちょうだい。お姉ちゃんが大好きな、レイの笑顔を見せてくれないかしら」
ヒジリのその言葉に、レイはもぞもぞと動いて、胸元から半分だけ顔を覗かせる。
「…………でも、霊魂はエネルゼア様のもので、その名前を騙るのは、無礼だって……」
「あら、私たちの名前はどれもエネルゼアから授かったものって言われているのに、おかしな話ね。それにね、レイ。霊には、精霊、ひいては幻想種に愛されるっていう意味が込められているのよ。だからほら、シオも、ラナも、もちろんお姉ちゃんだって、あなたを愛しているわ」
ヒジリが指さす先、ベッドの周りにはレイの様子を見に来たシオと、心配そうにきゅうん、と鳴くラナの姿があった。
一人じゃない。そう感じさせるには十分なほどに温かい家族に囲まれ、レイはようやく頭を上げることができた。
「……ごめんなさい。薬は、買えなかった。姉さんとラナを、助けたかったけど、僕は、なんにも……」
涙で滲むレイの視界では、ヒジリもラナも、失望したような表情は一切ない。
その優しさが染みるようで、大粒の涙が頬を伝ったところで、涙は零れ落ちることなく肩に降りたラナが尻尾で拭い去ってくれる。
「泣かないで、レイ。アタシもヒジリも、レイやシオと一緒に過ごせればそれでいいの」
「そうね。お姉ちゃんたちのせいで、レイがお腹を空かせるのは、嫌だったからね。これからは、しっかり、みんなでご飯を食べる約束ができるなら、お姉ちゃんはそれでいいわ」
「姉さん、ラナ……!」
「私たちへの特効薬は、レイとシオが幸せそうに見せる笑顔なのよ」
その言葉が最後に、レイの涙の堰をきってしまう。
おいおい、と泣くレイに釣られるように、半身であるシオも泣き出してしまうという状況に、ヒジリとラナはどこか嬉しそうに微笑む。
久しく見ていなかったレイの年相応の様子、甘えてくる姿に、ヒジリとラナは存分に甘やかすのであった。
その日は、泣き疲れたレイとシオを抱いて、みんなで同じベットの上で眠るのだった。






