1話 頑張っていれば、こうして報われるものなのさ
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「あぁ、とうとうゲンさんのとこもお迎えかい?」
「それがなんと、お迎えには幻想師様がいらっしゃられるとかなんとか…」
「幻想師様が!? そんなまさか、ゲンさんはそんな高貴な血筋なのかい? 仮にも下級区民じゃないか」
「所詮は噂だけども、生きてるうちに幻想師様を一目見られるなら、儲けもんだね」
「とてもそうには見えないけどねぇ…」
幻想の森。
霧の結界が外の世界と隔絶する里の中に、人は暮らす。
異なる摂理が働く閉ざされたこの世界には、龍が住まう。
龍が守りしこの森は外界から切り離された世界であり、その中では一つの社会が形成されていた。
今も井戸端会議をする住民の周りでは、人ではない何かが侍っている。
宙に浮くそれは人魂であったり、地を這う獣であったり、奇を衒ったようなデザインの鳥類であったりなど、人に害を為す「魔物」、と呼ばれてもおかしくはない存在を前に、住民は焦る様子も見せずに平和平凡平静な様子で噂話に花を咲かせる。
彼らの傍から離れようとはしない存在が外の世界において魔物のような異端だとしても、ここの住民にとってその生き物たちは、家族であり、友であり、半身と呼ぶ、共生する存在であった。
時に身を守る武器、兵器として共に戦い、時にアイデアと能力で生活を豊かに育む関係――。
――彼らはそれを、『幻想種』と呼んだ。
そんな幻想種と共に生きる少年が一人、幻想の森の中でも農業区と呼ばれる砂利道を車椅子を両手で押しながら急ぎ足で歩んでいた。
お世辞にも清潔とは言えない薄汚れた黒髪を揺らして琥珀色の瞳を輝かせて走る少年は、車椅子に乗る少女に話しかける。
「姉さん、まだ間に合うかな」
姉さん、と呼ばれた少女は、一見して黒髪の少年と血のつながりは無いように見える見た目で、茶色がかった頭頂部から毛先にかけて桃色のグラデーションが麗しい少女は、桃色の瞳を前に向けたまま凛とした声音で返す。
「きっと、間に合うわ。お別れの挨拶は、必ずしっかりするのよ。ましてや、お世話になったゲンさんなんだから」
「別れの挨拶って言ったって、他の誰もそんなことしてないのに……。それに皆は、今日来る幻想師様のほうが気になってるみたいだよ?」
「……そうかもね。でも、お姉ちゃんは誰からもお別れの挨拶がなかったら、きっとすごく寂しいわ」
「そうなのかなぁ」
「えぇ、お姉ちゃんの時は、レイだけでもお別れを言ってほしいもの」
「そっちが本音じゃないの?」
「あら、ばれちゃったかしら?」
うふふ、と笑う少女は、車椅子の上で微かに目を伏せる。
しかし、そのほんの僅かな変化を、車椅子を押す少年は気づかない。
「見えた! ゲンさんはまだいるよ!」
農業区からつながる歓楽区の広場には人だかりができており、その中心に彼らが『ゲンさん』と呼ぶ老人が、少女と同じように車椅子に腰かけていた。
その人だかりは、彼らのように『ゲンさん』を目当てにしたものではないのは、彼らが難なくゲンさんの元にたどり着いたことから分かるだろう。
「おぉ、レイ、ヒジリ。よく来てくれたね」
「ゲンさん……」
「ゲンさん! 今日来る幻想師の人って――痛っ!」
「レイ、挨拶」
脇腹をつねられて、久しぶりの歓楽区に加えて憧れの幻想師を目にすることができる、というイベントを前に浮かれていた少年、レイの頭が冷静になる。そんなやり取りを目にして、ゲンさんはふふふ、と目を細めて笑みをこぼした。
「分かってるってば、んんっ。――ゲンさん、僕がここまで無事に大きくなれたのは、ゲンさんが助けてくれたからで、ゲンさんには、いくら感謝してもしきれません。僕だけじゃない。下級区の他のみんなも、ゲンさんにはたくさん、たっくさん感謝しています。怒ると怖いけど、それでも優しいゲンさんが、大好きでした! これまで、本当に、ありがとうございました!」
上等な紙なんか用意できない農業区の少年は、木の板を削って、そこに書かれたメッセージ、思いをつづった手紙を読み上げた。
――ゲンさんは、農業区の父のような存在だった。
幻想の森には、それぞれ区分けされた領域が存在しており、主に上級と下級とで分かたれている。加えて、上級も下級もそれぞれさらに分割されており、農業区はいわば下級も下級、最下級の区域だった。
区分けされる所以は、生まれたときに与えられる半身、幻想種によって定められる。
幻想種を民に与えてくれるのは、幻想の森を作ったとも守っているとも言われる『龍』。それを頂点として、幻想の森への貢献度合いや、この森を守るに相応しい力を持っているかどうかで生活の質が決定づけられることが当たり前の世界であった。
ゲンさんを父と慕う子供たちは、総じて下級の幻想種を与えられた子供たちばかりであり、レイもまたその一人だった。
レイに与えられたのは、小さな竜、周りから蛇だなんだと揶揄される幻想種がレイの半身であり、その生まれは最上級区であったと言われている。
上級区では、幻想種による格付けが厳しく、特に最上級区――聖区と呼ばれる区域の生まれで小さな竜が与えられたとなれば、外聞を優先して親は子を捨てる。それが当たり前であり、誰もおかしいとは思わないのがこの幻想の森の異質さであった。
そうして望んでもいない小さな竜を与えられた生まれて間もない赤ん坊は、無慈悲にも農業区に捨てられ、ゲンさんに拾われたのだ。
レイのような出自は幻想の森においてさほど珍しいものではなく、ありふれたものではあったが、レイは特に過酷な出自であった。
最上級区の生まれゆえに、容姿は端麗、生まれながらにして供える気配が異なる存在に、同年代の子供は皆レイを忌避した。かと言って上級区には戻れるはずもないし、同じ下級区にある歓楽区には馴染めない。どこにも居場所が無かったレイは、ゲンさんに生かしてもらわねば早々に死んでしまっていたかもしれない子供だった。
ゲンさんはレイと似た境遇の、農業区に捨てられた子を見捨てられずに拾って来ては、たくさん養う。独り立ちできるようになるまで面倒を見るのだから、いくらゲンさんが裕福であろうと限りはある。あるはずなのに、ゲンさんは救いの手を止めることはなく、自身の身を削ってまでも子供たちを教え導く、農業区の父なのであった。
「――本当に、ありがとう、ごじゃいまし……うぅ……」
その代表として赴いたレイは、知らず、喉の奥、そのもっともっと深いところからせりあがってくる涙と嗚咽を、堪えれずにいた。
「レイ、君は……」
「ゲンさん、私も、本当に感謝しています。上級区から落とされた私まで、面倒を見てくれて……」
少女、ヒジリの話に、ゲンさんは泣きつくレイを抱き返しながら感慨深く呟く。
「……あぁ、お前たちは本当に、いい子だね。頑張ってきた甲斐があったっていうものさ。最期はこうして愛する我が子に囲まれて、これ以上の幸せはないだろうに。頑張っていれば、こうして報われるものなのさ。これもまた我らが龍、エネルゼア様に感謝しなければだね」
「エネルゼア……。ゲンさん、それは――」
皺のある、皮の分厚い手のひらを重ねられたヒジリが、最後に何かを口にしようとしたところで、大地を割るような激しい足音を轟かせ、雷のような嘶きと共に広場に駆け込んでくる大きな影が二つ。
それは上級区で家畜として飼われている幻想馬と呼ばれる魔物が引く馬車であった。
「幻想部隊だ……!」
「おぉ、俺のお迎えの時まで見ることはないと思っていた幻想師様が……!」
六本脚が鳴らす足音は自分たちの足元が不安になるような轟音。広場に集まった下級の幻想種程度では立ち向かえないほどの竜気を放つ幻想馬が息を吐くと、騒がしかった広場の声も一気に静まり返る。
縮みあがる幻想種の中、馬車の戸が開いて姿を現したのは、二人の男。
息を飲むだけだった観衆からは、困惑の騒めきが起こり始める。
「な、な……!?」
「お、おいあれって……」
「嘘だろ!?」
「ま、間違いねぇって、今朝の新聞にも載ってたから……!」
「――幻想部隊部隊長がどうしてここに!?」
――幻想部隊。
全なる龍、エネルゼアの意志を継ぐ者の意。
誰が叫んだ言葉か、誰もが揃って腰を抜かす様な人物が地面に降り立つ。
彼らは幻想の森の守り人であり、秩序の守り手。
エネルゼアより賜った幻想種はそれぞれが上級の幻想種ばかりで、その圧倒的な力でもって民の生活を外の脅威から守っていた。
その活躍は、週に一度頒布される新聞に事細かく記されており、ゲンさんの元に届く一刷りの新聞は農業区の子供たちの奪い合いになることもしばしば。
そんな仰々しい幻想部隊を統括するのが部隊長であり、その下には数人の副隊長、さらに十数名の部隊員で構成されているという。下っ端の部隊員ですら上級の幻想種を操るため、下級区民にとって彼らは総じて憧れの的、誰もが尊敬しへりくだる存在なのであった。
かく言うレイもまた、幻想部隊に夢を見る子供の一人であった。
普通、その部隊員を目にするだけでも恐れ多いと言うのに、今下級区民の前に姿を見せているのはその頭目、部隊長である。最強の幻想師と名高いガリウス部隊長その人だった。
一瞬の静寂が訪れた後、ようやく現実を飲み込んだ下級区民らの口からは歓声が沸き起こる。同じ歓楽区で働いていた者たちまで手を止めて、ガリウスの姿を一目見ようと、気が付けば人の壁が出来上がっていた。
続けて姿を見せるのは、ガリウスの幻想種。
馬車を突き破るんじゃないかと見紛うほどの巨大な角は雄々しく、淡い光を放つその姿はまさしく幻想の名を冠するに相応しいと思わせるほどの圧倒的なまでに王者の気質を振り撒く。歓声に満ちたこの空間で、聞こえるはずのない小さな足音がレイには聞こえた気がした。
「あ、あれがガリウス様の、竜種すらもひれ伏したと言われる幻想の牡鹿……!」
気品高い歩みは幻想種の頂点を思わせる。
翡翠のように澄み切った濁りのない眼は未来すら見やると言う。
被捕食者であるはずの牡鹿は『竜気』の力を手にし、竜種すらも跪かせる気品を手に入れる。
鯉が龍に昇るように、牡鹿は王に至るのであった。
幻想種と一言で言っても、大きく三種類に分けられる。
一つが、レイの小さな竜が属する神性竜種。
二つが、ガリウスの牡鹿や派手な鳥類等、最も数の多い幻想獣種。
三つが、力が弱いけれども多才な能力を持つ、偽精霊種。
上から順に、幻想の森に満ちる『竜気』に高い適性を持ち、神性竜種の頂点に君臨する幻想種こそが、真祖の龍エネルゼアであった。
その中でも、聖区にいるという神性竜種の上位、竜が平伏す程の力を有するのが、ガリウスの幻想種であり、それこそがガリウスが最強と言われる所以だった。
「レイ、ヒジリ。私の家族を、娘をよろしく頼むよ」
姉弟の手を取り、皮の厚い手を固く握るゲンさんは、二人の目を見てそう言うと、膝の上で小さく丸まったままの猫の背を撫でる。
「共に往こう……」
ゲンさんの年齢は、先月の誕生日で50になったばかり。
長年の無理がたたって足腰にガタがきたけれども、まだまだ先は長いはずだった。
しかし、見ての通りゲンさんの半身である猫の幻想種が弱り始めてから、それに釣られるようにしてゲンさんの体はみるみるうちに弱っていき、今ではまともに歩くことすらできなくなっていた。
幻想の森において、この地に人が根ざして200年余りの年月が過ぎた。
この地に生まれ、エネルゼアより幻想種を授かった者は皆、幻想種と共に生き、幻想種と共に逝く。
半身。それは比喩でもなんでもなく事実であり、人が死ねば幻想種も死に、幻想種が死ねば人も死ぬ。それを呪いと呼ぶか祝福と呼ぶかは、神――エネルゼアのみが知る。
そして、幻想種が弱っていく者の命は、尽きるよりも早くに、幻想部隊による回収がなされ、また新たな命に還元されていく。
それこそがお迎えの全てであり、下級区はおろか、上級区の中にも、真実を知るものは限られていた。
皆、お迎えは光栄なもの、ましてや憧れの幻想部隊に見送られると信じてやまない彼らは、嬉々としてその身を捧げる。
また、真実を知る者たちでさえ、それこそがお役目であると信じて、身を捧げるのであった。
それはまた、ゲンさんもその一人であることに変わりはなく。
「お久しぶりでございます、幻想師ガリウス様」
「久しいな、ゲンよ。して、あの娘はどうなった」
「息災でございます。私では手が余るほどに」
「ふむ、それにしては姿が見えんようだが」
「ご安心ください。昨晩は寝付くのが遅く、今もまだ夢の中かと。……お転婆で困っているくらいですよ」
「……まあ良い。今日はゲン、お前と――、そこの女を迎えに上がった次第だからな」
「「っ!?」」
ゲンさんの会話に耳を傾けていた姉弟が揃って息を飲む。
咄嗟に姉の前に庇うように身を乗り出したレイだったが、その行動が周囲の目を冷たくする。
しかし、ガリウスはその紅玉のような瞳にレイを映すことはない。見下す視線はその背にいる姉ヒジリを刺し貫く。
周囲でざわつく下級区民であれば、即座に頷く他無かったであろうその圧に耐えられたのは、他ならぬ弟がいくらへっぴり腰だとしても動いてくれたからに違いなかった。
「――お断りします」
「……何だと?」
身が縮みあがりそうな低い声に、レイが肩を震わせるが、背中に当てられた手のひらの温もりが、レイを奮い立たせる。
信じられない、愚かすぎる、これだから下級区民は、等々。
周りで見ている人々の声がはっきりと聞こえてくる中で、レイは自分の行動に疑問を持っていた。
――お迎えは光栄な事である。
今の今までそう信じてきたレイにとって、真逆の行動。
姉が連れて行かれる。それが頭をよぎった瞬間、レイの体は姉を窘めるよりも早く、考えるよりも早く動いていたのだ。
これがただ、レイも周りで見ているだけの観衆であったならば、同じように不敬だな、とすら思ったかもしれない。
だとしても、自分の中に生まれた疑問に立ち向かう余裕もないまま姉は幻想師様のお迎えを断り、ガリウスの目が初めて見開かれる。
「今日は、ゲンさんのお迎えのはずです。私じゃない」
「……」
反抗的な言葉にまたしても観衆がざわつく。
普通ならば有り得ない話なのだから困惑は当然だろう。彼らならば、喜んで二つ返事でガリウスの手を取るかもしれない。むしろ、今ここで差し出された手を横取りしたいはずなのに。
それくらい、お迎えの申し出と言うのは光栄なものだというのに、目の前の姉弟はそれを、それも幻想師の頂点に立つガリウスのお誘いを断ったのだから、非難が飛ぶのは当然であった。
ガリウスの眉間に皺が寄り始めた頃、非難飛び交う広場の中にひと際大きな笑い声が響いた。
「あはははは! これは傑作ですな、ガリウス様。ここは一度出直すのがよろしかと。本日のお迎えは私のみ……。そう通達したのは他でもない、幻想師様のはずです。私たちが信奉するお迎えは事前通達が必須。これは幻想師様が定めたルール、秩序です。秩序の守り手がそれを破るのはいささか、暴挙が過ぎるのではないでしょうか?」
笑い声の正体は、ゲンさんだった。
――子供たちは必ず守る。
そう言って、毎日のように孤児を拾ってくるゲンさんは、今こうして、レイとその姉、ヒジリを守ったのであった。
その事実を前にしてレイは、他にも自分の知らないところでもこうして守ってくれていたのか、と止まったはずの涙が頬を伝う。
「……今日はその通達に来たまで。セスラス、戻るぞ」
「はっ」
幻想師の面目も潰さないゲンさんの配慮のお陰で、幻想師は緩慢な動きでレイとヒジリに背を向けていく。
連れて行かれるゲンさんは最後にレイとヒジリを見て、にっこりと微笑んだきり、それ以上は馬車の中から顔を出すことは無いのであった。
「……レイ、帰りましょう」
「うん」
静まり返った広場の中、ゲンさんを乗せた馬車が鳴らす轟音に背を向け、姉弟は来た道を戻る。
音を取り戻した広場の中では、幻想師ガリウスの好評に混じって、レイやヒジリを罵倒する声や、ゲンさんを貶す声が混じる。その声に噛みつきたい欲求に駆られるレイだったが、体調の悪化が心配な姉のために、逃げるように帰るのだった。