90 天使様の決意 その2
遅くなってしまいました。申し訳ございません。
幽霊屋敷でいきなり空飛ぶ女の子を見てしまったという不運な来客の意識はまだあるのだろうか。結構若い声だった気がする。
一体何者だろう。オーガスタ関連のお客なのだから、荷物を届けに来たとかそういう話かもしれない。……でもそれなら当主を呼ぶ必要はない。
「……ええっ? だから、だからなんで女の子がぁ……うわっ、うわぁぁぁぁぁ――」
また下の階から悲痛な叫び声が聞こえてきた。一体妹は何をしているのだろう……
長く尾を引いた悲鳴が消える。誰もがそのまま階下の音に注意を向けていると、突然ヒューゴが妙な事を口走った。
「そうか、鍛えればいいのか!」
「……は?」
この人いきなり何言い出した? とキースとダニエルとメイジーは思わず顔を見合わせた。
「今の私の力では、ウォルターやトマスみたいにあの子を抱えて運ぶことができない。それに、『兄』は『弟』を守らなければならないだろう? だから今日から体を鍛える」
ヒューゴは真剣な顔でそう宣言した。どうやら、ウォルターやトマスが軽々とクインを運んでいたのを見て……自分もやりたいと思ったようだ。
クインに朝食を食べさせている間も結構楽しそうだったから……思った以上に『弟』が可愛くて色々世話を焼きたくなってしまったのかもしれない。
だとしたら、ジェシカの言葉通り、『ずっと見守っていたい』『独り占めしたい』という感情を抱き始めているということになる……
キースとメイジーとダニエルは、大変渋い紅茶を飲んだような顔をしてから頷き合った。
「あー。はい、……次はそっち方面に向かうんですね。いいんじゃないですかぁ? 健康のために体動かすのもー」
「お仕事にも生かせますしねー。主従共に不健康ってよくないですしねー」
「そうですね。大変素晴らしい思い付きだと思いますー」
三人揃って嘘くさい笑みを浮かべる。せっかく本人その気になっているのだ。色々思う所はあるのだが、ここでやる気を削ぐような事を言ってはいけない。
毎日しっかり体を動かせば、不眠も解消され眉間の皺も取れるだろう。……ついでに亡霊にしか見えない主の方も何とかしてほしい。
「まずは、リリアを倒せるくらいにならないと……」
ぼそりと告げられた言葉を耳にした途端に、三人の顔から一瞬にして笑顔が消えた。
彼の頭の中で何がどうなって『倒す』という言葉が出て来たのかさっぱりわからないが、倒そうとする前にまず話し合いでの解決を目指すべきなのではないだろうか。いきなり不穏な目標を立てないでいただきたい。どうしてリリアが関わるとすべてが殴る蹴るの方向に向かうのだろう……
頭を抱えて「なんでこうなるんだ!」と大声で叫びたい衝動に必死で抗っていた時だ、キースはふっと思い出したのだ。そういえば前にもこんなことあったなと。
そう、あれは、リリィお嬢さまが運河を流れた日の夜――
『……よく聞いて下さいね。リリアなんて名前の少女はこの世に存在しません。あれは人間の皮を被った野生動物です。自分より強いと判断した相手にしか服従しません。それでもどうしてもリリアが良いというのなら、拳でルークさんを倒して、自分の方が強いと証明しなければなりません。他の分野では意味がありません。あくまで求められるのは戦闘力です。なので明日から鍛えましょう。それが無理なら諦めましょう。あなたの運命の人はちゃんと別にいるのです。可愛くて大人しくて優しくて絶対暴力ふるわないお嬢さんが、もうすぐヒューゴさまの前に現れます。なので、安心して寝て下さい』
酔った勢いでリリアに求婚し蹴り飛ばされそうになったヒューゴに、噛んで含めるようにキースはそう言い聞かせた……
口元を隠し「……あれ、これって、ひょっとして俺のせい?」と、キースは自分にだけ聞こえるような小さな声で呟く。
今こうなっているのは、あの時の言葉が中途半端に影響してしまっているせいだったとしたら……?
ヒューゴは思い込みが激しいから、多分いける! と、そんなようなことを思った覚えは、ある。今思い返してみれば、これぞまさに……予言。
キースは一度窓の外に視線を向けて、揺れる木々の緑を眺めてゆっくりと深呼吸し、心を落ち着かせる。
――全部ルークに何とかしてもらおう。
あっさり責任放棄して、キースは無理矢理口角を持ち上げた。
「あー。はいはい。がんばってみたらいいんじゃないですかー」
「そこまでいけば、ハーヴェイ殿下の護衛もできますよー」
「そうですねー素晴らしい思い付きだと思いますー」
全員が普段より数段高く明るい声を必死に絞り出していた。……余計な事は言うまい。健全なる精神は健全なる肉体に宿るものらしいから、心と体の健康のためにもヒューゴは運動するべきなのだ。それに、そう簡単にあの野生動物には勝てるとも思えない。
今夜はお城の舞踏会だ。体力と気力は温存しておかねばならない。疲れることはしないさせない考えない。
「お客様らしいんで俺行きます。ダニエル置いておくので、体の鍛え方教えてもらってくださいねー」
キースはにこやかにドアの近くまで後ずさり、廊下にいるダニエルを手招いた。友人は「えー」と大変嫌そうな声を出したが、すぐに諦めきった顔になり「……アレンさまの相手するよりマシかぁ」と暗い声でぶつぶつ言っている。全員疲れているので、最近考えていることがそのまま口に出る……
「じゃ、あとよろしくー」
笑顔で部屋から出たキースは、代わりにダニエルを部屋の中に押し込みさっさとドアを閉めた。心の中で友人に詫びつつも、やっと解放されたとほっと一息つく。
ヒューゴは非常に真面目だから、何年後かにはリリアに勝てるくらい強くなるだろう。健康な体と健全な心を手に入れ、素敵なお嫁さんとの明るい未来のために頑張っていただこう。……体を鍛えれば幸せな未来が待っている。たぶん。
……次行こう次。
「メイジー、お客様、まだ意識あると思う?」
メイジーと共にのんびり使用人階段に向かう。あれから悲鳴は聞こえてこないが、あれだけ叫んでいたのだから、客は相当な怖がりだ。親近感を覚えると同時に同情を禁じ得ない。
「どうでしょうかねぇ。……ちょっと静かすぎますよね」
「……さすが呪われた伯爵家」
しみじみとその言葉を噛みしめているキースの横で、メイジーは落ち着きなく周囲を見回していた。
「リリアさまはどこにいらっしゃるのでしょうね……お怪我をされていないと良いのですが」
それは、リリアが森の中をかけ回っていた頃、メイジーが毎日口にしていた言葉だ。
今はもう足音さえも聞こえてこない。館内は静まり返っている。恐らく客は意識を失い、リリアはすでに捕獲されている。ルークが手段を選ばなければ勝負は一瞬でつくはずだ。
「どうしてこんなことに?」
リリアとヒューゴが言い争う現場にいなかったメイジーが、不思議そうな顔でキースに尋ねる。
「……リリアは半年に一度しかルークさんに会えなかったのに、ヒューゴさまは普通に会えた。それをリリアがずっと根に持っている……のが原因?」
キースは二人が投げつけ合った言葉を思い出しながら、軽く首を傾げた。もう何がなんだかよくわからない。しかし、メイジーは思い当たる節があるのか、成程というように頷いた。
「あれは……オーガスタさまの命令でしたから、ルークさまにはどうすることもできなかったんですよ。それは恐らくリリアさまもご存知だったと思うんですよね」