89 暴走と迷走の戦い
「ルークお兄さまっ、ルークお兄さまぁ」
テオによってルークから引き離されて抱え上げられたリリアが、泣き叫びながら必死に手を伸ばす。走り出したテオをルークが追いかけてゆく。
状況が理解できず真っ青な顔で震えているリリィお嬢さまにトマスが駆け寄り、「アレン、キースを連れて先に行って」と後をついて来たアレンに冷静な声で指示を出した。
「リリィ、リリアが待ってるから行こうね。お兄さまがおんぶしてあげる」
リリィお嬢さまに背中を向けてしゃがむと、振り返って安心させるように笑いかける。リリィお嬢さまは素直に頷いて、泣きべそをかきながら兄の背中にしがみついた。それを見ていたアレンも、キースの小さな体を抱え上げる。
涙でぼやけた視界が一気に高くなる。
まるで悪い夢を見ているようだと思った。あの優しくて真面目なヒューゴが、妹に暴力をふるい、止めに入ったルークを叩いたなんて、信じたくなかった。
アレンが走り出すと同時に、遠くからバシッという不穏な音がした。その後も連続で二回同じ音が続く。「何をしているの!」と叱責する女性の声と「おやめくださいっ」と焦ったような男性使用人の声に交じって、女性たちの悲鳴が聞こえてきた。
アレンもトマスも足を止めて反射的に音のした方に目を向けてしまう。厳しい表情をしたイザベラが、子供達の視界を塞ぐように大きく手を広げた。
「まっすぐ前を向いてそのまま行きなさい。わたくしは残ります。テオに一緒に屋敷に行ってもらって!」
それでも、キースは見てしまったのだ。数人の男性使用人に囲まれているヒューゴの母親が、「どうしておまえはそうやって、いつもいつもわたくしを失望させるのっ」と大声で叫びながら手に持った扇を滅茶苦茶に振り回している姿を。
「リリィ、走るよ。しっかりしがみついていて!」
背後の声を打ち消すために、わざと大きな声でそう言ってからトマスは走り出した。キースを抱えたアレンもその後に続く。
踵を返してヒューゴの元に向かうイザベラの後ろ姿をアレンの肩越しに見送り、キースは目を閉じアレンの首にしがみついた。優しく背中を撫ぜられてまた涙が溢れ出す。
トマスだって本当はヒューゴの身に何が起こったのか察している。苦し気な表情をしているのは、妹を背負って走っているからという理由だけではない。
トマスは伯爵家の当主で、そして『兄』だから。今は妹の心を守ることを一番に考え行動しなければならない。リリィお嬢さまが過去の悪夢にとらわれてしまう前に、この場を離れなくてはいけないのだ……
でも、ひとりぼっちのヒューゴを誰が助けてくれる?
彼の手を引いてここから救い出してくれる人はいるのだろうか。
「キース。……ははうえ、が、いるからっ」
荒い呼吸に混ざって、途切れ途切れの言葉が耳に届く。だから大丈夫。きっとトマスはそう続けるつもりだった。
イザベラがヒューゴを守ってくれますように。
悪い夢が早く終わりますように。
次に目を開けた時には、ヒューゴが元の優しい彼に戻っていますように……
キースは心の中で強く強くそう願った。
伯爵家に謝罪に訪れたフェレンドルト公爵は、その場でヒューゴがリリアに言い放った言葉を聞いて、閉ざされた子供部屋でどんな『教育』が行われてきたのかを察した。すぐさま母親や家庭教師は屋敷を出され、侍女は総入れ替えとなった。
ヒューゴの母親は、怒りの感情を制御できない人だった。思うようにならないことがあると、感情を爆発させて物や周囲に当たり散らすのだ。そして、女主人の御機嫌取りで神経を擦り減らしていた家庭教師や侍女たちは、彼女の息子を執拗に蔑み責め立てて鬱憤を晴らす。子供部屋の中ではそんな負の連鎖が起きていた。
つまり、ヒューゴがリリアやルークに対して行ったことはすべて……普段自分に向けられていた言葉や行動だったのだ。嫌味を言い続けたのも、腕を掴んで乱暴に引きずったのも、容赦なく頬を叩いたのも……すべて、母親や家庭教師や侍女の行動をそっくり真似ただけのことだった――
「おまえのような出来損ないがこの家の子供であるはずがない。もういらないから、このままどこへなりとも行ってしまえ。それが最後。……でも、皮肉なことに屋敷を出て行ったのは彼女たちの方だった」
ヒューゴはキースの背後にある窓を外を見つめながら、ぽつりとそんな事を言った。がんっと頭を殴られたような衝撃があった。ゆらっと揺れたキースの体を慌ててルークが支える。
そんな筈はない。頭痛を堪えている時の顔はイザベラやフェレンドルト公爵にそっくりだ。でも、それは外から見ている者にしかわからない。だから、ヒューゴは信じてしまったのか。傷つけるためだけに放たれた何の意味もない言葉を。
「さすがに今ではそんな事はないとわかっている。私はおじいさまの若い頃の肖像画にそっくりだから。でも、母がいなくなったのも、寄宿学校に入学することになったのも、出来損ないの私がいらなくなったからだと、どうしてもそういう風に考えてしまうんだ。……ウォルターに、そろそろ留学先に戻らなければならないと言われた時も、ああ、出来損ないはまた捨てられるんだなと、思った」
子供部屋に出入りしていた者たちが一掃された後、ウォルターが家庭教師としてフェレンドルト家に滞在することになった。夏季休暇で留学先の帝国からキリアに戻って来ていた彼は、従弟と子供たちを心配してわざわざ伯爵家を訪ねて来てくれたのだ。
……そして、フェレンドルト公爵に捕まった。
後で聞いたところによると、その頃のヒューゴは非常に情緒不安定な状態だったのだそうだ。『キリアルト家の唯一の良心』とまで言われる医者の卵は、短い間だったがヒューゴの心に寄り添い心の傷を少しずつ癒していった。
そこで終わればよかった。……が、問題はその後に起きた。
ウォルターが帝国に戻らなければならなくなると、家庭教師役はルークに引き継がれることになった。ガルトダット伯爵家の子供達の面倒をみてきた実績を買われたそうなのだが……多分これが大いなる間違いだった。
ダメ人間製造者であるルークは……また一人、立派なダメ人間を作り上げてしまったのだ!
経緯としてはこうだ。
ルークの方は、ヒューゴに叩かれたことなどすっかり忘れていた。……というより、あんなのは叩かれた内に入っていなかった。
そして、ヒューゴがリリアに怪我を負わせてしまったのは、状況を見極められなかった自分の責任であると考えていた。
ルークの中で、ヒューゴはまだ善悪の判断がきちんとついていない『ちいさな子供』に分類されていた。
しかし、加害者であるヒューゴの方は当然ルークを引っ叩いたことを覚えていたから、どういう態度を取ればいいのかわからず猛反発した。ウォルターがいなくなった寂しさもあり、八つ当たりのようにルークに暴言を吐き、物を投げつけた。そしてその後酷く落ち込んだ。
当時のヒューゴの口癖は『異民族はあっちに行け!』だった……
ヒューゴのそういう所は、リリィお嬢さまと非常によく似ている。
初恋の相手にどう接していいのかわからずに、可愛げのない態度を取り続けたリリィお嬢さまはアレンに嫌われたが、ヒューゴの場合、ある意味相手が悪かった。
詳しくは知らないが、ルークは海難事故の直後かなり荒れていたし、王宮を出された直後のアレンも相当なものだった……らしい。
それに比べればヒューゴのやっていることなど、『ちいさい子供の可愛らしい我が儘』でしかなかった……
暴言を吐いても受け流され、物を投げつけても散らかしても「怪我をすると危ないですからね」とかえって心配されてさっさと片付けられる始末……
着たくないと言った服はすぐさま片付けられて別のものが用意される。きらいだと言った野菜は次の日から出てこない。勉強したくないと言えば、興味を持ちそうな本を探して持ってきてくれる。
何をしても許してくれる。どんな自分でも受け入れてくれる。
トマスが、「あれを許したせいで今、こんな風になってると思うんだけど!」と言っていたが。まさにその通りなのだ。素直になれないヒューゴをルークは丸ごと受け入れて、甘やかし続けてしまった。
……そしてそのまま今日に至る。
いい加減自立する自立すると言って強く反発しながらも、ヒューゴはルークに頼り切っているし、ルークはとにかく身内に甘い。自覚しているのかどうかは謎だが、甘やかして甘やかして甘やかしてどんどん堕落させてゆく。
――ガルトダット伯爵家が没落したままなのは、ひょっとしたらルークのせいなのかもしれない。
「いつかルークも私を捨てるのだと思っていた。リリアと結婚してリルド領に行ってしまったら、きっと邪魔な私は捨て……いっ」
コンっという明るい音がして、ヒューゴが痛みに顔を顰めて頭を押さえる。
ルークがため息をついて、手に持っていた書類を文机に置くと、床に落ちた指貫を拾いにゆく。文机の上には、きちんと揃えて束ねられた紙の束が、縦横が互い違いになるように重ねられていた。……ヒューゴが話している間もルークは書類の整理を続けていたようだ。
「紅茶をお持ちしました。『邪魔』な私が淹れたお茶など飲みたくないならこのまま持ち帰ります」
開け放たれた扉の向こう側には当然、怒りに燃える目をしたリリアが立っていた。その奥にティーセットの乗ったワゴン、そのさらに奥には、壁に額をくっつけるようにしてやさぐれているトマスの後ろ姿が見える。指貫を投げつけるリリアをトマスでも止められなかったのだ。
指貫は確かにドレスを縫うのには必要だが、常に持ち歩く必要は一切ない気がする……
「ヒューゴお兄さまはズルいのです。私は半年に一度しか会ってもらえなかったのに、何かあればすぐに呼び付けてお仕事手伝ってもらって。いつでも好きな時に会えてたんだから、もういいですよねっ。返して!」
「いや、ルークさん、ものじゃないから」
キースは思わず妹にそう言い返していた。
アレンの婚約者だったリリアはルークに半年に一度しか会えなかった。さっさとルークを選ばなかったリリア本人が悪いのだが、それはともかくとして、妹はいつでもルークを呼び付けて会うことができるヒューゴが羨ましくて妬ましくて仕方なかったに違いない。
だから……今回のクインの件に関しては、その仕返しも含まれているのだろうなと思うのだ。それがすべてではないと信じたい……が、実は何も考えてなくて。単に仕返ししていただけだったらどうしよう……
とにかくこの二人の関係性はややこしいことこの上ないのだ。主にリリアが自分自身を偽っていたせいで!
「リリア、……それ、お城の舞踏会が終わった後にしてくれないかなぁ?」
トマスが遠慮がちにいきり立つ妹に声をかけた。
「リリアだって屋敷に一ヶ月監禁してルークを独占したじゃないかっ。そうやってすぐに暴力に訴えるのは良くないっ」
頭を押さえたまま恨みがましい声でヒューゴが言い返す。何故受けて立つかなこの人とキースは思わず遠い目になった。今夜は舞踏会があるから忙しいとずっと言っているのに。
「ヒューゴお兄さまだってすぐに大声出して威圧してくるじゃないですかっ」
普段のリリアはそこまで寝起きが悪い訳ではないが、睡眠不足が続いているせいでここ数日間相当機嫌が悪い。今も完全に頭に血が上っている様子だ。
「だからそれ、二人とも明日にしてくれないかなぁ……今夜お城の舞踏会があってさぁ……」
「リリアだって私に対しては言いたい放題だろう」
「言いたい事の半分も言ってないもん」
トマスの言葉などすっぱりと無視して、二人はルークを真ん中にして真っ向から睨み合う。いつかこういう日が来るのではないかと恐れていたが、別に今日じゃなくてもいいんじゃないかなとキースは思った。
「リリアさま、そのティースプーン投げたらさすがに怒ります」
リリアが右手に握りしめているティースプーンを見つめて、ルークが冷静な声でそう言い……終わると同時に、ちいさなスプーンはパシッという音を立ててルークの手の中におさまった。
「ルークさま、そうやっていっつもいっつも私よりヒューゴお兄さま優先させるもんっ」
ぼろぼろ泣きながらそう言い捨てて、リリアは脱兎の如く走り去った。……完全な八つ当たりだ。
ルークは手の中のスプーンを弄びながら、どうしたものかなというように小さくため息をついていた。追いかければ追いかけたで逃げるし、追いかけなければ拗ねる。
「庭は危ないので出ない下さいねー」
廊下にいるダニエルがのんびりと声をかけている方角に、リリアは走って行ったのだろう。すでに影も形もないけれども。
「もうほんとやだ……」
壁に腕と額をつけたトマスが、暗い声でそう呟いた時だ。
「う……うわあぁぁぁぁぁ。なんで、なんで女の子が空飛んでっ」
情けない叫び声が館内に響き渡った。はっとした顔をしてルークが部屋から飛び出してゆく。空を飛んだ女の子とやらはリリアに決まっている。恐らく大階段の途中から飛び降りたのだ。
「トマスさま、来客です」
息を切らして走って来たメイジーが、トマスの傍らに立ってそう告げた。
「今忙しいから帰ってもらってー」
「しかし、オーガスタさまが書かれた紹介状を持っていら……」
オーガスタという名前を聞いた瞬間にトマスは立ち上がって、これまた脱兎の如く駆け出した。……しゃいますので。とメイジーはトマスの背中を目で追いながら続けている。
一応聞いておこうという感じで「追いかけましょうか」とダニエルが尋ねた。
「無駄なことはやめましょう」
達観した笑みを浮かべてメイジーはそう言った後、意味ありげな視線を室内のキースに向けた。
「キース坊ちゃま出番です」
「……お願いそれやめて」
キースはがっくり肩を落とした。やっぱり昨日の方が遥かに平和だった……