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88 天使様の決意 その1


 ヒューゴは不意に顔を上げて、青い瞳でじっとクインを見つめた。辛そうな、悲しそうな顔を見ると、クインの胸はじくじくと痛みを訴える。


「きらいじゃ、ない、です」


 無意識の内に唇から言葉が零れ落ちる。ヒューゴは息を飲んで瞠目してから、苦しそうな顔で視線を逃がして、そして、いつかのように何もかも諦めたように微笑んだ。「そうか、もう……は、……だな」と口の中で何か小さく呟く。何を言ったのかはわからない。でもそれはきっと、とても悲しい言葉だったのだ。表情を見ていればわかる。


「きらいじゃない、です」


 クインは自分でもわからない焦燥感に駆られて、その言葉を繰り返してしまう。


 ヒューゴは目を閉じて深い呼吸を数回繰り返した。目を開けるとおもむろに椅子から立ち上がるとクインの前に膝をついて両手を差し出した。花冠を丁寧に整えていた綺麗な指に目がひきつけられる。

 クインはエミリーに縋りついていた体をまっすぐに戻すと、迷いながらもそっとその手の上に自らの手を乗せた。手袋をしていない手はあたたかくて、大きな手に包み込まれると、守られているような安心感を覚えた。


「……ありがとう。怖い思いをさせて申し訳なかった。もう絶対に、君の前であんな風に声を荒らげたりはしない。約束する。でも、ひとつだけ君にお願いがあるんだ」


 幼い子供に話しかけるように穏やかな声でそう言うと、ヒューゴはそっと手を離す。指先に僅かに残るぬくもりが失われることが惜しくて、クインは自由になった手をそのまま胸にあてた。


「もし、私がこの先も同じ事を繰り返すのなら、嫌いになってほしい」


 限界まで大きく目を見開いたクインの頬に手を当てて、ヒューゴはクインの青い瞳を覗き込む。そして怖い程真剣な顔で言ったのだ。


「君を傷付けるだけの者を、好きでいてはいけない」


 どくんと、大きく心臓が跳ねた気がした。重ねた両手の下で鼓動が強く早くなってゆく。耳の中で心臓の音がどんどん大きくなってゆく。


『青い瞳……の……約束された……未来……に……導く……ただ、ひたむきに……愛せよ……愛せよ……愛せよ……』


 鼓動に紛れるようにしてそんな声が微かに聞こえてくる。奇妙に間延びしたり、歪んだりして頭の中で渦を巻き始める。声はクインに青い瞳を愛せよと強く命じる。でも、今目の前にいる青い瞳をした人は、それではいけないのだと言うのだ。クインの頭の中は大混乱に陥ってしまう。


「どうか、それだけは約束してほしい。……そうならないように、私も気を付ける、から」


 頬から離れて行く指先を思わず目で追う。その手にそっと触れられる度に、自分が儚くて美しいものになったような気分になる。


 ――だから、あの大きくてあたたかい、優しい手がとても好きだ。


 風が体の中を通り抜けて行くような感覚が沸き起こり、得体の知れない気持ち悪い声を吹き飛ばしてゆく。声が遠ざかるにつれて、鼓動が落ち着きを取り戻していった。


「もう誰かに頼らずに、必ず自分の力で君を幸せに……する……か……ら? …………え?」


 クインの視線を追って自分の右手に辿り着いたヒューゴは、多分そこで我に返った。信じられないものを見るような目で、しばらく自らの手を眺めていたが、


「……てぶくろ……は?」 


 ぎこちない動きで背後を振り返り、恐る恐るキースに尋ねる。


「パン食べさせるときに、外しましたよね。……忘れてたんですね」


 キースは冷静な声でそう返した。


「……しあわせにって、え……今のって、求婚のこと……ば……?」


 ジェシカが、ぼそっと呟く。そしてみるみる顔を赤らめ、慌てて両手で自らの口を押さえた。しんっと室内が静まり返る。


 必ず自分の力で君を幸せに……しあわせに……しあわせ……とは、何だろう……


 クインはぼんやりとした目でヒューゴを見つめながら首を傾げた。言葉の意味や、今自分が置かれている状況を理解しようとすると意識が遠ざかる。抗いがたい猛烈な眠気が全身にまとわりついてくる。周囲の音がどんどん遠ざかってゆく。目の前がだんだん暗く……


「そ……っ、…………ぇ………ぁ」


 慌てた様子で何か言おうとしたヒューゴの口をすぐさまキースが塞ぐ。言葉はすべてキースの手袋に吸い込まれて、もごもごという不明瞭な音になり果てた。


「今の状態で何言っても事態は悪化します! 大丈夫です。ヒューゴさまが本当はどういうことを言いたかったのか、この場の全員察しています。だからまず落ち着けっ!」 


 ヒューゴの口を塞いだまま、キースは強い口調でヒューゴに言い聞かせている。ヒューゴは指先まで真っ赤だ。


「キースその人よろしくエミリーさんたち行くよー」


 トマスが一息にそう言うと、完全な思考停止状態に陥ったクインをひょいっと椅子から抱え上げて、すたすたとドアに向かって歩き出した。はっと我に返ったクインはトマスの肩越しにヒューゴを振り返る。


「い……いやじゃなかった、です。きらいじゃない、です」 


 何が起こったのかよくわからないが、これは絶対に言っておかないといけない気がした。そうしないときっともう会ってもらえない。願い事は口にしないと相手に届かない。


「あの、あの、……また、お会いしたい、です。手をつないで、ほしい、です」


 キースに口を押さえられたままのヒューゴが、キースを巻き添えにしてゆっくりと後ろ向きに倒れて行くのが見えた。ごんという音は聞こえなかったからきっとキースが支えたのだろう。


「あー、今、そういう事言っちゃうかぁ……」


 トマスがぼそりと呟く。そのままクインは強制的にヒューゴの部屋から連れ出された。






 足音がすっかり遠ざかってからキースはヒューゴの口から手を離した。


「……意識あります?」


 床に仰向けに寝かされた状態で、ヒューゴは天井を見つめたまま固まっていた。目の前で大きく手を振っても反応がない。仕方がないので、キースはヒューゴの腕を掴んで無理矢理上体を引っ張り起こす。自分で座っていられる事を確認してからそばを離れ、先程までクインが座っていた場所と向き合う位置に置かれた方の椅子を引いた。


「はい、そこで座っていても現実は変わらないので、自分で立ってここ座りましょうね」


 言われるままにのろのろとヒューゴは立ち上がって、足を引きずるように歩いて椅子に辿り着くと、重力に負けたように腰を下ろした。テーブルの上には冷めきった朝食が置かれたままになっている。


「……上出来だったと思いますよ?」


 ポットの中の冷めた紅茶を少量カップに注ぎ、多めの砂糖とミルクを加えてかき混ぜてからヒューゴの前に置く。ヒューゴは熱が引ききっていない顔を上げた。


「いつもみたいに、偉そうに説教したり、暴言吐くよりずっとマシ。……違いますか?」


 少し考え込むような目をしてから、ヒューゴは素直に頷いて、紅茶を一気に飲んで息をついた。


「朝食、温め直してきますよ。ちょっと待っていて下さい」


「こ、このままでいい」


 ヒューゴは何かを振り払おうとするかのように慌てて首を横に振って、スプーンに手を伸ばした。


「クインさま、全く嫌な顔されませんでしたね。……良かったですね」


 指先から滑り落ちたスプーンが皿に当たって甲高い音を立てた。再度耳まで真っ赤になったヒューゴはクロスの上に転がっているスプーンを持ち上げようとしているが、動揺しているせいで指がもつれてうまくいかない。スプーンは生き物のように逃げてゆく。


「驚いていたせい……」


 途方に暮れた目をしてヒューゴはそう言った。


「嫌いな人間からあんなこと言われたら、気持ち悪くて普通に顔引きつりますからね」


 実感と怨念が声に籠ってしまった。嫌な事を色々思い出して気分が悪い。キースが暗い目をしてはははっと力なく笑ってやると、ヒューゴは恐れ戦いて大人しく口を噤んだ。


 開け放たれたままのドアの方から軽いノックの音がして、ルークが皿覆いの乗った銀盆を持って室内に入って来る。本当にそつのない人だなとキースは苦笑しながら、冷めてしまった朝食を銀盆の上に戻して脇にどけた。

 ルークが新しく持ってきたスープの真ん中で、いかにも後から置きましたよという感じのニンジンが存在を主張していた。


「もうちゃんと食べられる」


 むっとした顔でそう言いながらも、顔を顰めたヒューゴはニンジンをじーっと凝視している。


「外ではちゃんと召し上がっていらっしゃるのは知っていますよ。冷めない内にどうぞ」

 

 湯気を立てたスープとパン、オムレツとベーコンにはマッシュルームとジャガイモのソテーが添えられている。ヒューゴが好きなものばかりを集めた朝食だ。この人は際限なくヒューゴを甘やかし続けている。


「キース君、もう少ししたら新しい紅茶を淹れてきてくれますか?」


「ルークが淹れたのが飲みたい」


 ちいさな声でそう言って、照れたようにヒューゴが横を向く。キースは信じられないものを見る目をヒューゴに向けた。珍しく素直だ。空から何か変なものが降ってくるのかもしれない。……今夜はお城の舞踏会なのに。


「キース君みたいに上手には淹れられませんよ?」


 ちらっとキースを見てから、ルークはふわりと笑った。それだけで室内に穏やかな空気が流れる。小さく頷いてヒューゴはスプーンを手に取ってまずニンジンを口に運んだ。眉間に皺が寄る。


「ほら、……どうしたって顔に出るんですよ」


 キースがからかうように言うと、ヒューゴの眉間の皺がさらに深くなった。顔が赤くなってきているから照れているだけだ。


 ヒューゴが朝食を食べ始めたのを確認すると、ルークは文机に歩み寄り、乱雑に積み上げられた書類の整理を始めた。


「キース君、椅子をこちらにひとつ持ってきてもらえませんか」


 頼まれた通りに椅子を抱えて持ってゆく。ルークは文机の上の書類を一旦すべて椅子の上に移動させた。数十枚分を束にして左腕に抱え持つと、文机の上で、四つに分類し始める。

 左腕に乗せられた書類がなくなると、キースが椅子の上の書類を手渡すという流れ作業でどんどん分けて行く。「いくら何でも抱え込みすぎですよ」と窘める声は、いつも通り優しい。


「……できないことは、もうやめる」


 背後から、吹っ切れたような声が聞こえてきた。「え?」とキースは思わず背後を振り返る。ヒューゴの様子がいつもと違う。


「どれだけがんばったって、意味がないのだとわかった」


 書類を手に持ったまま、キースとルークは思わず顔を見合わせる。ヒューゴはこちらに背を向けて食事をしているため表情は見えない。だが、聞こえて来る声は奇妙に明るい。


「もう、いいんだ。あの人は、本当に私に興味がなかったのだとわかったから。あの人が欲しかったのは宰相になれる優秀な息子で、でもそれすらも、社交界で自慢するための道具にすぎなかったんだ」


 少年だった頃と同じ柔らかい口調でそう言って、スプーンを置いたヒューゴは二人を振り返った。どこか懐かしさを感じさせる笑顔で。


「うまくできなくてごめんなさい……と。毎日そればかり言っていた気がする。その度に『どうしてこんな簡単なこともできないのか』『トマスはできるのに。どうしてあなたはできないのか』そう詰られた。その声がずっと耳に残っている。というより、それしか残っていない。何か失敗する度にあの人の怒鳴り声が記憶の底から蘇ってきて私を責め立てるんだ」


 ルークに軽く肩を叩かれてはっとキースは我に返る。我知らず書類の束をぎゅっと強く握りしめていた。キースが慌てて書類の皺を伸ばしている間にも、ヒューゴの独白は続く。


「私があの人が望んだ通りの立派な宰相になってはじめて存在を認めてもらえる。会いに行くのを許してもらえるのだと、そんな風に思っていた。……でも、実際はそう思わされていただけなんだ。声を思い出すだけで体が竦み上がるような相手に、どうして自ら会いに行く必要がある?」


 言葉とは不釣り合いな笑顔。青い瞳から涙が流れ落ちる。


「今日、泣いているあの子を見ていて、はっきりとわかった。あんな風に泣いて怯えている子供に、ああいう態度を取れるのは、異常だ。……あの人たちは、おかしい。私も、おかしい」


 きっぱりと言い切った後、「おかしいんだ」と、かすれた声でもう一度繰り返す。まるで自分に言い聞かせるかのように。


「おじいさまが彼女たちを私から遠ざけるのも当然だ。そんな単純なことが、理解できていなかった。……出来損ないだから捨てられたのだと思っていた」


「そっ……」


 ……んな訳ない。咄嗟にそう声を出そうとしたのに、肩に手を置かれて止められた。ルークは静かに首を横に振る。


「私は、怯える子供を怒鳴りつけたくはないし、ちいさな子供の心を恐怖で縛るようなこともしたくない。そういうことは嫌いだ。嫌いだったはずなんだ。でも、結局私も全く同じ事をしていた……だから、もうやめる」


 泣きながら儚く微笑むその姿に、少年の頃の姿がぴたりと重なった。


 先程クインが着ていたテールコートが、彼にもよく似合っていた。フェレンドルト家の庭で、長い裾を捕まえる遊びをした事を覚えている。笑いながら三人で駆け回った。

 あの頃キースとトマスははまだ子供で、ヒューゴの身に何が起こっているのか全く気付いていなかった。三人で遊んでいる時だけは、きっとヒューゴは本来の自分を出せていたのだと思う。


 あの頃の彼は、優しくて、優しすぎて、キースが泣いていると一緒に泣き出してしまうような少年だった――

次回『迷走』対『暴走』

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