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87 天使様が大迷走 その7


 置き去りにされたクインの頭の中は真っ白になっていた。確かに拒絶されなかったことに安堵している。受け入れてもらたことはとても嬉しく思う。でも、あまりに昨夜と違いすぎて、これはこれでどうしていいのかわからない。


 銀盆の上に乗せられたティーセットの中に、一目でクインのために用意されたとわかる小さくて浅いカップがあった。あれなら筋力が落ちていても持ち上げられそうだそうだと思っていたのに、ヒューゴの手によってなみなみと紅茶が注がれてしまった。……指先の震えが止まらない。


「あの、えっと、えと……ヒューゴさまは、ニンジン、苦手なの、ですか?」


 ずっと黙っているのも気詰まりなので、ウォルターに言われた通り、『はい』か『いいえ』で答えられる質問をしてみる。


「香りの強い野菜や、苦みが強い野菜は苦手だ。食べられないことはないが、率先して食べたくはない」


 穏やかな声でヒューゴはちゃんと答えを返してくれた。嬉しくて胸があたたかくなる。「あの……ボクも、です」頬を少し染めて俯き加減でそう答えると、ふっと優しく笑う気配があった。

 それ以上は会話が続かないので次の質問を考えなければいけない。


「昔、お医者さまと、一緒に、暮らしていらっしゃったの、ですか?」


 ぴくりとヒューゴの肩が震えた。触れてはいけない事だったのかもしれない。「す……すみま……」咄嗟に謝ろうとしたが、ヒューゴは無言で首を横に振った。


「十二歳頃、夏の終わりのほんの短い間」


 表情が翳りを帯びる。取り繕うように小さく笑ってクインの前にティーカップを置くと、ヒューゴは何故かまた右隣に置かれた椅子に座った。そして、クインをまっすぐに見つめ、次の質問を待っている。クインがヒューゴについて知っていることはあまりに少ない上に、『はい』か『いいえ』で答えられる質問となると限られてくる。気持ちばかりが焦って、何も思いつかない。


「あの、あの……スープが、冷めて、しまいます」


 どうかこちらの事は気にせず、ゆっくり朝食を食べて欲しい。そういう願いを込めたつもりだったのに……


「それより、早く飲まないと紅茶が冷めてしまう」


 穏やかな声でそう返されて返事に窮する。嫌がらせや意地悪をされている訳ではなく、心配されているのだということはわかっている。でも、そんな風に至近距離からじいーっと見ていられると、緊張して手の震えが止まらなくなってしまうのだ。もう、カップを落とす未来しか想像できなくない。


「……はい」


 勧められてしまったのだから、失敗する覚悟で紅茶を飲むしかない。幸い持ち手も摘まみやすい形をしている。クインは呼吸を整えてからカップに手を伸ばした。


「そんな風に監視するように見張られていたら、緊張してしまいます」


 焦った声でそう言って室内に駆け込んできた人物が、カップを持つ手を下から支えてくれる。紅茶の表面が波立つくらいに不安定に揺れていたカップは、そのまましっかりとその人の両手の中におさまった。


「震えていらっしゃるではありませんか! そんなつもりがないにしても、失敗するのを見て笑ってやろうというような、嫌がらせになっていますよ」


 体を捩じるようにして見上げると、クインの真後ろに立ったエミリーが、落ち着き払った表情でヒューゴを窘めていた。


「かわいそうに。もう大丈夫ですよ。緊張したし、怖かったですよね」


 エミリーは一転して優しくそう言うと、そっとクインの手からカップを外して受け皿の上に戻す。


「無理に飲まなくてもいいのですよ」


 エミリーのその言葉に、張りつめていた気持ちが一気に緩んだ。安堵のあまりぶわっとクインの目から涙が溢れ出す。


「ふ……ふぇっ……」


 色々もういっぱいいっぱいだったクインは、両手で顔を覆って子供のように泣き出してしまった。


「ほらっ、こんなちいさな子をここまで追いつめていたんです。悪気がなかったのはわかっておりますが、急に距離を詰めすぎです」


 ……実際はそんなにちいさくはないのだが反論する気にはなれない。


「ああ……そうか、カップを落としたら危ないのか。そこまで気が回らなかった……」


 言われて初めて気付いたというように、ヒューゴは力ない声でそう言った。


「ヒューゴさまだって、ほとんど初対面の相手の部屋で、二人きりで紅茶を飲むのは、例え相手が同性であっても緊張されるのではありませんか? しかも相手にじーっと一挙一動を観察されていたら、値踏みされてるようで居心地悪いですよね?」


 エミリーは淡々と言葉を繋げてゆく。言いたかったことはすべて彼女が言葉にしてくれた。胸がすくような気がして、クインは落ち着きを取り戻してゆく。


 視線を感じて顔を上げる。目が合っても、今度は逸らされなかった。


 エミリーの性格は、クインが想像していたものとだいぶ違っていた。見た目はいかにも優しく穏やかで、相手に議論をふっかけるような事はしそうにないのに、『言うべきことはビシッと言う』という、強気な一面を持っているようだ。 

 そして、エミリーにとってヒューゴはあくまで異性の知人の一人にすぎないのだろう。親密な空気のようなものは一切感じられない。……そのことに安堵している自分をクインは少し恥じる。

 エミリーに初めて会った時から胸の中に居座り続けていた、淀んだ渦のようなものが小さくなってゆくのを感じる。どうしてこんなにヒューゴの事が気になるのかわからない。彼に関わると自分の心は少しのことで一喜一憂し、常に不安定に揺れ続けている……


「大丈夫ですよ。ちゃんとリリアさまから頼まれておりましたから。私が代わりにお守りいたします」


「……え?」


 クインはエミリーを見つめたままゆっくりと瞬きで涙を散らした。今の彼女は『数で圧倒すれば良いのです!』と言った時のリリアと同じ目をしているような気がする。これはあまり良くないような……

 

「リリアさまに頼られたのが、相当嬉しかったみたいなんですよ。朝からとても張り切っていて、それで……」


 そう言いながらジェシカがクインの左隣にやってくると、両膝を床につく。手に持っていた濡らした布で優しく顔を拭きながら、声に出さず口の動きだけで『気負いすぎて、さっきああなっちゃったんです』とこっそり教えてくれた。どうやらエミリーは今、使命感に燃えているようだ。


「ヒューゴさまがクインさまのことを心配なさっているのはわかります、それは私にもきちんと伝わってきております。でも、心配の仕方が間違っています!」


 エミリーの瞳は自信に満ち溢れていた。怖いものなど何もないという顔をして、まっすぐにヒューゴを見据えている。


「リリアさまは、マナーが不安で出された紅茶に手をつけることができなかった私に、どうぞマナーは気にせず飲んで下さいと言って下さいました。それが気遣いというものだと私は思います。今クインさまが必要とされているのは『カップが重いなら、持ちやすいように持てばいい』という一言です」


 はっとした顔になったヒューゴは、反論できずにしおしおと項垂れた。


「テールコート姿のクインさま、可愛らしいですもんね。ずっと見守っていたいという気持ちは、みんなが持っていますよ。独り占めしたくなっちゃいますよね。……でも、私たちにもクインさまとお話する機会を与えて下さいね!」


 ジェシカがさりげなくヒューゴの気持ちに寄り添うような言葉をかける。強張っていた表情が少しだけ和らいだのを確認すると。ジェシカはテキパキとクインの分のカップを銀盆に乗せ始めた。


「……クインさま、私たちと一緒にお茶は飲みましょう。メレンゲ菓子がありますよ」


「……そういう訳で、クインさまは私がお預かりいたします。よろしいですね?」


 エミリーが開け放たれたドアを振り返ってそう言うと、気まずそうな顔をしたトマスが顔を覗かせた。


「……ちゃんと対策を講じてあったんだねぇ。さすがリリア」


 してやられたというような顔をして、トマスが視線を彷徨わせながら苦笑する。すぐさまエミリーが目を吊り上げた。


「トマスさまも反省なさってくださいっ。これはいくら何でも無責任ですっ。リリアさまが起きていらっしゃったら、こんな生贄に差し出すような真似、絶対にお許しにならなかったと思います」


「……うん、とても反省してる。もしかしたら、このまま奇跡的に何もかもが全部上手くかもなーなんて思っちゃったんだよね。手を抜いた自覚はあります……クイン、全部押しつけてごめんなさい」


 トマスは部屋に入ってくると、クインの左隣に立って殊勝な様子で謝罪した。彼には謝ってもらってばかりだが、今度のこれはクインは怒ってもいい筈だ。


「トマスお兄さま、ひどい……です」


 また泣きそうになってしまう。こうやってついつい甘えてしまうのは、今までトマスがずっとそれを当たり前に許してくれていたからだ。


「うん……ごめんね。もう、クインの嫌がることは絶対にしないって約束する」


 弱り切った顔でトマスが謝罪を繰り返すのを見て、怒りの気持ちはあっさりと消え失せてしまった。


「やくそく、してくれるなら、いいです……」


 俯きながら拗ねたように小さく呟くと、「うん、約束する。本当にごめんね」優しい声が耳に届いた。

 ……あれ? と何か引っかかりを感じてクインは内心首を傾げる。嫌がることは絶対にしないとトマスは言った。いやがること……いや?


 このままだと誤解される! 焦る気持ちのまま勢いよく顔を上げたクインは、ヒューゴに向かって手を伸ばした。袖を掴んだ途端に驚きに見開かれた青い目をまっすぐに見つめる。


「い、いやじゃなかった、です。き……きらいじゃ、ない、ですっ」


 また心臓がどきどきし始めて、頬が赤くなってゆくのを感じる。「あの……えっと……ほんとう、です……」と弱々しい声でやっとそれだけ言うと、袖から手を離して力なく下ろす。


「あの、あの……ボクが、自分では、うまくできなくて、だから……ごめんな、さい」


 考える前に言葉が口から飛び出してゆく。悪いのはヒューゴではないのだ。何とかしてそれを彼に伝えなければ……


「ちがうっ」


 突然響いた大きな声に、クインはびくっと肩を上下させた。やはり怒らせてしまったのだと、がたがたと震えはじめたクインを、慌ててエミリーが抱きしめる。

 それを見たヒューゴが、顔色を変えた。


「お……大きな声を出してしまって申し訳ない。ちがうんだ。うまくできないのは、私の方だ。君は何も悪くなくて、それでっ」


 焦ったように捲し立てる声が大きくて怖い。クインはぎゅっと目を閉じてエミリーにしがみついた。

 その時、パンっと両手を叩く音がした。


「はい。大きな声を出さないー、威圧感を出さないー。怖いですからねー。一度目を閉じて呼吸を整えましょう」


 部屋に入って来たキースが、明るい声でそう告げる。ヒューゴはすぐさま言われた通りに目を閉じて数回深い呼吸を繰り返した。

 クインは恐る恐る目を開けて、エミリーから少し体を離してヒューゴの様子を窺う。まだ大きな声に対する恐怖は残っているけれど、自分に対して怒っている訳ではないということは理解できた。


「……あれ程怖かったのに、どうして同じ事をしてしまうんだろうな」


 打ちひしがれた表情でヒューゴが呟いた途端に、キースの顔から笑顔が消えた。


「きついこと言わせていただきますが、あなたが今考えるべきなのは自分のことではなく、クインさまのことです。あなたが今どう思っているかなどは、はっきり言ってどーでもいいです。そのどこまでもどこまでも自分本位な性格そろそろ何とかしましょうか」


 据わった目をして、容赦なく厳しい言葉を投げつけ始める。

 それをぼんやりとした目で眺めながら「結局こうなるかー。体力温存しときたかったなー」とトマスは肩を落として疲れた声で呟いた。


「あのね、リリアが、ヒューゴはいっつも自分の事ばっかりだって言ってたよ。本当に相手のこと思うなら、そうやって落ち込んでる間にもできることってあるよねって話」

 遅くなってしまって本当に申し訳ございません。

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