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86 天使様が大迷走 その6


「……え」


 クインは自分の耳を疑った。何かトマスはとんでもない事を今言わなかっただろうか。胸に手を当てて一度息を吸って吐く。……まず落ち着こう。


「すみません。いますぐ撤去しますっ」


 突然ダニエルが、アレンの腕をひっつかんで、速足で部屋の外に引っ張っていった。意味がわからないという顔をしたアレンは無抵抗のまま連れ去られた。


「邪魔なのもいなくなったし、さぁ、やろうね」


 トマスはとても感じよく笑っているのに、どうしてだろうか、室温が下がった気がした。


「あ……あの、ぼく、ひとりで……」


 躊躇いながらもクインがそう口にすると、


「じゃあちょっと自分で食べてみる?」


 何か企んでいる顔のトマスから「はい」とスプーンを渡される。


「僕もキースもちゃーんと見守っているからねー」


 にーっこり、と、トマスは笑みを深めると、テーブルに頬杖をついて軽く首を傾げた。スプーンを持ったままクインは思わず体を固くする。


「……えっと」


 目の前にはヒューゴが座り、右隣にはトマスが座り、左側にはキースが控えている。全員の視線が自分に集まっている。ただでさえマナーに自信のないクインは、緊張のあまり手が震え出してしまった。


「ね? まだ本調子じゃないでしょう?」


 ……違う。これは絶対にちがう。こんなに近い位置から三人にじーっと見つめられいるのだ。この状況下でスープを飲めと言われれば、きっと誰だってこうなる。絶対にわかっていてトマスはやっているのだろうけれど。

 頬杖をついたまま目を細めたトマスは、楽し気で機嫌が良さそうに見える。でも、声にヒヤリするものを感じる。


「だから飲ませてもらおうね」


 クインはトマスに向かって首を横に振る。それにはどうしても頷きたくない。でもうまく手を動かせなくて、スープ皿にスプーンをぶつけて派手な音を立ててしまう未来しかもう思い浮かばない。どうしていいのかわからない。

 スプーンを持ったままふるふると涙目で震えていると、前から伸びてきた手がそっとクインの手を下からすくい上げた。


「……かわいそうだ」


 トマスに少し咎めるような目を向けてから、ヒューゴは優しくスプーンをクインの手から抜き取りスープ皿の中に戻す。「はい、場所変わってあげる」トマスは立ち上がりさっさと席を空けた。ヒューゴはちいさくため息をついて、トマスの代わりにクインの右隣に座る。


「……これは食事の介助だから」


 落ち着いた声で、自分自身とクインに言い聞かせると、ヒューゴは今しがた置いたスプーンを再び持ち上げてスープをすくった。……え? とクインは茫然と目を上げる。すると彼は、やるせないような顔で言ったのだ。


「トマスは怒らせると……言うことをきくまで許してくれない」


 キースが何度も頷いているのが視界の端に見えた。そのトマスはクインの後ろを通ってキースの隣に移動しようとしている。

 

「あ、ちょっと量が多いよ。自分で食べる時の半分くらいの量にしないとこぼれる」


 トマスに注意されて半分ほどスープ皿に戻すと、ヒューゴは左手を添えてクインの口元に差し出し……何か気になったのか、すぐにスプーンを戻してしまった。

 クインは無意識の内に顎と体を引いてしまったのだが、どうやら気付かれなかったようだ。ヒューゴの目はずっとスプーンに向けられていた。


「やさい……野菜の量が多い気がする……」


 スプーンをあけてスープをひと混ぜしてから、野菜を手前に集めて、一度にスプーンに乗せるスープの量と野菜の量を細かく調整し始める。すくっては戻しを何度か繰り返して、ようやく納得がいったのか、ヒューゴは左手を添えて、再びスプーンをクインの口元に差し出した。

 後ろに逃げそうになる体を、クインは必死にその場に留める。


 何故だろう。トマスにしてもらった時には平気だったのに、どうしてヒューゴだとこんなに恥ずかしいのだろうか。頬がどんどん熱を持ってゆく。

 しかし、ここで唇を引き結んで固まっている訳にもいかない。大丈夫。さっき同じ事をトマスにやってもらった。

 これは食事の介助。これは食事の介助。そう自らに言い聞かせてクインは思い切って口を開ける。ゆっくりとスープが流し込まれるが、もう全く味がわからない。


 スプーンを持った手を一旦自分の方に戻すと、ヒューゴはちょっと驚いたように目を瞬いて、少し考え込むような表情になった。ややあってから別のお皿に乗せられた丸い小さなパンに視線を移す。

 手に持っていたスプーンをヒューゴが皿の上に置いた時、何だか嫌な予感がして、クインはついつい不安を顔に出してしまった。


「パンは……一口大に千切る」


「じ、自分で、た、食べられ、ます」


 動揺しながらも、クインは一生懸命ヒューゴに向かってそう訴える。彼は難しい顔をしたまま「手を洗ってくる」と言って立ち上がり、暖炉の上に置いてあった水差しを持って隣室に消えた。……お願いだから話を聞いてほしい。


「トマスお兄さま、止めて、下さい」


 ヒューゴの姿が隣室に消えたのを確認してから、クインは斜め後ろに立っているトマスを振り返って懇願した。


「うん? 本人なんかやる気になってるから、やらせてみようね」


 トマスは何というのか吹っ切れたような笑顔を浮かべていた。ヒューゴを止める気は一切なさそうだ。

 どうしよう。今の内に自分で食べてしまえば良いのだろうか。でもそれでは食べさせようとしてくれているヒューゴに対して失礼だろうか。途方に暮れたクインはスープを見つめながらぐるぐると考え込んでしまう。


 すぐに手袋を外したヒューゴが隣室から戻ってきた。再び椅子に座ると、難解な問題を解いているような顔をしてパンを手に取る。「ひとくちで食べれる量……」と独り言を言いながらクインの口を見て確認し、小さくパンをちぎってクインの口元に差し出した。鼓動がどんどん早くなってゆくのがわかる。イザベラにやってもらった時には何とも思わなかったが、これはもう頭がくらくらするくらい恥ずかしい。


「もう少し小さくちぎった方がいいのだろうか?」


 なかなか口を空けないクインに向かってヒューゴは不思議そうな声で尋ねた。

 ……そういう話ではない。そうではないのだ。視界が涙で滲む。


「パンは……」


 自分で食べられます。そう言おうと口を開いた途端に、声を出す代わりにパンが放り込まれた。唇に微かに指先が触れる。心臓が止まるかと思った。


 真っ赤な顔でそれでも一生懸命もぐもぐとパンを食べているクインの前で、「あれくらいの大きさでいいのか」と一人納得した様子で、ヒューゴはまたもやパンをちぎり始めた。


 ――味なんてもう全くわからない。

 こうして自分だけが動揺して恥ずかしがっていることが、何より恥ずかしい。


 ヒューゴは千切ったパンを持って、クインが口の中のものを飲み込むのをじっと待っていたが、「あ……口が渇くからスープの方がいいのか」と、突然思いついたようにそう言って、パンを皿に置くと、スプーンに手を伸ばした。 


 何か言おうにも、口を開かなければならない。口を開けばどうなるかは先程経験した通りだ。クインの朝食はかなり少なめに用意されているとはいえ、スープはまだ半分以上残っている。


 ヒューゴは真剣な目をしてスプーンに乗せるスープと野菜の量を、今回も慎重に慎重に調整している。その姿を見て、クインはようやく理解できた。

 恐らく彼にとって、これはトマスから任された『仕事』なのだ。だから、何の雑念も抱くことがない。でも、クインは違う。そんな風に平然としていられない。恥ずかしくていたたまれなくてもう消えてしまいたい……


 口の前にスプーンが差し出され、クインはもう半分自棄になって目を閉じて口を開ける。しかし、量が多かったのか少しだけスープが唇の外に流れてしまった。すぐに口元にナフキンが当てられる。驚いて目を開けると「すまない。少し量が多かったな」と真摯な顔で謝罪された。……酷い眩暈に襲われて一瞬気が遠くなった。


「次から気を付ける」


 申し訳なさそうな声でそう言うと、ヒューゴは先程ちぎったパンを手に取った。


「じぶ……」


 んで食べられます。という言葉はまたしても封じられてしまう。どうして食べるのと喋るのは同じ口なんだろう……などと、考えても仕方のないことを考える。気を紛らわせないと、もう恥ずかしすぎておかしくなってしまいそうなのだ。


「……一生懸命でかわいいな。ゆっくり食べるといい」


 そう言ってヒューゴがクインを見つめて、穏やかに微笑んだ。ぼんっとクインの顔がこれ以上どうにもなりようがないくらい真っ赤になる。


 ――こんな風に優しく笑う人なのだと初めて知った。






 ヒューゴは真面目過ぎるくらい真面目だから、やれと言われたら完璧にやる……


「……俺は一体何を見せられているのでしょうねぇ」


「仲の良い兄と弟がいる風景」


 壁際まで下がり、ぼんやりと二人で窓の外を眺めながらそんな会話を交わす。一生懸命口を開けているクインの気持ちを考えると、なんか本当に申し訳なくていたたまれない。トマスの時とは違って真っ赤な顔で涙目になっているが、大丈夫だろうか。


「リリアは暴走し、ヒューゴは迷走している。……ごめんクイン。全部押し付けて……」


「……すみませんクインさま、面倒なのばっか押し付けて」


 ふたりは心の底からクインに謝罪した。今二人にできることはクインが恥ずかしくないようにできるだけ見ないでおいてあげることくらいだ。


「……まーでも、こうなったのも全部、誰かさんがリリアの前で余計なこと言ったせいだよねぇ」


 ちらりとキースが横目で窺うと、トマスはわざとらしくはははっと笑った。


「絶対わざとだよね。うっかり失言とかする訳がないよね。僕たちいっつも都合よく利用されてるよねぇ。ほんと、リリア焚きつけて何させたいんだろうねぇ」


 だんだん声が大きくなっていっているので、慌てて肘でつついて黙らせる。


「もうその辺りでやめときましょうね。どこで誰が聞いてるかわかったもんじゃないですよほんとに」


 キースは深いため息をついた。


「あ……あのっあの、だいじょうぶ、です。じぶんで……」


 焦ったような声が聞こえてきたため、ちらりと様子を窺う。ヒューゴがクインの頬に手を当てて、反対の手で持ったナフキンで口元を丁寧に拭ってやっている。どうやらクインの分の食事は終わったようだ。

 クインは見るからにもういっぱいいっぱいで、大きな青い瞳から今にも涙が零れ落ちそうになっている。……申し訳なさで胃が痛くなってきた。

 昔は自分もああやって当たり前のようにトマスやルークに世話を焼かれていた、口元もよく拭いてもらった。でも、同じ事を今やれと言われたら……暴れる。


「……何とかなったみたいだから、これでよしとしよう。後はヒューゴにお任せしよう。本当にごめんねクイン」


 今夜は舞踏会がある。こんな所で体力と気力を消耗してはいけないのだ。余計なことは考えてはいけない。昨夜のイザベラとウォルターを見習う。疲れることはもうしない。お留守番組の人たちの問題は、お留守番組の人たちで解決してもらうしかない。


 ヒューゴはクインを『弟』として扱うことに慣れてきたようだ。その方が楽だと気付いたのだろう。

 それが今後の二人にとって良いことなのか悪い事なのかは、今はわからない。ヒューゴがクインを受け入れられたのならそばれでいい。彼はクインを大切に大切にするだろう。ずっとずっと求めていたものを、ようやく手に入れることができたのだから。


 でも、リリアやアレンのように相手を束縛しはじめたらどうしよう……一瞬浮かんだ不安を慌てて振り払うと、キースは無理矢理笑った。


「そうですね。何とかなりましたね。リリアの方は優秀な執事さんが何とかしてくれますよね。……すみませんクインさま」


 難しい事や疲れることは考えない。体力は温存しておかねばならない。でも、そうは言っても、クインに対する申し訳なさだけは、どうしても心から拭い去ることができない。キースはトマスと顔を見合わせて頷き合った。


「食べ終わったら、ポットの紅茶淹れてあげて下さいねー。クインさまが紅茶飲んでる間にヒューゴさまも朝食食べてしまって下さい。その頃に片付けに来まーす」


「紅茶飲んだら、キースが迎えに来るまでの間、寝椅子で休憩させてあげてねー」


 努めて明るい声でそう言って、二人は開け放たれたままのドアに向かって歩き出す。

 今、自分たちにできることは一つだけだ。

 クインが恥ずかしくないように……一刻も早くこの場から去る! 

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