85 天使様が大迷走 その5
「リリアが寝ている内に、もう一度きちんとお話してみてほしいんだ。大丈夫。僕とキースがそばにいるからね」
クインは強張った顔をして膝の上で拳をぎゅっと握った。確かに、今の状態で、三人仲良く留守番というのは……できそうもない。でも、昨日の今日で、どういう顔をして会えばいいのかわからない。
『私のことは嫌いでいいんだ』
ヒューゴは何もかもを諦めたように笑っていた。翳りを帯びた青い瞳を思い出すと胸が苦しくなる。
テーブルの向こう側で並んで立っているトマスとキースが、心配そうにクインの様子を見つめている。会いたいという気持ちはあるのに、いざ会いに行くとなると尻込みしてしまう。また拒絶されるかもしれないと思うと、どうしても「はい」という一言が出てこない。
「不安になるよね……本当にごめんね。でも、リリアが寝ている今しかないんだよ。あの子、溜まりに溜まったものがとうとう溢れ出しちゃったみたいで、暴走してるんだよね。何でも暴力で解決しようとするのは本当に良くないよねぇ……」
トマスは眉間に皺を寄せてこめかみを押さえた。
「リリアがクインを守るためにやっているということは、わかってるんだけど……」
「さすがにちょっとやりすぎ……」
キースが、神妙な顔でそう続けて首を横に振った。
リリアは昨夜もヒューゴの足先すれすれに火かき棒を落としていたし、灰取りスコップを絶対に離さなかった。だから、暴走しているというのは本当なのだろう。このままだと『蹴り飛ばす』という言葉が現実になりかねない……
「ヒューゴも畏縮してしまうし、クインもああいうのはちょっと嫌だよね? リリアがいるとどうしても殴る蹴るの話になるから、一度あの子抜きで会ってみて欲しいんだよ」
トマスとキースが困り切った顔をしている。このままだと二人は今夜の舞踏会の準備も手がつかない。クインはぎゅっと目を瞑って、なけなしの勇気を振り絞って小さく頷いた。
ドアの周囲に古い家具がまだ置かれたままになっている。花瓶台の上に運んできた銀盆を置くと、キースはドアをノックした。
「朝食をお持ちいたしました」
仕事用なのか、それが本来のものなのか、いつもより落ち着いた声が部屋の中から聞こえてきた。
「書類を片付けるから少し待ってくれ。終わったらドアを開け……」
「重いから早くして」
最後まで言わせずに、不満そうな声でトマスが急かす。
「……何でトマスまでいるんだ?」
戸惑ったような声が中から聞こえ、慌しく立ち上がる音がした。すぐにドアが開かれる。ヒューゴは、ちいさな水差しを持ってちょこんと立っているクインに気付いて、顔を強張らせて後ずさった。ぎこちない動きでトマスにどういうことだと言いたげな視線を向ける。その間も彼は後ろに歩き続け、やがてテーブルに腰をぶつけて止まった。
「クイン、中入るよー。足元気を付けてね」
「段差がありますからねー」
皿覆いの乗った銀盆を持ち上げ、まずキースが室内に入ってゆく。
二人分のティーセットを持ったトマスに続いて、クインもドアの段差を跨ごうとしたのだが、爪先をひっかけて前につんのめってしまった。
「あ……」
そのまま倒れそうになる体を、背後から伸びてきた手が抱きかかえるようにして支えてくれた。
水差しの水が床に零れていないこと確認してから背後を振り返るが、誰もいない。あれ? とクインは思わず首を傾げた。
「クインさま、大丈夫ですかっ?」
キースの焦った声ではっと我に返り、慌てて前に向き直る。キースとトマスがとても心配そうな顔でこちらを振り返っていた。「だいじょうぶ、です」と答えてクインは頬を赤らめる。気を付けてねと言われたばかりだったので気まずい。
「すぐに座れるようにしますから、そこで待っていて下さい。……あーもう、置ける場所ないじゃないですか。ヒューゴさま、早くテーブルと椅子の上の書類片付けて下さい。スープが結構重いんですよ」
「紅茶も重い。なんでそろそろ朝食が届く時間だってわかっているのに、片付けとかないかなぁ」
「いつも通りワゴン使えばいいだろう?」
一方的に責められたヒューゴが不機嫌そうな声を出す。
「今別の所で使ってるんだよ。とにかく早く片付けて。クインを座らせてあげたい」
その言葉にはっとした様子のヒューゴは、慌ててテーブルや椅子の上に置かれていた本や書類をかき集めて、文机の上に積み上げ始めた。仕事中だったのか、白いシャツにベストという服装だ。額に巻かれた包帯が今日も痛々しい。
クインは失礼にならない程度に部屋の中を見回す。四角いテーブルと椅子がニ脚、あとは文机と本棚が置いてあるだけの飾り気のない部屋だ。奥に隣室に繋がるドアがあるのが見えるから、きっとそちらを寝室に使っているのだろう。
「クインさま、疲れましたよね。ここに座りましょう」
「ちょっと休憩しようね」
キースが椅子を引き、トマスが手招いている。部屋の主の許可なく勝手に座ってしまって良いのだろうかと迷ったが、クインは二人の笑顔の圧に負けた。水差しをキースに手渡して椅子に腰を下ろす。
「文机は……書類置き場になってるのかぁ。しょうがないなぁもう」
朝食とティーセットが乗ったテーブルの上にはもう他に何も置けない。キースは仕方なさそうに水差しを暖炉の上に置くと、走って部屋から出て行った。
キースと入れ替わりで、アレンとダニエルが重たそうな寝椅子を持って室内に入ってくる。
「これどこ置きますか?」
「直接日が当たらない所がいいから、その辺に置いてくれる」
トマスの指示に従い部屋の隅に寝椅子を置くと、ふたりはそのまま部屋から出て行く。しばらくすると、ダニエルが小さなテーブル、アレンとキースがそれぞれ椅子を一脚ずつ抱えて戻って来た。寝椅子とテーブルが入ると、がらんとしていた部屋は一気に手狭になってしまった。
キースがクロスを広げてテーブルにかけると、トマスがてきぱきとお皿とスプーンを並べ始める。
「今日は座ってて見ててね。元気になってからやってみようね」
そわそわしているクインに気付いたトマスが優しく笑う。クインは少し残念に思いながらも素直に頷いた。先程のようにふらついて食器を落として割ってしまったりしたら大変だ。
そういえば、先程転びそうになった体を支えてくれたのは、アレンかダニエルだったのだろうか。
「うわ、スープのニンジン全部取り除いてある……こうやって甘やかすのがいけないんだと思うんだけどなぁ」
スープボウルをレードルでひと混ぜしたキースが、呆れたような声を出した。ひょいとキースの手元を覗き込んだトマスも何とも言えないような顔になる。
「本当だ。あのダメ人間製造者さんはねぇ……甘やかすからね」
「まぁ、クインさまも、本当はニンジン苦手らしいですからね。……マーゴさんに聞きましたよ」
ちらっとキースが目を上げて、クインに向かっていたずらっぽく笑いかけた。どきっとして思わず目を逸らす。イザベラには苦手な野菜はないと答えたが、実は子供の頃からニンジンはちょっと苦手なのだ。もうずっと、好き嫌いを言えるような状況ではなかったから、食べることはできるけれど……
でも、「クインさまも」という事は、ヒューゴもニンジンが苦手なのかもしれない。実は食べ物の好き嫌いが多いらしいから。
キースとトマスが朝食を準備している間にも、アレンとダニエルによって、室内にクッションやらブランケットやらオイルランプやらがどんどん運ばれてくる。ヒューゴは何が起きているのが理解できないというような顔をして、書類を持って突っ立っていた。一度に色々なことが起こりすぎて現実を受け入れられない様子だ。
「ヒューゴ、ぼーっと立ってないで座ってくれるかな。今日も野菜のスープだからね。贅沢したければ自分のおうちに帰ってね」
「え……なんで二人分」
書類を文机に置いて、いかにも恐る恐るといった感じでテーブルに近寄って来たヒューゴは、そこに用意された二人分の朝食を見て後退り始めた。
がしっとばかりにアレンとダニエルが両脇からヒューゴを拘束し、椅子に無理やり座らせる。
「はい、クインこっちにおいでー」
若き伯爵自ら、ヒューゴと向かい合う位置にある椅子を引いて、にこにこしながらクインを待っている。……逆らえる訳がない。
座ったはいいが、どこを見ていいのかわからず、クインは俯いていることしかできない。本日の朝食は小さめに焼かれた丸いパンと、野菜とベーコンが入ったスープだった。確かにニンジンは入っていなかった……
「その服……」
「あ、覚えてたんだ。君が昔着てたものを、譲ってもらったんだよ。丁度サイズもぴったりだった」
トマスはそこで一旦言葉を切って口角を引き上げるようにして笑った。
「すごくかわいいよね。とても良く似合っているよね。か、わ、い、い、よ、ね?」
「あ……ああ、かわいい。良く似合っている、と、思う」
上ずった声でヒューゴが答える。
「そうだね、とても可愛いよね。……さて、ヒューゴ、このかわいい子はクインという名前の男の子です。今日から君の弟です。君、弟にするのは構わないって言ったよね?」
「弟にするのは構わないって言ってましたよね?」
トマスとキースは否定を許さない強い口調でヒューゴに迫った。「いやあれはその……」とぶつぶつ言いながらヒューゴは気まずそうな顔で目を逸らす。
「「い、い、ま、し、た、ね?」」
トマスとキースは一音一音切るようにして繰り返した。息がぴったりだった。口角はさらに上がり目がぎらぎらしている。「……言った」と観念したかのようにヒューゴが呻く。ふたりがやっていることはリリアとあまり変わらないと思うのだが、気のせいなのだろうか。
「念願の弟ができた訳だから、大切に大切にしましょう。年齢は十二歳という設定です。まだまだ子供です。ちゃんと守ってあげましょう。弟だから手を繋いだり頭を撫ぜたりしてあげてもいいけど、必ず本人の許可は取ってね。嫌がられたらすぐにやめること」
「おとうと……じゅうにさい……せってい……」
ぼんやりとヒューゴが口の中で繰り返している。
話が想像もしていなかった方に向かっている。でも、また拒絶されたらどうしようという不安で、クインの頭はうまく働かない。心臓をぎゅっと握られているようで苦しい。
「……具合が、悪いのか?」
目を閉じ両手を重ねて胸に押し当てていると、突然ヒューゴから声をかけられ、クインはびっくりして顔を上げた。
不安そうな青い瞳を見て、泣きたいような気持になる。
「あの……ボクが……おとうと、は、いや、ですか?」
恐る恐る尋ねる。鼻の奥がつんと痛くなって、クインの目にうっすら涙が浮かんだ。ヒューゴの顔が再び強張る。「それは……」と迷いながらも口を開こうとした時、昔を懐かしむ目をしたアレンが、どこか遠くを見つめてふわっと嬉しそうに微笑んだ。
「私が『兄上と呼んでも良いですか?』と尋ねた時、すぐにいいよと言って下さって……嬉しかった……」
「即後悔したと思いますけどね。空気読んで今は黙っていましょうね」
ダニエルが冷たい声で遮るが、結局ヒューゴは開きかけた口を閉じてしまい、室内に沈黙が落ちた。
「……クイン、お腹空いてるよね」
やれやれというようにため息をつくと、トマスが椅子を持ってきてクインの隣に座り、スプーンを手に取った。何をするのだろうとクインはその手元を見つめる。
「あたたかい内に食べよう?」
トマスはスープを少しだけすくって、クインの口元に差し出した。スープからとてもいい匂いが漂ってくる。このまま固まっている訳にもいかないので、クインは戸惑いながらも口を開けた。トマスはスプーンをそっと傾けてゆっくりとクインの口の中にスープを流し入れる。
「懐かしいなぁ。昔こうやってキースに食べさせてあげたんだよね」
「体調が悪い時の話です」
キースがさりげなく一言付け加えた。
「おいしい? 熱くない? 大丈夫?」
栗色の瞳を細めて優しく尋ねられて、クインは素直に頷いた。イザベラやマーゴに食べさせてもらった時と同じ感覚だ。やっぱりトマスの前だと、なんだか安心して気が抜けてしまう。
「丁度食べやすい温度なのかな。ゆっくり食べようね」
「えっと、ボク、じぶんで食べられ……」
「はい、お野菜も食べようね」
トウモロコシの粒が乗ったスプーンが口元に届けられるから、クインはまた口を開ける。
それを数回繰り返したところでトマスはスプーンを置くと、据わった目でヒューゴを振り返った。
「この通り、君の弟はとてもお腹を空かせています。こんな感じで食べさせてあげましょう。……時間が勿体ないからさっさとやって」