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84 天使様が大迷走 その4


「かぁわいいわぁ」


 イザベラが目をきらきらさせてクインを見ている。

 テールコートの長い裾が何となく気になって、後ろを振り返った途端によろめいてそのままくるっと回ってしまう。まるで自分の尻尾を追いかける子犬のようなことをしてしまった。ちょっと恥ずかしくなって顔を上げると、それはそれはもう幸せそうな顔でイザベラが微笑んでいた。クインは頬を染めてうろうろと視線を彷徨わせる。


「エミリーさまエミリーさま」


 廊下の方からひそひそ声が聞こえてきてくる。開け放たれたドアから、目をキラキラさせたジェシカが室内を覗き込んでいた。


「エミリーさまエミリーさま。すごくかわいい子がいます。とてもとてもかわいい子がいますよー」


 ジェシカの背後から、恐る恐るといった様子でエミリーが顔を覗かせる。テールコート姿のクインを見た彼女は「え? ……ちっちゃい。え? ええ?」と、とても驚いた声を出した。


「私、私、こんなちっちゃな子に意地悪したのね……」


 突然暗い顔になった彼女は、沈んだ声でそう呟いた。 

 クインはちっちゃい子という年齢ではないし、身長も小柄だがきっとこれから伸びると信じている。……そして、クインは特にエミリーに意地悪をされた覚えはない。でも、この状況でそれをどう説明していいのかわからない。


「あ、あの……おはようございます!」


 胸の前で両手を握って、思い切ってドアに向かって声をかける。だいぶ自然に笑うことができるようになったと思うけれど、どうだろうか。


 昨日の夜、部屋まで運んでくれたウォルターから手鏡を渡されて、眠れないなら笑顔の練習をしてごらんと言われたのだ。


『君の笑顔を見たいと思っている人がここには沢山いるからね。どんな言葉もやっぱり笑顔で言ったもらえた方が嬉しい。ほら、ベスもこうしていつも笑っているだろう?』


 ウォルターの言葉はすっと胸に入っていって、傷付いて強張っていた心がすっと楽になった。

 最初は鏡の中の自分の笑顔がどうしようもなく不細工に見えて深く落ち込んだ。しかし、ベスを膝に乗せて練習している内に見慣れてゆき、少しずつ『笑っている自分』に対する違和感は薄れていったのだ。

 だから大丈夫。今もちゃんと笑えている……はず。


「おはようございますクインさま! 大変よくお似合いです。可愛いです! もう一回くるって回って下さいっ」


 ジェシカがぱあっと顔を輝かせ、ドア枠にしがみついて前のめりになった。


「ジェシカ!」


 エミリーが慌てた様子で侍女を窘める。そして、意を決したようにクインを見て、何か言いかけようと口を開き、そのままの状態で固まってしまった。ややあってからゆっくり口を閉じてジェシカの肩を指でつつく。


「もー今度はなんですかぁ?」


 ああもう面倒だなという感じで振り向いた侍女を見て、エミリーは泣きそうになっている。主と使用人というよりは、仲のいい同世代の友人といった雰囲気だ。


「どうしようジェシカ、私……私ね、ちっちゃい子にもどう接していいのかわからないっ。嫌われたらどうしよう」


 そう言ったエミリーの顔は怖い程真剣だった。


「…………えーっとですね、人間として未熟だということをここで改めて認識できて良かったですね。まずはクインさまを見習って笑顔で感じよく挨拶しましょうか。挨拶されたら挨拶をする。基本中の基本です」


 可哀想なものを見る目をエミリーに向けた後、ジェシカは無理矢理作ったと一目でわかる笑顔を浮かべた。

 侍女からの助言を受けてエミリーは意を決したように大きく息を吸って……


「お、おおおおおおおはぁよぉうございますぅ!」


 緊張のせいなのか、力が入りすぎたのか、声が上ずって音程の外れた歌のような大声の挨拶が室内に響き渡る。エミリーはばっと口を両手で塞ぐと、涙目になって後退り、そのまま走って逃げて行ってしまった。


「ごめんなさいぃぃぃぃっ」という声がどんどん遠ざかっていく。


 ジェシカがエミリーが走り去った方向をぼんやり見つめながら「何でこうなるの……」と抑揚のない声でぽつりと呟いた。クインはもうどうすることもできずに、茫然と立ち尽くしていることしかできない。


 我に返ってまず思ったのは、エミリーが部屋に鍵をかけて閉じこもってしまったらどうしよう。ということだった。


「クインさま、うちのお嬢さまが申し訳ございません……」


 視線をクインに戻してジェシカは真摯に謝罪する。クインは慌てて首を振った。胸に手を当てて少し俯いて、自分の気持ちを確かめながら言葉を探す。


「あの……あの、ボクは、大丈夫です。え……と。えっと、挨拶を返していただけて、嬉しかった、です」


 伝えるべきことを言葉にできたという安堵感で、自然と口元に笑みが浮かぶ。おずおずと目を上げると、ジェシカは赤く染まった頬に両手を当てて食い入るようにクインを見つめていた。


「大変かわいいです。ありがとうございます。そうですね、大丈夫じゃないのはエミリーさまの方ですね。思い出す度に恥ずかしくていたたまれなくて叫びたくなるような記憶がまたひとつ増えた感じですよね。……では、ちょっと様子を見に行ってきます」


 丁寧に一礼した後、「あ、エミリーさま、立ち直りは早い方なのでお気になさらず。どなたかのように、鍵かけて閉じ籠ったりはなさりませんので」と、いたずらっぽい顔で一言い置いてからジェシカは立ち去って行った。


 鍵をかけて閉じ籠る人のことを思い出した途端に、クインの頬がぼっと赤く染まり、心臓がどきどきしはじめてしまう。悲しいという感情より先に、今日は会ってもらえるだろうかと、そんな風に考えてしまう自分は一体どうしてしまったんだろう。

 ちょっと苦しいような胸を押さえて困惑しながら後ろを振り返ると、イザベラがにこにこしながらクインを見つめていた。優しく見守ってもらえていることが嬉しくて……でも、今はなんだかとても恥ずかしい。どんどん顔に熱が集まってしまう。

 

 先程のジェシカと同じように、クインは両手を頬に当てて俯いた。





 イザベラと手を繋いで、ゆっくりと階段をおりて使用人ホールへと向かう。掃除中のおばあちゃんたちが手を止めてにこやかに挨拶をしてくれるので、クインも一生懸命挨拶を返す。昨日笑顔の練習をしておいて本当によかったと心から思う。

 一階の廊下では、箒を持ったマーゴにも会うことができた。


「大変よくお似合いです! まるでクインさまのためにあつらえたかのようですねぇ」


「そうなの、ぴったりだったのよ。本当に可愛いわよね」


 イザベラと笑顔で言葉を交わしているマーゴは、もう何年も前からここにいるかのように馴染んでいる。


「フィンには庭の手入れをしてもらっているのよ。うちの園丁は裏の畑で野菜を作る方が楽しいみたいなのよね。だから、お庭のことはフィンにお任せしたの。クインのために沢山お花を植えるって言っていたわ。楽しみね」


 イザベラの言葉にクインは大きく頷いた。フィンは子爵家の家令だったのだが、花を育てるのが好きで、病床の母のために庭に沢山の花を植えて自ら世話をしていたのだ。そこは幼い『グレイス』の一番の遊び場だった。

 大きな庭を自由にしていいと言われたフィンはきっと、季節の花をいつどこに植えようか、大いに頭を悩ませている事だろう。早く元気になって昔のようにお手伝いをしたい。

 そんな事を考えてにこにこ笑っているクインを見て、マーゴが突然エプロンを持ち上げて顔を隠してしまう。


「これはうれし涙ですよお嬢さま。年を取ると涙もろくなってしまって……お恥ずかしい」


 目と鼻を真っ赤にしてそう言うと、マーゴは一礼して掃除に戻っていった。


「大丈夫、マーゴにもフィンにも会いたい時にいつでも会えるわ」


 ウォルターの言った通り、クインの笑顔は誰かを幸せにすることがちゃんとできたのだ。もらい泣きしそうになっていたクインはぐっと涙を堪える。マーゴが元気で笑っていてくれることがとても嬉しくて泣きたくなる。


 ――だから、マーゴはああ言っていたけれど、きっと年は関係ないのだ。





 使用人ホールに辿り着くと、トマスとキースが待っていた。クインが室内に足を踏み入れるとすぐにキースが椅子を引いてクインに座るように促す。


「お疲れ様。がんばってここまで歩いたので、まずはちょっと休憩。はい、これ、うちの優秀な執事さんから」


 トマスはいつも通りのどこかのんびりした声でそう言いながら、クインの目の前に一枚の紙を置いた。そこにはクインができそうな仕事と、どこに何があって、何をすればいいのか、わからない時には誰に聞けばよいのかということがわかりやすくまとめてあった。ぱあっとクインの顔が輝くのをみて、イザベラが「よかったわね」と微笑む。


 そういえば、クインはその『優秀な執事さん』に会った事がない。紙を手に持って思わずきょろきょろと周囲を見回したクインを見て、トマスとキースはちょっと困ったような顔になった。


「うちの執事さん、本職別にある人だから、あんまりここにいないんだよね……」


「ものすごく忙しい人なんですよ。クインさまが起きる前に出掛けて、寝た後に帰ってくるので……」


 そんなに忙しい人なのに、クインのためにこの紙をわざわざ用意してくれたようだ。読みやすいように丁寧に揃えて書かれた文字を見て、少し申し訳ないような気持になる。いつか会えたらまず最初にお礼を言わなければと心に決めた。


「では後は任せたわよ、トマス」


 イザベラはクインの頭をそっと撫ぜると「無理はしないようにね」と言って部屋を出て行った。

 本当はイザベラもトマスもキースも今夜の舞踏会の準備で忙しいはずなのだ。それでもクインが不自由なく過ごせるように心を砕いてくれる。

 リリアは徹夜でドレスを縫っていたため、今は部屋で休んでいる。まだ細かい部分が残っているが、何とか夕方には間に合いそうだという話だった。


「では、クイン、休憩が終わったら最初のお仕事です。ヒューゴのお部屋に朝食を運んで。そこで一緒に朝ご飯を食べましょう!」


 え? とクインは驚いて思わず持っていた紙を落としてしまう。


「昨日も言ったけどね、今夜はお城の舞踏会なの。だからクインはヒューゴとお留守番をしてもらわなければなりません。なので、クインの今日のお仕事は、どさくさに紛れてリリアがヒューゴを蹴り飛ばさないか見張ることです」


 トマスはいたって真面目な顔をしていた。

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