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82 約束された幸せ その1(*)

(*)怪談っぽいものになっております。苦手な方はご注意ください。



 視界の端に現れた白い幽霊が、ふと気付けば目の前にいる。本来なら顔のある場所には何もない。でも声が聞こえる。


『優しい子に育ってねって言ったのに、どうしておまえは従わなかったの?』


 うるさい。そう叫びたくても、見えない糸で縛り付けられているかのように体が全く動かない。恐怖と怒りで頭の中がぐちゃぐちゃになっている。


『そうしたらおまえは幸せになれたはずなのに。おまえが不幸なのは、言いつけを守らなかったせい』


 ボロボロのドレスを着た顔のない彼女が肩を揺らして嘲り笑う。


『諦めなさい。弁えて多くを望まず、旦那様に感謝をしてひっそりと生きていきなさい。それが私とあなたが幸せになる唯一の方法なのよ?』


 そこではっと目が覚めた。がばりと体を起こして周囲を大きく見渡す。自室のベッドの中だ。閉め切られたカーテンの隙間から明るい光が差し込んできている。フェリシティは荒い呼吸を繰り返す。全力で走った後のように心臓が早鐘を打っている。控えめなノックの音がする。それにすらビクッと体を震わせてしまう。


「……起きているわ」


 声はみっともなく震えていた。悪夢の残滓が頭にこびりついて離れない。

 気を失っている間に夜が明けて、舞踏会は終わってしまったようだ。何がどうなったのかは全くわからない。


 ――今は何も思い出したくない。何もかもがあの悪夢に繋がってしまう気がするから。


「おはようございます。お嬢さま」 


 専属のメイドが水差しを持って入室してくる。その姿を見てフェリシティは引きつった悲鳴をあげた。メイドの背後にぴったりとついて来るように室内に入って来たそれは――


「おいっ、何やってんだよ」


 メイドの悲鳴を聞きつけてノーヴェが駆け込んでくると、飾り戸棚の前に立ち、メイドに向かって手当たり次第に物を投げつけているフェリシティの腕を掴んで拘束した。


「また薬に手を出したのかよ」


「あのメイドの後ろに、白いボロボロのドレスを着た顔のない女がいるのよ。あのメイドが連れて来たのよっ」


 体を捩って拘束から抜け出そうと暴れながら、フェリシティは声の限りに叫ぶ。メイドが一瞬にして顔色を失い手から水差しを落とした。床に零れた水が絨毯に大きな染みを作る。


「そんなものどこにもいない。幻覚だ。薬の副作用だ。今それを蒸し返すな。やっと皆落ち着いたんだ」


 ノーヴェの言葉にフェリシティは激しく首を横に振る。


「いるのよ。あのメイドの背後にいるのっ」


 悲鳴をあげてメイドが走り去ってゆくのを、舌打ちしながら忌々しそうな顔でノーヴェは見送る。


「薬なんて飲んでない。いるのよ。まだそこの壁際に!」


 ノーヴェの手を振り払い、フェリシティは壁の一角を指差す。


「だからそれは単なる幻覚だ!」


「じゃあ消して! 今すぐ消しなさい!」


「落ち着け。だから幻覚なんだよ。幻はあんたに危害を加えたりしないっ」


 白いドレスの女が宙を滑るように近寄ってくる。『優しい子に育ってねって言ったのに』そんな声が頭の中に声が響き、全身から血の気が引く。


「今すぐ消してっ! 消しなさい! 消えろっ!!」


 両手で目を覆って叫んだ途端に、ノーヴェの手によって口の中に甘くて苦い砂糖菓子が捻じ込まれる。


『こうなったのは全部おまえのせい。おまえが言いつけを守らなかったせい。ちゃんと守っていたならば、おまえは幸せになれたのに』


 ガリガリと砂糖菓子をかみ砕いている間も頭の中に直接声が聞こえてくる。まるで大勢の人間の取り囲まれているかのように、幾重にも声は重なったりずれたりして、奇抜な音楽のように繰り返される。馬車酔いした時のように気分が悪い。ぐるぐると世界が回り始める。


「……お願い、消して」


 力なく呟いて、崩れ落ちるように床にしゃがみ込む。固く目を閉じて今度は両手で耳を塞ぐ。


『どうしてやさしいこにそだってくれなかったのどうしてやさしいこにそだってくれなかったのどうしてやさしいこにそだってくれなかったのどうして……』


 目を閉じた闇の中で、白いドレスのほつれた裾がぼうっと光っている。しばらく耳を塞いでいると、耳鳴りのように頭の中で渦を巻いていた言葉が遠ざかって行った。

 フェリシティは目を開けて、恐る恐る周囲を見回す。もう白いドレスの女はどこにもいない。物が散乱する荒れた部屋にはノーヴェが厳しい表情で立っているだけだ。

 ゆっくりと瞬きをするフェリシティを見て、彼は確認するように尋ねた。


「目ぇ覚めたか?」


「……ええ。今は、朝?」


「もう昼近い。舞踏会はお嬢さまが寝てる間に終わった。今日はケニーの所に結婚許可書を受け取りに行くんだろう? 約束の日は今日だったよな。そろそろ準備しねぇと……おい、聞いているのか?」


「ええ……ええ、そうね」


「……おい、食事は?」


「ええ、そうね、行かないと」


 要領を得ない返事を繰り返すフェリシティは、焦点の合わない目で何もない中空をぼーっと見つめている……






「ケニーなんて、そのような名前の若い職人は、うちにはおりませんよ。どこか他とお間違えではありませんかね。忙しいので失礼いたしますよ」


 そっけなくそれだけ告げると、年嵩の男はいかにも煩わしそうな顔をして工房のドアを閉めた。鼻がと目の奥が痛くなるような薬品の匂いが充満している。やもやとした虹色の油膜が表面を覆っている水たまりを避けながら、ノーヴェが馬車に戻ってきた。


「……だとさ、怪我が原因で辞めさせられたかもなぁ」


 木版画職人のケニーは猫背で細身の吹けば飛ぶような青年だ。相手の顔を見ることができず、俯いたまま小声で話すような気弱な性格をしている。そのせいか、眼鏡をかけているということは覚えているが、今はっきりとここで彼の顔を思い出すことができない。

 彼は『グレイス』のためなら、給料のすべてを躊躇いなく差し出し、どんな要求もすべて聞いてくれる大変便利な存在だった。

 キリアルト家のサインを偽装し、ガルトダット家の長女の乗る馬車を乗っ取ったのは彼だ。馬車に傷をつけられたと何癖をつけてきた男たちに袋叩きにされて大怪我を負ったのだが、そんな目にあっても、彼は『グレイス』に無償の愛を捧げ続けていた。


 数日前に、『頼まれていたものが完成した』との手紙がフェリシティの元に届いた。

 そこに指定されていた日時に職場を訪ねたのに、親方らしき男性は、ケニーなどという名前の職人はここには存在しないと言う。


「ならば、ここにいても仕方がないわね。戻りましょう」


 どこかまだぼんやりとした声で、レースで顔を隠したフェリシティがそう返した時だ。工房のドアが僅かに開いて、左右をきょろきょろ伺いながらインクで汚れた服を着た少年が外に出てきた。彼は用心深く周囲を気にしながら馬車に駆け寄ると、抱え持っていた大きな封筒をノーヴェに押し付けた。


「渡すように頼まれてた。それだけ」


 少年はこれ以上関わりを持ちたくないとでもいうように、大急ぎで工房に駆け戻って行った。中身を確認することもなくノーヴェは馬車の中にいるフェリシティに手渡す。

 封筒の中にはすべてのサインが見事に偽造された結婚許可書が入っていた。フェリシティはうっとりと微笑むと、封筒ごと抱きしめるように胸に当てる。


「これであのひとはわたくしのもの。早く結婚式を挙げて、立会人のサインをもらわなければ」


 ふふっと幸せそうに頬を染めるフェリシティを、皮肉気な笑みを浮かべてノーヴェが見つめていた。


「……そんなもの、もう何の意味もないだろうに」


 嘲るように呟き、彼は御者台に向かって歩き出す。






 寝苦しさに目を開ける。体に重いものが圧し掛かっていて身動きが取れない。指一本動かせない。

 白いドレスの幽霊がフェリシティの顔を覗き込みながら笑っている。顔がないのに笑っているとわかる。


『ねぇ、優しい子に育ってねって言ったのに、どうしておまえは私の言いつけを守らなかったの?』


 悲鳴をあげようにも喉が締め付けられたようになっていて声が出ない。先のない腕が伸ばされて、見えない手のひらが優しくフェリシティの頬をさする。肌がピリピリと微かに痛む。


『弁えなさい。諦めなさいと言ったのに、どうしておまえはその言葉を守らないの?』


 恐怖で上手く息が吸えない。それなのに頭は妙に冴えているのだ。


『ねぇ、おまえはどうしてお母さまの言うことがきけないの?』


 幽霊が身を屈める。破れたドレスの胸元が鼻先に触れる。腐った果物のような匂いがした途端、額に生暖かい感触が触れた。喉の奥から空気のかたまりが押し出される。


 か細い自分の悲鳴でではっと目が覚める。傍らのテーブルの上で、短くなった蝋燭が燃え続けている。恐る恐る室内を見回すと、視界の端をぼうっと光る白い光が掠めた。「ひっ」と息を飲んで慌てて顔をそらし、枕元に散らばる砂糖菓子を掴んで口に入れる。何も考えない。考えたら恐怖に捕らわれてしまう。あれは幻覚だ。鎮静剤の副作用にすぎない。幻は何もできない。……そんなことはわかっている!


 それでも恐ろしいのだ。怖くて仕方がない。ガタガタと震える体を自分できつくきつく抱きしめる。


「消えろ、消えろ。お願い消えて!」


 口の中で呪文のように繰り返している内に猛烈な眠気に襲われて、気を失うようにベッドに倒れ込む……そして、また悪夢にうなされて目覚める。


 悪夢は現実を浸食してゆく。ふと気付くと、食事を運んできたメイドの背後に、顔を洗って目を上げた鏡の中に、白い女の幽霊が立っている。その肩はいつも愉快そうに揺れている。


『弁えなさい』


 女がフェリシティに命令する。


『お母さまの言いつけを守らない娘は幸せになれないのよ?』


 砂糖菓子を口の中に放り込んで耳を塞ぎ固く目を閉じる。鎮静剤が効いている間だけは、恐ろしい幻覚から解放される。

 ノーヴェは何も言わずに、砂糖菓子の箱をただ黙って枕元に置いてゆく。処刑台に向かう憐れな女を見つめる目をして。


 次々と使用人が辞めていっているようだ。掃除の行き届かない屋敷の中はがらんとして静まり返っている。


「まだ負けた訳じゃない」


 震える声で自らに言い聞かせる。そうしないと恐怖に負けて自分の足で立つこともできなくなってしまう。

 時間の感覚はとっくに失われた、今がいつの続きかわからない。空っぽの屋敷の中で、フェリシティは水色をドレスを身に纏い、水色の光沢のある布で顔を半分隠して、銀色の髪の王子様を待ち続けている。

 結婚許可書はちゃんと用意できた。後は結婚式を挙げるだけだ。


「もうダメね、この人」


 知らない声がそう告げる。のろのろと目を開けると、大して美しくもない少女が、豪華な椅子にだらしなく座ったフェリシティを見下ろしている。茶色の髪と瞳をしたどこにでもいるような風貌の、礼儀もなっていない粗野な子供だ。


「ぱっとしない田舎くさい顔。まさに野薔薇って感じ。どうしてジョエルさまが目をかけるのかわからない」


 少女が意地悪く目を細める。あからさまな侮蔑にかっとなったフェリシティが手を振り上げるがその手は誰かに払われる。


「今の所、彼女は君より余程役に立っているよ? 結構古いからね、実績というものがある。いろんな実験に便利に使えたし」


 途端に少女はむっと顔を顰め、嫉妬にぎらつく目でフェリシティを睨みつけた。

 少女の横に立って無表情にフェリシティを見下ろしているのは、金の髪に青い目をした異国人の男だ。フェリシティは転がり落ちるように椅子からおりて地面に膝をつき額を床に押し付けた。


「ジョエルさま、申し訳ございません。次は必ずお心にそうようにいたします。ですから、ですから、どうかお慈悲を! その聖なる瞳でわたくしたちをお導き下さい」 


 か細い声を必死に喉の奥から絞り出す。


「この通り、忠実で可愛らしいお気に入りの駒なんだよ」


 その言葉に安堵した次の瞬間、心臓がバクバクと音を立てはじめた。生ゴミのような匂いを微かに感じた。来る! フェリシティは体を固くして身構える。


『諦めなさい。弁えて多くを望まず、旦那様に感謝をしてひっそりと生きていきなさい。それが私とあなたが幸せになる唯一の方法なのよ?』


 頭の中で声が響く。フェリシティは怯え切った顔を上げ、体を大きく捻るようにして周囲を見渡す。白いボロボロのドレスを着た顔のない亡霊が前方の壁際に浮かんでいる。


『これは幸せになるために、偉大なるあの方が与えて下さった試練なの。この試練を乗り越えることができれば、私たちは選ばれた者としてあの方のおそばに迎え入れられるのよ。もうすぐ……もうすぐあの方が迎えに来て下さる。聖なる瞳で私たちを導いてくださるわ。私たち特別なのよ。いずれ幸せになることが約束されているの』


「嘘よ! だって全然幸せじゃないわっ。いつかっていつよ。今じゃなければ何の意味もないじゃない!」


 両手で耳を塞いで突然声の限り叫んだフェリシティに驚いて、少女が数歩後ろに下がる。


「何がいけなかったというの? どこで間違えたと言いたいの? 朝夕のお祈りをしなかったから? 神様に感謝が足りなかったから? でも、毎日お祈りを欠かさなかったお母さまは、いつまで待ってもいつまで経っても幸せになんてなれなかったわよね」


 錯乱して一人で叫び始めたフェリシティを見下ろし、ジョエルが不快そうに眉を顰めた。


「……なるほど、こういう状態か。きっかけを与えていないのに催眠状態に陥っている。何が原因だ? こんな副作用が出た例はないのに、どういうことだ?」


 気分が悪いなと呟いて、ジョエルは壁際に控えているノーヴェとウノを振り返った。


「舞踏会の後からずっとこんな感じです。日に日に酷くなっています」


「まるで何かに取り憑かれっ」


 そう言いかけたウノはノーヴェに脇腹を肘で突かれて呻き声を上げて座り込んだ。


「申し訳ございません」


 ノーヴェは跪いて額が床につきそうな程頭を下げる。


「幽霊など存在しない。単なる幻覚だ。呪いなどというものも、ただの思い込みに過ぎない」


 不快そうににジョエルはそう言い捨てる。そして実験動物を見るような眼差しをフェリシティに向けた。彼女は何もない壁を憎々し気に睨みつけている。


「どの成分が作用しているのかもう少し経過を観察したい。催眠暗示はかけ続けろ。与えた薬の量は必ず記録しておくように。……我々は一旦船に戻る。グレイスとエラは暗示の効果切れる前に必ず取り戻せ」


 冷たい声でそう命じると、ジョエルはさっさとドアに向かって歩き出す。傍らの少女は気味が悪いが興味を惹かれると言った様子で、何度もフェリシティを振り返りつつ、その後を追いかけて行った。


「……お嬢さま、俺たちも船に行くぞ」


 ゆっくりと歩いてきたノーヴェが、フェリシティの腕を掴んで無理矢理立ち上がらせる。


「まだ負けた訳じゃない」


「ああそうだ。まだ負けた訳じゃない」


 背後に回って彼女の目を両手で塞いでから、ズボンのポケットにから小さな香水瓶を取り出して蓋を開ける。甘ったるい花の匂いが室内に広がる。強張っていたフェリシティの全身から力が抜ける。彼女が浅い眠りに落ちたのを確認してノーヴェはウノを振り返った。


「おまえもさっさと立てよ」


「ジョエルさまは、ああ言ったが、俺にも時々見えるんだよ。白いボロボロの服を着た顔のない幽霊」


 床に座り込んだままのウノが、力なく笑う。


「今まで売り払ってきた失敗作の娘たちの顔がどんどん入れ替わって、俺に恨み言をぶつけてくるんだよ。眠れないんだっ」


「おまえまで何言ってんだよ」


 ウノは髪を搔きむしった手で、疲れ果てた顔を両手で覆い天を仰ぐ。その姿を見てノーヴェは深いため息をついた。


「おかあさま?」


 フェリシティがふと何かに呼ばれたように顔を上げる。そのままよろりと立ち上がってふらふらと歩き出した。ノーヴェとウノは顔を見合わせてから、踊るような足取りで進むフェリシティを追いかける。

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