番外編 結婚の話
こうなったそもそもの原因は、ひょっとして昼間のあれだろうか。
「ルーク、殿下来てるぞ」
法務部から書記室に戻ると、若干青ざめているようにも見えるマックスが、重苦しい声でルークにそう告げた。
「……何番目ですか?」
第二王子は今会議中のはずだ。予想が外れることを心の中で祈りながら、一応尋ねる。
「残念ながら一番上。……待て、逃げないでくれ。頼むから帰ってもらってくれ。怖がってこの階誰も寄り付かないんだっ」
廊下で誰ともすれ違わなかったのはそのせいか。やけに静かだなとは思ったのだ。くるりと踵を返して部屋から出て行こうとしたら、椅子を倒して立ち上がり駆け寄ってきたマックスに腕を掴まれ、その勢いのまま肘関節を極められた。
「痛いんですけど……」
「ああ悪い、つい、いつもの癖で……」
無抵抗の人間を凶悪犯扱いしたくせに悪びれる様子もない。袖の皺を撫ぜるようにして伸ばしながらルークは上体を起こし、ずれてしまった眼鏡をかけ直す。
「祓魔師呼んで祓ってもらいましょう」
「生きてる。亡霊じゃない。しかもその祓魔師は殿下の御友人だ」
真顔で提案してみたら、真剣な顔でそう返された。
「日に当てれば灰に……」
「ならない。夜になると美女の生き血を求めて彷徨い歩くとかもない。とにかく何とかしてくれ。そこの本棚にあった本適当に渡しておいたから」
マックスはそう言いながら、ルークの背中に回りぐいぐいと両手で肩を押し始める。力では到底敵わないので無駄な抵抗をするつもりもないが、率先して行きたくもない。
「読書の邪魔すると怒るんですよ……」
ずるずると前に押し出されながら顔だけ振り返ると、マックスは申し訳なさそうな顔をしつつも、首を横に振った。
「待たせても怒る」
マックスは隊長室に隣接する休憩室のドアをノックする。中からの返事も待たずにドアを開け、人ひとりがようやく通れるような隙間にルークを押し込んだ。
カーテンが閉め切られた室内で、布の隙間から漏れる僅かな光を活字に当てるようにして、亡霊が床に座り込んで本を読んでいる。相変わらず護衛も連れていない。また痩せたなとルークはため息をついた。口煩いヒューゴがいないのをいい事に、とうとう地下書庫に寝具を持ち込んでそこで寝泊まりし始めたとクリストファーが嘆いていた。
「うちの侍従は?」
目も上げずに尋ねられたので、「まだ引きこもっていますね」と答える。頁をめくる音がやけに耳につく。何となく不穏な空気を感じる。目の下の隈が酷い。一体いつから寝ていないのか。これは無理矢理でもヒューゴを復帰させた方がいいかもしれない。このまま不摂生を許せば舞踏会までもたない。
「そこの書類、急ぎだ。カーテンは開けるなよ」
長い前髪の隙間から覗くエメラルドグリーンの瞳が、ちらりとルークを一瞥した。
目の周りが落ち窪み、頬もこけて老人のようになってしまっている……骨と皮だけのまさに亡霊だ。
「その姿で舞踏会参加されるおつもりですか?」
テーブル上に用意された書類を手に取って目を通す。三か国語に翻訳しろということのようだ。どう考えてもこれはヒューゴに回されるような仕事ではない気がする。彼は大陸共通語は普通に話せるが、外国語が得意という訳ではないのだ。だからと言って、王子様が直々に持ってきた仕事に文句をつける訳にもいかない。
「舞踏会の時は服に綿をつめて、口の中にも布を入れて膨らませるから問題はない。今にも死にそうな不健康な顔色の方がハロルドは安心する」
「暑いですよ?」
この痩せ衰えた体を隠すためには相当量の綿を服に詰め込む必要がある。春先まではそれで何とかなったろうが、今は夏だ。綿入りの服を着て平然としてられるような気温ではないと思うのだが……
「体調不良を理由にすぐに引っ込む。アーサーも喪中だしな」
また頁をめくる音。「これの続きは?」と問われて、記憶を探る。
「伯爵家の方ですね。明日持って来ますよ。少し休まれたらいかがです? 早死にしますよ?」
「全員そう簡単には死なないさ。おまえが邪魔をするからいつも暗殺に失敗する」
「お給料出なくなると生活に困るんですよ。最近大人しいですね」
ははっという、乾いた笑い声が室内に響いた。
「刺客を差し向けろと命令されることも減った。もうアレンやアーサーに構っている余裕がないんだ。歴史ある大貴族だというだけで大金が集まって来る時代は終わった。オーガスタに銀行を潰されたのが一番の痛手だろうが、結局は王都とキリアを結ぶ鉄道がすべての流れを変えたな。見事なものだ」
大変気分が良さそうな声だ。そして、また頁をめくる乾いた音。
「その本、あと数冊続きがありますからね。読み終わった都度お渡ししますよ」
第一王子は顔を上げると、ルークの言葉の真意を探るように目を眇めた。
宝石のように美しい瞳をまっすぐに見据える。頁をめくる間隔がどんどん短くなっていっていた。……それはあまりに不自然だ。
「……もう、ほとんど見えていないですよね? それは本当に不摂生によるものですか?」
誤魔化しは許さないと視線を強めると、第一王子は諦めたように笑った。
「日によるな。今日は調子が悪い。……どうせ生まれた時から白黒の世界で生きている。世界に色がなくとも、本を読む分には全く支障はなかった」
パタンと本を閉じる音。目を閉じて壁に凭れた第一王子は、口元に静謐な笑みを浮かべていた。過去形で語られた言葉に苛立つ。
「今ヒューゴさまに無職になられると本当に困るんです。結婚するかもしれないんですから」
思いがけず強い口調になる。すると、第一王子はぽかんとした顔になった。おや? とルークは手を止める。
「……結婚、するのか? というか、できるのか?」
非常に衝撃を受けた様子の第一王子を、ルークもぼんやりと見返す。
「職を失ったら家族を養えません。だからさっさとウォルターに診てもらってください」
「……本当に結婚するのか?」
疑わし気な声で再度確認するように尋ねられたので、ルークは正直に答えた。
「結婚するかもしれません」
正確には『結婚させられる』になるのかもしれないが。
「……無理があるだろう? 相手は? 金の髪に青い瞳の貴族の娘が見つかったのか? まさか犯罪に手を染めたりはしていないだろうな?」
矢継ぎ早に質問してくる様子からしても、ヒューゴが結婚するかもしれないという話にかなり驚いている様子だ。……本ばかり読んでいて、現実世界を疎かにしているからこうなる。
「自分の侍従を何だと思ってるんですか。ああでも、攫ってきたと言えばそうなるのか……」
「本当に攫ってきたのか? まさか、ユラルバルトの舞踏会でヒューゴが既婚女性を無理矢理連れ回していたという噂は本当なのか?」
がばっと第一王子が立ち上がった。顔が完全に強張っている。動揺のあまり体が震えているが大丈夫だろうか。このまま頭に血が上ってここでが倒れられるのは困る。暗殺を疑われて拘禁されるので、倒れるならどこか他所で倒れてほしい。
「既婚者ではないので安心して下さい。でも、近々花嫁になる予定だった女性を……誘拐したとも言えなくはない……」
「それは完全に犯罪だろうっ! 相手はちゃんと同意しているのかっ?」
激高して叫んだ第一王子をぼんやりと見つめる。本当に何も知らされていなかったようだ。普段あまり感情の起伏を表に出さない人であるため、こういう姿は大変珍しい。
……侍従が犯罪行為に手を染めたという話を聞かされているのだから、当然の反応と言えばそうなのかもしれない。
どうやら宰相は、第一王子に知られないように事を進めたようだ。絶対に邪魔してくるとでも思ったのだろう。
「誘拐させたのはアーサー殿下なので、文句はあちらにどうぞ。でも、今は連隊長室で会議……」
言葉の途中で、第一王子は部屋を飛び出してゆく。ルークは再び書類に視線を戻した。走れるのだから、見た目よりは元気なのだ。まだしばらく倒れそうもない。
……なら問題ない。
開け放たれたドアから目を離してルークは翻訳作業に戻った。
――そこまで思い返して、ようやく合点がいった。
つまり、第一王子が会議に乱入した結果が……深夜の訪問なのだ。
ヒューゴは他人の花嫁を略奪したことになっているし、『略奪された花嫁』であるグレイスの名前は、本人の知らない所で悪質な結婚詐欺に使われている。二つの話はまだ結び付けられていないが、放置すればいずれ、『第一王子の侍従が他人の花嫁を略奪して結婚。しかもその花嫁は実は詐欺師だった!』などという見出しの記事が、新聞に掲載されることになりかねない。
詐欺の手口は、グレイスの父親の描いた絵を、隣国の有名画家の作品だと偽り、結婚をちらつかせて絵を買い取らせるというものだった。勿論その隣国の有名画家は架空の存在だ。
ユラルバルト家のダンスホールに飾られていた絵も、すべてその有名画家の作品だということになっていた。そうやって、伯爵家が蒐集する程価値のあるものだと被害者たちに思い込ませていたのだ。
絵を買い取ると、お礼だと言って美しい箱入りの『砂糖菓子』が貰えたのだという。大して美味しくもないのに後を引く奇妙なお菓子。その味が忘れられなくて、被害者たちは何枚も絵を買い取ることになる……
ユラルバルト伯爵家の権威は急速に失われつつある。あの家で行われていた様々な悪事がこれからどんどん明るみに出て来るだろう。早急に手を打つ必要があると第一王子は判断し……アーサーにいいように利用されている。
現実から目を逸らして読書に没頭するからこういうことになるのだ。
「キース、迎えにきたよー。僕の部屋でカードでもやろうねー、何賭けようかー。ちょっと前にもこんなことあったねー」
「リリア、一緒にクインのお部屋に戻りましょうね。前にもあったわねこんなこと」
燭台を手に持ったトマスとイザベラが、社交用の笑顔を貼りつかせたまま厨房に入ってくる。
トマスは作業台の上に燭台を置くと、キースをルークから引っぺがし、片手を肩に回してずるずると引きずって歩き出した。
「大丈夫大丈夫―、僕だってリリィだってリリアだって呪われてるから。でも特に体に不調は感じてないし大きな病気もしてないしー? 呪いのひとつやふたつそんな怖くないってー。殿下、御前失礼しまーす」
深夜とは思えない明るい声で一方的に喋っているトマスによって、キースは連れ去られた。拳は固く握られ前に突き出されたままだった。
「トマスさま、明かり、あかりないと怖いんですけどー」
「はいはい家政婦室でランプ借りるからねー。ついでにリリィ回収するからねー。また昔みたいにみんなで一緒に寝るー?」
「蹴り飛ばされるから絶対にいやだー」
間延びした語尾に被せるように喚いているキースの声がどんどん遠ざかる……
「リリアも行きましょうね」
イザベラに促されたリリアは涙に濡れた目で、ルークを見上げた。そして悲壮感溢れる顔でひとつ頷く。
「クインさまのお部屋に戻るのです。悪夢除けももらったし、お守りもあるから大丈夫なのです。もう怖くないのです」
自分自身に言い聞かせるようにそう言って、もう一度ぎゅっとルークの腕にしがみつく。
「アーサー殿下、ありがとうございました」
ルークの袖を握ったまま、アーサーに向かってお辞儀をしようとするから、ふらふらよろめく体を慌てて支える。「はい。よくできました」アーサーに褒められるとリリアはぎこちなく笑った。第一王子と違ってアーサーは二人に懐かれている。……というより餌付されている。
「深夜に申し訳なかったね」
イザベラは目を伏せて首を横に振った。そして丁寧に一礼する。
「先程お帰りになりました。……お体の調子が……とても心配です」
「ヒューゴが復帰すれば、ハーヴェイも今ほど好き勝手できなくなるはずだ。だから、すべては今眠っているお姫様次第ってことになるのかもしれないね。そのお姫様をウォルターがかっ攫っていったりしたら、ちょっと面白いなと……」
「そうしましょう!」
アーサーが言い終わる前に、リリアが弾むような声でそう言った。それは妙案だと言うように目をキラキラさせている。第一王子も祓魔師も呪いも何もかもが彼女の頭の中から吹っ飛んだようだった。
「ええそうね、そういうこともあるかもしれないわね。では、行きましょうね」
そんな可能性限りなくゼロに近いとわかっている筈だが、イザベラは幼い子供に向けるような笑顔で同意した。
「はい、おかあさま!」
満面の笑顔で頷き、ウキウキとした足取りで去ってゆくリリアを見送った後、ルークとダニエルはばっと同時にアーサーを振り返った。「なんてことを言ってくれたんだ!」と言いたげな二人から、第二王子はそっと目を逸らす。
「……うん、ウォルターだと年齢差が一緒くらいになるなとふと思っただけなんだよ……でも、これでリリアも気分良く眠れるんじゃないのかな?」
それはそうかもしれないが、リリアが暴走しないように、明日の朝きちんと言い聞かせておかねばならない。オーガスタと結託した、などという恐ろしい事態を招く危険がある。
「……外見上はそんなに差があるようには見えませんけどね。確かリル王女さまとライリーさまもそのくらいの年齢差でしたよね?」
何か考え込むような顔になったダニエルが「でもそうか、俺と妹より年齢差あるのかぁ」と口の中で呟いて微妙な顔になった。
「死別した祖父とは二十歳離れていた筈です。でも本当に年齢と身長と胸囲の話はしたくないんですよ。どこに鳩が潜んでいるのかわからないんで」
さっとダニエルの顔色が変わる。ルークはちいさくため息をついた。オーガスタが王都に来ているのなら、今は沢山の鳩があちこち飛び回っていることだろう。
「アレンとダージャ領に行った方が安全に暮らせると思うんだよ……」
アーサーはそう言って、挑むような目をしてまっすぐにルークを見た。
「ハーヴェイ殿下と一緒に王宮の書庫に引きこもらせておけば、何の危険もないと思いますけどね」
ルークはしれっと言い切った。従姉に逆らって、アレンと一緒に鮫の餌になるのも、無人島に放置されるのも嫌だ。この話には一切関わりたくない。
「レナードは一体どこで何をしているのだろう?」
「チェスで負けたならカードで取り返せばいいとでも考えているんじゃないですか? でも、あんな借金だらけの人間に娘を嫁がせようと考える親はいませんよ」
ため息と共にそう返す。ダニエルが大きく何度も頷いた。
「自分のいない所でこんなこと言われてるなんて知ったら、リリィお嬢さま、また泣きますよ?」
目を閉じて、瞼の裏の闇を見つめながら頭を壁に付けた。もう本当に疲れた。早く休みたい。
「…………でも、妹より年下かぁ」
ダニエルが再びぼそっと呟くのが聞こえてきた。彼の意識はそこから離れられなくなってしまっている。
だが、アーサーにとっては、恐らく単純に年齢差の話、という訳でもないのだろう。それこそ弟の婚約者を横から奪い取るという形になる訳だし。
「そういえば、私も主から婚約者を奪ったと言えなくもないんですよね……」
ふと思いついたままに口にして目を開けると、ダニエルが眉間に皺を寄せて非常に嫌そうな顔をしていた。
「リリアさまとアレンさまの組み合わせは、色合わせに大失敗した服装の人を見ているみたいでした。だからと言ってリリィさまと一緒にいる姿も何となくしっくりこないのは何でだろう」
「そこには、ダニエルの個人的な感情が大きく関わっているのだと思うよ?」
「……あ、そろそろアレンさまの面倒みるのも限界なんで、別のお世話係を探して下さい」
ダニエルが今度は直談判しはじめる。何故深夜の厨房で、御者を待たせてこんな話をしているのだろう……
「……もうやめましょう。さっさと王宮帰って寝て下さい」
全員疲れている。というより、だいぶ壊れている。
「十二歳のルーク少年は、五歳児をお嫁さんにしようと心に決めた訳ではないよね?」
だからどうして今そこに話を持っていこうとするのかがわからない。
「先程、ちいさな女の子は少し目を離した隙に大人になるとか何とか言ってましたよね? その通りですから、もう帰って下さい」
「うちの妹も、私がキリアに行っている三年の間にすっかり女の子らしくなりましたからね。本当にその通りだと思います。早く戻らないとアイザックさまが気を揉みますよ」
アイザックという名前を聞いた途端に、第二王子の眉間に深い皺が寄った。
「カラムとソフィーが、ずーっとにやにや、にやにやしてるんだよね……あれ見てるとイライラしてね……」
きっと彼らは、自分の主が十五歳年下の少女に振り回され続けているのが面白くて仕方がないのだ。
第二王子がなかなか帰ろうとしないのは、カラムとソフィーに対する嫌がらせだったのかとルークとダニエルは揃ってため息をついた。
ようやく自室に戻り、重たい体をソファに沈み込ませる。脇に置かれたままのブランケットを見て何とも言えないような気持ちになった。
ピンクのブランケットは二人が小さい頃から気に入って使っているものだ。
ソファーに並んで座って、仲良く絵本を読んでいるお揃いの服を着たふたりの女の子。
内緒話をするように耳打ちして、くすくす笑い合っていた姿を、今でもはっきりと思い出すことができる。
ふたりが外の世界へと出て行く前に、危険なものは出来る限り取り除いておくつもりだけれど、すべてという訳にはいかない。
……本当にレナードはどこで何をやっているのだろう。
ふとそんな事を考えたのは、きっと疲れているせい――