番外編 婚約者の話
廊下から室内の様子を窺っていた気配はいつの間にか消えていた。
アーサーは何の迷いもなく真っ暗な厨房を横切って勝手口を開ける。外に出る前に一度立ち止まってルークを振り返り、静かな声で告げた。
「たかが古い本を数冊ダメにしただけのことで、とアリスは言ったんだ。それで、虫も殺せないハーヴェイが、怒りに我に忘れて反射的にナイフ突き出してしまった」
疲れたように彼は笑う。その話を最初に聞いた時、ルークも一気に血の気が引いた。
アリスを傷付けたナイフは、アレンが虫干しされていた古い書物をバラバラにするのに使ったものだった。価値のわからない子供からすれば、かろうじて形を保っているボロボロの紙の束という認識だったのだろう。
「さっきもそんな事を言ったような気がするけれど、何とかして時間巻き戻せないだろうかと今でも思うんだよ。図書室の扉の前を通ると、胸をかきむしりたくなるというのか、足元の地面が消え失せて真っ逆さまに闇の中に落ちて行くような気持ちになる。喪失感と罪悪感と嫌悪感が混ざり合って何かよくわからないものになっているんだよね。……そんなものを抱え続けることに最近疲れてきた」
そこで一旦言葉を切って、天を仰ぐ。
「気持ちが荒んでいた。物に当たりたかった。ハーヴェイが大切にしているものを壊すことで仕返しをしようとした。その気持ちも理解できる。でもね、いつまで経っても自分のやった事の意味を理解しようともしないアレンを見ると、衝動的に殴り飛ばしたくなるんだよ。僕が怒っているのはそっちじゃないって」
冗談めかした声と、無理矢理の笑顔。
……あの時自分が目を離さなければこんなことにはならなかったと、アーサーはずっと悔やみ続けている。
「……どうして今だったんですか」
ルークはため息とともに壁に凭れた。ゆっくりと夜空から視線を下ろしたアーサーは、今度は裏の畑を眺めている。
「嫌がらせ。リリィはアリスのように『たかが古い本を』とは思わないだろうからね。……大人げないとカラムは笑うだろうな」
アーサーは目を細めて微笑む。その横顔をルークはぼんやり見ていた。
リリィもきっと、一瞬言葉を失う。そしてその事実はきっと、ちいさくて鋭い棘のように彼女の心の中に残るのだろう。
……知られてしまったら、確実に何かが変わってしまう。
もしかしたら、アレンは心のどこかで、リリィに軽蔑されることを恐れているのかもしれない。だから読書の邪魔をし続けている……
「さんざん不誠実なことやらかしたんだから、誠意を持って対応しましょうって話。ま、僕も君も今まで色々後ろ暗い事をやってきたから、どうこう言える立場じゃない。……果たして、第一王子の御友人だったあの少年たちは、全員一体どこに行ってしまったのだろうね?」
「全員息はしてますよ。……また古い話を」
第一王子の取り巻きたちは、数年後に士官学校の先輩として再びアレンの前に現れた。
向こうが一方的に突っかかって来るから仕方なく相手をしたまでのことだ。
面倒くさそうな顔になったルークを見て、第二王子は非常に満足そうだ。一体何がしたいんだろうこの人はと思う。
「多分感覚としてはアレンの方が正常なんだろうなぁ。……ああ、これは嫌味ね。丁度いい機会だから、ここまで話が拗れた原因を作った君とレナードとロバートにも、これから報復しようと思っている」
その拗れた話というのは、ガルトダット家の娘ふたりの婚約者の話だろうか。ならばどうしてここで既婚者のロバートの名前が出て来るのかわからない。
「何故ロバートまで……」
「ソフィーが言うにはね、陛下が時々思い出しては深く落ち込んで頭を抱えているらしくて」
目を閉じて頭の中で三回ほどその言葉を繰り返す。ようやく意味がわかったルークは、うんざりした顔になった。
……あれか。あれを今ここで蒸し返すのか!
「それも何故今……」
呻くように床に向かって呟く。……あたまがいたい。
「だから嫌がらせだって。裏の畑を見たら思い出した。……結局、陛下の頭の中に例の言葉がこびりついて離れなくなっているみたいなんだ。ああいう物言いをする人間、王宮にはいないからね。鮮烈に印象に残ってしまったのだと、それはもう必死に言い訳を……」
「キリアルト家では年齢と身長と胸囲について触れることは固く禁じられていますロバートは『じゃあ他にどう言えばいいんだよ!』とか開き直って船首像にされました以上」
その話はしたくない。一息でそう言い切ると、断固たる思いを込めてルークはアーサーをまっすぐに見据えた。
「体重はいいんだね」
「ある程度自分で管理できるからという理由だそうです」
「王宮では、身長と体型と目の色の話題は禁じられているねぇ」
「それと同じようなものですよ。だからこの話はこれで終わりにして下さい」
「じゃあさ、レナードの自分探しの旅とやらはいつ終わるのだろうか」
しれっとアーサーはそう言った。
「その名前も今聞きたくない」
本格的に頭痛がしてきた。嫌がらせとやらはまだ続くらしい。部屋に戻って寝ていいだろうか。
「あいつは借金から逃げるために、適当な理由をつけているだけです」
「もし人生がジョエルの言うように盤上の遊戯であるならば、あの日、全員が女王の駒を奪われたということになる。……取り戻したルークはどうする? 勝負をおりるのかな」
だからそっちの名前も聞きたくないし、顔も思い出したくない!
向こうが勝手に始めた盤上の遊戯とやらに参加した覚えはないし、そもそも人生は遊戯ではないのだから、勝敗など決めようがない。それより何より、リリアをチェスの駒に例えられるのは、不愉快極まりない。だんだん気持ちが荒んでくる。
完全に目が据わったルークを見て、アーサーはとても楽しそうに笑っている。
「……冗談だよ。そういう反応を見たかっただけだ。……わかっているようで全くわかっていなかったレナードは、本当にどうしようもないな。時間は常に進み続ける。ちいさな女の子は、少し目を離した隙に大人になるのに」
いきなり話が予想もしていなかったところに飛んだ。強張った顔のままルークはぼんやりとアーサーを見つめた。しばらく沈黙が落ちる。
「…………は?」
ルークは驚愕に大きく目を見開いた。聞き間違いかと一瞬思ったくらい意外な言葉だった。
「…………何か、ありました?」
思わず真顔で尋ねる。
「陛下に、『自分は責任取れないから、代わりに結婚してくれ』と迫られた。結婚許可書持って来た大司教の前で嘘泣きするというね。孫と息子を結婚させるために手段を選ばなくなってきている二人を見ていると、背筋が寒くなってくる」
全く頭が働いていないので、またしても頭の中で数回同じ言葉を繰り返すことになった。
恐らく例の失言の責任を、ということだ。
それしては随分思わせぶりな言葉を選んでいる。ルイーザ妃の耳に届けば、間違いなく嫉妬心からリリィを排除しようと動き出すだろう。だから、責任取ってさっさと結婚しろと、そういう話に持っていきたい……?
……すでに脅迫だ。
グレイスの結婚許可書を取り戻すために、トマスかヒューゴと結婚させようなどと言い出した時にも思ったのだが、もう何でもいいからこの際まとめて全部片付けようとしているのが透けて見える。……結婚とは一体何だろう。
サインしたんですか? と聞いてやろうかと思ったが、やめた。
国王と宰相は、これで完全にアーサーの逃げ道を塞いだと満足しているはずだ。あとはリリィがどちらかの結婚許可書にサインして議会を通せば事実上婚姻成立。そこまでいってしまうと状況をひっくり返すのは不可能に等しい。何しろ議会と国王が承認しているのだから。
……しかし、そうなった場合、アレンをどうするつもりだろう。
アーサーの言うように、何だかうすら寒い。
こういう博打的な手段をあの二人が思い付くとはどうしても思えない。こういうやり方を好むのは……
「オーガスタですか」
ルークは深いため息をついた。
「大司教と一緒に突然現れて、『ちゃんと責任を取りましょうね』と笑顔で凄んでどこかに去って行った。……何の責任を取れと?」
どうやら、従姉は王宮に出没したらしい。すでにキリアを出ているという話は聞いていない。ウォルターは知っているのだろうか。
「運河流れる原因作った責任じゃないですか?」
「……そっち?」
胡乱気な視線を向けられて、思わず目を逸らす。どうしても年齢と身長と胸囲の話はしたくないのだ。アーサーはやれやれとばかりにため息をついた。
「どのみち潰すつもりではいるから別にいいんだけどね……」
「……それより、私は責任問題が解決した後のアレンさまの処遇がとても気になるんですけど」
「だから、アレンもリリィを傷付けた責任取れって話になるんじゃない?」
「もう終わりましたよね、あの話」
「君の中ではね。……でも、そう思っていない人間はいるみたいだ」
……やはり、アレンも二度と立ち上がれないくらいに徹底的に潰すつもりなのかもしれない。
ルークは深い深いため息をついた。もう勝手にやってくれと思う。ただし自分に関係のないところで。
「オーガスタに任せると鮫の餌にしそうだしさ。あと無人島に置き去りにすると……か……」
人の気配を感じて二人は口を噤む。どちらもロバートは生還できたが、アレンは無理だろうな、などとぼんやり考えていると、ランタンを持ったダニエルがリリアとキースを伴って厨房に入って来た。リリアはまだ目が潤んでいるし、キースの顔は強張っている。
「……馬車の準備ができました」
ダニエルも疲れが顔に出ていた。きっと、どこに行くにもぴったりと背後に二人がついてきて離れなかったのだ。
「フェリシティが呪われた原因ですが、どうやらあの時キースが『出てきてほしいけど、こっちくるな!』と強く強く心の中で念じていたせいらしいです。呪ったというよりは、押しやったという認識でいいようですよ。特に問題はないとのことですが、どうやらキースは幽霊に好かれ……」
「やーめーてー」
涙声で叫んだキースと一緒にリリアも駆け寄ってきて、またルークの左右の腕にしがみつく。ガタガタ震えている二人を交互に見てから、視線を天井に逃がした。絶対この二人は今夜眠れない。
「二人とも、ルークにくっついたままでいいから、手を出してごらん」
アーサーが先程までとは別人のような穏やかな声でそう言った。素直に二人が片手を伸ばすと、手のひらの上に、金のコインのようなものを一枚ずつ乗せる。
「オルガからもらったものだよ。正確には、ロバートが届けてくれたものなんだけどね。枕の下に入れて眠ると悪夢除けになる。これでもう怖くないから早くおやすみ? ダニエル、二人を部屋まで送ってあげてくれ」
第二王子はにっこりとても感じ良く笑う。大変嘘くさいような気もするが素直な二人は信じた。こっくりと同時に頷いてコインを握りしめた瞬間。パキンと何かが割れる音がした。
その場に沈黙が落ちた。キースとリリアが真っ青な顔で硬直している。二人とも怖くて手を開くことができない状態だ。
「た……多分、俺……の、です」
キースがガタガタ震えながら縋るような目でルークの顔を見上げた。
これは嫌がらせではなかった筈だ。何故ならアーサーも驚いた顔をしていたから。
……本当に、どうしてこうなるのだろう。