番外編 第二王子の話
ルークが第一王子とクリストファーを応接間に送り届けると、着替え終わったイザベラがすでに来客の相手をしていた。キースとリリアにはトマスを呼んでくるように頼み、アレンの様子を確認するため家政婦室へと戻る。
その途中、使用人階段の踊り場で、壁に凭れて立っている第二王子と遭遇した。
「……暇なんですか?」
さすがにもう嫌味しか出てこない。だんだん自分が壊れていっている自覚はある。
「部下をひとり貸し出したせいで忙しいな。だから、ユラルバルトの方まで手が回らない。そんな訳でハロルドには申し訳ないが野薔薇の姫君には逃げられた。次の『クラーラ』は舞踏会でお披露目されるらしい。先日ここを襲撃させたのは野薔薇の姫君ではなくそっち」
アーサーはふっと目を伏せて笑う。情報量が多すぎて、右耳から左耳にそのまま抜けてゆく。ただ『クラーラ』という名前だけが不協和音のように不穏な余韻を残した。こんな風に彼女の名前が記号のように使われているとリリアが知ったら悲しむ。
「七年前、人間とチェスの駒との違いは、血を流すか流さないかだけだとかいう、幼稚な自論を披露してくれた少年がいた訳だが、似たような境遇の少女ばかりを集めて彼は一体何がしたいんだろうね」
第二王子は、エメラルドグリーンの瞳を細めて、嘲り笑う。
「同じ条件で完全に勝利しなければ意味がない。と、いうことでしょうね。……私には全く理解できませんが」
「君、面倒事は手っ取り早く終わらせようとするもんね。……僕にだけは言われたくないって顔だね。だいぶ地が出てきてるけど大丈夫なの? 相当お疲れだねぇ」
わかっているならさっさと開放してほしい。この後間違いなくキースとリリアを寝かしつけるのに時間を取られる。
不機嫌そうなルークを見てアーサーは、わざとらしく肩を竦めた。
「はいはい、用事が済んだらさっさと帰るよ。野薔薇の姫君がどこにいるのか全く分からないというのはさすがに困るから、最近暇そうなハーヴェイに祓魔師呼んできてもらって、呪いを辿ってもらうことにしたんだよね。彼女はあの夜呪われて、腕輪の亡霊に『取り憑かれた』という状態になっているらしい。『素人が呪いに手を出すな!』と激怒されたよ。でもこちらには相手を呪う意図は全くなかったのだから仕方がない。結果としてどういう訳だかああなった。まさに偶然の産物だ」
今度は祓魔師かとうんざりした気分になる。しかし、一体誰が野薔薇の姫君を呪ったことになっているのだろうか。あの場にいたのはキースとウォルターの筈だが。
「ウォルターが大喜びしそうな話ですね……」
そしてキースは絶対に泣く。
祓魔師に頼るような事になったのは本当に想定外だった。アーサーの言う通り、彼女に呪いをかけるようなつもりは全くなかった。あの幽霊騒動は単なる嫌がらせだったのだ。
「ジョエルは非科学的なことが大嫌いだ。血を流さないものに存在価値を見出せないらしい。でも残念ながら、ここは『呪いと幽霊の国』だ。嫌がらせに使えるものはこの際何でも使ってやろう」
聞きたくもない名前を耳にした途端に頭痛がしてきた。さっさと終わらせる方法などいくらでもあるだろうに、しばらく遊んでやるつもりらしい。
悪趣味な……と一瞬思ったが、すぐに違うのだと気付いた。
「本気で怒ってるんですね」
運河を流れた恐怖で自失状態に陥ったリリィを目の当たりにした日からずっと……
働かない頭が導き出したのは、単純明快な答えだった。
『アーサー殿下は、すべての勝負に完璧に負けておられた』
不意に、宰相の言葉が耳に蘇る。
自尊心の塊のような少年は、巧妙に勝ちを譲られていたということに気付いた時、屈辱感に気が狂いそうになったことだろう。その時点で、彼の標的はキリアルト家から第二王子に切り替わったのかもしれない。
クラーラに変わる新しい駒を手に入れた彼は、拗らせた怨嗟の毒を甘い砂糖で包み込んで彼女に食べさせていった。
あの日腕の中に捕らえたクラーラの耳元で甘く優しく囁いたように、今度は失敗しないようにと細心の注意を払って、計画的に少しずつ少しずつ。
……余程することがなくて暇だったに違いない。
「ここまで徹底的に相手を潰したいと思ったのは久しぶりだなと自分でも思うよ。しかも、直接を手を下しても誰にも文句を言われない」
つまり、今までの人生において積もり積もった鬱憤を、ここで一気に発散するつもりだと、そういうことか。
楽し気に喉の奥で笑う第二王子の瞳は、ぞっとするほど冷たかった。
……放っておこう。
毒気にあてられる前にルークはさっさと立ち去ることにする。睡眠時間の確保が最優先課題だ。次に添い寝の回避。まだ鮫の餌になる訳にはいかない。
家政婦室は静まり返っていた。アレンの斜向かいにリリィが座って本を読んでいる。彼女はルークが戻って来たのに気付いて、あからさまに安堵の表情を浮かべた。テーブルの上に置かれているのは古い料理本だ。リリィが料理に興味があるとも思えないから、棚に入っているものを適当に持ってきて、パラパラめくって眺めていたのだろう。
アレンは頬杖をついて、魂が抜けたような目をして窓の外を見つめている。
「……なんか、思ってたのと違ってた」
リリィがぽつりと呟く。ぼかした言い方ではあったが、何が言いたいのかは大体わかる。彼女はかつてアレンに恋をしていたから、彼が王宮を追い出される原因を作った第一王子に対して、相当悪い印象を抱いていたはずだ。
「もっと陰険で陰湿で嫌な感じの人だと思ってたのに、何というのか、妙に親近感がね……」
リリィはアレンの様子をちらりと盗み見て、言葉を選んだ。
「暗くて狭い所に引きこもって、誰にも邪魔されずに本だけ読んで生きていたいというお方ですね」
ルークは目を伏せて苦笑する。第一王子は、仕事以外の時間のほとんどすべてを本を読むために使い続ける。食事も睡眠も最低限。運動などするつもりもない。不健康な生活を送り続ければ、当然不健康そうな見た目になる。
「引きこもって本を読んでいたい人が、なんで野心家?」
リリィが不思議そうに首を傾げた。
「王宮には、国王しか入れない書庫があるんですよ。古い日記とか、歴史書とか、系譜図とか……表に出ると都合が悪いけれど、残しておかないといけない記録ってありますからね」
その言葉にリリィは納得したように頷いた。
「でもそうなると、本を読みたいがために王様になりたいってことにならない? そんな王様はちょっとイヤだなぁ」
「それだけではないとは思いますよ。四人の王子の中では職業としての『王様』に一番向いている方なんですけどね……」
まずはあの、生きた人間とは思えない見た目を改善しないことには何ともならない気がする。もうすぐ舞踏会だが大丈夫なのだろうか。あのまま出て行ったら失神者が続出するだろう。リリアとキースが泣いて怖がるだけの理由はあるのだ。
「確かに……頭空っぽって感じではなかったなぁ。それに、自分より弱い相手をいじめて喜ぶような性格をしてるようにも見えなかった。……年取って性格丸くなったとかなの?」
どうしても気になるのか、ちらりちらりとアレンの様子を窺いながら言葉を選んでいる。確かに、本人を見た後だと、そこは気にはなるだろうなとは思う。
さて、どう説明したものかなと、壁に手をついてため息をつく。……もう考えるのも面倒くさい。
「簡単に言ってしまえば、自分が生き残るためにアレンを生贄に差し出した。リリィの言う通り、彼も若かったってことになるのかな」
リリィの体が大きく震えた。だから気配を殺すのをやめろと毎回思う。室内入ってきたアーサーは、自失状態のアレンの前に勝手に座った。
「……本人前にしても、何とか平静を保てるようにはなったんだから、成長か」
その声にのろのろと顔を正面に戻したアレンは、アーサーの顔を目にした途端に親を見つけた幼い子供のような顔になる。
「……今頃震えがきました」
テーブルの上の手が小刻みに震えている。アーサーは頬杖をついてじいっとアレンの顔を見つめた。
アレンは口の端を持ち上げるようにして笑みを浮かべようとしたが、唇が震えるだけで終わる。アーサーは落ち着き払った声で告げた。
「どんな理由があるにせよハーヴェイは許されないことをした。二度と会いたくないなら、さっさとダージャ領に行くしかないよ」
アレンは何か迷うように何度か口を開いたり閉じたりを繰り返す。
「……でも、そうしなければ、お互い生き残れなかった」
「そんな風に考える必要はない。もっと他にやりようがあったことは確かだ」
ぴしゃりとアーサーはそう言い切った。
「大局を見ていると言えば聞こえがいいだけだ。今も全員息をしているのだから、不正解ではなかったかもしれない。だが、正解でもない。少なくとも私はああいうやり方は認めたくないな。ハーヴェイは目的のためなら手段を選ばない。いつも自分に都合が良くなるように計算して動いているだけだ。その証拠に、本人以外の誰ひとりとして幸せじゃなかった」
アレンは目を閉じて、浅い呼吸を繰り返している。
彼が子供の頃王宮でどんな風に暮らしていたのか、ルークは実際見た訳ではない。ただ、あの頃の王宮はまだルイーザ妃の影響力が大きく、母親の面影を残した少年の存在が、彼女をひどく苛つかせていたのだとは聞いていた。
ハーヴェイが、ルイーザ妃に命乞いをするためにアレンを虐げたというのは本当のことだ。第一王子の取り巻きたちの行動は目に余るものがあったらしい。
嫉妬に狂ったルイーザ妃の恐ろしさを知っている者たちは、それで彼女の気が済むのならと見て見ぬふりをした。
国王は心を痛めていたが、救いの手を差し伸べれば余計に事態は悪化するのは明らかだった。王宮の外に逃がそうとすれば、法の壁が立ちはだかる。
王の『色』を守る目的で作られた王室婚姻法のせいで、王族たちはそう簡単に王宮を離れられない。法の網をかいくぐろうとしても、ルイーザ妃の息がかかった者たちが必ず邪魔をする。
結局、ガルトダット伯爵家の娘と結婚してダージャ領に死の呪いをもらいに行くという条件で、ようやくルイーザ妃は納得し、アレンは王宮から解放されたのだ。
「ハーヴェイはもし時間が巻き戻っても必ず同じ選択をするだろう。だから、無理に理解しようとする必要はない。あっちはあっちで背後から刺されても文句は言えないとは思っているだろうしね。……恨みたければ一生恨めばいい。だからひとまずダージャ領に行ってよくかんが……」
ちらりと隣に座るリリィの様子を確認したアーサーは、目の端に涙を溜めて、それ以上言ったら泣いてやる! という無言の脅しに屈した。
「……うん、そこはよく二人で話し合って結論を出しなさい。それでいいかな? 夜泣くと明日目が腫れるからね?」
困ったように曖昧に笑って席を立つ。ここまで思い通りにならない状況というのは、アーサーにとって初めてなのではないだろうか。
「ああ、でも、君がハーヴェイを激怒させた出来事とこれとは話が別だからね。逃げずに自分の口からきちんとリリィに話しておいた方がいいとは思うよ? いつかは彼女の耳に入るだろうから」
その言葉にアレンがはっと息を飲んだ。リリィがきょとんとした顔になる。
……きれいにまとまった所で、何故また突き落とすのか。
ルークは思わず足から力が抜けてふらりとよろめいた。言いたいことは全部言ったとばかりに、家政婦室から出て厨房に向かおうとするアーサーの後を慌てて追いかける。