80 天使様が大迷走 その2
出掛ける前にルークが壁際に並べておいてくれた椅子にフィンとマーゴを含めたおじいちゃんおばあちゃんが座り、リリィお嬢さまとイザベラとウォルターとヒューゴがソファに座っている。アレンとダニエルは窓際に立っており、執務机に頬杖をついて座っているトマスの背後にキースが控えていた。
リリアの警護をしているダニエルが執務室にいるのは、休憩をもらったからだ。
数時間前に黒い軍服を着た第二王子の私兵とキリアルト家の従業員の方々が仲良く一緒にやって来て、協力し合って庭に穴を掘ったり、罠をしかけたりしている。淡々と何かの準備が進められている。一体明日ここで何が行われるというのだろうか。
ルークの言う通り、王宮にいた方が安全なのは間違いなさそうだった。
エミリーとジェシカは自室として与えられた部屋で、私邸から持ち帰ってきた荷物を片付けている。
リリアとグレイス改めクインとメイジー、あと縫い物が得意だというエラが、別室でドレスを縫い進めていた。先程キースがちらりと部屋を覗いたら、全員怖いくらい真剣な顔をして無言で針を動かし続けていた。……とても声をかけられるような雰囲気ではなかった。
「……でも、これで、結婚話完全に消えたわね。すごいわクイン、自力で自分の身を守ったわね。トマスお兄さまもヒューゴお兄さまもフられた訳よね」
ふと思いついたというように、リリィお嬢さまが心底感心したようにそう言った。「……ん?」と眉間に皺を寄せて思わず聞き返したくなるような言葉の選び方だ。……リリィお嬢さまは寝起きでかなり機嫌が悪い。
「それ、本人知らない所で進みかけてた話だから。……それなのに、どうして僕たちがフられたことになるのだろうか」
肩をさすりながら、トマスが面白くもなさそうに呟く。
「フられたのよ。お兄さまたち」
リリィお嬢さまがいい笑顔で兄にそう言い放った。
「良かったですねリリィお嬢さま、大好きなお兄さま取られずにすんでー」
「そうね、本当によかったわー。キースも良かったわよね。大好きなお兄さま取られずにすんでー」
「……二人とも、地味に傷付くからもうやめて」
トマスが呻くように呟いて執務机に突っ伏す。睨み合っていた弟と妹は「ふんっと」とばかりに揃って顔を背けた。おじいちゃんおばあちゃんたちがやれやれという顔になる。
クインの『男の子になります』宣言の間も、リリィお嬢さまはひとり平和に眠り続けていたが、未完成のドレスを一度着てもらわないことには作業に入れないということで、先程リリアに容赦なく叩き起こされた。
無理矢理起こされた時のリリィお嬢さまは、眠たい時より機嫌が悪い。誰彼構わず喧嘩を売り始める。いつもならば相手にせずに放っておくのだが、今日はキースの神経もささくれ立っているから、うまく聞き流せなかったのだ。
「ヒューゴお兄さまはもうどうしても結婚したくないのね? ……一応聞くけどそんなにクインのこと嫌いなの?」
そして、矛先は額に包帯を巻いた従兄に向けられた。
「そ……そんな訳っ」
顔を真っ赤にして、ヒューゴが動揺する。そして暗い顔で俯いて、ぼそりと言った。
「やっぱり……可哀想だ。うちは特殊だからな。色々重圧もかかるし」
あ、ようやく自分の気持ちを自覚したんだ。と、トマスとキースは顔を見合わせた。これは大きな前進だ。でも、面倒くさいのでしばらく現状維持でお願いしたい。気持ちが強く大きく育つまでこれ以上触らずそっとしておこう。二人が頷き合ったその時、リリィお嬢さまが口を開いた。
「…………ねぇ、なんで『グレイス』は可哀想で、『リリア』は可哀想じゃないの? おかしいわよね」
一段低くなった声に驚いて、アレンが慌てて「リリィさま」と控えめに声をかける。
「わかってるわよ。……喧嘩売ってる訳じゃない。ただただ説明を求めているだけ」
言葉の端々に抑えきれていない怒りが滲みだしている。何か言えば火に油を注ぐ結果になると判断したアレンは、「……わかりました」と目を伏せて引き下がった。最近色々立て続けに起こったせいで、アレンが人間的に成長していた。
「……え、今、それ、聞くの?」
顔色を失ったトマスが恐る恐る妹に尋ねる。キースは我知らず腕を組んで自分の二の腕をさすっていた。このまましばらくそっとしておこうというささやかな願いは神様の元に届かなかった。
「もうここまできたらはっきりさせておいた方がいいと思うのよね。『グレイス』はもういないんだから、問題ないでしょう?」
キラキラというか、ギラギラ輝く目でリリィお嬢さまは兄に微笑みかけた。機嫌が直った訳ではない、今彼女のお腹の中では怒りが沸騰し始めている。非常に危険な状態だ。こうなるともう手に負えない。リリアは殴る蹴るで相手を打ち負かそうとするが、リリィお嬢さまは理屈で相手をやり込めようとする。
イザベラとウォルターは、幼い子供のじゃれ合いを眺めているような表情で微笑んでいる。関わるのが面倒だからと放置している訳ではない……きっと。
執務室にいる全員が、もうこれは最後まで黙って見守るしかないと腹をくくって、ヒューゴに視線を移動させた。
ヒューゴは外国語を聞いたような顔をして首を傾げている。誤魔化している訳ではなく……多分本当にリリィお嬢さまが何を言いたいのかわかっていない。
「ヒューゴお兄さま、この間、酔った勢いでリリアに結婚申し込んだわよね? どうしてあの子に対してそんな嫌がらせができたの?」
いきなりリリィお嬢さまは場の空気を凍り付かせた。トマスとキースは硬直しアレンは顔を青ざめさせる。
「嫌がらせって……」
ぼそりとダニエルが呟いた。
「嫌がらせよね。リリアすごく嫌がってたんだから。でも、同じ事を『グレイス』にはできないって思うのよね『可哀想』だから」
そう告げた声の刺々しさに改めて驚いたように、ヒューゴは目を瞬いた。
「そもそも、どうしてヒューゴお兄さま、リリアと結婚したいなんて思ったの? 自分と結婚する相手は『可哀想』なのよね? リリアは『可哀想』でもいいの?」
ヒューゴはますます質問の意図がわからないというように、ぽかんとした顔をしている。おばあちゃんたちの顔に苛立ちと怒りが浮かび始めた。男性陣は何となく気まずさを感じて小さくなっている。
「だってリリアにはルークがついているだろう?」
不思議そうにヒューゴがそう言った瞬間、ゴンっと執務机にトマスが額を打ち付け、キースが天を仰いだ。室内の男性たちが暗いため息をつく。……今、ヒューゴはこの場の女性全員を敵に回した。
リリィお嬢さまの目が怒りで吊り上がる。丁度、アレンの婚約者騒動でリリアが倒れて、それに怒り狂って大暴れした時と状況が酷似してきているなとキースは思った。ちらりと盗み見たイザベラの笑顔も怖い。
「……ねえ、ヒューゴお兄さまって本当にリリアが好きだったの? それとも、便利なルークと離れたくないの?」
「便利……」
再びぼそりとダニエルが呟く。トマスがとキースは揃ってちらりとウォルターに救いを求める目を向けるが、彼は穏やかに微笑んで、大丈夫だというように頷いただけだ。……何がどう大丈夫なのか説明してほしい。ルークだったら絶対に止めてくれるのに。
「だって、自分の力でリリアを幸せにするつもりはさらさらないって言っているのと同じ事よねそれ。ルークがいればリリアは幸せだから、ヒューゴお兄さまはリリアには何をしてもいいってことなの? ……ねえ、もう一度聞くけど、なんで『グレイス』は可哀想で、『リリア』は可哀想じゃないの?」
ここまで説明されてようやく、質問の意図を理解できたらしい。ヒューゴの顔色がさっと変わる。
「確かに、ルークはリリアを絶対に幸せにするわよ。そのためならあの人本当になんだってするもの。ヒューゴお兄さまがリリアと結婚すれば、必然的にルークも一緒についてくる。ルークさえ近くにいてくれれば、自分は何もしなくていいのだから、さぞかし楽でしょうね! どれだけリリアを傷付けてもルークが何とかしてくれるものね。私、やっとわかった。どうしてリリアがヒューゴお兄さまに『きらい』と言い続けたのか。どうしてワルツを踊ることをあんなに嫌がってたのか」
畳みかけるように早口でまくし立てると、リリィお嬢さまはソファーから立ち上がり、一度大きく息を吸って吐いてから、覚悟を決めた目をして、ヒューゴを見下ろした。
「私もそういうヒューゴお兄さまは嫌いだわ。……さっさとクインにもフられればいいのよ。その内、『クインにはトマスがついているだろう?』とか言い出すに決まってるんだから!」
痛みを堪えるような顔でそう言い捨てると、そのまますたすたと執務室から出て行ってしまう。
「リリィさまっ」
慌ててアレンが後を追いかけて行く。それを全員で見送り、ドアが閉まるのを確認してからヒューゴに視線を戻す。……ヒューゴは大きく目を見開いて固まっていた。これはまた、立ち直るのにかなりの時間を要するかもしれない。どうしてだろう。明日はお城の舞踏会なのに、どんどん人間関係がおかしなことになってゆく……
――でも、まぁいいか。この人舞踏会には参加しないし。
キースがそういう結論に達した時だ。突然ヒューゴがはっとした顔で立ち上がると、部屋を飛び出して行ってしまった。その後をダニエルが追いかけて行く。
リリィお嬢さまの時と同じように全員が二人を見送った。逆の方向に走って行ったので……リリアたちがドレスを縫っている部屋に向かうつもりだ。一体そこで何をするつもりだろう。
「……ドレス縫うの邪魔すると、リリア怒るんじゃないですか?」
閉まったドアを見つめながらキースがぼんやりとした声でそう言った。今度こそヒューゴはリリアに蹴り飛ばされるかもしれない。きっとダニエルは妹を止めてくれない。
――別にいいか。あの人明日舞踏会行かないし。
キースはドアからそっと視線を外した。
「これで良かったの? 主治医としては」
トマスはちらりとウォルターを一瞥する。
「後は本人次第だろうな。自立したいと言っていたし」
「リリアもクインの前でヒューゴを蹴り飛ばしたりはしないから大丈夫よ」
ウォルターとイザベラの顔には、明日に備えて疲れることはしたくないと書いてあった。見習おう。とキースは思った。いちいち動揺していても疲れるだけだ。きっと明日になったらなったで、『何のかんの言っても平和だったな』と、今この時間のことを振り返るに違いないのだから。
……とりあえず、今の所まだ大きな音は聞こえてきていない。
「休憩しましょう」
椅子に座ってスカートの裾にフリルを縫い付けていたクインは、リリアに声をかけられてはっと我に返った。
「何か甘い飲み物を用意してもらえませんか? メイジー」
「承知いたしました」
縫いかけのリボンをテーブルの上に置くと、メイジーは立ち上がってにこやかに一礼し、部屋を出て行った。
「丁度きりがついたので、私も手伝ってきます。ちょっと行ってきますね。ずっと座っていたらお尻が痛くなってきてしまいました!」
エラが鋏で糸を切ると、リリアとクインに笑顔で一言い置いてからメイジーを追いかけて行く。
「思ったより早く仕上がりそうですね。あとはリボンで裾と胸もとを飾って……」
目を擦っているクインに気付いたリリアが、ごく自然に左手を差し出す。クインも当たり前のようにリリアの手の上に自分の手を重ねる。そのまま手を引かれて壁際に置かれた寝椅子に導かれた。
「一度目を拭きましょうか。すっきりすると思います」
リリアが持ってきてくれた水で濡らした布巾を受け取り目に当てる。ひんやりした感触がとても気持ちいい。眠気と戦いながら針仕事をするのは慣れている筈なのに、体力がないせいですぐに疲れてしまう。クインだけが休み休み作業をすることになってしまって、申し訳ないような気持になる。
「とても助かっていますよ? 細かい部分をお任せしているので、目を酷使しますよね。疲れてしまうのは当然です。本来なら何日もかけて作業するところですから」
布から目を上げると、クインの前に膝をついたリリアが穏やかに微笑んでいた。その顔を見るととても安心する。ついつい甘えたくなってしまうから困る。
その時、控えめなノックの音がして、リリアがぎくりと顔をひきつらせた。ノックの仕方で大体誰が来たのかわかるのだろう。ぎぎぎっと音がしそうな感じでドアを振り返る。
「ちょ……ちょーっと待っていて下さいね……」
めずらしく引きつった笑みを浮かべながら立ち上がると、僅かに開けたドアの隙間に身を滑り込ませるようにして廊下に出て行った。
何かまた問題が起こったのだろうか。リリアがどことなく不安そうな顔をしていたことが気がかりで、落ち着かない気持ちになる。
しばらくするとドアが開いて、リリアが難しい顔をして戻ってきた。非常に物憂げな雰囲気でクインの前に歩いて来ると、再び膝をついて、そっと両手を取って少し持ち上げる。
気持ちを落ち着かせようとするかのように目を閉じてひとつ深い呼吸をしてから、彼女はまっすぐに青い瞳を覗き込んだ。そこに浮かぶ感情を何ひとつ見逃すまいとするかのように。
「ヒューゴお兄さまが、グレイスさまに謝罪をしたいそうです。お部屋に入れても構いませんか? 気持ちの整理がついていないのなら、無理にとは申しません」