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79 天使様が大迷走 その1

 


くすくすと楽し気な笑い声が耳をくすぐる。


「そうなんですよね、ポールさん、張り切っちゃってもう大変だったんですよ。確かに材料費は気にしなくてもいいという話でしたけど、お客さまたち、次々出て来る料理に啞然とされてました」


「料理運んでも運んでも運んでも運んでも終わらないんですよー。その内、まだ出てくるの? みたいな顔されるし」


「エミリーさま、途中から表情がなくなってましたよね」


 はきはきと喋る若い女性の声の後を、のんびりとした声が受け継ぐ。そしてまたさらに別の女性の声が聞こえてきた。


「だって終わりが見えないんだもの。メニュー表はあるんだけど、今が何皿目なのか全くわからないのよ。食べるのに疲れるって経験初めてしたわ。伯爵家の夕食会よりもっとずっと沢山の料理が出てきたわよね?」


「倍くらいは……」


「一皿が少しずつでも、数が多いから、結構な量を食べさせられることになるよね」


 これはアレンの声だ。随分と砕けた言葉遣いだから、親しい間柄なのだろう。


「アレンさま、よく太りませんでしたね」


「あれが毎日出てきた訳じゃないからね」


 からかうような言葉にも、アレンは気分を害した様子もなく明るい声音で答えている。


「普段が質素な分、お客さんが来て好きなように作っていいと言われると、ポールさん嬉しくて嬉しくてもう無茶苦茶作るんですよ」


 これはきっとダニエルだ。彼の声もリリィと会話していた時よりも、くつろいだ雰囲気で柔らかい。


「全部美味しいんですけどね。もういいですっ。ちょっと休ませてってなりましたね」


「そうだろうね」


 再び軽やかな笑い声が上がる。丁度、仕事の合間の休憩時間に仲間内でお喋りをしているような雰囲気だ。その様子をいつも輪の外から眺めていた。ちりっとした胸の痛みを感じて、グレイスはゆっくり目を開けた。何度か瞬きを繰り返す内に、ぼやけていた視界がはっきりとしてくる。


 横になったまま、ゆっくりと見える範囲で周囲を見渡す。


 グレイスとリリィが眠っている敷物の横には、もう一枚大きな敷物が広げられていた。そこに、グレイスたちから背を向けるようにメイド姿の女性が二人と、ドレスを着た女性が座っていた。彼女たちと向かい合うようにアレンとダニエルが座っている。

 グレイスが寝返りを打つと、リリィが穏やかに眠っていた。何故か二人の間にはクッションの仕切りが作られている。


「少し風が出てきましたね」


 ドレスを着た女性がふと空を見上げてから、何気ない仕草で背後振り返った。菫色の瞳が印象的な、目が離せなくなるくらいにきれいなひとだ。

 目が合った途端、彼女はびくうっと肩を震わせて、グレイスからばっと顔を背けた。しかし、すぐに真っ青になって恐る恐るという感じで再び振り返り……再び目が合うと今度は怯え切った表情になった。


 何だか……既視感が……


 寝起きのグレイスはうまく頭が働かず、ぼーっと一点を見つめていることしかできない。お互い目をそらせないまま見つめ合っていると、綺麗な菫色の瞳に涙が浮かんだ。


「……どうしよう。ジェシカ、エラ……どうしよう。私、やっぱりダメかもしれない」


 そして、その女性はグレイスを見つめたまま、呻くようにそう言ったのだ。初対面で嫌われてしまったのだろうかと、グレイスは喉が詰まったような息苦しさを覚える。


「……え? エミリーさま、この時点で?」


「エミリーさま、まだ挨拶すらしてませんよ?」


 菫色の瞳の女性を挟むように座っていた二人のメイドが体ごとグレイスに向き直り、見つめ合う二人を見比べる。

 グレイスから見て右側に座っていたきりっとした顔立ちのメイドが呆れたような声を出し、左側に座っていた大人しそうなメイドが、困惑気味しきった様子でそう告げた。


「だって……だって……私……やっぱりうまく取り繕える自信がない。今、すごく嫌な女になっているの。自分の場所が奪われたみたいで、いやなの。……その感情をうまく抑えられない……こんな時に『彼女』の気持ちをはっきりと理解するなんて……」


 エミリーと呼ばれた女性の顔から、さあっと血の気が引く。


「ま、まずご挨拶からしてみたらいかがですか? 初対面での印象が悪いと、挽回するのが結構大変……」


 右側に座っているメイドが焦った様子でかけた言葉は、エミリーをさらに追い詰めてしまったらしい。生死に関わる宣告を受けたような表情になる。


「ジェシカ、お嬢さま余計に追い詰めてどうするの……」


 反対側に座っていたメイドが慌てて言葉の途中で遮る。はっとした顔でジェシカと呼ばれたメイドが口を押さえた。


「初対面でいきなり無視されて私すごく傷付いたのに。今、同じ事をして……わたし……やっぱり……ごめんなさい……うまく自分の感情が制御できない」


 その『ごめんなさい』はグレイスに向けられていた。苦しそうに顔を顰めて固く目を閉じた彼女は、グレイスの目からみてもとても痛々しい。


「本当に……ごめんなさい。すごく感じ悪い……自分がイヤになる……」


 エミリーはグレイスから目を離し、前を向いて俯いてしまった。細い肩が小刻みに震えている。二人のメイドは顔を見合わせて頷き合うと、揃って非常に感じよくグレイスに微笑みかけた。


「お初にお目にかかります。ジェシカと申します。ご気分はいかがですか?」


「お初にお目にかかります。エラと申します。驚かせてしまって大変申し訳ございません」


 二人のメイドの友好的な態度に、グレイスはほっと安堵して、ガチガチに固まっていた全身から力を抜いた。


「起き上がるのをお手伝いいたしましょうか?」


 エラと名乗った少女が、心配そうな目でグレイスに尋ねる。

 首を横に振って、グレイスは体を横にしてからゆっくりと起き上がった。


「あ……あの、もし、失礼な、態度を……取ってしまっていたのなら、申し訳ございません……」


 体にかけてあったブランケットを握りしめて、恐る恐るそう言うと、二人のメイドは「ちがいますっ」と同時に口に出して、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。


「失礼な態度を取っているのはうちのお嬢さまです。大変申し訳ございません」


「本当に申し訳ございません」


 エミリーはちらちらとグレイスの様子を窺っていたが、目が合った途端にまたびくうっと体を震わせて顔を背けてしまう。そしてすぐにそうしてしまったことに後悔した様子で、俯いたまま唇を震わせて「ごめんなさい」と悲痛な声で呟いた。


「うちのエミリーお嬢さま、今までずっとずーっと女性に毛虫のように嫌われ続けてきたんです。なので、同世代の女性の方との接し方がわからないのです……」


 ジェシカの説明を聞いて、グレイスは何となく納得してしまった。……エミリーはあまりにきれいな人だから、どこに行ったって男性の注目を集めてしまうだろう。

 そういえば、あの灰色の舞踏会で、目付け役が言っていた気がする。

 

『今夜はもう無理だね。みーんなあの女にもっていかれちまった。大損害だよ』


 それはもしかしたら、エミリーのことだったのかもしれない。彼女は……あの舞踏会に参加していたのだろうか。そう思った途端に、グレイスの胸に鋭い痛みが走った。目の前のこのとてもきれいな人は、ヒューゴと親しいのかもしれない。そう気付いた途端に背中がぞわりとした。


 ……あ、これは、いやだ。いやな感情だ。


 グレイスは気持ちを落ち着かせるために、拳を強く握って目を閉じた。


「……きらいたくない……きらわれたくない……」


 思い詰めた微かな声が風に乗ってグレイスの耳に届く。……その声を聞きたくない。そんな風に思ってしまった自分を恥じる。

 誰かが近付いて来る気配に目を上げると、心配そうな顔をしたアレンがグレイスの前に膝をついた。まるで、二人の間に壁を作るかのように。


「エミリーは……女性からきつく当たられることが多かったので、相手の気持ちも考えずに好き勝手に振る舞ってしまうところがあったんです。どうせすぐに嫌われるのだからいいのだと、以前よくそんな事を言っていました」


 落ち着き払った声で、彼はゆっくりと慎重に言葉を選んでいく。


「でも、伯爵家にきて、リリィさまとリリアさまが仲良くして下さった。エミリーにとっては初めての友達ということになるのでしょうね。……だから、クインさまに自分の居場所を取られたような気持になったのだと思います」


「……あ……」


 居心地のいい、安心できる場所を奪われることに対する恐怖。それは今まさにグレイスが抱いているこのどろりとした不穏な感情と同じだ。

 エミリーも、同じなのだろうか。胸が詰まったような息苦しさを感じているのだろうか。

 ようやく手に入れたものを、何一つ失いたくない。やっと手に入れた『私の場所』を奪わないでと心が悲鳴をあげているのだろうか。


 羨ましくて妬ましい。その気持ちがグレイスの中に確かに存在している。……まるで鏡を見ているようだ。

 今まではそういう扱い辛い感情に蓋をして胸の奥深くに沈め続けてきた。回り続ける時計のように体を動かしていればすべてを忘れられた。

 それが……今はどうしても上手くいかない。


「私もエミリーも、上手く他人と関わることができないのです。怖くてずっと逃げてきたから。そういう意味で、私たちはとてもよく似ていた。一緒にいると楽だったんです」


 アレンは一度振り返って、蒼白な顔をして震えているエミリーに微笑みかける。アレンに大切に守ってもらっている彼女がやはり羨ましいと感じてしまう。一度そう思ってしまうともう、何もかもが悪い方に向かってしまう。どこかで止めなければ。


 ――結局、先に『嫌い』になった方が優位な立場を手に入れるのかもしれない。


 そんな風に考えてしまう自分がいやになる……


「だから、私たちは、決して折れない心を持ったあなたが羨ましくて……少し妬ましいのだと思います」


 グレイスに向き直って、寂しそうに、苦しそうに、正直に胸の内を吐露したアレンを見上げて、グレイスは首を横に振る。折れない心とアレンは言ったが、それは違う。自分はそんなに強い人間ではなかった。

 グレイスには、『妬ましい』と素直に口にする勇気はない。今も自分も全く同じ気持ちを抱いているのだと告げる事ができない。


「同性だから……嫉妬の気持ちも大きくなります。アレンさまのおっしゃるように、うちのお嬢さま、今までずーっと我が儘好き勝手していたので、そういう感情と真摯に向き合ったことがないんです。どうしていいのかわからなくて混乱しているんですよね……」


 ジェシカが一度言葉を切って、目を伏せて小さく笑った。


「本当にほんっとうに、我が儘で世間知らずで自分勝手なお姫様なんです」


「お子さまなのです」


 しょうがないなぁというような温かみのある声だ。三人の間にある揺るぎない信頼感のようなものを感じて、グレイスはやっぱり彼女が羨ましくて妬ましい。

 あなたは沢山素敵なものを持っているのに……どうして欲張るの? と、そんな風に考えてしまう。……そんな自分が、きらい。


『そこですごいと言えるリリアの方が、すごいと私は思うわ。立場逆だったら、私絶対に拗ねるもん』


『だって自慢のお姉さまですから!』


 そんな会話がふっと胸に蘇る。そういう風になりたい。曇りのない笑顔を浮かべられる人になりたい。……胸の中で大きくなってゆく、醜い感情を全部捨て去ってしまいたい。

 人はそんなに簡単に変われないけれど……争いたくない。


 きっとグレイスとエミリーは同じ場所で同じ立場で同じものを奪い合っている。


 きらわれたくない。きらいになりたくない。それが二人に共通する気持ちなのだ。

 彼女と争わないためには、どうしたらいいのだろう。このままではお互いに苦しいばかりだ。しかし、同じものを同じ立場で同じ場所で奪い合わないために、グレイスの手で変えられるものは『立場』しかない。


 グレイスは自らの短い前髪をひっぱってみる。そして、「なりたいものになればいい」という言葉を胸の中で繰り返した。

 髪はアレンよりもずっと短い。今着ているのは男の子の服で、この姿は体が軽くてとても気に入っているし、新しい名前をと言われた時、男の子のつもりで『クイン』とつけた。


 同性だから嫉妬の気持ちも大きくなるのだとジェシカは言った。

 グレイスは胸に手を当てる。目を閉じて自分の心にもう一度尋ねる。『本当にそれでいいのか』と。

 なりたいものになればいい。ここでは何にでもなれる。

 だから、いつものように諦めるのではなくて、自分の心が楽になる方法を探すこともできる。


「じゃあ……あの……ボク、男の子に、なります……」


 グレイスは目を開けて、強い決意を込めてそう宣言した。その場にいた全員が言葉を失って、茫然とした顔でグレイスを見つめた。


 目の前のきれいな女の人と同じ立場にいると、嫉妬で自分がおかしくなってしまう。だって、『グレイス』が勝てるものは何もない。そんなことはわかり切っている。


「ボク、クインという名前の、男の子になります」


 耳に届いた自分の声を聞いた時、心は当たり前のようにその言葉を受け入れた。口元に自然と笑みが浮かぶ。晴れやかに笑ったクインを見て、エミリーは大きく目を見開いた。そういう表情をしてもやっぱりとてもきれいなひとだ。


 もしかしたら、クインの行動はエミリーを挑発するような行為だったのかもしれない。繊細な彼女の神経を逆撫でしてしまったかもしれない。

 でも、全く別の自分になって、今までやってみたかったことを全部やってみる。……そう決めた。 

 

「ボクは、リリアさまや、キースさんみたいに、なりたい」


 男の子なら、あのひとはドアを開けてくれるかもしれない。声をかけることを許してくれるかもしれない。







 執務室は、またしても重苦しい空気に支配されていた。


「もう全部ヒューゴが悪いってことで、責任取って弟にもらえ」


 トマスは完全に自棄になっていた。一方ソファーに座っているヒューゴはすっかり落ち着きを取り戻していた。ヒューゴが「構わない」と鷹揚に答えた途端にトマスの全身からぶわっと殺気が放たれ、ダニエルが投げたペンがトマスの肩に当たった。


「……いったいなぁもう。明日舞踏会なんだけど、怪我したらシャレにならないんだけどさ!」


「反射的に物投げようとするのやめましょうね。相手が怪我しちゃいますからねー。ペンは投げるものではありませんー」


 キースが嘘くさい笑顔を浮かべて肩を押さえたトマスからペンを奪い取る。


「容赦なく投げまくる人が近くに沢山いるからさぁ」


「お仕事ですよー。しかも、当ててませんよー。牽制ですよー」


「今の当たってたよね!」


 トマスの訴えは全員に聞き流された。

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