幕間 その3
キースは目の前に置かれた布のかたまりを見て、正気か? と思った。
赤ワイン色の艶やかな生地に、金糸で豪華な異国の模様が刺繍されている。
使用人ホールでキースはルークと向かい合って座っていた、少し離れた場所で、書類を確認し終えたアレンが遅い昼食を取っている。護衛任務についている者たちには私邸の方から食事が運ばれてきていた。さすがに毎食野菜スープとパンだけという訳にはいかない。
「……何も言わなくていいです」
気まずそうな目で何か言いかけたルークを制する。
「あの話、本気だったんですね」
暗い目をしてキースは半笑いになった。何もかもうほんといや……
「今、イザベラさまとオーガスタが小物を選んでいます。リリィお嬢さまのものを選ぶついでに」
ルークは今回も非常に申し訳なさそうな顔をしている。ぼんやりとあの時彼が抱えていた可愛らしいバラの花束を思い出した。
……また一ヶ月くらい監禁されてくれないかな。
八つ当たり気味についついそんな事を考える。キースとおじいちゃんおばあちゃんたちだけではとても手が回らなくて、掃除は中途半端だし、庭の草は伸び放題。幽霊屋敷化はどんどん加速している。
「鬘って手に入ったんですか?」
キースは、深いため息をついた。現実逃避しているとルークが仕事に戻れない。妹を寝かせるのにだいぶ苦戦したらしく、すでに予定していた出発時刻を過ぎている。
「近い色のものをロバートが海の向こうで見つけてきたみたいですね……」
「……余計な事を」
今度会ったら文句のひとつも言ってやる。不貞腐れたように頬杖をついて、キースは光沢のある生地に触れる。大変滑らかな肌触りだ。間違いなく一級品。ここまで気合を入れる理由がさっぱりわからない。
「……でもそれっておかしなことになりませんか?」
金糸の刺繍を指先でなぞりながら、頭の中を整理してゆく。……前回の話だけではどうしてもわからないことがあった。いい機会だから、今、ここで聞いておいた方がいいのかもしれない。
「別荘にいたのは栗色の髪の『兄』と赤い髪の『妹』……ただし妹の目の色をはっきりと覚えている人はいないってことになってますよね? それはわかるんです。俺、基本的にお客さまの前には姿見せないように言われていましたから」
第二王子が流した噂の中ではそうなっていたはずだ。キースは胸の中のもやもやを形にしようとするかのように、言葉に出して確認してゆく。
「俺は髪の色が同じで顔が似てるし、普通に外に出てるから……あのひとの子供であるということは、見る人が見ればすぐにわかるはずです。でも呪いを受け継いでいないから伯爵の子供ではない。別荘にいた『兄』がガルトダット家の血を受け継いでるのは明らかで、そしてさらに赤い髪の妹がいる。三人子供がいるということになりますよね。……じゃあ、ガルトダットの呪いを受け継いでいない妹の父親はだれ……」
「すべてはお芝居の中の出来事です。彼女は天才的な女優でしたから」
声は優しかったけれど、水色の瞳は否定を許さない強い光が浮かんでいた。どうか貶めるような言葉を口にしないでほしい。暗にそう言われているのだとキースにもわかった。
一度強く目を瞑って、浮かび上がった面影を記憶の底に沈める。誰に何を言われても、きっとあのひとは気にしない。……褒められるような生き方はしてこなかったと笑っていた。
「……で、これを今ここで渡された意味って何なんですかね?」
気持を切り替えるために無理矢理笑顔を浮かべてキースは尋ねる。
「明日それ着て舞踏会に参加して下さい……」
非常に言いにくそうに、ルークはぎりぎり聞き取れる程度の小さな声でぽつりと言った。
「……ん?」
笑顔を貼りつけたままキースは首を傾げた。この人、今回もまた、とんでもない事を言わなかっただろうか……
「俺平民ですよ? 招待状持ってないですよ?」
強い口調になって身を乗り出したキースから、すっとルークは目を逸らした。
「オーガスタの取り巻きの一人として、それ着て参加して下さい。黙ってオーガスタの隣に立っているだけです。大丈夫、もっと豪華な服を着た方々が十人以上いるので埋没します。……絶対にここよりは王宮の方が安全ですから」
「……」
わかっている。ルークは悪くない。真っ黒な暴君に逆らえないだけだ。でも、だからと言ってすぐに『はい』とは言いたくない。
「いかにも女性用のドレスという感じの衣装ではないですよ。聖職者の方々が着ていらっしゃるローブに近いです。そう考えれば着やすいのでは? 異国風の化粧も施すので、前回の幽霊の時と同じく変装だとでも思ってください」
渋々立ち上がって衣装を広げて体にあててみると、確かに刺繍や装飾は豪華だが、ルークの言うようにドレスというよりはローブだ。喉仏を見せないようにするため、首の上の方まで覆うデザイン。
……あ、これ、前回のボロボロドレスよりだいぶマシ。
三か月前なら断固拒否していただろうが、最近色々ありすぎたせいか、まぁこのくらいならね……と思ってしまった。キースの口元に乾いた笑みが浮かぶ。もういい。もう何でもいいから、平和に心穏やかに暮らしたい。
「鬘かぶって異国風の化粧をすればキース君だとは気付かれないと思います。トマスさまのことお願いしますね……どうか、オーガスタから守ってあげて下さい。そのまま拘束されてキリアに連行されて成人の儀を強行とかいう話になると大変困るので」
キースの頭の中に、オーガスタの取り巻きに左右から拘束されてずるずると引きずられてゆくトマスの姿がはっきり浮かんだ。
……うわ、めんどくさい。
キースは一呼吸おいて、ワインレッドの衣装を大まかに畳んで腕にかけると、
「それで片付くなら片付けた方が良くないですか? もう二年以上逃げ回ってますよね、準備できてるなら、さっさとやりましょう成人の儀。いつか絶対にやらなきゃいけないなら、夏の内に終わらせましょう。冬は寒いからみんな風邪ひいちゃいますよ」
晴れやかな笑顔を浮かべてみせた。
「……キースは、僕に、命がけで海賊に挑めと言うんだね」
少し離れた場所からとても悲し気な声がした。いつからそこにいたのかは知らないが、トマスがドアの陰からじーっと使用人ホールを覗き見ている。顔に生気がなくまさに亡霊のよう……
「まーでも、この辺りで覚悟決めませんか? 成人祝いのお祭りなんですし」
「何で成人祝いのお祭りで、主役が命からがら舶刀振り回す海賊から逃げ回らないといけないのかな?」
「海賊なんてもういませんからねー。皆さん従業員ですよー」
「船の上で刃物振り回す時点で海賊だよね! そもそも僕キリアルト家の人間じゃないから、成人の儀をやる必要ないよね? 僕がやるならキースもヒューゴもやるべきだよね! 他人事だからそういう態度取れるんだよね」
「……と、申されておりますが」
キースはくるりとルークに向き直った。
「……その辺り決めるのはオーガスタですから私には何とも」
ルークは困った顔で笑ってから立ち上がる。
「さすがに戻らないとまずいので、後はお願いします。一度袖は通して、ほつれや汚れがないかリリアさまに確認してもらって下さいね」
ルークが向かった厨房の方から、何やら楽し気なおばあちゃんたちの笑い声が聞こえてきた。そのまま裏口から庭に出て、園丁にも声をかけてから戻るつもりなのだろう。本当にそういう所は律儀だなと思う。
「明日キースも一緒に来るんだね。何かちょっと安心した。……うっわ、高そうな生地。さらっさらの手触りだねぇ」
入れ替わるように使用人ホールに入ってきたトマスは、キースの前まで歩いて来ると、興味津々という様子で衣装に手を伸ばして、肩の部分を持ってキースの体にあてた。
「鬘被ってきつめの顔立ちになるようにお化粧したら、異教の神官みたいな神秘的な雰囲気になると思う。相変わらず美人さんだねぇ。その気になれば国滅ぼせるんじゃない?」
頭の先から爪先まで確認してから、トマスはうんうんと満足げに頷いた。……イラっとした。
「船首像になってしまえ!」
「そんなに照れなくてもいいのにー」
二人とも笑顔だが目は全く笑っていなかった。
「トマスさまー、お湯沸きましたよー」
厨房の方からコックの声が聞こえてきた。トマスが「ああ!」というようにわざとらしく手を叩く。
「忘れてた。キースお茶五つお願いね。……衣装汚れるといけないから預かっとく」
「応接間ですか?」
舞踏会前日のこの忙しい時に来客だろうか。キースの眉間に思わず皺が寄る。
「ヒューゴの部屋の前まで運んであげてー。あとはエラさんとジェシカさんがやってくれるから」
何でもないことのようにさらりとトマスは言って、衣装を持ってすたすたと歩き出してしまった。
「……はい?」
「出すのは二人がやってくれるから。でも重いからヒューゴの部屋の前までは運んであげてね。今エミリーさんが一生懸命ヒューゴを元気づけてくれてるから」
足を止めることなくトマスは振り返り早口でそう告げた。
「……えっといつ戻って?」
だんだん混乱してくる。何から質問していいのかわからないのでとりあえず、最初に思いついたことをキースは尋ねた。
「さっき。母上とメイジーも一緒です。じゃ、お茶よろしく。五つねー」
トマスはひらひらと手を振って、そのまま使用人ホールから出て行ってしまった。
「手伝おうか?」
突然背後から声をかけられて、キースはびくうっと肩を震わせる。
「……」
ぎくしゃくとした動きで振り返りながら、バクバク音を立てている心臓に手を当てて、深呼吸を繰り返す。……言葉が出てこない。
声をかけたアレンの方もキースの反応に驚いて目を大きく見開いている。
「驚かせるつもりはなかったんだけど……大丈夫かい?」
キースは必死に唇の両端を引き上げた。……びっくりした。本当にびっくりした。すっかりアレンがいることを忘れていた。ルークもトマスもまるでアレンが見えていないかのように……という訳ではないと思うが、実際はそんな感じになっていた。単純に食事の邪魔をしないように気を使ったのだと思うけれど……
そうですよね? 相手をするのが面倒くさかっただけとかないですよね? と、愛想笑いを必死に保ちながら、キースは心の中で二人に尋ねる。
「アレンさまは全く悪くないですよー。勝手に俺が驚いただけです。あ、お食事終わりましたね。紅茶淹れて来ますから、座ってて下さいね。少し休憩しませんか? リリィお嬢さまもリリアも一度寝たらなかなか起きません」
キースの言葉に、アレンはふっと目を細めて、少し苦しそうに微笑んだ。
「ドレスが見つかってよかった。かなり無理をして明るく振る舞っている様子だったから」
その言葉にきっと嘘はない。でも、複雑な気持ちもあるのだろう。子供の頃、同じもどかしさを抱えていたからわかる。
どうして、隠してしまうのだろう。どうして一人で泣くのだろう。
自分が頼りないから、慰めの言葉ひとつかけさせてもらえないのだろうか……と。
「……アレンさまも少しお疲れ気味ですね」
近くにあった椅子を引いて座るように促してから、使用人ホールを出る。厨房に向かって歩きながらキースは小さく息をついた。
辛いことがあった時、リリィお嬢さまが自分の本当の気持ちを隠してしまうのは昔からだ。無理に明るく振る舞ったり、こちらを怒らせるようなことをわざと言って、自分から遠ざけようとしたりする。そういう時は、慰めたり同情したりすると『そんなことない』と今度は怒り出してしまうから扱いが難しい。
目に涙を溜めながらも必死に平気なふりをしているリリィお嬢さまに、どんな言葉をかければいいのか、どう接するのが正解なのか、わからなくて胸が苦しかった……アレンはきっと、あの頃のキースと同じような歯がゆさを感じているのだと思う。
――温室に引きこもっている少女の身にそうそう大きな災難が降りかかる訳がないので、放っておいて大丈夫。
キースはそういう結論に達したけれど、ルークやトマスはまた違った考えを持っているだろうから、結局正解なんてない。アレンが自分で見つけるしかないのだ。
深追いしない方がいいと思うけどな……と、キースは心の中で呟いた。
温室育ちの臆病な小動物は、追いかけると驚いて逃げてしまう。
結局、罠を張って待ち構えるのが、一番確実なのかもしれない。
5/18 訂正しました。
この前と前の話で、大きなミスがあるのですが、直すのに少し時間がかかりそうです。
大変申し訳ございません。訂正したらご報告させていただきます。