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78 墓守の元王族 その5


「リリアさま、開けて下さい。……しばらくの間会えなくなるので」


 何度ノックしても反応はない。もう一時間近くこうしている。さすがにそろそろ出発しないと、最初の宿泊予定地に着くまでに日が暮れてしまう。遠巻きに伯爵家の人間たちが見守る中、諦めきれずに、次が最後、次が最後と扉を叩き続ける。

 実は中で倒れているという訳ではない。ちゃんとおばあちゃんのメイドが一人中にいる。だから、顔を見せないというのはリリアの意志だ。


 うそつきは許してもらえない。ルークの口もとに自嘲の笑みが浮かぶ。


「もう時間なので、行きますね」


 軽く二回ノックして、力なく腕をおろしてそのまま足元のトランクを持ち上げる。


「……お手紙、書きます」


 明らかに泣いているとわかる小さな声が、ドアの向こうから返って来た。


「リリア! いい加減拗ねてないで……」


 咎めるような声を出したリリィの頭に手を置いて、レナードが小さく首を横に振る。納得がいかないというようにリリィは頬を膨らませた。乱暴に頭を撫ぜられてどんどん不機嫌そうな顔になり、ぱしっとレナードの手を払う。


「本当に、ルークもレナードも行っちゃうからね! しばらく会ないんだからね!」


 ドアの向こうからはもう何の音もしない。

 今は返事をくれただけで十分だとルークは自らに言い聞かせる。


「ほんとうにほんとうに、行っちゃうんだからねっ」


 リリィはそう言った途端にレナードにしがみついて泣き出してしまった。


「……代わりにウォルター来るから、泣くなよ。幽霊の話、いっぱい聞かせてもらえ」


「レナードとチェスをするのっ」


 その言葉にレナードは苦いものを飲み込んだような顔をしてから、目を閉じて笑った。


「…………だから、もうチェスはやめたんだよ」

 

 ため息と共にそう言ってしゃがみ込むと、目を擦っているリリィの手をそっと掴んで止めた。


「擦ると目が腫れる。また、会いにくるから。…………泣くな」


 顔を顰めて「うーぅー」と唸っているリリィの顔を覗き込んで、レナードは珍しく素直に「ごめんな」と謝り、両手を伸ばして首にしがみついてきた少女を抱きしめた。


 おやつを食べる頃には、リリィは何もかもすっかり忘れていた。しかし、あれが怖がりな彼女の心にどんな傷跡を残したのかまだわからない。何もないかもしれないし、何かあるのかもしれない。

……だから、レナードはもう二度とチェス盤に向かうことはないのだろう。


 ――どうしてだろうな、いつもエンディングで間違う。


 左腕の怪我の手当てを終えた後、ベッドで眠るリリィの頭をそっと撫ぜながら目を伏せて自嘲気味に笑っていた。


  ――だから俺は女王を守れない。




 屋敷の外に出て、馬車に乗り込む前にルークは二階の窓を見上げる。カーテンがきっちりと閉め切られた部屋の中で、きっとリリアはブランケットを頭から被って泣いている。


 二度と戻らない。青空の下で無邪気にルークに向かって手を振ってくれた小さな女の子は、もうどこにもいないのだ。


 隣に座るレナードも、向かい側に座るクラーラも、一時間出発が遅れたことに対して何も言わなかった。馬車が動き出してしばらくしても誰ひとり口を開かない。全員が見るともなく窓の外に目をやっている。


 クラーラは一人でキリアのホテルに滞在することになった。


 激高して倒れた父親の意識が戻らない。原因は興奮剤の副作用だ。十数年前まで帝国の軍や工場で眠気覚ましとして使われていた薬が、心臓に負担がかかると判明して使用禁止となり……余った在庫が海に向こうに売りつけられたのだ。それをクラーラの父親は日常的に眠気覚ましとして使っていた。

 夫妻は王都に部屋を借りて静養することになり、父親が目を覚ますまでの間、クラーラはキリアで一人待つことになった。恐らくは……ジョエルと引き離すために。キリアはオーガスタのお膝元だから、その庇護下に入った者に手出しはできない。


 王都からキリアへ行くなら列車を使った方が早い。しかもその鉄道会社はオーガスタの持ち物だ。ルークとレナードは海に背を向けて内陸部に向かうので、クラーラと一緒の馬車に乗る必要は全くない。

 

 途中までしっかり護衛しろということなのだろう。


 ジョエルは今現在王宮に滞在しており、キリアからではなく、帝国経由で国に送り返される。何故帝国が関わってくるのか詳しいことは何も教えてもらえなかった。


 自分たちが思っていた以上に、闇は深かったということだ。

 油断があった。傲慢だった。このままの日々がずっと続くと何の根拠もなく信じ込んでいた。自分たちは……姉と兄たちに守られた温室の中でぬくぬくと育っていたのだと思い知らされた。


 ……鮫の餌が回避されたのは、クラーラがボロボロになりながらも、ひとりで全員を守り切ったからだ。


「馬車だと結構長旅になる。……そんなに気を張ってたら疲れ果てる」


 ぼんやりと遠くの景色を見つめたまま、唐突にレナードがぽつりと言う。そうして、背筋をピンと伸ばして姿勢よく座っているクラーラに視線を移した。彼女の表情は緊張と罪悪感で真っ青だ。


「背中凭れさせて楽にしたらいい。……で? 俺たちにどう扱って欲しいんだ? 国のために命をかけるつもりのない男は眼中にないんだろう? 対等な立場で政治の話でもしてみるか?」


 クラーラは、はっとした顔をしてレナードを見て、そして唇を噛んだ。


「私は女だから、対等にはなれない。……少なくともあの国ではそうなんだ」


 海の向こうはここよりもさらに女性の立場が弱い国が多い。もしかしたらクラーラの父親もあの国では一般的な男性像なのかもしれない。


「男に生まれたかったと思う。そうしたらおかあさまを守れたのに」


「そんな風に言われたのか?」


「……ううん。おかあさまは、一緒に色々な話ができるから女の子で嬉しいって言ってくれる」


「男だと、可愛い妹と手を繋ぐ事さえ許されないぞ」


 気だるげな様子でレナードがそう言うと、クラーラは目を瞬いてふと自分の両手を見て、きっと……自分より小さな二人の手を思い出した。


「……そっか。ならもうそういう風には考えないようにする」


 ようやくほっとしたように肩の力を抜いて椅子に凭れかかり、クラーラは年相応の少し幼い笑みを浮かべた。


「選挙が公正でないとか、国民の意識を変えたいやら何やら言ってたろ。どうしたら国は良くなると思うんだ? ……ああ、俺の隣のこれは彫像だとでも思っておけばいい」


 口を開く気が一切ないルークを目で指して、レナードは皮肉気に笑う。

 ルークは二人の会話を聞き流しながら、刻々と色を変える空をぼんやりと見つめていた。




 ――別れの挨拶だけは、きちんと交わした……と、思う。多分。


 国に帰った数か月後、十六歳になったその日に、クラーラは王子様と結婚して、籠の鳥になったと聞いた。


『私は、国のために命をかけられないような男性と婚姻関係を結ぶつもりはない。それに、女を力でねじ伏せ、小さな子供を虐めて喜ぶような下劣な人間に従うつもりもない』


 その声がふと耳に蘇り、さすがに少し胸が痛んだことを覚えている。


「……悲しいことは思い出さないでほしい。そう思うのは私の我が儘なのでしょうね」


「ルークさまが、悲しくなるなら……もう言わない」


 胸の中から涙声が聞こえてきた。しがみついていた腕から力が抜ける。


「……はい」


 ルークは微笑んでリリアの背中を撫ぜる。こういう所が彼女らしいなと思うのだ。ひっくひっくとしゃくりあげながらも必死で涙を止めようと奮闘する気配があった。


「一度顔を洗いませんか? 目が腫れてしまいます」


 疲れ果ててもう眠たいはずだ。そっと体を離して立ち上がると、上着を脱いで近くにあった椅子にかけて手袋も外す。水差しの水をタライに移して鏡台の上に置くと、リリアを迎えにベッド脇まで戻った。抱き上げて鏡台まで運ぶ。

 床におろした彼女が顔を洗っている間に、顔を拭くための布を用意して、コップに半分ほど水を注いでおいた。


「少し眠って下さいね。明日は今日より忙しくなりますから」


「……ドレス縫わないもん」


 顔を拭いて、コップの水を全部飲んで……それから、床を見たまま拗ねたように呟く。キャップを取って髪を止めているピンを外すと頬にかかる髪が鏡に映る彼女の表情を隠してしまった。

 その髪をひと房とって唇を寄せる。


「私は舞踏会に行けないので、お姫様、こうして私の手の届く場所にいて下さいませんか?」


 一瞬にしてリリアの頬が赤く染まる。


「……そういう言い方はずるいのです」


 焦ったような声が返ってくるからそっと引き寄せて頭の上にキスをする。頬に手を当てて、少し仰向かせて、額に、それから腫れてしまった瞼にも。

 そうやって少しずつ心の暗い影を取り払ってゆく。


「どうか、もう私の手の届かない場所に行こうとしないで下さい」


 目を細めて微笑むと、リリアは真っ赤な顔で目を泳がせ、少し気まずそうに口の中で呟いた。


「…………ルークさまはいじわるです」


「そうですね」


「むぅ……」


 何やら不満気な声を出し、頬をつついた時と同じようにいやいやと小さく首を振った。頬から手を離してやると、そのまますたすたと自分の足で歩いてベッドまで歩いて行き、ころんと横になって丸くなる。自分でブランケットを引き上げて頭まで被り、顔を隠してしまった。


「雷避けになってしまえば良いのです。泣き顔をじっと見られるのは恥ずかしいのですっ」


 ブランケット中から可愛らしい声で抗議され、ルークは思わず笑ってしまう。ベッドの端に腰をかけて手を伸ばしてブランケットの上から頭を撫ぜると、リリアはころんと寝返りをうって背をむけてしまった。それでも撫で続けていると、にゅっとブランケットから外に出てきた手がルークの手を上から押さえた。先程まで水を触っていたのに、眠たいせいなのか体温が高い。片方の手が固定されてしまったので、体を捻るようにして反対側の手でブランケットの上から耳の形をなぞるようにそっと触れる。

 途端に何やらよくわからない呻き声がした。頭の上で捕まっていた手が解放された代わりに、耳に触れていた左手が捕らえられてしまった。


「寝るのですっ」


「……どうぞ?」


 くすくす笑いながらそう答えると、抗議するように耳の上に置いた左手をぺちぺちと叩かれた。あんまりやると本当に雷避けだなと思いつつも、いちいち反応が愛らしくてついからかってしまう。


「悔しかったんですよね……クラーラさまがあなたを膝に乗せて幸せそうにしているのが。あの頃にはすでにオーガスタから接近禁止令を言い渡されていましたから」


 動きを止めたリリアの右手をそっと広げて、指先を絡めるようにして繋ぐ。そのまま軽く引っ張るところんと簡単に仰向けに転がった。繋がれた手が頭の少し上でシーツに沈むと、あいている手で彼女は慌ててブランケット引き上げて真っ赤な顔を隠してしまった


「私たちはこうして手を繋ぐことも許されなかったのに。あなたは、すごく嬉しそうにクラーラさまに小さな手を差し出していましたね。どこに行くにも手を繋いでいましたよね?」


「えっと…………寝ます」


 話の流れがおかしな方に向かいつつあるのには気付いたのだろう。焦ったような声が聞こえてくる。さらにブランケットを引き上げると、繋がれてシーツに縫い留められた右手を抜こうと抵抗し始めた。


「勝手に喋っているだけなので、気にしなくていいですよ。どうして抵抗するんですか?」


「ねるの~」


「だから、どうぞ?」


「怒ってますね? 怒ってますよね?」


「どうでしょうね?」


「ちゃんときらいじゃないけどって最初に言った!」


「でも結局、きらいって言いましたよね?」


 特に気にしている訳ではないのだが、焦っているリリアが可愛いのでもう少し見ていたいなと思ってしまった。どうやら自分は思っているより疲れていたようだ。リリィを構いたがるアレンのことを言えないなとは思う。


「……ごめんなさい」


 ぴたりと抵抗するのをやめて、ブランケットから目だけ出し、きまり悪そうにリリアが小さな声で謝罪する。不安そうに目を揺らして、そわそわと落ち着かない様子だ。

 繋がった手に思わず力が籠る。あんまりやりすぎると雷避けが……という理性が揺らいでいる。

 雷避けの先に待っているのは鮫の餌だ。檻に入れられて海に投げ込まれる。あれはシャレにならないと生還者は語っていた。


 前髪を指先で払って額にキスを落とす。


「だいすきです。たいせつです」


 彼女がまだ幼かった頃、おやすみなさいの代わりによく言っていた言葉をかけて、体を離そうとした途端に、突然がばっと起き上がったリリアに首に腕を回されて、身動きが取れなくなった。首にぶら下がるようにリリアが全体重をかけてくるから、覆いかぶさるようにベッドに手をついて体を支える。


「……え? ……どうしたんですか?」


 非常に体勢としては良くない気がする。誰かに見られたら言い訳のしようもない……のだが、誰もが見なかったフリで通り過ぎて行く気がしなくもない。


「一緒にお昼寝するのです」


 首元に顔を埋めたリリアが微かに震える声で呟く。……あ、しまった。こういう可能性もあったなと思い出した。


「仕事に戻りますから、離して下さいね」


 つないだ手を解こう試みるが、がっちり掴まれて離れない。

 抱きつかれているというより、拘束されていると表現した方が正しい気がする。自分たちはどうしても殴る蹴るから逃れられない運命なのかもしれない。


「やです。ずーっとずーっとずーっと一緒にいるのです」


 涙で潤んだ目でリリアはそう言った。それは二十四時間ひとときも離れないという宣言だろうか。


 ――このまま再び一ヶ月くらい監禁されそうな予感がひしひしと……


 一瞬遠い目をして、『鮫の餌』と『仕事』をルークは瞬時に天秤にかけた。……ロバートが生還できたのだから何とかなるかもしれない。もうこうなったら、寝かしつける。……心音聞かせれば五分で寝る。


「……はい、寝ましょう」


 リリアを抱き込んでベッドに横になる。トントンと背中を叩いてやるとすぐに胸の中で小さく欠伸をする気配があった。繋いだ手は固くにぎりしめられている。もう絶対に離さないというように。


「ルークさまと、ずっとずーっと一緒にいるのです。……もう二度と、手の届かない所に行かないで」 


 この場合の『手の届かない場所』というのは恐らく実際の距離の話だ。常に三歩以上離れるなと、そういう……


 でもこれで、ヒューゴとダンスを踊った時にした『添い寝をする』の約束を果たしたことにはなるなと、壁の模様を見つめながらルークは思った。

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