77 墓守の元王族 その4 (*)
(*)暴言と、あと血が流れます。苦手な方はご注意ください。
ドアノブを回しても、向こう側で誰かが押さえているらしくドアは開かない。
幸いにも鍵はついていない。リリィの部屋からリリアの部屋に向かって外側に開く構造だ。ルークがドアノブを回しながらドアの薄い部分を破ろうと力任せに蹴っている間、レナードはベッドで寝ていたリリィを抱き上げて衣装箱の中に隠し、目を覚ましても怖がらないようにと蓋と本体の間に本を挟んだ。
「ねえ、あの方たちは本来なら君が口をきくことも許されないような高貴なお方だってわかってるのかなぁ? この小さな頭の中は空っぽなのかな?」
「少しは弁えなよ。おまえ、ちょろちょろとまとわりついて目障りなんだよ。ふさわしくないんだ。あの方たちも本当は迷惑だと思っているんだよ? おまえがそばにいるとあの方たちの価値が下がるからね。そんなこともちゃんと教えてやらないとわからないのかなぁ」
「生まれが卑しいと心まで卑しくなるもんだよねぇ。やだやだ。本当に小汚い髪と目の色だねぇ。触るだけで色が移りそうだ」
どっと嘲り笑う声がドア越しに聞こえてくる。単なる妄言だ。だが、語彙力のない人間の言葉はどういう訳か似通ってしまう。声を打ち消そうと必死ドアを蹴り続ける。ここにいるから、必ず助けるからと少女に伝わるように願いながら。
「簡単な言葉をわざわざ選んでやっているんだから、ちゃんとわかるよねぇ。あのふたりは王族なんだよ。おうぞく。おまえはふさわしくない。いらない。めいわくなんだ。ちかくによるな、きたならしい」
「ちがうっ!」
ルークは声の限りに叫ぶ。
怖いものを絶対部屋の中に入れないと約束したのに、必ず守ると約束したのに……それがすべて嘘になった。目の前が真っ暗になり、世界からずべての音が消える。
「どけっ」
レナードが暖炉の上に飾ってあったブロンズ像を引っ掴んでドアに向かって投げつけた。ロバートがどこぞの神様の像だとか言っていたような気がするが、この際構ってはいられない。ガンッという大きな音が響き渡り、神秘の力ではなく物理的な力でドアの一部に穴が開く。音と衝撃にドアを押さえている相手が怯んだ隙を狙ってルークはドアを蹴り開けて部屋に飛び込んだ。
怯え切った目をして泣いているリリアを、少年三人が取り囲んでニヤニヤ笑いながら小突き回している様子が目に飛び込んでくる。邪魔なものをすべて突き飛ばして、両膝を床について小さな体を抱きしめた。
「……ごめんなさい」
ルークに向かってぽつりとそう呟いてリリアが目を閉じた。
「リリアさま? リリア……リリアっ」
床に座って小さな体を膝の上に乗せる。抱きしめて必死に呼びかけても、リリアは目を開けない。血の気が失われ唇が真っ青になってゆく。握った手は驚くほど冷たかった。
「怪我させんなって言われただろうが! バカかっ」
ドアを閉めてすぐに駆け寄ってきたレナードが、ナイフを投げようとしたルークの手を掴んで止めた。
「消すなとは言われていない」
氷のように冷たい声でルークは告げる。右手の手首はあり得ない方向に曲げられて関節が悲鳴をあげている。床に折り重なるようにして倒れていた侍従たちは、ギラリと光る刃物に怯えて我先に立ち上がろうとするが、お互いの体に邪魔をされて思うように動けず、罠にかかった獣のようにもがいていた。
「老人の寿命縮めるようなことはやめろ」
唐突にルークが手を開いた。落ちてゆくナイフは、レナードの手によってリリィの部屋に繋がるドアに向かって投げつけられる。
「あ……」
ドアに駆け寄ろうとしていたクラーラの父親がよろめきながら後退り座り込む。彼の耳の横ギリギリを飛んで行ったナイフは、ボロボロになったドアに深々と突き刺さっていた。
ルークの手にはすでに次のナイフが握られており、今度もまたレナードがその手首を掴んでいる。
「はなせ」
「まずおまえが、離せ」
腕の中でリリアがかすかに身じろぐ。ルークはナイフを床に落とすとレナードの手を振り払い、リリアを両腕でぎゅっと抱きしめた。
リリアの栗色の瞳が僅かに開いてルークの姿を映す。その顔に浮かんだのは安堵ではなく恐怖だった。リリアは弱々しく体を捩って身を離そうとする。ルークは絶対にそれを許さず、さらにきつく抱きしめた。
「いや……」
何を言われたのかわからなかった。拒絶されたのだと気付いた時、心臓が止まるかと思った。多分、泣きそうな顔をしていた。
「ちがう……ルークさまは、わるく……ない」
くしゃりとリリアの顔が歪んで、喘ぐようなかすかな声が唇から零れ落ちる。「わたしが……いらない」と呟いて、またすうっと眠るように意識を失ってしまう。いらないという言葉だけが頭の中で渦巻く。
心臓の音が頭の中に響く。口の中がカラカラに干上がってゆく。気を抜くと大きく体が震えてしまいそうだ。これが恐怖という感情だったと思い出す。
「大切なお姫様は壊れてしまったかもしれないね」
「黙れ!」
レナードの怒声が室内に響き渡り、侍従たちがびくっと体を震わせる。彼は床に落ちたナイフを拾い上げて怒りに任せてドアに向かって投げつけた。タンっという音を立てて、ナイフはドアノブのすぐ真上に突き刺さる。
少し離れた場所で、ジョエルは場違いな程穏やかな微笑を浮かべて立っていた。クラーラは人質のように、背中から腕で首を絞められ、反対側の手で口を塞がれている。袖は引きちぎられ、きちんと結い上げられていた髪は崩れてボサボサという痛々しい姿だ。リリアを守ろうと必死で抵抗したのだろう。その目からは涙がボロボロと流れ落ちていた。
「……クラーラだっけ? いいって言うまで、目、閉じときな」
幾分か落ち着きを取り戻した声でそう言うと、レナードは背後の飾り棚に歩み寄る。シャツの袖のボタンを外して肘の上までたくし上げてから、小さなオイルランプを手に取り、ガラスの部分を棚に叩きつけて割った。
素直に目を閉じたクラーラは、カシャンという乾いた音を耳にして、不安そうな表情になる。
レナードはガラスの破片を手に持って、ジョエルに向かって歩き出す。その途中で床に落ちている白の女王の駒に気付き足を止めた。その場で左腕をまっすぐに伸ばすと、肘の下あたりに躊躇いなくガラスの破片で赤い線を引く。表情一つ変えることなく赤く染まった破片を床に落として、靴で踏み躙るようにして細かく割り砕いた。
一連の動作をジョエルは食い入るように見つめている。目がらんらんと輝き、口角が上がっていった。
レナードは腕を下ろすと、指先まで流れた血を床に落ちているチェスの駒の上に落とし始める。
白の女王が赤く染められてゆく……
「よく気付いたね?」
興奮に上ずった声でジョエルが尋ねる。
「侍従が市場で生きたウサギやら鳥やらをこっそり買って来ては、深夜にどこかに埋めに行っているんだ、ホテルの従業員だって部屋の中で何をやってるか気になって調べるさ。掘り返したことを後悔するくらい酷い様相だったと言っていた。他人の性癖をとやかく言うつもりはないが、生きるのが大変そうだな」
レナードは、対照的に淡々とした口調だ。「そうか、君たちのせいか」ジョエルは目を伏せて穏やかな声で呟いただけなのに、床に倒れている侍従たちの間から「ひいっ」というひきつった声が上がった。
「生きにくさは特に感じたことはないな。……ねえ、その子の血はどんな色だろうね。怯えてたその子すごく可愛かったよ? きっと赤が似合う」
ジョエルがうっとりとした視線をリリアに向ける。ルークは腕の中の少女の視界を塞ぐようにしっかりと抱きしめ直した。消し去れないのならば相手をする必要もない。自分より余程レナードの方がうまくやるだろう。
ルークはそっとリリアの前髪にキスをする。
「……雷避け、の前に鮫の腹の中か」
レナードが天井を仰いで、力なく笑った。
「クラーラ」
ジョエルが拘束している少女の耳元に唇を寄せて、媚びを含んだ甘い声で名前を呼ぶ。うっかり炎に触れてしまったかのように、クラーラは息を飲んで大きく体を震わせた。
「ねぇクラーラ、君はあの男たちに襲われたんだ。我々は君を彼らの手から救出した。そうだね?」
ガタガタと震えはじめたクラーラの様子を満足げに見下ろしながら、ジョエルはまるで秘密の呪文を耳に吹き込むように声を潜めた。
「今ここでそう証言すれば、君の婚約を有利に進められるのだよ。相手は君の名誉を傷つけたのだからね。これは我が国のために必要なことなんだ。わかっているね?」
口を塞いでいた手がゆっくりと外される。
「私は何も知らない。何も見てない」
それは、息を吸う音にかき消されてしまうくらい、弱々しい声だった。従者と父親がぎょっとした顔で彼女を見る。
「クラーラ、君は自分の役割がわかっていないようだね。ちゃんとしてくれないと困るよ。女の君は、キリアルト家の人間と結婚するくらいしか国のためにできることはないのだと、あれだけ説明しただろう? ちゃんと自分の立場を弁えて物を言うんだよ?」
「私は何も見ていない。何も、知らない。何も見てない。知らない」
立っていることも辛そうなくらい怯え切って涙を流しているのに、クラーラは自らに言い聞かせるように口の中で同じ言葉を繰り返す。
「クラーラおまえっ。何故言うことをきかないっ。女はただ黙って従っていればいいんだ!」
ジョエルが穏やかだった表情を一変させ激高した声をあげた。喉に腕が食い込んだのか、クラーラは仰向いて顔を顰める。コンっという妙に明るい音が響き、「ぐっ」と苦悶の声をあげて右目を押さえたジョエルがその場に蹲った。
「ああ、悪い。血で手が滑ったな」
レナードが平坦な声で嘯いた。体を固くしていて息を止めていたクラーラは、目を閉じたままぐっと両手の拳を握りしめ一度大きく息を吸うと、自らを鼓舞するように、ドンっと床を踏み鳴らした。
「わ、私は、国のために命をかけられないような男性と婚姻関係を結ぶつもりはない。それに、女を力でねじ伏せ、小さな子供を虐めて喜ぶような下劣な人間に従うつもりもない。……私を、私をバカにするなっ」
体の奥に押し込められていたものを一気に吐き出すようにクラーラは叫んだ。しんっと室内に静寂が落ちる。
ぜいぜいと肩で大きく息をしている彼女を見て、レナードは目を伏せてふっと小さく笑った。
「クラーラ、おまえ何という口の……」
「クズはだまってろ!」
無様に床に座り込んでいる父親が、それでも精一杯の威厳を込めて娘を叱責しようとするが、それより大きな声を出したレナードに遮られる。
男の顔が怒りで真っ赤に染まるが、急に苦し気な表情となり胸元を押さえてゆっくりと横に倒れた。
「はは……ははははは……赤い、赤いなぁ……何もかもが真っ赤だ。素晴らしい!」
ジョエルが唐突に高らかに声をあげて笑い始めた。床に膝をついたまま、血がべったりとついた目で周囲を大きく見回すと、正常な方の目を片手で覆い、陶然とした表情になる。床に落ちていた女王の駒を見つけて拾い上げ、今度は喉の奥で低く笑い出した。
「ジョエルさまなりません。御身が穢れてしまいます」
ようやく立ち上がるのに成功した従者たちが駆け寄り、駒を奪おうとするが、ジョエルは握りしめて離さない。
「ジョエルさまの血の方が断然お美しく」
「……誰か一人くらいあのおっさんの心配してやれよ」
床に横たわって呻いているクラーラの父親を一瞥してレナードが面倒くさそうにそう言った時、不気味な笑い声に混ざって、とんとんとん、とんとんとん、いう微かな音が聞こえてきた。
弾かれたようにレナードが隣の部屋に繋がるドアに駆け寄ると、ナイフを抜き取ってドアノブを回し勢いよくドアを開ける。衣装ケースの隙間から小さな手が出ていた。もう片方の手で蓋を一生懸命中から叩いているのだ。
駆け寄ったレナードが怪我をしていない方の手で衣装ケースの蓋を開けると、眠たそうに目を擦りながらリリィがひょっこりと顔を出した。
「ねーねー、私、かくれんぼしたまま寝ちゃったー?」
レナードに無邪気に笑いかけた少女は……何気なく、本当に何気なく、目の前に飛んできた赤いものを小さな両手で受け止めた。
手の中に落ちた赤黒い女王の駒と、目の前にあるレナードの腕を染める赤を見比べて、リリィの顔が強張る。すぐにレナードがリリィを片腕で抱きしめて視界を塞いだ。か細い悲鳴が胸の中で上がって……消えた。
「レナードがラズベリージュースを零したんです。すぐに新しいものをご用意しますね。焼き菓子もありますよ」
落ち着き払った声でルークがレナードの背中に向かってそう告げる。リリィは寝ぼけているから、これで誤魔化されてくれるはずだ。おやつを食べる頃にはきっと忘れている。
「あっはは……はははは……ははははは……」
女王の駒をリリィに向けて投げたジョエルは、天井に向かって哄笑し始めた。
うるさいなと思いながらルークはリリアの耳を心臓に押し付けた。心臓の音に気付いたリリアはルークの胸に自分から耳を強く押し当てた。きっとそれは無意識化の行動なのだろう。
前髪にキスを落としてから、ちいさな右手を持ち上げて頬に当てる。……どうせもうすぐ鮫の餌だ。
彼女はもう……今までのように笑いかけてはくれない。
隠していた訳ではないけれど、はっきりと自分の身分を告げたことはなかった。
従兄として側にいる分には、必要のないことだと思っていた。今となっては全部言い訳だ。
――こんな残酷な形で知ることになるくらいなら、きちんと話しておけばよかった。
うそつきは鮫の餌になるから。悪夢は全部引き受けるから。
……どうか、今日のことは一日も早く忘れてほしい。
「……どうか、全部、忘れて? 私のことも全部」
心臓の音を聞いているリリアにそう囁くと、胸の中でいやいやとかすかに首を横に振る気配があった。わきあがってくるこの感情は何だろう。安堵なのだろうか。それとも絶望なのだろうか。
鍵がぶつかり合う音が近付いてきて、廊下に繋がるドアが開くと室内に灰色の軍服を着た護衛騎士たちが入ってきた。彼らは無言のまま数人がかかりで床に倒れているクラーラの父を部屋の外に運び出す。
「あいつにやられた」
レナードはリリィを胸に抱えたまま護衛騎士を振り返り、血で染まった腕を肩まで上げる。隊長と思しき護衛騎士は無言でひとつ頷き、ジョエルの前に進むと丁寧に一礼した。
「お迎えに上がりました。王宮の方でお部屋をご用意させていただいております。夕食会の準備も整っておりますので、どうぞこちらへ」
ジョエルとその従者はそれぞれ数人ずつの護衛騎士に取り囲まれる。従者たちは不安げな顔つきになって、ジョエルに指示を求めるような目を向けた。
片目を赤く染めた少年は笑いをぴたっと止めると、いかにも王族らしい鷹揚な態度で隣の部屋に立つレナードに視線を向ける。
「楽しかったよ、ありがとう。とても美しい世界をこの目で見せてもらった」
そうして何の未練もなさそうにさっさと廊下に向かって歩き出した。従者の少年たちもその後に従う。
「目的はすべて達成したから、もういいんだ。証明できてよかったよ。僕が君たちよりずっと優れているということをね。かわいそうなお姫さまたちにもよろしく伝えておいてくれ。また会うこともあるだろうから」
最後に廊下から聞こえてきたのは、二人を嘲り笑う声だった。
「クラーラ! クラーラ!」」
ジョエルたちが立ち去った後、入れ替わるように子供部屋に駆け込んできたクラーラの母親は、娘の名前を叫びながら駆け寄り抱きしめた。
「……も、目開けていいぜ」
疲れたように吐き出されたレナードの言葉に、クラーラはゆっくりと目を開けて、そのまま母親の体に腕を回した。
「ごめんなさいおかあさま、おとうさまに逆らってしまった」
床を見つめてぽつりと呟いた娘の背中を撫ぜながら、母親は歯を食いしばり無言で首を横に振り続けていた。
「罰としてリルド領で草むしり。別れの挨拶は必ず済ませておいて下さい。成人の儀の日取りが決まったら、また連絡するとのことです」
親の仇を見るような目を向けてくる二人を見て、呆れ果てたように『鳩』は告げた。
二人が失敗することを、当然オーガスタは見通していた。
自惚れるな! 今のおまえたちでは相応しくない。
全くもって役不足。自分達で思い込んでいるほど、特別な存在でも何でもない。
――二人の心をあなたたちから引き離すことなど、こんなにも容易い。
そんな『女王』の声が聞こえた気がした。
『墓守~』は残り一話です。