74 天使様の逡巡 その10
――好きだった。
過去形で語られたのだから、今は違うということなのだろうが……
果たしてそれを、本人の前で言ってしまって大丈夫なのだろうか。
「もう意地になってたのよね。ありのままの自分を受け入れてほしい、優しく声をかけてほしいって、そんな風に思っていた。自分のことばっかで、相手の気持ちなんて全く考えていなかったの」
空を見ているリリィはとてもさっぱりとした顔をしている。彼女にとっては過去の思い出話なのだろうが、アレンの方はどうなのだろう? 気まずくはないだろうか。寝転んでいるグレイスからアレンの表情は見えない。
「ヒューゴお兄さま見てると色々思い出しちゃって、もう恥ずかしくていたたまれなくて叫びたくなるのよね。……うん、今思えば、アレンお兄さまって、あそこまで可愛げのない私に対して声を荒らげることもなかったし、相当失礼な事を言われても、ぐっと言い返すの我慢してたのよね……すごい忍耐力よ? 尊敬する。私には無理だわ。あーうん、視点を変えると色々気付くことがあるわねー」
思い出の風景を見ている目をして、空に向かって言葉を投げるようにリリィは話し続けている。
……これは本当にグレイスが聞いてもいい話なのだろうか。そして、どんな顔をして聞けばよいのだろうか。神妙な顔をしているのも何か違う気がする。どうしよう。気を回しすぎなのかもしれないが……本当にどうしよう。
グレイスは居心地の悪さを感じながら、ぐるぐると悩み始めてしまう。
「私は子供だったし、お兄さまのことが好きで気が引きたかったんだけど……だからってあれはなかったわよね。そこはちゃんと反省する。アレンお兄さまからしてみれば、眼中にもない子供に勝手に好きになられて、会う度に喧嘩を売られて、でも子供相手に怒ることもできずって感じだったのよね。うん……全部私が悪いわね。ごめんなさい。結局、私の顔も見たくなかったから見分けられなかったのね。今気付いた」
そ……そろそろ止めた方が良いのかもしれない。手の中に変な汗をかいてきている。
「だから、ヒューゴお兄さまもそうなんじゃないかしら。クインのことが好きで気を引きたくて仕方がなくて、ああいう行動を取ってしまっているんじゃないかなぁ……」
話がヒューゴに移ったことに、グレイスは心の中で安堵のため息をついた。話の内容は全く頭に入ってきていない。
「……クインさま、大丈夫ですよ? ……でも、ありがとうございます」
少し遠い場所から届いたアレンの声にはっと我に返った。グレイスは両手を頬に当てる。そんなにもわかりやすく表情に出ていたのだろうか。
「顔、引きつっていらっしゃいました。……でも、リリィさまがこうなのは、いつものことですから」
微かに笑うような気配があった。
「リリアさまが、同じような反応をされます。止めようかどうしようか迷って、いつも困ったような、申し訳なさそうな顔で私を見るんですよ」
「……何の話?」
ころんとグレイスに向かって転がりうつぶせになると、リリィは上半身を起こして不思議そうにアレンを見上げた。
「悪気はないのはわかっているので、大丈夫ですよ?」
「……本当に反省してるのよ?」
「わかっています」
「ふうん?」
何やら釈然としないような顔をしながらリリィはじっとアレンを見つめていたが、それに飽きると今度は肩越しにグレイスの顔を覗き込んだ。
「……クインは本当に素直でかわいいわよね。ヒューゴお兄さまの気持ちわかるわぁ。キースもこんな感じだったなぁ。ちっちゃくて、怖がりで泣きむ……」
「リリィさま、それ以上暴露するとキース泣きますよ?」
草を踏み分ける音がして、誰かが近付いて来る気配があった。先程ヒューゴの部屋の前で、キースを宥めていた声だ。白い軍服を着ていたダニエルという名前の青年だろう。
「アレンさま交代します、今の内にお昼食べて来て下さい」
「いや、私は……」
「三十分しかないらしいです。……明日の配置の確認もあるのでさっさと行く! ちゃんとお仕事しましょう」
「……すぐに戻ります」
容赦なくダニエルに追い立てられて、アレンはかなり不満そうな声でそう告げてから、走って屋敷に戻って行った。それを見送ってから、膝をついてダニエルがリリィに声をかける。
「優秀な執事さんからリリィさまに伝言を預かりました。『昨夜眠っていらっしゃらないと思うので、余計なこと言わずに、大人しく寝てください』だ、そうですよ」
「余計なことって何よ」
むうっとリリィが眉を顰める。
「ドレス届きました。でも、スカートがまだ未完成の状態らしいんです。リリアさまが一晩あればギリギリ間に合うだろうとおっしゃっていましたから、きっと大丈夫ですよ。……ドレスの送り主からカードが一緒に届いてます」
「オーガスタお姉さまから?」
リリィはうつ伏せになったまま手を伸ばすと、ダニエルが封がされていない封筒を彼女に手渡す。
「小物類は、ドレスの雰囲気に合うものを、イザベラさまとオーガスタさまが今必死にかき集めていらっしゃいます」
不思議そうな顔で受け取ったリリィは、封筒からカードを取り出しかけて……驚きに目を瞠る。そして、空いている手を腕枕にして、力尽きたようにぱたんっと敷物の上に突っ伏してしまった。
「……アレンさますぐ戻ってきますから、我慢して下さいね。泣いていたことに気付かれるとまた面倒なことになりますよ」
封筒とカードを持った手は前に伸ばされたままだ。小さく頷いた肩が小刻みに震えている。
「……この先必要になるかもしれないからと、少し前に何着か注文されていたみたいですね」
風が吹いて封筒がふわりと浮き上がった。中のカードが飛ばされてしまわないかと目をやった途端、読む気はなかったのに文字が目に飛び込んできてしまった。
『気にしすぎないこと。僕は気にしない』
走り書きで一言だけ。
胸がどきどきしはじめたのは後ろめたさだけではない。当たり障りのない一文なのに、親密な空気を感じた。グレイスは慌ててカードから目を逸らす。恋人たちの秘密のやり取りをうっかり覗いてしまったようで少し気まずい。
「……もうダメだと思った」
聞こえてきたのは必死で泣くのを堪えているような、胸が痛くなるほど辛そうな声だった。
「昨日の夜、やっぱり眠れなかったんですね?」
顔を隠したままリリィは小さく頷く。ダニエルはリリィの手から封筒をそっと抜き取ると、カードを中に戻した。
「もう大丈夫なので、クインさまと一緒にお昼寝して下さいね」
「……うん。安心したら眠くなっちゃった。ありがとうダニエル」
顔を上げないまま再びころんと転がってリリィは元の位置に戻る。
「そうね、アレンお兄さまが戻って来ると絶対に問い詰められるから寝るわ。……おやすみ、クイン」
首を捻るようにしてグレイスに顔を受けて、リリィは照れたように笑う。目尻からこぼれた涙が、ほんのりと赤い頬を伝った。
「これは欠伸したからなの」
泣き笑いで告げられたそれは、彼女の精一杯の強がりなのだ。
「……はい。……おやすみ……なさい」
グレイスはリリィのために一生懸命笑顔を浮かべようと努力した。うまくいったかはわからないが、リリィは嬉しそうに笑い返してくれる。そして、彼女は穏やかな表情で大きくひとつ深呼吸をした。ずっと張り詰めていた気持ちを緩めるように……
「カード、預かっておきますね。後でお返しします」
「……うん」
目を閉じて涙を袖で拭った彼女は、とても……とても幸せそうだ。
そのカードこそが、リリィが『好きだった』と過去形で言った理由なのだと、さすがにグレイスもわかる。
胸がまだ少しドキドキしている。
幼い頃、絵本の中で王子様とお姫様が舞踏会で踊る場面を読んでいる時に感じた胸の高鳴りに似ている気がした。少し羨ましくて、いつか自分も……と憧れたあの気持ち。
カードの送り主は、リリィの気持ちが真っすぐに自分に向いていることを知っているのだ。だからこそ、彼女がひどく落ち込むことを見抜いているし、どんな言葉を彼女が求めているのかもわかっている――
「クインさまには、リリアさまから伝言を預かっております。『時間との戦いになるので、まずは体を休めて下さい』だそうですよ。リリィさまと一緒にお昼寝して下さいね。ご自分で思うより疲れていらっしゃいます」
ダニエルは優しいお兄さんという感じの人だとトマスは言っていたが、本当にその通りだった。……ただ、アレンに対してはぞんざいな態度を取っていた気がする。『海に投棄』とまで言っていたので、こちらも積み重なったものがあるのかもしれない。
「お昼寝が終わった後で、また改めてご挨拶はさせていただきますね。今はゆっくりお休みください。忙しくなるようですよ?」
「はい……」
背筋が伸びるような緊張感で声が震えた。グレイスはお姫様が舞踏会で王子様と踊るためのドレスの仕上げを手伝うことになるのだ。泣いていたリリィのためにも絶対間に合わせなければ!
本当にリリアの役に立てるだろうかという不安はある。役立たずだと失望されてしまうことが恐ろしい。でも、グレイスができることはきっとあるはずだ。
目が覚めたら、トマスにお願いしようとグレイスは心に決める。
どんくさくて覚えが悪いからたくさん迷惑をかけるだろう。……それでも一生懸命がんばるから。
――どうか、ここに置いてください……と。
ここにいる人たちは皆優しいから、きっと誰もグレイスに対して直接ダメとは言わない。
だからといって、彼らの厚意に甘えているばかりの自分では嫌なのだ。
沢山の花で飾られた、外界から切り離された部屋の中で、ずっと甘やかされていた。『一番大切な存在なのだ』と言葉でも態度でも示してもらった。
外の世界を何も知らず、大人たちに守られていた頃、グレイスは自分は誰にでも愛されるのだと無邪気に信じ切っていた。しかし、それは幻想なのだと残酷な形で突きつけられた。……今でも髪を切り落とした鋏の音が耳に残っている。
グレイスが本当に愛されたかった人とは、心が遠く離れてしまった。この先二度と会うこともない。
相手のことを思い出すだけで呼吸が乱れるくらい、今は辛い。だけど……
これから先何度悪夢に苦しめられたとしても、目を覚ました『今日』を諦めない人になりたい。
ルークが納屋に迎えに行った時には、キースはすでに落ち着きを取り戻し、半分寝かかっていた。
ヒューゴのことは一緒に連れてきたウォルターに何とかしてもらうとして、庭のお昼寝組のことはダニエルに任せておけばいい。他にも片付けておきたいことは色々あったが、リリアが張り付いて泣いている限りどうにもならない。
ここ数日間の疲労が一気に体に押し寄せて来る。ガルトダット伯爵家に戻って来てからというもの、予想外の事ばかりが起こる。どうしてこう次から次へと……
「ルークさん大丈夫ですか? 剥がすなら手伝いますけど……」
キースが心配そうな顔を向けてくる。離れろと言って離れるくらいなら最初からこんなことはしないだろうし、剥がそうとすればしがみついて全力で抵抗するに決まっている。
「そう簡単には剥がれてくれないと思います。明日が終わるまで体力は温存しておきましょう。キース君も、自分のお仕事片付けてきて下さいね。とりあえず明日でひと段落の……はず……」
言っていてだんだん自信がなくなってくる。キースの表情も晴れない。
「……じゃあ、時間になったら呼びに来ますね」
キースは気遣わし気な視線をルークに向けてから、踵を返して部屋を出て行った。彼も大変忙しいのだ。メイジーとジャックの抜けた穴は大きい。
「さっき僕が力でねじ伏せちゃったから、相当悔しかったんだろうね。……あ、そうだ。あのねリリア、外開きのドアに体ぶつけても絶対開かないからね。痛いだけです」
どうやらリリアはドアに体当たりをしようとしたようだ。何故そういう行動に出ようとしたかはだいたい想像がつく。
先にクインが眠る部屋に鍵かけてヒューゴが中に入れないようにしたのはリリアだ。だから、ヒューゴはやられたことをやり返しただけと言えなくもない。
「トマスさまだって蹴破るって言いました」
「単なる脅しです。外開きは絶対無理!」
「……嘘です」
リリアが顔も上げずにきっぱりと言い切る。
「確かに色々方法はあるよ? でもリリアは知らなくても良いことです。道具がいるし修理費が嵩むから」
「本当にやめて下さい。ドア枠から交換になると大変なんですよ」
ルークは慌ててトマスの言葉を遮った。余計な知識を与えたら実践しようとするに決まっている。修理だって無料ではない。
「内開きじゃないと無理だからね。でもそれやるくらいなら、ドア自体に穴開ける方法考え……」
「だからやめて下さい」
ヒューゴが滞在し始めてから、殴る蹴るの話ばかりだなと、ルークはため息をついた。
遅くなり、本当に申し訳ございません。