73 天使様の逡巡 その9
遅くなってしまいました。本当に申し訳ございません。
グレイスはリリアの言葉に何の反応も返せなかった。
――拒絶されたのだ。
その事実を心がうまく受け止められない。
今はそういう気分になれないだけかもしれない。また次の機会がきっとある。そう自らに言い聞かせても、気持ちを上手く切り替えられない。
何か一言でもあれば、きっとすんなりと受け入れられた。
でも、まるでその場にいない人のように扱われた。存在自体を認めてもらえなかった。すべて『なかったこと』にされたようで……
そんな風に物みたいに扱われるのにはもう、慣れていたはずなのに。
「クインさま?」
のろのろと顔を上げたグレイスの表情を目にした途端、リリアの眉間に深い皺が寄った。繋いでいた手が離されたと思った時にはもう彼女は走り出していた。
「リリアっ」
トマスが制止の声をあげるが彼女は止まらない。ドアに駆け寄って開けようとするが、すでに中から鍵がかけられている。ノブを回すガチャガチャという音が響き渡った。
「ヒューゴお兄さま、今すぐ開けて下さいっ」
ドアを激しくノックするリリアの顔には焦りが浮かんでいた。何の反応も返ってこないことに苛立った彼女は、ドアを睨みつけたまま壁際まで後ずさる。体当たりするつもりなのだ。
「危ないからやめなさいっ」
まさに肩がぶつかる寸前に、トマスがかき抱くようにして彼女をドアから引き離した。
「はなしてくださいっ」
トマスの手を振りほどこうとリリアが激しく暴れ出す。肘で脇腹を突かれても、天井に向かって突き上げられた手のひらが顎を狙っても、トマスは彼女の行動を読んでいるかのように冷静に受け流した。
「僕だと怪我させちゃうから、頼むから暴れないでっ。リリアっ」
踵で膝下を激しく蹴られているにも関わらず、トマスはリリアの肩を掴んで力任せに反転させ、手首を背後に捻り上げた。
「ここは堪えて。お願いだからっ。これ以上は手加減ができないからっ」
悲痛な声が廊下に響き渡る。リリアがはっとした顔になって全身から力を抜く。そのまま座り込んだ彼女の両膝が床についたのを確認すると、トマスはすぐに手を離して二歩後ろに下がった。
二の腕の辺りのジャケットの袖を強く握りしめ苦し気な声を絞り出す。
「ごめん……痛かったよね……本当にごめん……」
リリアより余程痛そうな顔をしてトマスが謝罪しているのを、グレイスはただ見ていることしかできない。リリアは呼吸を整えてから小さく首を横に振った。手を当てながらゆっくりと肩を動かす。
「申し訳ございません。……大丈夫、問題なく動きます。今怪我する訳にはいかないのに、何をやってるんでしょうね。クインさまも、怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ございませんでした」
そう言って目を伏せたリリアの唇は真っ青だ。床に片手をついて、彼女は口元を押さえた。急に暴れたせいで気分が悪くなってしまったのかもしれない。
リリアのことが心配で近くに行きたいと思うのに、足は縫い留められたかのようにその場から動かない。
「アレンとダニエルが戻って来るまで座って待ってようね」
優しくリリアに言い聞かせてから、トマスはグレイスの目の前まで歩いて来た。「持ち上げるよ。ちょっと我慢してね」と断ってから、小さな子供のように軽々とグレイスを抱き上げて、壁際に運び、頭を庇いながらそっと床におろす。
「壁と飾り棚に凭れてごらん? 少し楽だと思うよ」
素直に頷いて右側の家具に体を預け、グレイスは小さく息をついた。
「クインにも怖い思いをさせてしまったね。……暴力は怖いよね。もっと僕がうまく立ち回れれば良かったんだけど、本当にごめんね」
グレイスはじくじく痛む胸を左手で押さえた。確かに二人が揉み合っている間は呼吸もできないくらい怖かった。でもトマスはリリアを傷付けようとしていた訳ではなくて、怪我をしないように体を張って止めていたのだとグレイスは理解している。
どうしてこの人はいつも自分を悪者にしてしまうのだろう……
そのやりきれないような気持ちが顔に出ていたのだろうか、トマスはちょっと困ったように笑った。
「アレンが来たら、リリィの所に連れて行ってもらおうね。ヒューゴはこうなってしまうと頑なだから、今はちょっと無理かな……」
トマスは閉まったままのドアを一瞥して、深いため息をつく。
「……ドアを蹴破ることもできるけど……クインはそういうの嫌だよね?」
確認するように尋ねられたグレイスはしっかりと頷いた。
トマスが本気で言っている訳ではないとわかっている。でも、一見暴力とは無縁に生きてきたような人なのに、リリアを取り押さえた時に一切の躊躇がなかった。荒事には慣れているように見えた。きっと、力任せにヒューゴを部屋の外に引きずり出すことなど、彼にとっては造作もない事なのだろう。
「クインが嫌がることはしないから、心配しないで」
優しくグレイスに微笑みかけてから、トマスはドアに向かって歩き出した。心の奥底ではドアを蹴破って、ヒューゴを引きずり出してやりたいと思っているのかもしれない。でも、グレイスが嫌だと言うのなら、トマスはやらない。そういう人だと、グレイスはいつの間にか信じ切っている。
「クインが嫌だと言っているので、無理矢理ドアを開けるようなことはしません。落ち着いたら自分から出て来て下さい。……聞いてる?」
ドアの向こう側に向かって呼びかける声は、あくまで穏やかだ。
「今の君がやってることって、子供の頃のリリィと全く同じだからね。結果がどうなったかは言わなくてもわかってるよね? 同じ道を辿るつもりなのかな。本当にキースが言った通りだ。あれだけリリィのことを一方的に批判していた君は、今一体何をやっているんだろうね」
トマスは淡々とした口調で言葉を並べてゆく。グレイスには意味がわからないが、ヒューゴにとって耳の痛い言葉ばかりを的確に選んでいるのだろうなと思う。
「キースとリリアがここまで怒るって滅多にないからね。二人ともしばらく顔を合わせてくれないと思うから覚悟して。それは今君がグレイスにしたことと同じだ。……思い知ればいい」
最後に付け加えられた一言を耳にした時、心臓に氷の塊を押し付けられたような気がして体が竦み上がった。その言葉は二人の関係を壊しかねない。焦って立ち上がろうとして、足がもつれて飾り棚に肘をぶつけた。思いがけず大きな音が廊下に響き渡る。しびれるような痛みが全身に広がり、グレイスは小さく呻いて肘を押さえて蹲った。
「え? クイン大丈夫?」
トマスが焦った顔をしてグレイスの目の前に戻ってきた。
「クインさま? 大丈夫ですか?」
リリアはすぐさま立ち上がってグレイスに駆け寄ると、両膝をついて心配そうに顔を覗き込む。
グレイスの目から涙が零れ落ちたのを目の当たりにした二人は、顔を引きつらせた。
「そ、そんなに痛かったの? どこ、どこぶつけたの? 頭? 肩?」
「クインさま? 痛いのはどこですか?」
伸ばしかけた手を慌てて引っ込めて、トマスはオロオロとしている。リリアはグレイスの肩に手を置いて、真剣な顔でどこか怪我をしていないか確認し始めた。
「けんか……しないで……ください……」
グレイスは痛みを堪えて必死に二人に訴えた。
「それより、どこが痛いの?」
「それよりどこをぶつけたんですか?」
しかし、二人は全くグレイスの話を聞いてくれなかった。
「肘を……ちょっと、ぶつけました。……大きな音がした、だけです」
ひっくひっくとしゃくりあげながら一生懸命グレイスが答えると、トマスとリリアは揃って安堵の表情を浮かべた。
「私もトマスさまも怒っていて怖かったですよね。申し訳ございません。もう大丈夫ですよ。お部屋に戻って少し休憩しましょうね」
「そうだね、結局クインに嫌な思いさせただけだったね。ごめんね。ほんっとうに時間と気力の無駄遣いだった……」
普段通りの優しい雰囲気に戻った二人に安堵して、グレイスの目からますます涙が溢れてしまう。
トマスは「ちょっと待っててね、今片付けるからね」と言い置いて立ち上がると、廊下に並んでいた家具を移動させて、ヒューゴが部屋から出て来られないようにドアの前を塞ぎ始めた。まさかと思うが、そのためにこれらの家具はここに置かれているのだろうか……
さあっとグレイスの顔から血の気が引く。
「……ダメです。そんなことをしたら……かわいそうです……」
グレイスは涙でぐちゃぐちゃの顔でリリアの腕に縋りついた。さすがにそれはやりすぎだ。
ヒューゴが繊細で傷付きやすい人だということは、グレイスにもわかっている。
彼は絶対に、部屋の中で平然としている訳ではない。罰を待つように項垂れて震えていた姿が脳裏に浮かぶ。今も部屋の中で同じ状態に陥っているかもしれない。
「かわいそう……かわいそう……なのかな?」
「そうするのが当たり前になっていて、もう何も感じなくなってますね、私たち」
二人は意味がわからないというように顔を見合わせて、同時に首を傾げた。
「ごめんね、クイン。こうしないとお兄さま何か不安でさ。……色々積み重なったものがあるんだよね」
「いつ出て来るかいつ出て来るかと思っていると、落ち着かなくて仕事が手につかないんですよね。……色々積み重なったものがあるんですよ」
二人は笑顔でそう言い切った。ここまでさせる程の積み重なったものがあるのなら、グレイスが何かを言う権利はないのかもしれない。それでも……グレイスは幼い子供のように泣きながら首を振る。絶対にこれはおかしい。二人にとっては普通でも、一般的に考えたらおかしい。
泣きじゃくるグレイスを見て、リリアは弱り切った顔でトマスを振り仰いだ。
「……うん、クインが嫌なら、やめとこうね。……色々麻痺してきてるんだろうね、僕たち」
トマスはぼんやりとした声でそう言って、家具をドアの前から退かし始めた。
「あー、確かにトマスお兄さまの言う通りね。子供の頃の私と同じ行動してるわね」
涼しい木陰に用意された敷物の上でグレイスはリリィと向き合って座っている。
好き勝手に花が咲き乱れ、ベリーの木が茂みを作っている広い庭は、貴族の館の庭園という雰囲気からはかけ離れていた。夏草の上に敷かれた大きな布の上には、沢山のクッションとブランケットが一カ所にまとめて置かれており、木の根元に置かれたバスケットの中には飲み物と焼き菓子が入っている。すべて、グレイスが快適にお昼寝できるようにと用意されたものだ。
泣き疲れたグレイスは、年端もいかない子供のように甘やかされていた。ヒューゴの部屋の前からここまで一歩も歩いていない。リリアに顔を拭いてもらった後、アレンにおんぶされ、ほとんど地面に足がつくことなくこの敷物の上に辿り着いてしまった。
リリィはデビュー前の少女が着るような、ゆったりとしたワンピースを着て、髪も三つ編みにしている。とても明日お城の舞踏会に行くようには見えない。そして、数日前より少しふんわりとしたようにも見えない。ドレスが着られなかった騒動は現実に起こったのだろうか。
「私、子供の頃、態度悪すぎてアレンお兄さまに嫌われていたのよ。……今もそうかも。あ、つまりずっと付き纏われているのは、護衛じゃなくて嫌がらせ? そうならそうとはっきり言ってくれれば……」
「だから仕事です」
近くの木の幹に凭れて目を閉じているアレンが静かな声で遮った。
「……冗談よ。なんでそこで怒るのよ?」
「喧嘩を売るからです」
うんざりした顔でそう言ってから、アレンはグレイスに視線を移して、曖昧な笑みを浮かべた。
「今思い出すと可愛らしいなと思うんです。でも当時は私も子供でしたから、リリィさまは私を嫌っているのだと思い込んでいたんですよ」
「ずっとずーっとアレンお兄さまのことを睨んでるの。それで、『そんな事も知らないの? 勉強不足なんじゃない?』とか、『本当は嫌だけど仕方がないから付き合ってあげるわ』とか、可愛げのないことばっかり言ってた覚えはあります。……思い出すと恥ずかしくて叫び出したくなるわね」
頬を真っ赤に染めて、リリィは近くにあったクッションを掴むとぎゅうっと抱きしめて顔を隠した。
「常に喧嘩腰だったの。それで場の空気が悪くなると、そのまま突っ伏して寝ちゃうの。やりたい放題。嫌われて当然だった。反省はしているのよ。だから今こうして仕返しされても黙って耐え……」
「今も喧嘩腰ですよね」
ゆっくりと瞼を上げて、アレンため息をついた。まだ赤い顔をクッションから上げて、「そんなことないわよ」と拗ねたように呟いているリリィは、同性のグレイスから見ても大変可愛らしい。
「でも、あの時私がアレンお兄さまに。リリアみたいな可愛らしい笑顔で挨拶できていたなら、今の私たちの関係性も変わってたかもしれないのよね。小さい頃から一生懸命貴婦人になろうと努力して、私も普通の伯爵令嬢に育っていたかもしれない。……普通って何かよくわからないんだけど」
「少なくとも、明日着ていく予定のドレス着られないといことにはならなかったでしょうね」
さすがに嫌味であるということはグレイスにもわかった。しかし、リリィは意に介した様子もなく、くすくすと笑い出す。
「そうね。でも、あれはリリアの体型に合わせて作られたドレスだったんだから、私が着られなくても仕方がないのよ!」
「……開き直りましたね。少しは反省してください」
やれやれとばかりにアレンがため息をついた。
「だって着られなかったんだもん! 反省してドレスが着られるようになるならいくらでも反省するわよ」
あっけらかんと言い切ったリリィを見て、これは何を言っても無駄だと思ったらしく、アレンは再び目を閉じた。やはりドレスが着られなかった騒動は現実に起きていたのだ。リリィは全く気にしていないように振る舞っているが……本当にそうなのだろうかとグレイスは疑問に思う。あまりに声が明るすぎる気がしたのだ。
リリィはころんと横になると、小さく欠伸をして、胸に抱えていたクッションを頭の下に敷く。
「クインも横になったら? 木の隙間から見える空がきれいよ。色々あって疲れたでしょう?」
リリィが大きく伸びをするように頭の上に手を伸ばして、手に当たったクッションを掴み取ると、そのままグレイスに向かって投げる。そして、自分の顔の横をポンポンと叩き始めた。ここにクッションを置けというように。
「ありがとう……ございます……」
受け取ったクッションを指定された場所に置くと、クインはゆっくりと体を横たえた。アレンがブランケットを拾い上げて大きく広げると、二人の体にそっとかけてくれる。
「私とヒューゴお兄さまって、性格が似てるのよ」
リリィは空を見上げながら、困ったように微笑んだ。
「だから、今頃落ち込んでるんだろうなーってことはわかるの。でも、どうしてああなっちゃうのかはわからないのよ。私もあの頃、どうしてこんな偉そうな態度しか取れないんだろうって、悩んでたなぁ……」
「リリィさまは素直過ぎるのだと、侯爵さまはおっしゃっていましたよ。兄以外の男性とどう接していいのかわからないのだ……と。私はその言葉の意味を深く考えることもありませんでしたが」
アレンの言葉には、ほろ苦い後悔が滲んでいた。もう取り戻せない時間を少し惜しんでいるかのように。今の二人の関係性にリリィは満足しているようだけど、アレンの気持ちは少し違うのかもしれない。
リリィの頬の上で木漏れ日が揺れている。それを見ている内に、だんだん頭がぼんやりとしてきてしまう。もう眠れないと思っていたのに、一度にいろんな情報が入ってきて、少し疲れてしまった。
髪を揺らしてゆく風が気持ちいい。草の匂いがする。鳥の鳴き声がして頭上の梢がガサガサと揺れた。視界の隅で光が踊る。その光の先に、ピンク色の花が咲いているのを見つけた。
哀しそうな横顔と、花冠を丁寧に整えていた指先を思い出して、胸がまた苦しくなる……
「私、あの頃、アレンお兄さまの事が好きだったのよねー」
あまりにのんびりした声で言われたので、うとうとしかけていたグレイスは何気なく聞き流してしまいそうになったのだが……
ん? と思った時には眠気はすっかり吹き飛んでいた。