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72 天使様の逡巡 その8


 グレイスの喉に木の棒を押し付けて呼吸できないようにしながら、異国人の男はフィンとマーゴを容赦なく脅しつけた。地面に座り込んで真っ青な顔で震えていた二人の姿を覚えている。


 リリアがもし自分と同じ目にあったら。

 自分がフィンとマーゴの立場になったら。


 そんなことは想像したくもない。グレイスは思わずリリアにしがみついた。


「わたしは……リリアさまが……怪我をするのは……絶対に、いやです。……わたしみたいな目に……あってほしくない。……いやです」


 栗色の目を見て必死に訴えかける。大きく目を見開いてからリリアは膝をついて、ぎゅっとグレイスの両手を握った。


「わかりました。クインさまと一緒にお屋敷の中にいます。お約束します」


 顔を覗き込むようにして優しい声でそう言われて、また涙が溢れ出してしまった。


「もう……こわいのは……いや、です。誰かがこわい目にあうのは……もっと、いやです」


 首を横に振りながら一生懸命言い募る。


「ごめん……脅すみたいになっちゃったね」


 弱り切った声でトマスが謝罪をする。グレイスは首を横に振った。こんなのは脅された内には入らない。


「敷地内は絶対に安全ですからね。護衛騎士が外を巡回していますし、門番もいます。背の高い鉄柵でぐるりと囲われていますから、見つからないように侵入するのは無理です。一人で外におびき出されない限りは怖いことは何も起りません」


 リリアが落ち着いた声でゆっくりと説明してくれる。グレイスは拭いきれない不安を抱えながらも、大丈夫だと自分自身に言い聞かせるために頷いた。


「妹たちには護衛がついてるんだよね。その人たちがクインのことも守ってくれているから、本当に心配しなくていいよ。リリィにアレンがひっついてたの覚えてる? あれはいきすぎなんだけど、まぁあんな感じ。リリアの護衛の人は後で紹介してもらってね。優しいお兄さんって感じの人だからね。一ヶ月経ったら、護衛と一緒に外出できるから、体力を戻そうね」


 グレイスはようやく安心して、縋るように握りしめていたリリアの手をゆっくりと離した。


「それでね、明日はお兄さまたち、お城の舞踏会に行かないといけないんだ。クインはリリアとヒューゴと一緒にお留守番してもらうことになるんだけどね……」


 おしろのぶとうかい。


 今までグレイスの日常の中には存在しなかった言葉だ。驚いて固まってしまったグレイスの横で、納得がいかないという顔をしてリリアがトマスに尋ねた。


「どうしてヒューゴお兄さまは参加されないのですか?」


「頭に包帯巻いて参加するのは無理……」


「単なる擦り傷です。たいしたことないです」


 キースがトマスの言葉に被せるように、すぐさまそう説明した。その目はまっすぐにグレイスに向けられていた。『頭に包帯』という言葉に反応したグレイスが顔色を変えたことに気付いてくれたのだ。


「うん。おでこのど真ん中に青あざと擦り傷を作っただけ。かなり間抜けな感じになってたから包帯で隠したら、今度は大怪我したみたいになってね……」


 はははは……と、トマスが力なく笑った。


「もうこれは、舞踏会に連れて行くなという神様からのお告げだと思うことにしました。この後お茶でも飲んでお互い相手に慣れようね。まず普通に会話できるようにならない限りは、もうどうにもならないからさぁ。……このままだと、リリアがヒューゴを蹴り飛ばさないか心配で、お兄さまたち舞踏会行けない」


 無理な笑顔を消して、最後は暗い声でトマスは言った。グレイスの隣では、蹴り飛ばすとまで言われてしまったリリアが、難しい顔をして考え込んでいる。物問いたげなグレイスの視線に気付くと、彼女はとても申し訳なさそうに小さく息をついた。


「……私、ヒューゴお兄さま、苦手なんです」


 ……何となくそんな気はしていた。

 相手を近寄らせないように心の壁をつくっているというか、一線を引いているように感じられたから。

 憂鬱そうな顔になって落ち込んでゆくリリアをみて、彼女もこんな気持になることがあるのだと驚いた。いつも穏やかに笑っていて、誰にでも優しくできるのだと勝手に思い込んでいたのだ。


「明日一緒にお留守番なんですね……」


「ごめん、こっちも余裕ない……」


「そうですよね……わかってはいるんですけど……ちょっと気持ちの整理が……」


 リリアが打ちひしがれた様子でそう呟く。室内の空気がどんよりと沈んでゆく。それに影響されたのか、トマスとキースの表情も暗くなっていった。


「うん……ごめん……できるだけ早く帰って来るつもりではいるんだけど、全員無事に帰って来られるかどうかはわからない……」


 ……お城の舞踏会というのは、行ったら無事に帰って来られないものなのだろうか。

 戸惑うグレイスに気付いて、トマスが中途半端な笑顔を浮かべた。


「ごめんクイン、変な空気になっ……て……?」


 慌ただしい足音が近付いて来たなと思った途端、ノックの音がして返事も待たずにバンっとばかりに扉が開く。室内に飛び込んできたのはアレンだった。


「大変ですっ。リリィさまがドレスに入りません」


 ……ん? 何か言い方が変だなと全員がまず首を捻った。故に状況を理解するまでにやや時間を要した。


「……え? ドレス着られないってこと? なんで?」


 トマスが茫然とした顔でアレンに尋ねる。


「えっと……少し……その……ええと……ふんわりと? ……されたみたいで」


 アレンは必死に言葉を探し出した。トマスの顔からすべての表情が消え失せる。


「お城の舞踏会、明日なんだけど」


「でも、入りません……」


「他にドレスないんだけど」


「でも、入りません……」


 苦悩するアレンの横顔は思わず目が惹きつけられるくらい魅力的だったが、今は見とれている場合ではない。無理矢理視線を外して、グレイスは心臓に手を当てた。鼓動が早くなってゆくのがわかる。

 お城の舞踏会に着ていく予定だったドレスが今着られないというのは……大問題なのではないだろうか。

 

「やっぱり戻りませんよね……」


 ぼそりとリリアが呟いているのが聞こえてきた。銀盆を持ったキースが近寄って来て、ソファーの傍らにしゃがむと、二人にだけ聞こえる声で「寝て起きて体型戻ってたら苦労ないって……」と呟きながら、飲みかけのレモネードに手を伸ばす。


 キースとリリアは同時にちらっとグレイスを見て、内緒ですよというように目配せした。

 それで確信した。二人は知っていたのだ。リリィがドレスを着られないであろうことを。


 リリアが左手を差し出すので、グレイスはもう条件反射で右手を乗せる。そのままゆっくり立ち上がり、ドアの前で立ち尽くしているアレンの脇をすり抜けるようにして部屋から抜け出した。

 二人に続いて、レモネードのグラスを乗せた銀盆を持ってキースが廊下に出てくると、トマスとアレンを刺激しないように静かに背後のドアを閉める。


「実は、昨日の夜に、これはちょっと危ないぞって話になったんですよ。俺とリリアはこうなることは知ってたんです。有能な執事が朝から代わりのドレスを探しているんですが、まだ見つかったって連絡こないんですよね……大丈夫なのかなぁ」


 グレイスの歩調に合わせて歩きながら、小声でキースがそう言った。

 大丈夫だろうか、無事ドレスは見つかるのだろうかと、グレイスも不安になってくる。リリィのドレスの話なのに、全く自分には無関係だという風には考えられない。当主も知らない秘密を知ってしまったのだ。

 

「……クインさま、縫い物はお得意ですか?」


 え? とグレイスは顔を上げてリリアを見た。リリアの言葉を胸の中で繰り返す。心を大きく揺さぶった感情が何なのか、あまりに久しぶりでよくわからなかった。


「あ、あの……わ、わたし……針仕事だけは、自信、が……あります。ドレスを、直したことも……あります」


 グレイスの頬が赤く染まり、目がきらきらと輝き始める。

 従兄に命じられて『お嬢さま』に譲り渡すために、自分のドレスに鋏を入れてサイズを直した。あの時は悲しくて涙を堪えながらの作業だったけれど、それが今ここで役に立つのなら……

 子供のように、やりたい! と全身で訴えるグレイスを見て、リリアも笑顔になった。


「とても頼もしいです。新しいドレスが届いたら、すぐにスカートの丈を直さないといけませんし、肩が大きく出るようなデザインの場合は、レースで襟ぐりと袖を足す必要があるかもしれませんね」


「おばあちゃんたち老眼だから、細かい作業はやりたがらないんですよ。リリア一人だと限界がありますしね。クインさまが手伝って下さるなら助かります」


「万が一ドレスが見つからなかったら、今あるものを直しましょう。二人いれば何とか間に合うと思います」


「はい」


 力強く頷き合ったリリアとグレイスを見て、キースは少し気持ちに余裕ができたようだ。表情を緩めると「先に行きますね」と一言断ってから足を速めて廊下を進み、二つ先にあるドアの前で立ち止まった。


 行きに通った時にも不思議に思ったのだが、何故かそのドアの両側にだけ、古い家具がいくつも並べられていた。それも廊下に置くには不自然なデザインのものばかり……

 キースはドアに一番近い古いテーブルの上に銀盆を置いてからドアをノックした。ややあってから恐る恐るというように、部屋のドアが僅かに開く。

 

「……キース、さっきアレンが、ドレスがどうのこうの言ってなかったか?」


 力ない声がドアの隙間から聞こえて来る。キースがドアノブを握って……引こうとしてもドアは全く動かない。


「あー聞こえたんですねー。でもヒューゴさま明日舞踏会行きませんよね。なのでそこは気にしなくていいです。……で、開けて下さい。何で中から引っ張るんですか」


 キースがドアの隙間に向かって声をかけている。


「丁度クインさまもいらっしゃるので、居間でお茶でも飲んで親睦を深めましょう。明日に備えましょう。自己紹介すらまだですよね……って、閉めるなーっ」


 ドアの隙間にキースが靴先を捻じ込むと、そのまま片腕を無理矢理突っ込んでドアノブを両手で握っているヒューゴの手首を掴んだ。


「手、離してください。ドアノブから今すぐ手を離しましょうね。抵抗しないでさっさとはなすっ」


 内側からドアを閉めようとしているヒューゴと、開けさせようとしているキースの攻防が、目の前で繰り広げられている。数日前に同じような光景を目にしたことをグレイスは思い出した。……廊下側から見るとこういう感じだったのだ。


「あなた儀礼称号で伯爵名乗ってる人ですよねっ。ここに来る度にリリィお嬢さまに、『伯爵令嬢としての自覚がない』だのなんだの文句ばっかり言ってましたよね。じゃあ、あなたも自分が伯爵だという自覚持って行動するべきなんじゃないですかねぇ」


 怒りのせいかキースの言葉が荒れてきている。とうとうキースはヒューゴの手を拳で叩き始めてしまった。大丈夫なのだろうか。あれは叩く方も叩かれている方も相当痛いのでは……


「俺忙しいんですよ、あなたが使い物にならないせいで、余計な仕事抱えることになった人がいるってわかってますよね? 今この家、おじいちゃんとおばあちゃんしかいないんです。少しでも早く帰って来てほしいのに、あなたが丸投げした仕事を片付けなきゃいけないから、帰りがどんどん遅くなってるんです。明日舞踏会なのにまだなーんにも準備できてません。そこにさらにリリィお嬢さまがドレス入らない問題まで持ち上がったんです。お嬢さまの体型変わったことに気付かなかった俺やリリアも確かに悪いですよっ。でも、忙しくてそこまで気が回らなかったんですっ。睡眠時間ギリギリまで削ってるんです。正直言ってあなたに構ってるこの時間がもったいないんですっ。もういつまでも恰好つけてないで、本当にさっさと開けろーっ。これ以上情けない姿晒して、クインさまを失望させるな―っ」


 キースの声が大きくなってゆく。先程のグレイスと一緒で、自分の声に興奮して、気持ちが抑えられなくなってしまっているのだ。


「キース? キース落ち着け。あと僕が何とかするからちょっと休憩しておいで。アレン、ダニエル、その子納屋に持ってって!」


 背後のドアが開いて、焦った声でトマスがそう命じた。


「色々あったんだよな。うん。わかるわかるよ。俺もアレンさまをキリアの海に投棄しようと何度も思った。とりあえず納屋に行こう納屋に。そこで落ち着こうな。……アレンさま足持って下さい」


 アレンと一緒に後方から走って来たのは、白い軍服を着た見知らぬ青年だった。彼はキースを羽交い絞めにしてドアから引き離す。アレンがキースの足を持つと、二人はあっという間にキースを抱え上げて運び去った。


「…………あ」


 ややあってから、リリアがグレイスに向き直って、大切な事を思い出したというようにパンと手を叩いた。


「今の白い軍服の方が、私の護衛をして下さっているダニエルさんです」

誤字報告本当にありがとうございます。

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