幕間 その2
……疲れているんだけどな。
ルークはそう思った。落ち着かない様子のダニエルから報告書を受け取り、しがみついてくるリリアの頭を撫ぜ、不平不満を申し立てるリリィの話を聞き流し、大人しく順番を待っているキースの哀れむような視線に耐える。
「報告書に全部書いておいたんで、読んでおいて下さい。キース、終わったからいいよ」
「あー俺も明日でいいです。はやく休んで下さいね。おやすみなさい」
二人は揃って踵を返して仲良く部屋から出て行く。色々諦めたらしい。
「ねーねー、ルーク聞いてる?」
腰に手を当ててリリィが文句を言っている。聞いてはいるが、内容は全く頭に入ってこない。
気付けばリリアが半分寝ている。ここで寝られるのは大変困る。慌ててルークはリリアを体から引き離して肩を揺すった。白いエプロンを外して髪も三つ編みにしているが、黒いワンピースのままだ。寝るなら着替えた方がいい。
「リリアさま、ここで寝ないで下さい。部屋に戻りましょう。リリィお嬢さまも送っていきますから」
一方リリィの方は、ゆったりとしたワンピースに三つ編みという、昼夜逆転生活を送っていた頃の『いつでもそのまま寝られる服装』をしている。
「ルークは平気なの? リリアにずーっと纏わりつかれてても、鬱陶しいとか一人になりたいとか思わない?」
……それを今本人の前で答えろと。
「……ここで寝ます」
リリアがふにゃりと幸せそうに笑う。
「ダメです」
「ここ、わたしのおへや……」
「ちがいます」
リリアは立ったまま寝かけている。使用人をしている彼女はリリィより朝が早い。しかもクインの看病で睡眠時間をギリギリまで削っている。かくんとリリアの足から力が抜ける。慌てて抱き上げて、ソファーに寝かせた。こっちは後で部屋に放り込むとして……問題はもう一人の方だ。
「仕事の邪魔されたり、十五分ごとに休憩しろと声かけられたり、ずっと後をついて来られるのって、辛くない?」
それをやっているのはリリアでなくアレンだ。
今自分が何をしているのか胸に手を当てて一度考えてみてほしい。そうルークは思ったが口には出さなかった。こっちもさっさと片付けよう。明日も早い。
「リリィお嬢さまは、ずっと一緒にいたリリアさまを鬱陶しいとか思った事ありますか?」
「ないわね」
ぱちぱちと目を瞬いて、リリィは少し考え込むような目になった。
「そっか、相手に対する気遣いなのよね! アレンお兄さまにないのはそれ」
相当失礼な事を言っているが、恐らく自覚はない。
「……気遣いはあります。ただ、構いたいという気持ちを抑えられないだけですね」
「構って欲しいのを我慢できないリリアと一緒ってこと?」
どうしてこう誰彼構わず喧嘩売るかなと、ルークはため息をついた。
「……結局私に何を言わせたいんですか」
「単なる八つ当たり」
わかっているならやめましょう。言っても無駄なので口には出さない。
「部屋戻りますよ。さっさと寝て下さい」
「リリアは?」
「戻って来てから運びます。一度に二人は無理ですね。……では、お嬢さまお手をどうぞ」
「起きた時ルークいないとリリア泣くんじゃない?」
「しばらく起きないから大丈夫です。行きますよ」
むうっと頬を膨らませながら、それでもリリィは素直にルークが差し出した右手を取る。そして不思議そうに首を傾げた。
「なんか久しぶりなのに違和感ないわね、変なの。……あ、そういえばこっちにチェス盤ってきてない?」
どうして今になって、急にチェス盤の存在を思い出したのだろうか。ルークは内心の動揺をきれいに押し殺して微笑む。
「……唐突ですね。ないですよ」
「あれ? 昔使ってたやつってどこ行ったっけ?」
「レナードが売り払いました」
「……嘘よね」
こういう時のリリィの勘の鋭さは本当に厄介だ。しかし、レナードに繋がる話はさっさと終わらせるに限る。
「おじいさまのところに貸し出して、そのままですね。ところで、リリィお嬢さま、ちょっとふっくらしてきてません?」
ルークはさりげなく話題を変えた。そうしてリリィを見下ろすと、彼女は顔を強張らせ、あいている手を頬に当てる。どうやら自覚はあるようだ。
「リリアさまが着る予定だったドレスなんで、結構細いですよ。ちょっとでも体型変わるとその分コルセット締めるので苦しいと思うんですけど、大丈夫ですか?」
「リリアより私の方がふくよかだと言いたいのね」
「……事実ですよね」
うっとリリィは言葉につまった。頭の先から足の先まで見て、これ、危ないなとルークは思った。もともとギリギリだったのだ。太らせないための野菜スープ生活だった訳だが、裏目に出た。人間苛々すると食欲に走りがちだ。
王宮から届いているお菓子を、リリィにはあまり食べさせないようにとキースにはお願いしておいたのだが……
アレンの体型は変わっていないから、彼は間食せずに真面目に警護しているのだろう。リリィもさすがにアレンの前で頻繁に甘いものを食べたりはしないだろうから、アレンの監視から解放された後、つまり寝る前に食べていた可能性が高い。……それが一番太る。
ドレス……ドレスか。どこかに余ってはいないだろうか……
王宮の舞踏会に合わせて、お針子たちは今必死に注文されたドレスを仕上げている筈だ、既製品も完売状態だろう。ユラルバルト伯爵家に着ていった古典的なドレスをもう一度着ていくという訳にもいかない。
そうなるともう、オーガスタを頼るしか……
……嫌だな。ルークの眉間に皺が寄る。従姉は史上最悪の高利貸しだ。
「リリィお嬢さま、明日から間食禁止にしましょう」
とはいっても、それで何とかなるとは思っていない。
リリィは難しい顔をしながら人差し指で自分の頬をつつき、その後お腹周りを触って確認している。その内泣きべそをかきはじめた。さりげなく目を背けていた現実と向き合ったようだ。
「太ったかも……」
かも。ではなく、太った。心の中でルークは静かに断言した。リリィはルークから手を離すと、両手で顔を覆ってしゃがみ込み、子供のように泣き出してしまう。……こうなる前に自制して欲しかった。
「だってだって、イライラしたんだもんっ」
「寝る前に甘いもの食べると太りますからね……」
「どうしよう……今から痩せられる?」
「無理でしょうね。何とかしてドレス探しますよ……みんなが大混乱に陥るので黙ってて下さい……ね……」
そのまま部屋から外に出ると、廊下の真ん中で水差しと燭台を持ったキースが茫然と立ち尽くしていた。漏れていた会話を聞いてしまったのだ。
顔を洗うための水を用意して、わざわざ持ってきてくれたようだ。本当に優しくて気遣いのできる良い子に育ったなと思う。……この世の終わりを見たような顔をしているけれど。
「俺のせいですよね……」
そのまま床に崩れ落ちてゆくキースから、慌てて燭台と水差しを取り上げる。
「なんか妙に焼き菓子の減りが早い気がするなーとかは思ってたんですけど、忙しくてそこまで気が回らず……すみません……」
廊下に膝と両手をついてキースが懺悔しているが、間違いなく彼のせいではない。
「キース君のせいじゃないですよ。リリィお嬢さま、黙って食べたんですね……深夜に家政婦室に忍び込んだんですか?」
ルークが傍らのリリィに尋ねると、びくうっと体を震わせた。
「ち……ちがうわよっ、おやつに出たのを取っておいて夜に食べてただけよっ」
「でも、おやつも食べてましたよね。……準備手伝うとか言いつつ掠め取ってましたね! 一体どこに隠してたんですか」
キースが普段よりやや強めの口調で尋ねると、リリィは涙で濡れた顔を上げてキースを睨みつけた。
「ハンカチに包んでポケットに入れてたのよ。気付かないキースが悪いっ」
「なんでそうなるっ」
「キースが気付いてれば、こんなことにならなかったのよっ」
「そこで責任転嫁しますか普通」
「みんなキースが悪いっ」
「だからなんでそうなるっ」
深夜の廊下に座り込んで言い争っているキースとリリアを見下ろしながら、本当に何故こうなったのだろうとルークは考えてみた。
……よくわからない。頭がもう働かない。疲れているから早く休みたい。それに、さっさと部屋に放り込まないとリリアが完全に寝る。
「キース君、お水ありがとうございます。二人ともおじいちゃんおばあちゃんたちもう寝てるんで静かにしましょうね。はい、リリィさま部屋戻りますよ。キース君も早く休んで下さいね」
水差しを室内に運び込み、熟睡しているリリアにブランケットをかけてから、廊下に出て念のために鍵をかける。
キースを立ち上がらせて燭台を手渡すと、泣きながら怒っているリリィの手を再び取って歩き出す。こういう場合はさっさと引き離すに限るのだ。
ルークもリリィも夜目は利く方だし、幽霊に対する恐怖心もないので灯りを必要としない。
むっとした顔で黙り込んでいるリリィの手を引いて闇の中を歩きながら、『じゃあ黙ればいいんでしょ、黙れば!』という不貞腐れ方が、リリアにそっくりだとルークは思った。
今まで、嫌な事があればリリィはすぐに寝てしまっていたから、こういう一面が表に出てきていなかったのかもしれない。
愚痴に付き合ってリリィの体重が減るならいくらでも付き合うが、そういうことにはならないので、さっさと寝るように言い聞かせてから部屋に押し込む。
使用人棟の自室に戻ると、キースが部屋の前で待機していた。リリアを一人にすることに抵抗があったのだろう。部屋の鍵をかけなければよかったとルークは後悔する。そうすれば中で座って待っていてもらうことができたのに。
「お疲れさまでしたキース君」
暗い顔をしたキースはのろのろと顔を上げて、どんよりとした目でルークを見た。気持ちはわかる。聞かなくてもいい事を彼は聞いてしまった……
「……ドレスの方はオーガスタに頼めば何とでもしてくれますよ」
「高くつきますよね……大丈夫なんですか?」
「今はこっちにウォルターがいますから、あまりに無茶な事を言ってくるようなら止めてくれると思います。……キース君も早く休んで下さいね。ありがとう。いつも助かっています」
キースも疲れているはずだ。早めに休ませるために無理やり話を切り上げる。
「ルークさんもできるだけ早く休んで下さいね。朝食のことは心配しなくても大丈夫です。ぎりぎりまで寝て下さい」
心配そうな顔でそう言うと、キースはそのまま足音を立てないように静かに去って行った。
本当に彼は心優しい好青年に育ったのだが……何故か毎回割を食う。
ルークは部屋の鍵を開けながら、今日一日の疲れが体に圧し掛かってくるのを感じた。
――何とかして、あともう一人片付けなければならない。