71 天使様の逡巡 その7
どうして、そんな苦しそうな顔でトマスが謝るのだろう。彼がグレイスを助けなければならない理由なんて何もない。放っておくことだってできた。勝手に決められたことに憤りを感じるのならそれは完全な八つ当たりだ。ちゃんと頭ではそう理解している。
「……ひどい……です」
ぽつりと唇から言葉が零れ落ちる。マーゴが抱きしめてくれているのに体が震えはじめる。怒りの感情が抑えきれない。これをぶつけるべき相手は彼ではない。それだけは確かなのに……
「うん。ごめんね」
「わたしは……いやです。どうして……どうして……こんなことに……」
「うん……納得いかないよね」
「なっとく……いかない……です。……かえりたい……かえしてっ。ひどいっ……わたし……わたしはっ……ものじゃないのに……みんな……みんなかってにきめてっ」
感情に任せて鋭くなってゆく自分の声が耳障りで耳を塞ぎたい。今まで言えなかった言葉が、どんどん体の中からあふれ出してしまう。心の中は荒れ狂い、様々な感情が一気に押し寄せてくる。暴風の中に立っているように訳がわからない。
「どうしてわたしだけっ。どうしてっ」
怒りと悲しみと諦めと……安堵。そして自分への嫌悪感でまた怒りが湧きあがる。
これはおかしい。彼にぶつけるのは絶対におかしい。わかっているのに止まらない。自分の中に押し込めていたきれいじゃない感情が噴き出してしまう。
どうして自分だけこんな目にあうのかと、恨む気持ちが。
どうして、どうして自分だけがと、他人を妬む気持ちが。
みんな嫌い! 従兄も奥様もお嬢さまも嫌い。
女王様然とした女も、それに従っていた浅黒い肌をした小柄な男も、派手な目付け役も、自分を金で買おうとした男たちも、みんなみんな、大嫌いっ! 地獄に落ちればいい!!
頭の中に響く自分の声を消し去りたい。それは正しくないと心が悲鳴をあげる。正しく生きなければ……正しく生きなかったから、失ったのだろうか。
「かえしてっ……かえして……」
泣きながら手を伸ばす。トマスに掴みかかろうとするかのように。
「お嬢さま……」
マーゴが泣きながら。必死にグレイスの体を抱きしめる。フィンが唸り声をあげるようにして泣いている。
感情のうねりが大きすぎて頭痛がする。喘ぐような呼吸を繰り返す。空気を吸っているはずなのに息苦しい。
「かえりたい……かえして……」
力なく手が落ちる。マーゴの小さな体に縋りつきながら口の中で呟いた。
誰も傷付けたくない。穏やかに生きていたい。
母が望むように……生きたかった。それだけだった。
でも……グレイスの世界は少しずつひび割れて、崩れ落ちて行った。
息が苦しくて頭が痛い。もう声が出ない。一時的な感情の昂りを持続させるだけの体力が今のグレイスにはないのだ。そのことにほっと安堵する……酷い言葉を、汚い感情を、もうこれ以上トマスにぶつけずにすむ。
背中を撫ぜているマーゴの手に意識を集中させる。諦めてしまえば楽になれる。今までだってずっとそうしてきた。
「……わたしは……正しく、生きられなかった……のでしょうか……」
心の内で他人を恨んでいたから、妬んでいたから、だから色々なものを失ったのだろうか。
「お嬢さまは……正しく生きていらっしゃいましたよ。奥様の言葉を健気にお守りになってずっと……ずっと……」
頭の上で囁くマーゴの言葉に安堵する自分もいる。
でも、冷めきった声が嘲笑するように言ったのだ。
――いらなくなった『物』を捨てたのは自分でしょう?
足元が崩れ落ちて、体が高い所から急降下したような感覚に襲われた。一気に血の気が引くというのはこういうことなのだろう。虚脱感に支配されてぼんやりとしてしまう。
本当はわかっていた。『物』として扱っていたのは自分も同じだ。
もうとっくの昔に、グレイスは父を見限っていた。何の期待もしていなかった。どうせ言葉は通じない。だから声もかけない。あの砂糖菓子がすべての原因だとわかっているのに、摂取し続ける父を止める事もしなかった。ただぼんやりと背中をみているだけ。父親を『物』同然に扱っていた。
ただ、奇跡が起きればいいなと、願っていた。いつか、何かのきっかけで、『物』が『人間』に戻ってくれるといいと。それだけ……
いくら綺麗事を並べたってその事実は変わらない。
全部自分のせい。それでいい。
「間違えたのは君じゃない」
強い口調でトマスがそう言い切った。我に返ってゆるく首を振る。そこに意味などない。トマスの言葉を否定したい訳でもない。
違う……本当は無意識の反発だったのかもしれない。
我慢には慣れているはずだった。ずっと心を波立たせないようにと自分に言い聞かせてきた。全部自分のせいにしてしまえばそれで諦めがつく。
お願いだから、もう心を乱す言葉をぶつけないで。
怒りや憎しみは抱えたくない。疲れてしまう。
誰とも争わずに平穏に生きていきたい。本当にそれだけだった……それは間違っていたのだろうか。
「大人になるとさ、あの時こうすれば良かった、ああすれば良かったって思うんだよね。でも、子供っていつでも何に対しても全力だからさ、大人よりずっとずっとがんばったはずなんだ。……だからね、正しかったかどうかは、十年後の君に決めてもらおう?」
マーゴに柔らかいガーゼで顔を拭いてもらいながら、穏やかに語り掛けるトマスの言葉を聞いている。
彼にはすべて見透かされている気がした。グレイスが抱えているどうしようもない罪悪感と自己嫌悪もすべて。
「はやく……全部終わればいいと……思って、いて……」
十年後の自分は……グレイスを許してくれるだろうか。
「……目の前から消えてと……ただそれだけを、心のどこかで願いつづける……自分が……きらい……」
ぽつり、ぽつりと、押し殺していた気持ちを吐露してゆく。ずっと抱えていた本当の気持ち。誰かに知られることが怖くて仕方がなかったことを。
「どうして、どうして……わたしだけがって……僻んで……」
そんな風に思う自分が大嫌いだった。正しくない自分が許せなかった。
もう何も考えたくはない。このまま意識を失うように眠っくてしまえれば楽なのに……体はもう眠れないと訴える。
「……もどりたく……ない」
そう口の中で小さく呟く。一度言葉にするとその思いはより揺るぎないものになった。
これ以上は頑張れない。
グレイスはまだ子供だから、許して欲しい。
差し出せるものは何もない。一方的に搾取するだけの人とは一緒にいられない。
「二度と戻らせない。ずっとここにいていい。約束したよね。僕たちが君を守る。怖い人は決して部屋に入れない」
マーゴにしがみついて何度も何度も頷く。
お願いだから、もうこれ以上、自分のことをきらいにさせないで。
正しく生きたいのに、現実が過酷すぎてもうグレイスには抱えきれない。
「……まちがえたのは……わたしじゃ、ない?」
マーゴにしがみつきながら、恐る恐る尋ねる。
「うん。間違えたのは、君じゃない」
すぐに返されたその言葉が、「君のせいじゃないよ」と言っているように聞こえた。
間違えたのは、自分じゃない。――なら、もう仕方がない。
「大人だって間違う。僕だって間違う。……だけど、僕は一生あの男を許すことはないだろうね」
掠れた声の中に込められた憎しみと悲しみの密度の濃さに、一瞬息ができなくなった。
「クインには、こういう風にはなってほしくない。凝り固まってしまった感情は、いつまでも居座り続ける。僕はあの男の血を引く自分が一番信じられない」
驚きのあまり顔を上げたグレイスに向かって、トマスは疲れ果てた笑みを浮かべてみせた。一度目を閉じる。そうして何もかもを再び心の奥底に沈ませてきれいに全部隠してしまう。
「十年後、クインはどんな大人になっていたい?」
「……わかりま、せん」
正直に小さな声で答える。拗ねたように聞こえていないといいなと思いながら。
「そっか、そうだよね。いきなりそんな事言われても困るよね」
「ほんとうに……わからない……です」
「うん、そうだね。僕もわからなかったな」
水で濡らしたガーゼがそっと頬に当てられる。いつの間にかテーブルの上には水の入ったタライが用意されていた。マーゴに優しく顔を拭いてもらうと、風が肌を乾かしてゆく。心が少しずつ落ち着きを取り戻してゆく。
ぎゅっとマーゴに抱きついて。目を上げてフィンを手招く。泣きすぎて真っ赤な顔をしたフィンにもしがみついて、それでやっと人心地がついた。
「……でも、ふたりが、ずっと、いっしょにいてくれたら……いいなと……おもいます」
「うん、その願いはここにいるみんなで叶えるよ」
「長生き、しないと、いけませんね」
「本当に……そうですねぇ」
両側から、嗚咽交じりの声が聞こえる。両手を伸ばしてフィンとマーゴと手を繋いで、椅子の背に凭れかかって、ぼんやりと青空を見上げる。
空っぽになってしまった。見つからないように隠していた感情まで、何もかもすべて暴かれて持ち去られてしまった。心は疲れ切っているのに、重い荷物をすべて下ろした体は軽い。体の中を自由に風が吹き抜けてゆくような感覚を味わっている。
沢山のものを失ったかもしれないけれど、グレイスの手の中に戻って来たものはあったのだ。トマスが言う『大人たち』が、グレイスのために取り戻してくれた。
まだ感謝の言葉をうまく口にできないけれど、いつか『ごめんさい』と『ありがとう』を素直に伝えられますように。
目を閉じて、風に吹かれながらグレイスはそう願う。
……どれくらいそうしていただろう。
「日光浴はこのくらいにして、お部屋に入りましょう。レモネードをご用意しました」
リリアの声にゆっくりと目を開ける。青空を背にして、黒いワンピースに白いエプロンというメイド姿のリリアが微笑んでいる。グレイスが体を起こすと、リリアが手を差し伸べてくれるから、フィンとマーゴの手を離して彼女の手を取る。三人に支えてもらいながら立ち上がり、室内のソファーに移動した。
フィンとマーゴは顔を洗いに行くようにリリアに勧められて、少し恥ずかしそうにしながら一礼して退出していった。
グレイスがトマスと向かい合う位置に座ると、キースの手によって、テーブルにはグラスに入ったレモネードが置かれた。どうぞと勧められるままに一口飲む。自家製のものなのだろうか、レモンの他にもハーブの香りがほのかにした。清涼感のある香りが心を落ち着かせてくれる。
壁際にリリアとキースが並んで立った。心細くなってそちらに目をやると、彼女はいつものように優しく微笑み返してれる。
「では、これからのことを説明するね。クインはこのままこの屋敷で暮らすことになります。フィンとマーゴも勿論一緒だから安心して? ただし、一ヶ月間外出禁止です。これは医者の命令。逆らうと怖いので医者の命令には従ってください。屋敷の中でゆっくりだらだら過ごしましょう。医者の命令だからね。怒られたくないよね。あの人怒ると怖いの知ってるよね?」
悪戯っぽくトマスが笑う。医者という言葉を出せば、グレイスが無条件に従うとわかっているのだ。最初に会った時のウォルターは迫力があった……
「あと、もうひとつ。これはフィンとマーゴには聞かせたくないことだから、退出してもらったんだけど……君が結婚許可書にサインしただけでは結婚は認められないからね」
さらりとトマスは言ったのに、結婚という言葉を耳にした途端に、心臓が嫌な音を立てる。グレイスは思わず胸を押さえた。指先から冷え切ってゆく。思い出したくもない声が耳に蘇りそうになり、ぎゅっと目を瞑ってそこから意識を無理矢理逸らす。
気付けばグレイスは、はっはっと浅い呼吸を繰り返していた。うまく息が吸えない。駆け寄って来たリリアが心配そうに背中を撫ぜている。
「結婚許可書にサインしただけでは、結婚したことにはならないんだよ。式挙げて結婚登記してもらわないと結婚証明書もらえない。まだ未成年の君が知らなくて当然だ。そこを相手に利用されたんだよ。君が逃げ出さないように、聖職者まで用意して彼らは君を騙したんだ」
「あ……」
声が出た途端に、空気が胸に入ってくる。縋るような目でトマスを見ると、彼は真剣な顔でひとつ頷いた。
「君はもう二度とあの男に会うことはないよ。大人たちが君を守る。この話はフィンとマーゴにはしていない。自分達が脅迫の道具に使われたと知ったら、彼らは自分を責めるからね。……少しは安心してもらえた?」
鼓動が落ち着きを取り戻す。ずっと胸に刺さっていた棘のようなものが抜け落ちるのを感じた。硬直していた体から少しずつ力が抜けてゆく。
「でもね、相手は君がサインした結婚許可書を持っている。屋敷の中は絶対に安全なんだけど、例えば君がふらっと一人で外出して、それを待ち構えていた悪い人たちに誘拐されて脅されて登記所に連れ込まれたりすると、面倒なことになる。勿論みんなで助けに行くよ。でも、危ないから、何があっても絶対一人で外には出ないでね。約束してくれる?」
そこで一旦言葉を切ると、トマスは表情を陰らせた。
「うちには、海賊を倒すのを目標としている子がいるんだ。その子確かに強いんだけど、でも大人数で囲まれたりしたら手も足も出ない。自分ひとりの問題だと思わないでほしいんだ。もれなくもう一人自ら進んで巻き込まれようとするからね。温室育ちだから、怖いもの知らずな所があるんだよ」
言葉の意味を理解するまでに少しの時間を要した。
リリアは天使様だから悪い男たちを倒すことができるのだと、今の今までグレイスは無邪気にそう信じていた。
……でも、そういう話では、ないのだ。ここは現実の続きでリリアは天使様ではない。生身の人間だ。
そうなると、微笑ましく聞いていた言葉の意味がガラッと変わってくる。
ちらりとリリアを見上げると……いつもと変わらない朗らかな笑顔を浮かべて彼女は言い切った。
「大丈夫ですよ。何かあっても必ずお守りしますから!」
「おまえ本当にいい加減にしろっ」
「もう本当にやめてね……」
キースが怒りの声を上げ、トマスは力なく呟いて頭を抱えた。
「ひとりでなければ大丈夫なのです。数で圧倒すればよいのです!」
「数揃ってるなら、リリアが一緒に来る必要ないよね」
「もう本当にいやだ……」
トマスとキースがげんなりとした顔になっているが、リリアはどこ吹く風だ。自信に溢れ目を輝かせている。彼女は本気であの恐ろしい異国人の男と対峙するつもりなのだ。……さすがに一対一は想定していないようだが。
「何があっても……どんなことがあっても……絶対に……一人で外には……行きません」
グレイスは真剣な顔で、トマスとキースに誓った。