70 天使様の逡巡 その6
「本当に大丈夫でしたか? 申し訳ございません。こんなことになるなんて……」
グレイスは大丈夫だと深く頷いた。思い返すとただ恥ずかしいばかりで、不快な気持ちには一切ならない。それはきっと、あの舞踏会の夜に助けてもらったという信頼があるからだ。
これが別の相手だったら……例えば、夫だというあの男に同じ事をされたら、グレイスは耐え難い嫌悪感に襲われたに違いない。
結婚相手の顔を思い出した途端に心が悲鳴をあげた。必死に頭の中から追い払うと、心を落ち着けるために深い呼吸を繰り返す。
確かめなければならない……とても怖いけれど。
決意を込めて顔を上げると、いつも通りリリアはグレイスの不安を見抜いて微笑む。気遣われることが嬉しいのに苦しい。この優しい世界が失われてしまうことが恐ろしくて仕方がなくなる。ベッドの上のベスを拾い上げて、強く強く抱きしめる。
「リリアさま……わたし……どのくらい、眠っていましたか?」
「最初にウォルターお兄さまと会った日を含めると五日間ですね。少し体が重いかもしれません。動かしている内に少しずつ違和感はなくなってゆくと思いますが」
その答えに茫然としてしまう。そんなに、と小さく息をついた。
ずっと夢と現実の狭間を行き来していた。ベスをそっと膝の上に置くと、両手をゆっくりと開いたり閉じたりしてみる。まだ少し心と体がズレているような違和感があった。
体は水を含んだ綿が纏わりついているかのように重たいが……もうきっと眠れない。暗い顔をしているクインの肩にブランケットをかけてから、リリアは水の入ったコップを差し出した。
「申し訳ございません。イザベラさまはどうしてもお出掛けしなくてはならない予定があって、今は私しかいないのです」
グレイスの声に元気がないのは、母がここにいないせいだと思ったのだろう。リリアが申し訳なさそうにそう言った。グレイスはコップを受け取ってから小さく首を横に振る。
「ずっと……ご本を読んで下さったのを、覚えて、います。うれしかった……です。だから、怖い夢は、ぜんぜん……見なかった」
よそよそしくならないように気を付けたのに、声はどうしても固くなった。これでは心配をかけてしまう。だから、きちんと伝えなければならない。
「うれしくて……しあわせで、ずっと、ずっとこのままで……いたくて……でも、でも……」
リリアの顔を見ることができない。何もかも全部思い出した。幸せな夢は終わってしまった。
グレイスの様子がおかしいとわかっているはずなのに、リリアは何も言わずに黙って、その後に続く言葉を待っている。
「目が、覚めてしまったんです」
やっとの思いでそれだけ言って、ゆっくりと……ゆっくりとコップの水を飲む。体の中に水が流れ落ちてゆくのを感じる。……そう、グレイスは、ちゃんと生きている。
だから、ここは天国ではなくて、現実の続きなのだ。
グレイスから空になったコップを受け取りテーブルの上に置くと、リリアは肩から滑り落ちてしまったブランケットを拾い上げた。
「クインさま、目が覚めたなら、お食事にしましょう。何か羽織るものを用意しますね」
明るい笑顔でそう返されて、はぐらかされたとわかっているのにほっとする。
リリアはガラスの器に入った花冠を鏡台に移動させると、薄手のガウンを持って戻ってきた。腕を支えてグレイスが立ち上がるのに手を貸し、ガウンを羽織らせる。そして、まるでダンスに誘うように手を差し出した。優雅に微笑むリリアの顔をぼんやりと見つめながら、グレイスはそっと手を重ねる。
リリアはグレイスをテーブルまで誘導し、「こちらにどうぞ」と椅子を引いて座らせてくれる。まさにお姫様扱いだ。こういう時の彼女は物語に登場する騎士のようにとても凛々しい。
示し合わせたかのように、ノックの音がした。
「キースです。お食事をお持ちいたしました」
「どうそ……お入り、ください」
グレイスが許可を与えるとドアが開いて……美味しそうな匂いが室内に流れ込んできた。
「はい、クインさまどうぞ。今日はトウモロコシのポタージュスープです。パンは先程焼き上がったばかりなのであたたかいですよ」
グレイスの目の前には、淡い黄色のポタージュスープとふわふわと湯気をあげている丸いパンが置かれた。
「おいしいものは幸せをくれます。今日のスープはコックの自信作です」
忘れていた空腹を思い出して、グレイスは甘い匂いのするきれいな色のスープから目が離せなくなる。お祈りをしてからスプーンですくって口に運ぶ。グレイスの頬に赤みがさして目が輝くのを見て、キースは満足そうな表情になった。
「おいしい……です」
丁寧に濾された滑らかなスープは濃厚なクリームのようだ。
「よかったぁ……」
心底安堵したという声を耳にして、その時はっと気付いた。
グレイスは決して悲劇の主人公ではないのだ。
夢のような優しい世界を用意してもらって、はかなく脆い宝石のように大切に守られている。
――心配してほしい、気にかけてもらいたい。
グレイスは、幼い子供のようにそう駄々を捏ねていただけだ。思わせぶりな態度を取って、皆の気を引こうとしていた。
もう十分すぎる程与えられているのに、まだ足りないまだ足りないと心は求め続ける。だけど――
沢山の花で飾られた部屋で、優しい人たちに見守られながら美味しいものを食べている。誰が見ても、グレイスは今、この上ない幸せの中にいる。僅かな欠損をことさら嘆いて、自分を哀れむのはおかしい。
『お嬢さま』がそうだったのだ。グレイスからすべてを奪い取っても、彼女は満たされなかった。常に苛立っていた。
……いつか取り返されてしまうかもしれない。奪い取られる側になってしまうかもしれない。
グレイスを虐げ惨めな姿を嘲笑いながらも、きっと彼女はグレイスを存在ごとを消し去りたくて仕方がなかった。自分の生活がグレイスの商品価値の上に成り立っているのだと彼女が理解していたかどうかはわからない。でも目障りな女を屋敷から追い出すこともできない自分の立場に、ひどく不満をもっていたことは確かだ。
彼女と同じ状態に……自分は陥ろうとしていたのではないだろうか。
グレイスは湯気を立てているパンを手に取って、一口大に千切る。ふわふわであたたかくていい匂いがする。口に入れると、こちらも自然と口元がほころんでしまうくらいおいしい。
「おいしいものを、食べると……本当に、幸せに、なりますね」
言葉にして自らに言い聞かせる。胸に手を当てて心臓の音を確かめる。沢山の優しさを与えてもらったから、今のグレイスの心はしっかり満たされている。
それに、たとえグレイスが天使様の夢から覚めたとしても、自分たちは何も変わらないと彼らは伝え続けてくれていたではないか。
『ここではクインもやりたいことをやればいいわ』
明るい声が耳に蘇る。
『元気になったら一緒にピアノの練習をしましょうね』
目覚めた後の約束を、すでにたくさんグレイスはしてもらっている。結局、可哀想な自分を想像して酔っていただけだ。……気付いてしまえば、ただ恥ずかしい。
「すみません……リリアさま。……もう……大丈夫です。お腹が……空いていたみたい、です」
グレイスは羞恥に震えながらも自己申告した。そうして気まずさを誤魔化すようにパンを口に入れる。……おいしい。
「…………クインさま。……実は殴ったり蹴ったりに興味あります?」
恐る恐るそう問いかけてきたキースの目は真剣そのものだった。
「力でねじ伏せられたら楽だろうな―とか、海賊倒してみたいなーとか、思います?」
「え……わたしは、そちらの、ほうは……あまり……興味は……ない、です」
何故そんな事を聞かれるのかわからないグレイスは、躊躇いがちに答える。キースは心底安堵した表情になり、リリアは明らかに残念そうにため息をついた。
食事の後、一度部屋を掃除してベッドのシーツを交換するとのことで、同じ階の別の部屋に移動することになった。男の子の服に着替えてから、リリアに支えてもらいながらゆっくりと廊下を移動する。
ずっとベッドの上で過ごしていたせいで、上手く足が動かせない。まず体力を取り戻さなければならないと痛感した。眠気はもう感じないが、すぐに疲れてしまうのだ。
大きな執務机と応接セットがある部屋を横切って、ベランダに案内される。二つ横並びにされた椅子の片方にはトマスが座って待っていた。
「おはよう、気分はどう?」
振り返ってクインを見上げそう尋ねた彼は、イザベラに紹介された時のようなダラダラした感じは一切なく、落ち着いた雰囲気の秀麗な男性だ。アレンとキースに無理やり持ち運ばれていたのと同じ人とはとても思えない。
「隣に座ってもらってもいい?」
グレイスが小さく頷くと、トマスはとても嬉しそうに笑う。
リリアに手を貸してもらってゆっくりと椅子に座ると、薄い雲に覆われた明るい空と、爽やかな木々の緑が目の前に広がった。日差しは強すぎず、気温もそれ程高くない過ごしやすい日だ。
キースとリリアは一礼して部屋から出て行く。
しばらくトマスと二人で並んで、黙って空を見上げていた。彼はグレイスが疲れていることを察して、落ち着く時間を与えてくれているのだ。
不思議と気詰まりな感じはない。頬に当たる風が心地よくてグレイスは目を細める。昼間の空を見るのは久しぶりだ。心が解き放たれる。
「もう……大丈夫です」
ひとつ深く呼吸をしてから、自分からトマスに声をかける。
「ヒューゴがごめんね。僕らも彼の行動は予測がつかないんだ……許してくれたことをとても感謝してる。従兄なんだよ」
最初に告げられたのは謝罪の言葉だった。栗色の瞳がグレイスに向けられる。
「目が覚めたと聞いたから。本当はヒューゴが説明するべきなんだけど……自分で穴を掘って地に潜っていきそうな感じになっててね。だから僕が代わりに。この家の主は僕だから……いい?」
また小さくグレイスが頷くと、彼はとても感じよく笑う。不思議と心は凪いでいる。何を言われても、受け止めると先程心に決めた。
ノックの音がして、ドアが開く。振り返ると、キースが再び室内に入って来るのが見えた。その後ろをついてきているのは、メイド姿のマーゴと……家令をしていた時と同じ服を着た夫のフィンだ。二人は寄り添って、お互いに支え合うようにして歩いて来る。
「クインは、呪いのガルトダット伯爵家って聞いたことある?」
トマスの言葉がグレイスの意識を引き戻す。グレイスは静かに首を横に振る。子爵家の娘ではあるけれど、グレイスは社交界のことは全くわからない。きらびやかなドレスや舞踏会など一生縁がないものだと思っていた。
「この家没落してるんだよね。庭も荒れ放題だし、食事も裏の野菜畑で取れた野菜で作ったスープしか出てこない。使用人も昔からのお年寄りばっかり。……でも、みんなで支え合って仲良く暮らしています。だから、結構住み心地は良いと思うよ?」
キースたち三人はベランダまで辿り着き、椅子に座っているトマスの奥に並んで立つ。フィンとマーゴからグレイスは目が離せない。
「ようこそ呪われたガルトダット伯爵家へ。幽霊屋敷とか墓場とか散々言われているけどね。この家の敷地内の入ると呪われて、髪が抜けて皺が増えるんだって。……どう? フィンもマーゴも実感としてある?」
「もう抜ける髪もあんまりないですし、すでに皺だらけですからねぇ」
「私もわからないですねぇ」
フィンとマーゴは顔を見合わせて頷きあった。その表情はとても穏やかで……この家の人たちは二人をとても大切にしてくれているのだと信じられた。でも、何故、という疑問が残る。
「二人は娘さん夫婦の所に身を寄せていたんだよね? そこでずっと君の母親の実家に、君の窮状を訴える手紙を出し続けていたんだ。その手紙は、届くべき人に届いていなかった。……だけど、その手紙があったから、僕らは二人を見つけることができたんだ」
屋敷から叩き出された二人は無事だったのだ。……グレイスの瞳から涙が流れ落ちる。
「……君の父親も保護している。でも会わせてあげられない」
まっすぐグレイスを見つめる瞳からは、ゆるぎない決意を感じられた。その後ろで寄り添うフィンとマーゴは、肩を震わせ目を伏せている。それはもう決定事項なのだ。グレイスは目を閉じる。胸の前で手を組んでぐっと心臓を押さえる。悲しいかと問われると、今はまだわからない。
「君は……別の家の養女になる。かなり悪質な詐欺に名前が利用されてしまったんだ。保護者のサインはもうもらってある。多分それが、君の父親からの最後の贈り物になると思う」
何の感情も浮かばないのに、グレイスの目からはどんどん涙が溢れ出す。結局自分は最後まで……父を取り戻せなかった。マーゴがよろよろと近寄って来て、グレイスをしっかり抱きしめてくれる。その温かい胸に縋りつくと、懐かしい香りに包まれた。……今、はっきりと思い出した。この香りは母が好んで纏っていたものだ。
「笑顔だけを覚えていればいいよ。それは本物だったはずなんだ」
……ならばこれは、もう二度と取り戻せない幸せな思い出に繋がる香りなのだ。
「君はまだ十六歳の子供で、守られなければいけない存在だ。ひとりで今までよくがんばったね。もう全部背負わなくていいんだ。大人たちが君を守るから……でも……」
――グレイス、絵の具を取ってくれないか?
記憶の向こうから懐かしい声がする。瞼の裏にあの日の風景が見える。
「ごめん……勝手に全部決めてしまった」