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69 天使様の逡巡 その5



 何度か瞬きを繰り返すと、白く発光しているばかりだった世界に色が戻り、テーブルの上に淡いピンクの花冠が置かれるのが見えた。手袋をしていない男性の手が、丁寧に花の位置を整えている。


 静かにドアが開いて、ガラスの器を持ったリリアが室内に入って来た。


「これで入りますか? ガラスの大皿はもうこれしかなくて」


 囁くような声でそう言うと、リリアはちらりとベッドの上を確認して目を瞠る。すぐに穏やかな笑みを浮かべ、一瞬だけそっと唇に人差し指を当てる。内緒です、というように。


「では、お水を入れて来ますね」


 テーブルに歩み寄り花冠が器の中に入るのを確認すると、リリアは再びガラスの器を持ち上げドアに向かって歩き出した。


「水差しはそこにあるだろう?」


 その人はとても不思議そうな顔をする。


「クインさまが目を覚まされた時に、お水が沢山必要になりますから」


「なら私が水を……」


「すぐに戻ります。しばらくクインさまのことを、お願いしますね」


 器に向かって手を伸ばした人に最後まで言わせることなく、リリアは立ち去ってしまった。ドアは外に向かって開け放たれたままの状態だ。


「あ……」


 伸ばした手のやり場を失ったその人は、落ち込んだようにため息をついて、再びテーブルの上の花冠に指先を伸ばした。混みあった花を少し離してみたり、飛び出した茎を絡ませて輪の形を整えたりする繊細な手の動きを、ぼんやりとグレイスはみつめている。


 その人がヒューゴという名前だということは知っていた。イザベラが何度かその名前を口にしていたから。

 最初に目覚めた時に、グレイスはその人の気持ちも考えずにいきなり縋りついてしまった。嫌われてしまったかもしれない。一度そう思ってしまったらもうその考えから逃れられなくなった。時間が経てば経つほど、不安は大きく膨らんでゆく……


 あの日より、室内を飾る花が随分増えている。目覚める度にグレイスの世界は鮮やかさを増していった。

 明るく清潔な室内は静謐な空気に満たされている。陰になっている横顔が寂しそうで……辛そうで、胸が苦しくなる。どうして? そう尋ねたいのに言葉にならない。

 視線に気付いたのだろうか。ふっとヒューゴが視線を動かす。舞踏会の夜、灰色の世界の中に閉じ籠っていたグレイスの目に飛び込んできた青は、この部屋にあるどんな色より美しい。


「……え………」


 目が合った途端に、ヒューゴは硬直し、すぐにおろおろし始めた。落ち着きなく左右を見回し誰もいない事を確認すると、そのままドアに向かって駆け出そうとして、二、三歩進んだ所で足を止める。そして、恐る恐るといった感じでグレイスを振り返った。

 再び視線が合うと、猛獣を見たかのようにびくうっと体を震わせて、今度は怯え切った顔になってしまう。

 まるで童話に出て来る、人間から隠れて暮らしている妖精みたいだ。

 ……どうしよう。見なかったことにして、今から目を閉じて眠ったふりをするのが正解なのだろうか。


 でも……もしかしたら、この人にこうして会えるのは、これが最初で最後かもしれない。そう思うと目を閉じることがとても惜しく感じた。


 グレイスは、すべてを思い出してしまったから、もうここにはいられない。


 視界がぼやけてゆく。慌てて瞬きで涙を抑え込んだ。ここで泣くのは相手の優しさにつけ込むようでずるい気がしたのだ。

 

「……怖い夢を見たのか?」


 ヒューゴはグレイスの表情が変わったことにすぐに気付いて、心配そうな顔で枕元に戻って来ると、優しく気遣う言葉をかけてくれる。


 ……心の奥底では気付いてほしいと思っていたのだから、隠し通せるはずもないのだ。『気にかけて欲しい』『声をかけてもらいたい』その気持ちをグレイスはどうしても抑えることができないでいる。


 何か答えなければと思った途端に、体が緊張でうまく動かなくなった。伝えたいことは沢山あるのに、今返すべき言葉が見つからない。喉に何かがはりついているかのように声が出なくなり、体がカタカタと震えはじめる。止めようと思っても止まらない。

 グレイスを見つめていたヒューゴの様子が明らかにおかしくなった。苦しそうに眉を顰めて奥歯を噛みしめて、何かを抑え込むように大きく息をする。


「ああ……そうか」


 小さく呟いて、ヒューゴは優しくグレイスに微笑みかける。でもそれは、疲れ果てて何もかも諦めた、空っぽの笑顔だった。


「不安になったのか。ここにいていいのかわからなくて」


 先程花冠を整えていた手が、グレイスの頭を優しく撫ぜる。

 自分と同じ青い色の瞳から一筋涙が零れ落ちるのを……グレイスは茫然と見ていた。

 

「大丈夫だ……あなたは、かけがえのない大切な子なのだから」


 指先が額にかかる髪を優しく払いながら離れてゆく。そのまま自らの頬を濡らす雫に触れて、それが何かわからないというように、彼は不思議そうな顔をした。目を伏せて自嘲するように笑うと、何かを振り切るように顔を上げ……真っ赤になって硬直しているグレイスに気付いて……


 ――多分、我に返った。


「……あ…………え…………」


 意味の分からない音を発する口を慌てて塞ぐ。瞬く間に耳まで真っ赤になり、数歩後ずさってテーブルにぶつかると、そのまま崩れ落ちるようにずるずると座り込んでしまった。片手を床につき、もう片方の手で口を塞ぎながら、壁の模様を見つめて手の中に何やらぶつぶつ言い始める。


 その様子を見ていたグレイスの鼓動もどんどん早くなってゆく。……額に微かに触れた指先の感触がまだ残っている。


「……お待たせし……え? どういう状況ですかこれ……」


 ドアの前に現れたリリアは、ベッドの上でまっ赤な顔で震えているグレイスと、同じく真っ赤な顔で床に座り込んでいるヒューゴを見比べ、しばらく部屋の外に立ち尽くしていたが、小さく頷いてため息をついてから部屋の中に入って来た。

 まず水を張ったガラスの器をテーブルの上に置き、花冠をそっと水に浮かべる。次にくるりとグレイスに向き直り笑顔で尋ねた。


「いきなり触られて、いやでしたよね?」


 二人の間に何があったのか、どうしてリリアが知っているのかはわからない。でもとにかく彼女は『なかったこと』にしてくれるつもりはなさそうだった。


「こんな失礼な人、庇う必要はまーったくありませんよ?」 


 是非とも「いやだった」と言って欲しいと思っているのがよくわかる口調だった。

 リリアはゴミを見るような目をヒューゴに向けている。ぺたんと座り込んで床を見つめているヒューゴの肩は、気の毒に思えてくるくらいガタガタと震えていた。

 

「……い……いやじゃ、なかった……です。でも……すこし……びっくりしました……」


 グレイスは顔に集まった熱を持て余しながらも、恥ずかしさを堪えてやっとの思いでそれだけ言った。

 ここでグレイスが「いやだった」などと言おうものなら、ヒューゴは無事では済まない。リリアは……海賊を倒すことを目標に掲げていると明言しているような少女だ。

 

「私はこの部屋にヒューゴお兄さまを入れたことを、大変後悔しております。二度と会いに来られないようにすることもできますけど。どうしましょうか?」


 リリアは、見とれてしまうくらい素敵な笑顔を浮かべているのに、グレイスは追い詰められたような気持になる。そうやって焦れば焦るほど言葉が出てこない。


「あ……で……でも、わたし……も、最初起きたとき……いきなり縋りついて……しまいまし……た。もうしわけ……」


「起きたら全然知らない場所にいたのです。動揺するのは当たり前です。だから全く問題ありません」


 あれは怖い男を箒で部屋の外に掃き出すと宣言していた時と同じ表情だ。何を言っても止めることはできないのかもしれない……

 リリアは見るからにヒューゴに制裁を与えたくてうずうずしている様子だし、ヒューゴからは、もうどんな罰でも受けるという覚悟のようなものを感じる。


「お……お会いできて……うれしかった……です……ほんとう、です」


「あ、じゃあもう二度と会わなくてもいいですね!」


 すぐさま弾むような声でそう返された。過去形なのがいけなかったようだ。どうしてもそちらの方向に持って行きたいという事はよくわかった。


「そ……そういう……意味では……なく……あ……あの……」


 グレイスは必死に言葉を絞り出そうとするけれど、混乱した頭はうまく働かない。

 このまま会えなくなってしまったら、グレイスは助けてもらったお礼も言えないまま別れることになってしまう。「いやじゃなかった」では足りなかった。「会えてうれしかった」でもまだ状況は改善しなかった……

 どうしよう、どうしたら伝わるだろう……どうして、自分は上手く言葉にできないのだろう。


 ――願いを口にしてごらん。


 その言葉がふと胸に浮かんだ。願い事。今、グレイスが願うことは……ひとつだけ。


「あ……会いたい、です。会って……いただけ……ますか?」


 信じられないくらい鼓動が早い。顔も全身も真っ赤だ。グレイスは固く目を閉じ、枕元にあったベスを手に取ってぎゅっと抱きしめて体を丸くする。ゴンっという音が室内に響いたが、恥ずかしさに震えるグレイスに気にする余裕など残ってはいなかった。


 一度外に出た言葉は口の中に戻らない。願い事が叶うかどうかは相手次第だ。


「……ヒューゴお兄さま、どうやら、まだ、嫌われてはおりませんよ…………大丈夫ですか?」


 一転して落ち着き払った声で、リリアがヒューゴに話しかけている。

 最後についでのように付け加えられた一言が気になってそろそろと目を開けると、ヒューゴは……今度は背後のテーブルに突っ伏して顔を隠していた。耳まで真っ赤だ。


「……このまま一度お部屋にお戻りください。謝罪言い訳説明等は後程落ち着いた頃に改めて……聞こえてます?」


 ピクリとも動かなかった頭が二度小さく頷く。


「で、()()()()()()に対するお返事は?」


 また二度小さく頷く。「これが限界ですね……」とリリアが呟いた。


「大丈夫、お願いごとは、ちゃんと叶えて下さるそうですよ?」


 グレイスに向き直って、リリアはいたって真面目な声でそう言うと、ふふっと悪戯っぽく笑った。ほっとしてグレイスの全身から力が抜ける。心臓の音が落ち着いてゆくのに従って、一瞬ふわっと体が浮き上がってすとんと落ちたかのような、不思議な感覚に陥った。くすぐったいのに、少し怖くて息苦しい……


「……では、ヒューゴお兄さま、着替えるので出ていっていただきたいのですが……」


 その言葉にばっと立ち上がると、ヒューゴは一度も顔を上げることなく、操り人形のようにぎくしゃくと歩きはじめる。俯きながら速足で進んでゆくので危なっかしいことこの上ない。


「あと一歩分右にずれないと、壁に激突します」


 冷静な声でリリアが指摘し、ヒューゴは右に進路を修正してドア枠のぎりぎりをすり抜ける。ドアはひとりでに動いて閉まった。パタンという軽い音が室内に響く。

 何となく気がかりで、リリアもグレイスもそのままドアから目を離せない。足音が遠ざかってゆくのが微かに聞こえる。


「……え? ちょっとヒューゴ危ないから前見て歩いてって、何、なに、なんなの怖いよっ。ダニエルこの人なんかあったの? だから前見ないと危ないって!」


 遠くの方から焦ったようなトマスの声が聞こえてきた。そして、またゴンっという固い物にぶつかった音が……

 グレイスは思わずベッドの上で体を起こす。リリアはドアに駆け寄ると身を乗り出すようにして廊下の様子を確認し、ゆっくりドアを閉めてグレイスを振り返った。 


「普通に動いていましたから、大丈夫です」


 ……言い方が、トマスに対するよりさらに冷たいなとグレイスは思った。

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