68 天使様の逡巡 その4
居間の三人掛けのソファーの真ん中にどんより落ち込んでいるヒューゴを座らせ、その左右にトマスとリリィが腰を下ろしている。
「別に、五分程度の会話なら問題はない。会いたければ部屋に入れてくれと普通にリリアに頼めばいいだろう?」
ヒューゴの正面に座っているウォルターは、意味がわからないというように首を傾げていた。
「だってさ、ヒューゴじゃリリアを倒せないし、もし万が一怪我でもさせたりしたら、ルークとオーガスタお姉さまが怖い」
「だからどうして殴る蹴るの話になるんだ。リリアは別にヒューゴに対して、自分を倒せとは言ってはいないんだろう? ヒューゴが自分でちゃんとリリアに頼めばいいだけのことだ」
きょとんとした顔になった三人を見て、ウォルターは呆れたようにため息をついた。
「おまえたちは色々難しく考えすぎなんだ。……リリアを何だと思ってるんだ」
「野生動物」
何か妙な言葉が聞こえたぞと、リリィとヒューゴが横を見るが、トマスはいたって真面目な顔をしていた。
「だって、殴るなり蹴るなりお好きなようにっとかって言うから……」
「それはトマスに言ったんだろう? ヒューゴがあの子に会いたいのに、どうしてトマスがリリアに頼むんだ? まずそこからおかしい。リリアはそれを怒ったんじゃないのか? ……今もどうして三人で来るんだ。ヒューゴだって一人でこのくらいのことできるだろうに」
ゆっくりと言葉を選びながら言い聞かせるウォルターの前で、リリィとトマスは肩を丸めてだんだん小さくなっていった。
医者に直接クインと面会させてくれと頼んでみようと言い出したのはリリィだ。私邸に帰ろうとするウォルターを居間に引きずり込み、トマスがヒューゴを連れて来てソファーに座らせ、逃げ出さないようにトマスとリリィが左右に座った。一応責任を感じての行動だったが……
(確かに……やってることは非常に子供っぽい……)
冷静に考えればヒューゴは立派な大人なんだから、ここまでリリィとトマスが世話を焼く必要はない。
「彼女をここに連れて来ると決めたのはヒューゴだ。でもこの家の主はトマスだな。ややこしいことになっているとしたら、原因はそこだろう。どちらが彼女を庇護するのか、ふたりできちんと話し合いなさい。そこが決まらない事にはどうにもならない」
……正論を突き付けられて三人は黙り込む。幽霊と関わっていない時のウォルターは、人間性の高い優秀な医者なのだ。たまの休みにガルトダット伯爵家を訪れる時は、気分が高揚して異常に饒舌になっているだけだ。幽霊と人間を同列に扱うので、興奮気味にずっと喋っている怪しい人になり果ててしまう。
そういう姿ばかり見せられているからついつい忘れがちだが、普段の彼は、社会性と協調性を備えた常識人だ。キリアルト家の中では一番まとも……
「ヒューゴも、自分の言葉がただの八つ当たりだとわかっているのだろう? 周囲が口煩いから何もかもが嫌になるのはわかる。でも、トマスたちもあの子のことが心配なんだ。ヒューゴが失敗すると決めつけているように見えるかもしれないが、そういう訳じゃない」
(……いいえ、兄も私も絶対に失敗すると思っております。だってこの人女性前にすると頭真っ白になっておかしな行動とるし!)
そう口から出かかったのをリリィは慌てて飲み込む。そんなことは当然ウォルターもわかっている。
「心配しなくても大丈夫だ。イザベラさまとリリアが一緒にいるから、ヒューゴがあの子を傷付けるような発言をしそうになれば必ず止めてくれる。それでも怖いなら、お見舞いの花を部屋に届けるところから始めてみればいい。二人は追い返したりなんて絶対しない」
ヒューゴは顔を上げて、恐る恐るといった感じでウォルターを見る。だいぶ顔に血の気が戻ってきていた。こうやって患者の不安を取り除くのも医者の仕事なのだ。見事なものだと素直にリリィは感心する。その後、ウォルターはちらりとトマスの方を見て、全部わかっていると言うように一度深く頷いた。それで兄の気も済んだようだ。
「リリィは……本人に喧嘩売ってる自覚がないから仕方がないな。がんばっているのはわかるよ。この間会った時よりずっと姿勢が綺麗になった」
視線を感じて横を見ると、何か言いたげな目で兄と従兄がじーっとリリィを見ていた。何よ! とばかりに軽く睨み返すと、ため息をついて目を逸らされる。
「……全員結婚を考えはじめる年になったんだな」
感慨深げにそう言って、ウォルターは外套を手に持って立ち上がった。
「えー、もう戻っちゃうの?」
リリィは無意識の内に手を伸ばして、ウォルターの腕を掴んで引き留めていた。話したいことは沢山あるのだ。この間読んだ小説に出てきた毒物についてとか、三階にある怪しげな蒐集品についてとか……
忙しくてあまりキリアを離れられない人だから、ロバート以上に直接顔を合わせる機会は少ない。
「できればここで幽霊を観察したいのだがな、医者がいないと皆不安がる。……医者は魔法使いではないから、そばで見ていれば患者の傷の治りが早くなるという事は一切ない。でも、近くに助けを求められる人がいるといないとでは、全然違うだろう?」
大きな手でポンポンと肩を叩かれたリリィは、それでも不満です! という顔をしてウォルターを見上げた。
「……実は、患者たちが鬱陶しがっていたらどうするの?」
何となく面白くなくて、可愛げのない言葉が口から飛び出してしまう。
「……だからなんで、そうやって誰彼構わず喧嘩売るのかなぁ」
トマスが頭を抱えながら呻くような声で呟いたが、ウォルターは怒るのではなく、可愛らしいなぁとでも言いたげに目を細めた。
「リリィは寂しいのか。……リリアがあの子の看病していて構ってくれないからな。申し訳ないが、あと数日間だけ我慢してくれないか?」
その言葉はすとんと胸の中に落ちた。
「…………うん。我慢する。そっか、寂しかったんだ私。ウォルターありがとう、納得した」
ウォルターから手を離して素直に頷いたリリィを見て、兄と従兄は信じられないものを見る顔をした。一方のウォルターはリリィの肩に手を置いたまま思案に暮れていたが、目を閉じて一呼吸置いてから口を開いた。
「……言うかどうか迷ったんだがな。言わなかったことで問題が起きると困るから伝えておく。オーガスタが来る前に、あの子が抱えている問題はできるだけ片付けておいた方がいい。絶対にオーガスタはあの子を気に入る。引っ掻き回されるぞ」
オーガスタ、という名前を聞いた途端に、リリィは顔を輝かせたが、トマスとヒューゴの方は呼吸を一瞬止めて……そのままがっくりと項垂れた。気遣わし気な目を二人に向けつつも、ウォルターは床に置いてあったカバンを拾い上げ「また様子を見に来るから」と告げてから、私邸に方に戻って行った。
懐かしい香りに包まれている。良く知っている気がするのに……誰の纏っていた香りなのかは思い出せない。
朝食に出されていたパンの乗っていた皿の模様。父が珈琲を飲んでいたカップの色。……或いは来客を告げるベルの音。ふわっと記憶の奥底から浮かび上がって、瞼の裏に懐かしい景色が浮かぶ。窓枠の奥に広がる山並みと青い空。ベッドの上の母と、絵を描いている父の背中。
クインは眠り続ける。目を開いても頭は霞がかったかのようにぼんやりしている。イザベラとリリアが微笑んで色々話しかけてくれるのに、きれいな音楽を聴いているような気持になってしまう。何も答えられずに相手の顔を見つめる事しかできないのだ。
スープを口元に運んでもらって、体を拭いてもらって、着替えている内に、またうとうとして……今はいつなのか、自分が起きているのか夢の中にいるのかもはっきりとわからない。
せっかく母が本を読んでくれているのにクインはすぐに眠たくなるのだ。ふふっと笑って「おやすみなさい」と優しく頭を撫ぜてもらえると、とても幸せで満ち足りた気持ちになる。だから怖い夢はもう見ない。
「お嬢さま、お食事をお持ちしましたよ。今日は人参のポタージュスープです」
美しいオレンジ色のスープが目の前に現れる。懐かしい声がした。幼い頃からずっと『グレイス』の面倒をみてくれたマーゴの声だ。リリアに体を起こしてもらってぼんやりとマーゴを見上げる。記憶の中と同じメイド服を着て、茶色い瞳を細くして微笑みかけてくれている。
「……グレイスはニンジンはあまりすきではないの」
「そんな事をおっしゃらずに、一口召し上がってみてくださいね。はいどうぞ」
スプーンですくって口元に運ばれる。その時にはすでクッションを背もたれにして座っている。……これはいつの夢の続きだろう。
オレンジ色のスープからは、苦手な人参の匂いではなく、溶けたバターの甘い匂いがした。小さく口を開けると甘いスープがそっと流し込まれる。
「……おいしい」
「そうですね。私も朝食にいただきました。とても甘くておいしいかったので、これならお嬢さまも喜んでお食べになるだろうなと思いましたよ」
スプーンを差し出す手をそっと握る。皺だらけのあたたかい手……
「マーゴはもうどこにも行かない? ずっとグレイスといっしょにいてくれる?」
「どこにも行きません。ずっとお側におりますよ。お嬢さまがおよめに行ってもついて行くとお約束しましたよねぇ」
その言葉に心の底から安心して、マーゴの手を離して、口を開ける。苦手なニンジンのスープがお菓子のように甘い。なんていい匂いのする幸せな夢。
「グレイスは……もう……およめにいったの」
泣きたいような申し訳ないような気持になりながら、やっとそれだけ告げる。でもニンジンのスープがとても美味しいから、それ以上嫌なことは思い出さない。
「……そうですねえ……とても誠実で素敵な方ですね。あの方なら必ずお嬢さまを幸せにして下さるとマーゴは信じております。先程もお花を届けて下さいました。お嬢さまは眠っていらっしゃいましたね」
ニコニコしながらマーゴがゆっくりとスプーンでスープをすくっている。クインは首を傾げて、そして、目を伏せて変な夢、と小さく笑う。口を開けてスープを飲んで、やっぱりお菓子みたいだと思う。
器に入っていた甘いスープはすべてクインのお腹のなかにおさまった。リリアが手渡してくれたコップの水で口を濯ぐと、またすぐに眠たくなる。「おやすみなさいませ」とマーゴが囁いている。
次に目を開けると、優しい水色の目が自分を見下ろしていた。
「だいぶ顔色もよくなってきたね。……まだ眠れるのなら、もうしばらくの間体を休めるといい」
大きな手が枕の横に飛び出してしまっていたベスを拾い上げてくれるから、クインは手を伸ばして受け取る。
「テーブルの上に、花冠が届いているよ」
のろのろと寝返りを打つと、ベッド脇に置かれたテーブルの上に、ガラスの大皿が置かれているのが見えた。青い花と白い花で作ったリースが浮かべてある。青い花は窓からリリィの姿を探した時に庭に咲いていたのを見たから……誰かが庭で咲いていたもので作ってくれたのだろう。嬉しくて口元に笑みが浮かぶ。
「かわいい……です。うれしい……」
ベスをぎゅっと胸に抱きしめて、青い色を瞼の裏に残しながら眠りに落ちる。「おやすみ」という優しい声が耳の中でぐるぐると回る。
目を開けるとリリアが体を起こしてくれる。体を拭いてもらっていい匂いのする服に着替え終わる頃に、目の前にきれいな色のポタージュスープを持ったマーゴが現れる。お腹が満たされると、イザベラに本を読んでもらいながらまどろみの中に沈んでゆく……
それを何回繰り返しただろう。いつ目を開けても、すぐに誰かが気付いて声をかけてくれる。部屋の中が明るい時も暗い時も、必ず近くで見守ってくれている……本当に、本当に幸せな夢だ。
でも、唐突にその瞬間はやってきてしまった。何もかもが収まるべき場所にカチッとおさまったような不思議な感覚。
――色とりどりの花で飾られた明るく清潔な部屋で、グレイスは目を覚ました。
ミスが多くて本当に申し訳ございません。 3/19