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67 天使様の逡巡 その3



「……え? ヒューゴお兄さま?」


 焦ったようなリリアの声が室内に響いた。さーっとヒューゴの唇が青くなりそのまま意識を失ってしまう。駆け寄ったアレンとダニエルがヒューゴをソファーに横たえて、リリアがブランケットを体にかけた。


「あー……やっぱりこうなるかぁ」


 トマスが情けない顔になって、ずるずると机に突っ伏す。


「僕だって嫌なんだけどなぁこういう役回り……もーほんと勘弁してほしい……」


「……馬車酔いのせいですってー、多分」


 ダニエルに手伝ってもらってヒューゴの頭の下にクッションをさし入れながら、キースが非常に面倒くさそうに言った。


「『結婚』って言葉を聞くと、気分が悪くなる呪いにでもかかってるのかしらね……」


 冗談のつもりでリリィは言ったのだが、肯定も否定もされないという微妙な空気になってしまった。キースが「あーあ」とでも言いたげな目を向けてくる。


「……どうしてそんな話に?」


 イザベラがこめかみを押さえながらも、落ち着いた声でトマスに尋ねた。


「花嫁強奪したなら責任取れって言われました」


「だからあれは避難行動よ! 誘拐でも強奪でもないわよ」


 頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めはじめた兄を睨みつけながら、リリィは強めに訂正しておく。


「今は、ね。……今は向こうが何か言ってきても、保護しているのだと主張することはできるよ? 彼女はまだ動かせる状態ではないし、医者の診察もちゃんと受けている。問題は回復した後」


 遠くを見たままそう言われてリリィはぐっと言葉に詰まった。兄の言う通りだ。リリィは『先』について何も考えられていなかった。


「今日リリィたちが捕まえてくれた探偵さんには、彼女がひどく体調を崩していると依頼主に伝えるように願いしてある。呪われたくないから、何でも言うこと聞いてくれるって。アレン報告をお願いー」


 のろのろとトマスがアレンの方に顔を向ける。リリィがジャガイモと戯れている間、アレンは探偵の尋問をしていた。……厨房にあったジャガイモは明日の朝食のスープになった。


「彼はお金で雇われた本物の探偵でした。浮気調査が専門らしいです。花嫁が浮気して逃げたから調査してくれと言われたようですね。『そりゃ逃げたくもなるだろ。年考えろ鏡見ろ』とさんざん悪態をついていましたので、依頼人との関係は良好ではなさそうです。侵入して無理矢理取り戻すのは美学に反するから本当は嫌だったみたいな話を延々聞かされました。よく喋る人でした……」


 アレンが疲れたようなため息をつく。……同じような疲労感を護衛対象に与えているのだと気付け! とリリィは心の中で叫んだ。


「浮気調査の美学?……うわきちょうさのびがく?……うわきちょうさ……」


「もういいから!」


 キースが早口言葉の意味を考えるような顔をして、正しく発音しようと声に出すのをリリィが苛立った声で遮る。人が大勢いて真面目な話が始まると、深刻な空気に耐えられなくなって妙な事を口走る人間が毎回必ず現れる……


「簡単に言えば、動かぬ証拠を求めて、相手に気付かれぬように監視することらしいです。潜入捜査の際の心構えと共通する部分はありましたね」


「やること一緒だからね」


「うわきちょうさのびがくうわきちょうさのびがくうわきちょうさのびがく」


「わかったから。言えてる。ちゃんと言えてるわよ」


「……で、話がどっか行く前に戻すけど、自分がサインをした結婚許可書がこの世のどこかにある限り、『グレイス』はずっと不安を抱えて生きていくことになるよね。できればさ、一度も相手に会わせることなく片付けたいんだよ。だから、お兄さまちょっとがんばってみようかなーと思って。この屋敷にいる人たちを守るのが僕のお仕事だしね」


 トマスは両手を机の上について立ち上がった。そのままヒューゴが横たわっているソファーに歩み寄り、どうしたものかなと言いたげな顔で従兄を見下ろした。


「本当はさ、ヒューゴが自分で全部やれれば一番いいんだと思うよ? でも『結婚』って言葉聞いただけでこの状態だから。……寝てる内に全部ルークが片付けといてくれるとでも思ってそうだな、この人」


「……自分もそうですよね」


 冷静な声でキースが返すのを聞き流しながら、


「そっか、『グレイス』がサインした結婚許可書を手に入れる必要があるのね」


 腕を組んだリリィは、誰に聞かせるというつもりもなく呟いた。


 この国は……王族も貴族も平民も等しく結婚するのに時間がかかる。かつて緑の目の娘を得るために偽装結婚が横行したせいだ。半世紀前までは、田舎から緑の目の娘を攫ってきて自分の娘と偽ったり、無理矢理結婚して緑の目の娘を得ようとする犯罪行為が平然と行われていた。それを取り締まるための法律が次々と作られていった結果、結婚するのも離婚するのも非常に面倒な国となってしまったのだ。


 貴族の結婚の場合、財産分与等で両家が合意に至れば、まずは大聖堂に向かう。敷地内にある結婚登記所で通し番号が入った結婚許可書を発行してもらい、礼拝堂に移動。立会人の資格を持つ聖職者の前で、結婚する二人がサインをする。

 この時点では、二人は婚約者であってまだ夫婦ではない。

 結婚許可書にサインをした後は、登記所に戻って二人の結婚を公示してもらう。それに合わせて新聞でも華々しく発表する。そこから三十日は法で定められた婚約期間だ。その間に登記所の役人が記録を調べて重婚でないか確認し、一般からの異議申し立ても受け付ける。


 問題がなければ公示から三十日後に式を挙げることができる。結婚式には立会人二名と証人二名が必要だ。結婚式で二人は宣誓の言葉を述べ、それを聞いた立会人と証人が結婚許可書にサインする。式が終わればそのまま登記所へ移動し、新郎新婦の目の色と髪の色を立会人に確認してもらって結婚登記を完了させる。……でも、まだ終わりではない。


 一週間後にもう一度大聖堂内の登記所に出向いて、髪の色と目の色を登記内容と照合し、それでようやく……ようやく結婚証明書が発行される。それで法的に二人は夫婦と認められるのだ。


 大聖堂に行けばそこですべての手続きをすることができるとはいえ、結婚するまでに最低三回は訪れ礼拝堂と登記所を行ったり来たりすることになる。社交界シーズン終盤になると大聖堂では連日貴族の結婚式が執り行われているらしい。誰だって、領地に戻る前に証明書をもらうところまで終わらせておきたい。

 つまり、冷静な逆算が必要となるのだ。この日までに結婚証明書をもらうためには、一週間前に結婚式を挙げる必要があって、一ヶ月前のこの日までに公示しないといけない。そうなると、この辺りで結婚相手が見つかっていないと厳しい……というように。


 知識としてある手続きを頭の中で確認するだけでもうんざりする。離婚は裁判離婚しか手段がないのでもっと大変だ。 


 そういえば、リリアがルークと一緒に大聖堂に行った様子はないが、あの二人は一体今どの段階でどういう状態なのだろう。ルークはこの国の王家の血も引いているから、王室婚姻法に従わねばならない。議会や国王の承認が必要だったりと、一般的な貴族よりさらにややこしいはずなのだが……

 そして、自分とアレンも一体今どういう状態なのだろう……


 ――さっぱりわからない。


 やめよう。と、リリィは意識を切り替えた。まずは『グレイス』の結婚許可書の問題を片付けなければならない。トマスの口ぶりからすると、まだ公示はされていないようにも聞こえる。


「こちらが公示すれば、向こうは結婚許可書を証拠にして、異議を申し立てると思うんだよねー」


 トマスは結婚許可書を取り戻すために『グレイス』と結婚するつもりのようだが、これぞまさに、偽装結婚というものではなかろうか……


(確かに、相手が王族でもない限りは、婚約期間内に結婚を取りやめるということはできる……でも)


 リリィは眉間に皺を寄せて考え込んだ。それには、それなりの理由が必要になる。相手が病気になったとか、浮気したとか、持参金が払えそうもないとか……


(どちらかに悪いイメージがつくのは避けられないわね。トマスお兄さまは自分が引き受けるつもりでしょうけど……)


 同じ事に思い至ったらしいリリアが、露骨にむっとした顔になった。彼女にしては珍しく、不機嫌さを隠しもしないでトマスを詰問し始める。


「どうしてヒューゴお兄さまではないのですか? フェレンドルト家の後継者が青い瞳の娘と舞踏会で巡り合って結婚を申し込んだ。その方が流れとしてはずっと自然です。あの舞踏会で二人が寄り添って歩く姿を目撃した人も多いでしょう。目付け役がその場で気絶したのなら人目を惹いたはずです」


 ユラルバルト伯爵家の舞踏会でヒューゴはグレイスに腕を貸して二人でダンスホールに戻っている。その後リリィは使用人と対峙していたので二人がどうなったのかはわからないが、宰相の孫の顔を知らない者はいないだろうから、目立っていたに違いないのだ。だからリリアが何を言いたいのかわからなくもない。

 兄ではなくヒューゴの方を結婚詐欺師に仕立てようとしているのではない。多分。


「……普通に無理だよね」


 トマスはソファーで眠っているヒューゴを目で指した。執務室の中にいる全員が大きく頷いた。


「やらせてみないとわかりません」


「……リリア、一応聞くわね。それって、大好きなお兄さまを取られるのがイヤって気持ちからきてる?」


「……否定されたら僕しばらく立ち直れないんだけど。……あ、リリア何にも言わなくて良いからね。わかってるから」


 リリアが何かを言う前から、トマスはすでに諦めきった暗い目をしていた。


「本人たちの許可を得ずに勝手に決めるなって言いたいんだよね?」


「どうしたって社交界に噂は残ります。いずれご本人の耳に入るかもしれません」


「僕が誰かに求婚したなんて噂、山ほどあるから大丈夫だよ」


「従兄弟同士で一人の女性を奪い合ったという噂がですか? 最終的にトマスさまがクインさまを弄んだというような話で終わらせるおつもりなのでしょうが、私は賛成できません。『被害者ならいいだろう?』っていうのはあまりに傲慢です。それに私は、お兄さまが悪く言われるのはすごく嫌なのですっ」


 リリアが誤魔化しは許さないというような強い目をトマスに向ける。室内がしんっと静まり返った。言いたい事だけを言って、いつも通り妹はさっさと部屋を出て行ってしまう。


 バタンとドアが閉まる音を聞いた後に、イザベラがふっと噴き出した。


「返す言葉もないわね?」


 トマスがソファーの背もたれに肘をついて左手で頭を支えながらため息をついた。頬を赤らめながら視線を窓の外に逃がす。おじいちゃんおばあちゃんたちは微笑ましいものを見る目をトマスに向けていた。


「言い捨てて去ってゆくって、どうなんだあれ……」


 キースはやれやれとでも言いたげに肩を竦めた。


「反対してもらえてよかったわね? 勝手にどうぞなんて言われたら立ち直れないものね」


「完全に拗ねてたわねリリア。へーお兄さまって結構愛されてたのね。……意外」


「最後一言余計!」


「顔にやけてるわよ」


 リリィが指摘すると、「……あーもう」と言いながら、背もたれに額をこすりつけるように突っ伏してしまう。耳まで真っ赤だ。滅多にない『お兄さま』呼びは効果絶大だった。ここはしばらく幸せに浸らせてあげるべきだ。


「要するに、結婚許可書を奪うために『グレイス』の結婚を公示するって話よね。で、目的が達成されたら結婚話が壊れたことにするつもりだった。……でも婚約期間中に目的達成されなかったらどうするのよ?」


「ブレアさん潜入するんで大丈夫ですよ。どこにあろうがすぐに見つけてきますよあの人。普段は機密文書とか探ってますもん」


 ダニエルの言葉に、リリィとキースは見つめ合ってしばらく黙り込んだ。


「……すぐ見つかるなら、別に無理に結婚なんかせずに、大人しく待ってればいいんじゃない?」


「……閣下としては、自分が生きている内に、どんな手段を使ってもどっちか片付けときたんじゃないですかねー」


 真っ赤な顔を隠しているトマスと、眠っているヒューゴを交互に見比べて、キースはため息をついている。

 つまり……結婚を公示されてしまったら、兄はもう逃げられないのではなかろうか。

 ちらっとリリィはそんな事を思った。


「どっちかって話なら、リリアの言う通り、ヒューゴお兄さまにやらせてみたらいいんじゃない? 青い目と金の髪の女の子ってあんまりいないんでしょう? しかもヒューゴお兄さまにはもったいないくらいかわいいわよ。いずれ誰かと結婚しないといけないんだから、ヒューゴお兄さま、がんばってみたら? 起きてるわよね?」


 リリィがため息をつく。瞼がピクピク動いている事には少し前から気付いていたのだ。ヒューゴが不安そうな顔で目を開ける。そして途方に暮れた様子で言ったのだ。


「……だって『かわいそう』なんだろう? おまえたちが言ったんだ。『およめさんになるのすごく嫌なんじゃない? かわいそう』って」


 その言葉に、まるで近くに落雷が落ちたかのように全員が硬直した。息をするのも躊躇うような重苦しい空気の中、リリィは必死に記憶を掘り起こしてみる。あの日馬車の中で自分たちはどんな会話を交わしていた……?


「……トマスお兄さま、ほら、どうしても私たち誘拐犯になりたくなくて、深く考えもせずに『花嫁略奪してきたの?』とか言ってたじゃない? それでその後……」


 だんだん声がか細くなってゆく。責めるような周囲の眼差しがとても痛い。

 顔を上げたトマスもその時のことを思い出したのだろう。一瞬にして青くなり、うわぁっというように額を押さえた。


「『ああそうだなかわいそうだな』ってヒューゴお兄さま拗ねてた……って……え? 今のこの状況って、ひょっとして、私たちのせいなの?」

更新が遅れて大変申し訳ございません。

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