66 天使様の逡巡 その2
遅くなってしまい申し訳ございません。
調理台の脇にしゃがみ込んで、両手で口を押えて呻き声をあげていると、誰か厨房に入ってきた。
「お嬢さま、そんな所で座ってたら、おばあちゃんたち気付かないで躓いて大怪我しちゃいますよ。あと、それ……かなり恥ずかしいです」
冷静な声で指摘されて慌てて立ち上がる。入って来たのがキースで良かった。どんな恥ずかしい姿を目撃されても今更だ。ずっと一緒に育ってきたから、蒸し返されたくない失敗談などお互い山のように握っている。
「ねぇ、おばあちゃんたちは?」
「新しい人が来る予定なので、使用人棟に部屋を用意してて今はお掃除中です。お腹空いたなら、殿下がお菓子持ってきてくれたんで用意しましょうか? ミートパイも入ってました。王宮のやつ美味しいですよね……でもさっきお嬢さま自棄になってメレンゲ菓子食べてましたよね?」
ここ数日、毎食毎食野菜スープだ。消化が良いからすぐにお腹が空く。メレンゲ菓子は軽くてお腹にたまらない。もう夕食会で増えた分の体重は元に戻った。そろそろちゃんとした食事が恋しい……
「……うちに食べ物届けるのって王子様の仕事?」
一応リリィは聞いてみた。キースから何を言っているんだこの人。という目を向けられる。
「そんな訳ないですよ。犯罪者を護送するのも王子様のお仕事ではありません」
「今日は秒刻みで予定が詰まってる筈ですよ。隣国から偉い人来てるんです。よく抜け出せたなぁ。……誰かにしわ寄せがいっているのは間違いないですけどね」
窓からブレアが顔を覗かせて説明してくれる。姿が見えなくても近くにいるのはわかっていたから、リリィもキースもいきなり声をかけられてもそれ程驚かない。ブレアの声には呆れているような感心しているような響きがあった。本当に想定外の訪問だったのだろう。
「自分の目で確かめないと、心配だったんでしょうね。キース君は頭を撫ぜてもらってましたし、多分アレンさまにも一言声をかけてから戻られるでしょう」
ちらっとキースを見ると気まずそうに目を逸らされた。
「いつまで経っても子供扱いなんですよね……」
「私だって小動物よ」
照れているのを誤魔化すように、二人ともわざと渋面を作る。……本当は気にかけてもらえたことがとても嬉しい。
「王宮に残された人たちは生きた心地がしていないでしょうね。……あと、アレンさまが調子に乗りますね」
何かに気付いたようにブレアが視線を横に向けたタイミングで、「リリィさまっ。どちらにいらっしゃいますか? リリィさま」という声が玄関ホールの方から聞こえてきた。リリィの顔が一瞬にして強張る。
名前を呼ぶ声はどんどん厨房に近付いてくる。隠れるところはないかと周囲を見渡している間に、ブレアの姿は煙のように消え去り、キースは裏口に向かって走り出していた。ドアの閉まる音がやけに大きく聞こえた。
厨房に駆け込んできたアレンは、壁に張り付いているリリィに気付くと、すぐさま近寄って床に膝をついた。そして頭の先から足の先まで全身くまなく観察した後、極めて真剣な顔で尋ねた。
「お怪我はありませんか? 転びませんでしたか? どこかにぶつかりませんでしたか? 怖い目にあいませんでしたか?」
「怪我はしてないし転んでないしぶつかってないし怖い目にもあってないわ、お兄さま。心配してくれてありがとう」
リリィはできるだけ殊勝な態度を心掛けた。感謝の気持ちもちゃんと込めた。もううっかり躓くこともできない。さらに監視が強化されてしまう。
「本当ですか」
「本当です」
リリィは内心重いため息をついた。目の前に王子様が跪いて心の底から自分のことを心配してくれている。十年前だったら……頬を染めて喜びに打ち震えたのではなかろうか。アレンに構ってもらえることがうれしくてうれしくて、天にも昇るような心地ではしゃいでいただろう。
でも、今のリリィが欲しいのはその言葉ではない、
欲しい言葉は先程アーサーからもらった。きっと今夜は怖い夢を見ないし、明日には全部忘れている。こんなにわかりやすく心配してもらっているのに『もう本当に大丈夫だから納得してくれ』という言葉しか浮かばない。
(タイミングってものが、あるのね……)
十年前なら、無理矢理時間を作ってまで様子を見に来てくれたアーサーの優しさにリリィは気付けなかった。わかりやすいアレンの態度に強く心惹かれたと思う。
十五分毎に読書の邪魔をされても、ピアノの練習を遮られても、常に監視されていても『それだけ気にかけてもらえているのだ』と好意的に取っただろう。二人でいることが幸せで、頭の中お花畑になっていた。
キリアから届いたアレンからの手紙の中に流れていたのと同じようなキラキラとした時間が、リリィとアレンの間にも流れたかもしれない。そうしたら自分の性格ももう少し可愛げのあるものに変わっていたのだろうか。
もしかしたら……アレンの隣に並び立っても恥ずかしくない存在になりたいと、くよくよ悩みながら一生懸命努力したりして、貴族の令嬢らしく育っていたかもしれない。
(ああでもそれは、リリアか……)
それはもう過去の話で、今ここで振り返って『ああすればよかったこうすればよかった』と思った所でどうなることでもない。そもそも、リリィはあまりの態度の悪さからアレンに嫌われていたし、アレンはリリィとリリアを見分ける気もなかった。
リリィはじいっと、アレンの夜空のような瞳をまっすぐに見る。
(ひょっとして、まだ罪悪感持ってるとか……?)
そこはわからない。リリィとアレンは違う人間で、あまりに考え方が違いすぎる。アレンはアレンなりの考えがあってこういう行動を取っているわけだが、それがリリィには理解できない。
自分達は恐らく、気持ちを通じ合わせるタイミングを逃した。そしてリリィはもう、それを惜しいと思わない。
――今リリィは別の人に恋をしている。その人には小動物扱いされているけれど。
「ひょっとして、どこかで転んで頭打ったんですかっ」
黙ったままのリリィを心配そうに見ていたアレンが、はっとした顔になっていきなり焦り始める。一分間くらい口を開かなかっただけで、どうしてそうなる。
「ないわよっ。失礼な!」
半分目を閉じるようにして、リリィはわざとらしく怒ってみせる。
今ようやく、アレンと別れると決めたエミリーの覚悟みたいなものが、わかった気がした。
もし二人が恋人同士のままだったなら、アレンは今リリィにしているのと同じ事をエミリーに対してもしただろう。ずっとそばで守ると言い張り、十五分ごとに気遣う言葉をかける。自分を変えようという目標をもってがんばるエミリーは、板挟み状態に陥って苦しむことになったに違いない。アレンには悪気があって邪魔をしている訳ではないから余計に対処が難しい。相手のことが好きならなおさら言い出せないだろう。
(……お互いを想い合っていても、上手くいかなくなっていたかもしれない)
エミリーの顔を思い出したら、会いたくてたまらなくなった。話したいことが沢山ある。三人ともナトンの看病で疲れ果てていたりしないだろうか。ちゃんとご飯を食べているだろうか。いつになったら会いに行けるだろう。またみんなでお菓子を食べながら笑い合って……リリアの結婚のお祝いを何にするかという話も、中途半端なままだ。
「あのね、アレンお兄さま、変な意味に取らないで欲しいんだけど」
「リリィさま、手袋どこやったんですか。どうして素手なんですか」
目の前に伸ばされたリリィの手を見て、アレンが困ったような咎めるような顔になった。ヒューゴみたいな事を言っているなと、おかしくなって笑ってしまう。リリィが普通の貴族の娘のように普段から手袋をつけるようになったのはつい最近のことだ。
リリィは躊躇いなく手袋をしているアレンの手を掴んで引っ張って、立ち上がるように促す。
「ん-多分その辺に置いてある。キースが回収したかもしれない。まぁそれは今はいいわよ。あとでちゃんとする。……で、本当に変な意味に取らないで欲しいんだけど、私は、はじめてのお友達をくれたアレンお兄さまにとても感謝をしております。私ねキリアから来たみんなが大好きなの! 早く元気になってくれるといいなぁ」
明るい声でリリィが言うと、アレンは何かを飲み込むように一瞬ぐっと奥歯を噛みしめた。一呼吸おいてから「そうですね」といつも通り感じよく彼は微笑む。
「居間の方に移動しましょうか。もうすぐヒューゴさまが戻っていらっしゃるみたいですよ」
リリィはアレンから手を離して、そのまま自分の顎に持ってゆく。ヒューゴが戻って来るという話はすでにキースから聞いていた。
「…………戻ってきて何するつもりなんだろう?」
心配で仕方がないというヒューゴの気持ちもわかる。自分がクインを伯爵家に連れてきたせいでこうなったと責任を感じているだろう。しかし、戻って来ても絶対にリリアはクインに会わせない。
「心配で居ても立っても居られないのだと思いますよ」
「でも会えないわよね? リリアは頑固だもん。会わせないと言ったら会わせないわよ。単なる嫌がらせってことはない……わよね?」
口の中で言葉は消えてゆく。リリアとヒューゴは色々難しいのだ。
――本当の自分はあなたが思い描いているような人間ではない!
リリアはずっと言葉でも態度でもヒューゴに示し続けていた。誰かに対して「きらい」と告げる自分の声は、自分の耳にも届く。全く何も感じない人間もいるだろうが……リリアは本当は嫌だったに違いないと思うのだ。
「……どれだけ『きらい』だと言って拒絶しても、理想の姿を押し付けてくる人。結局リリアにとってヒューゴお兄さまってそういう存在でしかなかったのよね」
「……多分ちょっと違います。リリアさまは、ヒューゴさまの事をそこまで嫌ってはいらっしゃいませんよ。本当に心の底から嫌いな人間のことを『きらい』なんて簡単に声に出して相手には言えません。顔を合わせるのも怖い。だから、当たり障りのない言葉しか出て来なくなる」
「ごめんなさい」
アレンの声は落ち着き払ったものではあったのに、リリィは反射的に謝っていた。多分、彼の辛い記憶に触れてしまった。大丈夫ですよとアレンは小さく笑った。
「リリアさまは、ヒューゴさまの覚悟を試すつもりなのでしょうね。どうしたって閣下が色々口を出してくるに決まってますし……」
「あー……うん。そうよね、トマスお兄さまおじいさまに呼び出されたのよね。大丈夫なのかしら」
申し訳ないようなモヤモヤとしたものを抱えながらも、アレンが話を変えるからリリィも慌ててそれに従う。誰にだって、思い出したら奇声をあげて暴れ出したくなるような記憶もあれば、思い出すともう痛くて辛くて足が竦んでしまうような記憶もある。何重にも鍵をかけて心の奥底に沈み込ませているような……
「……居間に移動しましょう。お菓子が届いてるのよね」
リリィはいきなり走り出す。そうすれば彼が焦って追いかけて来ると知っているから。
「だから急に走ると危ないです!」
背後から聞こえてくる声に、ほらやっぱり、と思いながら笑みを浮かべる。もうすぐアレンの特別任務も終わるだろう。これもあと数日のことだ。あんまりあからさまに嫌がるのもアレンに対して失礼だから、幼い頃の自分に戻ってみようかとそんな風に思い立つ。
可愛げのない態度しか取ることができなくて、あとで枕に顔を埋めて泣いていた自分は――アレンと一緒に何がしたかった?
「アレンお兄さま、私と一緒にお茶を飲んでくれる?」
立ち止まって振り返って、手を伸ばして微笑みかける。今なら花冠だって素直に渡すことができる。
驚いたように立ち止まったアレンが大きく目を見開いて……それから罪悪感を刺激されたのかどこか悲しそうに微笑んだ。
リリィはアレンにそんな顔をさせたかった訳ではないのだけれど……やはりどうもうまくいかない。
その後しばらくしてからガルトダット伯爵家に戻って来たヒューゴは紙のように白い顔をしていた。睡眠不足と心労ですっかり馬車に酔ったらしい。一人で歩ける状態ではなかったため、そのまま客室に運ばれた。……ここまですべて第二王子の計算の通りだったら本当に恐ろしいなとリリィは思った。
ヒューゴに起き上がる気力は残っていなさそうだったので、クインの部屋のドアの前に置かれた家具は横にずらされた。
今日はこのまま平和に終わるかと思われたが……やはりそういう訳にはいかない。
夕方、憔悴しきった顔のトマスが戻ってきた。私邸の方に寄ったためウォルターが一緒だった。
ウォルターがクインを看てくれるということで、リリアとイザベラを含めた、ガルトダット伯爵家に現在暮らしている人間全員が、再び執務室に集められた。まだ顔色の悪いヒューゴも執務室のソファーに座っている。
「なんか、僕、結婚するらしいんだよね。で、近いうちに大聖堂に行かなくちゃいけなくてさ」
トマスが虚ろな目をしてぽつりとそんな事を言った。
――しばしの沈黙。
「……おめでとうお兄さま。じゃあ解散」
全員を代表してリリィはお祝いの言葉を述べ、さっさと部屋から出て行こうとした。疲れているので面倒な話には関わりたくなかった。